57.その、複数体の彫像からなるモニュメントは
その、複数体の彫像からなるモニュメントは、
山沿いにそびえる、コンクリートの壁をバックに、
路面から少し浮かせたところに、据え付けられていた。
壁の、3mくらいの高さから、
コンクリートでできた分厚い板が、庇のように突き出ており、
その上に、黒い彫像たちは置かれていた。
私は今、その庇から少し離れた場所に立っている。
10人ほどの、他の観光客たちに混じり、
下から、じっと、
像を見上げている。
モニュメントは、
少年の言った通り、工事現場を模したものだった。
無論、ダム建設時のものだろう。
ヘルメットをかぶった作業員たち、数名が、
ツルハシや金づち、スコップを片手に、
足元の岩盤を睨み付け、掘削作業に勤しんでいる。
そして、
そのモニュメントの台座の、庇の前面には、
石でできた、細長いプレートが取り付けられていた。
《尊きみはしらに捧ぐ》と彫られている。
文節を少し迷ったが、
やがて”みはしら”が、”御柱”であることに気付く。
このモニュメントは、正しくはクロバダム殉職者慰霊碑といった。
ダムの建設工事で命を落とし、犠牲となった人々を祀るための石碑だった。
慰霊碑の像は、どれも苔のような緑青によって、
広く、薄っすらと覆われていた。
その緑青の表面には、
白い斑点模様が、ところどころポツポツと付いている。
恐らく、辺り一面が真っ白に包まれる冬の頃、
像の表層に凍りついた雪が、春になって解けたときに、
緑青を薄く削り取っていったのだろう。
私は、慰霊碑を見上げていた。
庇の際に、
着衣は半ズボンだけの、逞しい体つきの男の像が立っている。
岩盤に突き刺したスコップの縁に、
片足を、裸足のままで直に乗せ、
庇の上から、こちらを見ている。
表情を変えることなく、
何も語ることなく、
ただ、
自身の漆黒の体に、太陽の強い日差しを鈍く反射し、
眼下の私たちの姿を、静かに見つめている。
私は、
少しの間、それを眺め、
やがて、目の焦点を像の背後へと移した。
高く切り立つ、コンクリートの壁。
そこら中が黒く煤け、水跡が縦に何本も付いている。
その、薄汚れた壁の上には、
木々の緑が、こちら側へとせり出していた。
抜けるような青空をバックに、枝葉は色鮮やか。
風に、揺れている。
しばらくしてから、
私は、
上げていた視線を水平に戻した。
そして、
少しだけ間を置いてから、
顔を、ゆっくりと下へ向ける。
視界の左端に、
くすんだ白色の傷んだスニーカーと、その上のベージュのズボンの裾が映り込む。
動きはない。
少年は、そこに佇んでいる。
少年とは、先ほどから会話が無かった。
話しかけられなかったし、
私自身、話しかけようと思わなかった。
少年の方を見ることもしなかった。
見たくなかった。
罪悪感にも似た重苦しい感情が、
私の心を、絶えず締め付けていた。
私は意を決しようと、短く息を吐き捨てた。
次いで、息を吸うのと同時に顔を上げ、
隣の少年の方を振り向く。
少年は、
顔をやや右手側の、道の奥の方に向け、
そちらをじっと眺めていた。
至って普通。
特に変わった様子は無い。
私が、
少しの間、少年の横顔をぼーっと見ていると、
それに気付いた少年が、こちらを向いて尋ねた。
「ん?、なにー?」
「えーと・・・。
いや、何を見てるのかなー、って」
慌てて誤魔化す。
「あー。あそこに何かあるからー」
そう言って少年は、
再び顔を、右の方に向けた。
私も、
少し遅れて、そちらに目を向ける。
少年の視線の先の、山沿いのコンクリートの壁には、
長方形の、青銅プレートが埋め込まれていた。
サイズは、
私の自宅のテレビよりも、ひと回り大きい。
何かの文字が、ビッシリ整然と彫られている。
その、すぐ下の壁面には、
棚板が据え付けられていた。
中央には、
郵便受け程度の大きさの、小さな賽銭箱が置かれており、
両脇には、
ちょっと地味めの、黒い花瓶。
花が生けてある。
白や黄色、ピンク。
近くで摘んできたものだろうか。
黄金色のリンと、それを鳴らすためのリン棒も見える。
早い話が、
この棚板は、簡単なお供え台のようだった。
少年と一緒に、そちらを眺めていると、
老人がひとり、登山用のステッキをつきながら、
その、お供え台に近付いていった。
すっかり色褪せた、紺色の帽子。
レトロな感じの、とても質素な肩掛けカバン。
耳周りの髪は真っ白でボサボサ。
綿毛のよう。
シワが深く刻まれた顔の肌は、やや色黒で、
頬には大きな黒いアザ。
背中が少し、丸まっている。
老人は、お供え台の前を通り過ぎ、
ステッキを、すぐ脇のコンクリートの壁に立てかけた。
次いで帽子のツバを、片手で少し持ち上げ、
その反対の手の、袖口の辺りで額の汗を拭うと、
上げていたツバを下げ、両手で帽子を正す。
それから、
お供え台の方を振り返り、歩いていき、
その正面に立つと、
眼前の、たくさんの文字が刻まれた青銅プレートを、
じぃっと見つめた。
口元が、僅かに動いている。
しばらくして、
老人は、自分の腰近くの肩掛けカバンに視線を落とした。
その中から、
くすんだ黄色の、光沢のある円柱を取り出す。
恐らく、五円玉の束。
そう見える。
老人の握る円柱の先からは、白い紐が垂れ下がっていた。
硬貨の穴に通し、それで束ねているのだろう。
老人は、紐の根元近くを指で掴んで持ち、
くすんだ黄色の円柱を宙にぶらつかせた。
もう片方の手で、
垂れ下がった紐の、真ん中辺りを握り、
真横に引っ張り、
束を押さえつけていた結び目を解く。
すぐさま、
紐の根元近くの、束のすぐ上の辺りを掴んでいた指を一旦離すと、
その指で、硬貨の一番上の1枚をつまみ、
浮かせると同時に、
出来た隙間に、そのまま指を割り入れた。
次いで、
今度は、割り入れた指の先で紐をつまんで持ち、
それまで束を支えていた方の手を離すと、その離した手で、
紐をつまんでいる指の上に乗った硬貨を掴み、脇へと強く引っ張り、
硬貨を抜き取った。
そして、
それを小指側の3本で握り込むと同時に、残りの2本の指で紐を掴み、
その手を細かく素早く、
サッ、サッ・・・と何度か動かし、
最後に、キュッと引っ張り、
また元通り、紐に結び目を作ると、
顔を肩掛けカバンの方に向け、
持っていた硬貨の束をそこに戻した。
その、一連の動作に、
淀みは少しも見られなかった。
全てが流れるように、滑らかだった。
老人は一息つき、顔を上げ、
目の前の青銅プレートを、
改めて、じぃっと見つめた。
少ししてから、
賽銭箱の方に視線を向け、握った手をそこへ伸ばしていき、
僅かに手を開く。
硬貨が箱に落ちると、老人は手を戻した。
顔を横に向け、台上のリン棒を指で掴むと、
黄金色のリンを、横から軽く叩く。
もう一度叩く。
棒を元の場所に、そっと戻した。
向き直し、姿勢を正す。
プレートを、また見上げたあと、
両手を合わせ、
頭をゆっくりと下げていき、
静かに目を閉じる。
老人は、やがて面を上げた。
合わせていた手を、それぞれの脇へと下ろし、
また、
ひとしきり、そのプレートを見つめたあと、
おもむろに横を向く。
壁に立てかけていたステッキに近寄り、それを拾うと、
そのまま、お供え台をあとにした。
路面にステッキをつきながら、私たちの目の前を横切り、
落ち着いた足取りで、
レストハウスの方へと、山沿いの道を引き返していく。
その老人の丸まった背中が、向こうに遠ざかっていくさまを、
私は少しの間、じっと見ていた。
ほんのりと暖かみのある、山の澄んだ空気。
直上から照りつける、夏の日差し。
辺りは、眩しいほどに明るい。
私は、少年の方に顔を向けて言った。
「お参りしていこうか」
「うん」
「・・・」
「・・・なにー?」
「ん?。
あ、いや、何でもない。・・・行こう」
少年と一緒に、お供え台のところまで来た。
隣に立つ、少年に目をやると、
少し遅れて、少年がこちらを見上げた。
私は、何も言わずに顔を戻し、
そのまま斜め前に1歩進み、お供え台の正面に立った。
コンクリートの壁に埋め込まれた、青銅プレートを見てみる。
彫られていたのは人名だった。
隙間なく、端から端まで、
一人ひとりの姓と名が、縦に刻まれている。
正確な数は分からない。
だが、100は優に超えている。
プレートの右端に目を向けると、大きく《殉職者》とあった。
これらは全て、
クロバダムの建設で、その命を落としてしまった人々の名前だった。
それだけ過酷な、厳しい工事だったのだろう。
私は、自分の通勤カバンを足元に下ろした。
ズボンのポケットに手を入れ、財布を抜き出すと、
その中の小銭を、指先でジャラジャラと漁った。
五円玉は・・・見当たらないか。
仕方ないので、
目についた他の硬貨を1枚取り出し、財布をポケットに戻した。
硬貨を、
賽銭箱の投入口の、たくさんの縦棒の隙間に差し入れる。
リンを、小さく1度だけ鳴らし、
それから両手を合わせ、
頭を下げ、
目を閉じる。
少ししてから、
私は、ゆっくりと頭を上げた。
足元のカバンを拾い上げ、
斜め後ろを確認し、1歩下がり、
隣に立つ少年に場所を譲った。
少年は、
少し間を置いてから、お供え台の前へと慎重に進み出た。
ズボンのポケットから、がま口の赤い財布を抜き出し、
それを両手でパチンと開き、
すぐ後ろに立つ、私の方を振り返る。
「ねぇ、いくら入れたのー?」
「10円」
「んー」
少年は、
分かった、の意味を込めた声を発し、
がま口の財布を覗き込みながら、お供え台の方へと向き直す。
十円玉を指で取り出すと、
がま口を閉め、ポケットの中に戻した。
殉職者たちの名前が刻まれたプレートを見上げて、
ふぅ、と一息。
背伸びをし、
自分の目線の高さくらいの、賽銭箱の上へと手を伸ばし、
その手を、パッと広げる。
カラン、カラカラ・・・カチャ。
箱の底に、硬貨が落ちたのを確認すると、
少年は手を戻し、踵も下ろした。
顔を横に向け、台からリン棒を拾って、
腕を、
自分の肩よりも僅かに高くし、台上へと伸ばして、
リンを上から、
ややぎこちない様子で、軽く叩く。
棒を戻し、また正面を向く。
左右の肘を真横に突っ張るようにして、両手を胸の前で合わせ、
目を閉じ、頭を下げていく。
少年の頭が、
一瞬、ビクッと持ち上がったが、
少年は、そのまま頭を下げ続けた。
少年が、頭を上げた。
少しだけ間を置いてから、
こちらを、ゆっくりと振り向く。
「痛くなかった?」
少年の額に目をやりながら、訊いてみると、
「うん、ちょっと痛かったー」
と、
少年は私を見上げ、いたずらっぽく笑った。
その額には、
真一文字の赤いアザが、薄っすらと浮かび上がっている。
「大丈夫?」
「へいきー」
「でも、ちょっと赤くなってるよ?」
「えー、どれくらいー?」
少年は、顔を俯け、
できたてホヤホヤのアザを、左右の指で慎重に触りつつ、
不安そうに尋ねた。
「ほんのちょこっと」
「すぐ分かるー?」
「いや。
じっくり見ないと分からないと思うよ」
「そっかー。良かったぁ」
「どう?、たんこぶになってる?」
私が尋ねると、
少年は、額を片手でさすりながら面を上げ、
「ちょっとだけ、おっきくなってるー」
と、無邪気な笑顔を私に向けた。
再び、
モニュメントが乗っている、庇のところに戻ってきた。
少年は、まだアザを気にしていた。
下を向き、両手を宛てがい、
その感触を、熱心に確かめている。
「そろそろ戻ろう」
声をかけると、
少年は、ピタリと動きを止めた。
そのまま無言。
返事が無い。
私は、
もう一度、少年に声をかけてみることにした。
「戻ろう?」
少し遅れて、
少年は額の両手を、ゆっくりと下ろした。
顔を俯けたまま、
ポツリと呟く。
「・・・どこに?」
私は、レストハウスの方を指差し、
「ベンチ。ほら、あそこの白いヤツ」
と、声を努めて明るくして答えた。
少年は、僅かに頭を起こした。
ベンチのある方を、
私の顔や指先を見ることなく、
ただ、私の体の向きだけで判断し、
そちらに目を向ける。
そして、レストハウス前のベンチを確認すると、
静かに顔を戻し、
再び同じように、黙って項垂れた。
私は、指差した手を下ろした。
立ち尽くす少年の姿を、じっと見つめる。
口を開きかけ、
それを閉じ。
また、口を開きかけ、
また、それを閉じ。
遠くで、ダムの放水の音。
観光客たちの、やけに明るい声が、
私の耳に大きく響く。
私は顔を上げた。
少年に背を向け、レストハウスの方を振り向く。
「行こう」
そう言い残し、
返事を待つことなく、歩き始める。
途中、立ち止まり、
後方を確認してみると、
ちゃんと少年は、ついてきていた。
顔を俯けたまま、
7、8mほど遅れて、
道をひとり、トボトボと歩いていた。
私は、前に向き直した。
小さく、ため息。
再び歩き出す。
胸が、ジリジリと締め付けられる。
罪悪感のような、後ろめたい感情が、
私の中に、
また、
グルグルと渦巻いていた。




