55.再び、ダムの堰堤を歩いていた
再び、ダムの堰堤を歩いていた。
「もー、ひどいよー」
少年が、不満げに声を上げる。
「ごめんごめん」
謝りながら、隣の少年に目を向けると、
すぐに少年は、顔をプイッと私から背けた。
「振り返ったら、いつの間にかいないんだもん」
「悪かったよ・・・」
私が、そう言うと、
少年は私に聞こえるように、
わざとらしく、大きくため息をついた。
「何で置いていったの」
「いや、もう充分に教えて貰ったし・・・」
「3つしか教えてないよ」
「3つも、だよ・・・」
「3つ、し、か!」
私は、
少年の耳に届かぬよう、小さく息を吐いた。
先ほどいた、《ダム中心》と書かれたプレート前では、
あのあと、少年による公開実技指導が始まった。
何度もダメ出しされつつも、どうにか3つこなし、
4つめが始まったタイミングで、
ため息とともに、こっそり後ろの様子を窺うと、
何人もの観光客たちが堰堤の真ん中で立ち止まり、こちらを見ていて、
しかも、その内の若い女性のグループは、
笑いを堪えながら、
こぞってスマートフォンのカメラを、こちらに向けていた。
これはマズイ!
慌てて少年の方へ向き直ると、
少年は、ちょうど私に背を向けていたので、
それで、すぐさま逃げてきたわけだった。
まったく、大変な目に遭った。
私は前を見ながら、
もう一度、こっそりと息を吐いた。
正面には、
緩やかな弧を描く堰堤が、長く向こうに続いている。
相変わらず、
たくさんの人々が、そこの上を歩いている。
両脇に延びる柵の近くには、ときどき何人かが立ち止まり、
空と山々、水の織り成す、
自然あふれる、山間の風景を眺めていた。
そして、
そんな、堰堤上にいる人々のずっと向こう側には、
ゴツゴツとした岩肌の、
ほぼ崖に近い、山の険しい斜面が見えていた。
岩肌の斜面は、
左の方は、コンクリートで固められており、
のっぺらぼうの高い壁が、
ダムのある谷の、向かい側にそびえていた。
壁の表面には
足場となる鉄板と柵でできた、簡素な作りの階段があった。
左上へと、斜めにまっすぐ延びており、
そこを上る観光客たちの姿が、
遠目に小さく、ポツポツと見えた。
私は目線を徐々に高くし、
その壁を、上へ上へと辿っていく。
てっぺんには、
何かの建物の平べったい屋上が、その頭を出していた。
屋上には、
豆粒のような人影が、
柵の向こうに、たくさん立ち並んでいて、
それぞれが、
ここよりずっと高い場所で、細々と小さく動いている。
私は、
そちらの方を、ぼーっと見上げて歩いていたが、
少ししてから視線を地上に下ろすと、
それから、
顔を少年の方に向けた。
「先に行って、ごめんね」
少年は、表情を変えなかった。
まっすぐ前を見据えたまま、黙って歩く。
しばらくすると、顔を下に向け、
手をズボンのポケットに突っ込み、中をまさぐった。
赤い紙箱を抜き出す。
手中のそれを、じぃっと見つめて、
一呼吸置き、
そして、
顔をこちらに向け、私を見上げて言った。
「チョコ食べるー?」
辺りは、眩しいくらいに明るい。
見える景色の全てが、鮮やかだった。
私の、真っ黒なスーツが、
いつの間にか、熱を帯びている。
左右の足を踏み出すたび、
暖かなズボンの生地が、ぴったりと腿に張り付く。
風は穏やか。
前髪が、ときどき僅かにそよぐ。
「ねぇ」
「なにー?」
「チョコ、もう1コちょうだい」
「やだー」
「何で?」
「もう4コも食べてるじゃん・・・」
「まだ3コだよ?」
「4コ!」
「そうだっけ?」
「そうだよぅ」
「んー、まぁ、いいや。
あと1コくらいは良いでしょ?」
「やだー」
「何で?」
「何でもー」
「・・・ケチ」
「ケチだもーん」
「すごくケチ」
「すごくケチだもーん」
「すごくすごく・・・」




