59.私は、カバンを膝上に立たせると
私は、カバンを膝上に立たせると、
その持ち手を握り、
ベンチから、すっくと立ち上がった。
少年も私に続いて、立ち上がる。
カラのペットボトル片手に、左右をキョロキョロと見回し、
そのまま後方を振り返り、
すぐに、そちらへと駆けていく。
少年の行き先に目を向けてみると、
柵の手前に、ダストボックスが並んでいた。
すぐ隣には、
先ほど見かけた、設置式の双眼鏡。
今も人がいない。
寂しそうに項垂れ、ポツンと孤独に佇んでいる。
私は足を踏み出しつつ、視線を少年の方へと戻す。
少年は、ダストボックスの丸い穴に、
持っていたペットボトルを、ちょうど押し込んでいるところだった。
それを中に落とすと、
少年は、すぐにはこちらを振り返らず、
下に俯けた自分の顔を、
背中越しに、手の甲を使って何度か横に拭った。
それから、すぐに面を上げ、
こちらを振り向く。
私の向かって右側、レストハウス脇に延びている小道の方を指差し、
「ねぇ、こっちー?」
と、大きな声で尋ねた。
「そう、そっちー」
私も、大きな声で返す。
少年は、上げていた手をパタンと下ろすと、
その場で小さくピョンピョンと跳ねて、
ゆっくり歩く私を、何度も急かした。
「はやくはやくー。こっちこっちー」
少年と一緒に、
レストハウス脇の、まっすぐな道を進んでいく。
道は、それほど広くなかったが、
ただ、
こうして、ふたり並んで歩くのには、
充分な幅があった。
私は、
道の右側、レストハウス寄りを歩いていた。
建物の壁沿いに、
真新しいジュースの自販機が、何台も連なっている。
私の左隣を歩く少年は、
道のそちら側、安全柵の向こうに広がっている、
ダム下流の、深い谷の方に顔を向けていた。
その谷底に、じっと目を向けたまま、
足を動かしている。
「ねぇ」
少年が、
こちらを見ずに声をかけた。
「・・・何?」
「・・・」
「どうしたの?」
「・・・やっぱ、いい」
「え?」
「やっぱ、もう少しあとで訊く」
その道は、
レストハウスの壁が切れる、20mほど進んだところで、
正面にそびえる、岩壁に突き当たっていた。
私たちは、そこで左に折れ、
そのまま、崖沿いの道を進んでいく。
歩きながら、正面に延びる道を目で辿っていくと、
少し先の崖沿いを、
リュックを背負った二人連れが、縦に並んで歩いていた。
列の先頭には、野球帽をかぶった男性。
そのすぐ後ろを、チューリップハットの女性。
前を行く男性が、顔を左に向け、
谷を挟んで向こう側の、遠くの山を指差すと、
少し遅れて、
後ろの女性も、そちらに顔を向けた。
何かを話しているようだった。
聞こえてこない。
声は、ここまで届かない。
崖沿いの道には、
人は、
私たちのほかには、そのふたりしかいなかった。
堰堤の上と比べると、こちらは随分と少ない。
閑散としている。
道なりに少し進むと、
右手側の崖は、コンクリートの壁に切り替わった。
そして、
道は、そこで、
正面に、ふた手に分かれていた。
このまま壁伝いを延びる細い通路と、
その通路のすぐ左隣、壁の近くを下っていく階段と。
どちらも、幅は一人分しかない。
擦れ違うには、互いに体を横に向ける必要がある。
かなり細い。
展望台は、
階段ではなく、壁伝いの通路の方だ。
分岐点に立てられた標識に、そう書いてある。
下り階段の方は、
どうやら、《新展望広場》という場所へ続いているらしい。
足を止め、そちらに目を向けると、
階段を、だいたい5階分くらい下りていった先に、
平坦な地面からなる、四角いスペースがあった。
広場というほどには、広くない。
コンサートホールのステージを、ひと回り大きくした程度しかない。
その、眼下に見えるステージの際の、柵の前には、
7、8人の観光客たちが立ち並び、
皆、顔を左手側に向けていた。
そちらはダムだった。
放水を眺めているのだろう。
残念ながら、
私たちのところからは、それは拝めなかった。
堰堤の、谷側に突き出た角の部分、
そこから斜めに下っている、急勾配のコンクリート壁が、
アーチ型に凹んだダムの壁の、そのほとんどを覆い隠していた。
私は、隣にいる少年に目を向けた。
少年は、私を見上げていた。
私が振り向くのを、待っていたようだった。
私は少年を先行させるため、
黙って手で促す。
少年は、
顔を、道の先に向けると、
一呼吸置いてから、足を踏み出した。
そのまま、壁伝いの細い通路へと入っていく。
私も、少年のあとをついていく。
その、細い通路の左端には、
やや低めの、金網のフェンスが据え付けられていた。
高さは、私のヘソ辺りまでしかない。
何かの拍子でバランスを崩し、フェンスに寄りかかった場合、
そのまま向こうに、落ちてしまいそうだった。
少し怖い。
でも一方で、
とても臨場感がある。
私は、
心なし壁際に寄ると、顔を左に向けた。
そちらに大きく広がる、谷側の景色を眺めながら歩く。
視界の中央に、圧倒的なスケールのクロバダム。
幅500m、高さ180mほどの、
巨大なコンクリートの建造物。
道を進んでいくと、
堰堤の角の、土台部分にあたるコンクリートの斜面の向こう側から、
段々と、
放水の、巨大な水しぶきが見えてきた。
遠くの遥か眼下で、
辺りに薄っすらと水煙を漂わせつつ、
凄まじい量の、白い水の塊が、
まるごと、ダイナミックに姿を変えつつ、
ゆっくりと谷底に、落ちていく。
私は、堰堤の上に目を向けた。
細々とした、たくさんの人影。
それぞれが離れたところで、ちょっとずつ動いている。
その背後には、
木々の、モコモコとした緑に覆われた山の斜面。
トンネルの出入り口が、そこに小さく。
開け放たれた水色の大扉も、同じく小さく。
奥は真っ暗。
よく見えない。
私たちは、
少し前、ここからダムの上に出たのだ。
そのまま、壁伝いに進んでいくと、
通路は、
谷側にせり出すように設けられた、小スペースに接続していた。
体の大きな人同士が擦れ違うための待避所だろう・・・と思ったが、
そこのフェンスの金網には、
《放水観覧ステージ》と書かれたプレートが取り付けられていた。
この、ポジティブなものの捉え方は、
私も見習わなければならない。
その、”放水観覧ステージ”の背後には、
上り階段があった。
えんじ色の鉄板が、コンクリートの壁沿いを30段ほど上っており、
そこで右に折れ、壁の裏側へと続いていた。
私は視線を下ろすと、
それから、階段の上り口に目を向ける。
脇に、案内プレートがあった。
《↑ ダム展望台》
アルファベットやハングルなど、
様々な言語で記されていて、
最後には、この階段の段数も添えられていた。
《展望台まで あと280段》
自宅のアパートの、1階分の段数が16。
なので、
それに従い、換算すれば、
およそ17階分の高さを、これから延々と上っていくことになる。
私は、
すぐ右手側にそびえる、コンクリートの壁を仰ぎ見た。
ザラザラとした、灰色の壁面。
上に、まっすぐ長く続いており、
しばらくすると唐突に切れ、そのまま青い空へと。
展望台は、
角度の関係で、ここからは見えない。
・・・私の両足は、はたして保つのだろうか。




