53.赤茶色の錆の目立つ、水色の大扉の横を通り過ぎ
赤茶色の錆の目立つ、水色の大扉を通り過ぎ、
ジメジメとした薄暗い通路から、
ギラギラとした太陽が照りつける外の世界へと、その身を晒した。
道幅が少しだけ広がり、
見える景色は、一気に広がった。
解放感。
爽やかな空気。
直上からの日差しは、容赦なく熱く、
視界に入る景色の全てが、
自分の色と、目映い白い光をこちらに返している。
「ダムだー!」
少年は、
外に出るなり、そう言って走り出した。
目を細めたまま歩いていた私が、後ろから声をかけようとしたとき、
少年は、不意に道の真ん中で足を止めた。
左を見て、
次に右を見て、
ほんの少しの間のあと、そのままそちらへ駆けていく。
道の端の、柵の前に立つと、
少年は、すぐにしゃがみ込んだ。
下を、じっと覗き込んでいる。
私も進路を右に変えた。
小さく屈んだ少年に、近付いていく。
広々とした堰堤の上には、そよ風が吹いていた。
水の匂い。
ちょっとだけ生臭い。
少年の前にある、柵の向こう側には、
ダムの貯水湖が広がっていた。
景色の左と右に、それぞれ山の尾根が延びており、
間にある谷の、その奥の方まで、
遠くの方まで、
貯水湖の水面は、長く続いていた。
対岸で群生する木々の緑が、薄っすらと白みがかっている。
私は柵に体を近付け、手すりに手を置き、
上から顔を覗かせる。
私の足元の5mほど下に、湖面があった。
細かい木くずが、たくさん浮いていて、
それが波打ち際で、
青緑色の水と一緒に、
ゆらゆら、ゆらゆらと揺れていた。
透明度は、かなり低い。
見える水深は、恐らく10cmにも満たない。
「全然、底が見えないねー」
隣の、足元に近いところから、
少年の声が聞こえてきた。
「うん、全然見えない」
「深そうだね」
「うん、深いと思うよ」
「どれくらいあるのかなー?」
「うーん・・・。
多分、見たら分かるんじゃないかなぁ」
「え?、どういうことー?。
だって、全然見えないよー?」
声が、こちらを向いた。
私は顔を隣に向ける。
少年は、左右の手で柵の棒を掴み、
しゃがんだままの体勢で、こちらをじっと見上げていた。
怪訝そうな表情を浮かべている。
私は、
その顔を見ながら、湖とは反対の方向を指差した。
口を開く。
「あっち側の柵の下を覗いてごらん。
多分、両方とも同じ深さ――」
「あ!」
少年は、途中で声を上げると、
サッと立ち上がった。
後ろを振り返ると同時に、反対側の柵に向かって走り出す。
「あ、ちょっ。
ゆっくり!、危ないから!」
「へいき、へい・・・うわっ」
少年は、目の前の中年男性を、
咄嗟に半身になって、器用に躱した。
2、3歩よろけつつも、すぐに体勢を立て直し、
何事も無かったかのように、そのまま向こうへと駆けていく。
私は、ため息をついた。
ぶつかりそうになった中年男性の方に向き直し、
軽く頭を下げる。
その男性は笑っていた。
胸の前で、手のひらを私に向け、
それを何度か左右に、小さく振った。
幅が、ちょっとした大通りくらいの、
多くの人で賑わう、ダム堰堤を横断していくと、
左の方から、
今しがたトンネルを出てきたばかりの、
大学生らしき、10人ほどの男性のグループが近付いてきた。
皆、
理系の学生が好むような、控えめな服装をしている。
何かの研究で来ているのかもしれないし、
あるいは他の人たちと同じように、
ただ単に、観光で訪れているだけかもしれない。
いずれにせよ、
それぞれが、ダムを満喫しているようだった。
楽しそうに話しながら、歩いている。
私はペースを速めようと、足を強く踏み出したが、
しかし、その次の1歩で、
小さなため息とともに、
すぐに、その速度を緩めた。
焦らず、のんびりと歩いていくことにする。
立ち止まり、
学生と思しきグループの、残りの部分をやり過ごしていると、
向かい側にある柵の前に立ち、下を覗き込んでいた少年が、
そのまま視線を右にズラしていき、
顔を上げ、
右手側の、堰堤の先を黙って見据えた。
「どうだったー?」
再び歩き始めた私は、
やや大きめな声を出し、少年に尋ねてみる。
少年は、すぐにこちらを振り返った。
「ここ、あんまり高くなーい」
「え?、高くなかったの?」
「うん。すぐ傍に山があるからー」
少年は、近くに来た私を見上げたまま、
自分の後ろの、柵の向こう側を指差した。
視線を起こし、そちらに目をやると、
確かに、
山の、コンクリートで塗り固められた崖が、
柵のすぐ向こうに迫っている。
「あー、そっかぁ・・・」
そう口にしつつ、少年の隣に立った私は、
柵の上から、下を覗き込んだ。
私の足先にある、堰堤の縁から、
およそ60°くらいの、急勾配の斜面が下っており、
少し先で、
向かい側にある山の、コンクリートの崖にぶつかっている。
高さとしては、
6、7階建てのビルくらいだろう。
その、
堰堤と山の崖がぶつかり合った、V字に鋭く凹んだ谷の筋は、
右へ行くほどに低くなっていて、
そちらに目を向けると、
向こうの方で、
山側のコンクリートの崖が、谷の筋の正面に来るように右へと回り込んでいた。
視線を上げ、堰堤の上を見ると、
堰堤自体も、そこで右へと直角に折れており、
その角の、ずっと手前に、
柵に沿って歩いている、少年の後ろ姿が見えた。
「あ、こら。ちょっと待ってよー」
文句を言いつつ、急いであとを追い始めると、
少年は、すぐに立ち止まり、
顔をこちらに向けた。
「もー。はやくしてよー」
少年と一緒に、
ダム堰堤の、左の端っこを歩いていく。
夏。
晴れ渡る空。
山々と、
豊かに茂る木々の緑。
観光客たち。
のどか。
顔に当たる風は涼やかで、とても気持ちが良い。
足を動かしながら、隣を窺うと、
少年は左手を柵に伸ばし、
指先を、その金属の縦棒に次々と当てながら歩いていた。
自分の進路の先に、人の姿を見付けると、
柵から離れて私の後ろにつき、
やり過ごし、
そのまま擦れ違ったあと、再び私の隣に姿を現し、
また指先を柵の縦棒に当てて、
その感触を楽しみながら歩いていた。
ダム堰堤の、角の部分が近付いてきた。
少年は、進路を変える気配が無い。
堰堤の端をずうっと進み、
角の外縁に沿って、大きく曲がっていくつもりのようだ。
ズル賢い私は、
そんな律儀な少年とは、途中で別れることにした。
柵を離れて右へと進路を変えて、
角を斜めに、まっすぐショートカット。
少年は顔をこちらに向け、私をチラリと見たが、
すぐに視線を戻すと、
そのまま柵沿いを、黙々と進んでいく。
少年の機嫌を、また少し損ねてしまった気がする。
曲がった先の、柵の前に到着した。
足を止め、振り返り、
少年の位置を確認すると、
少年は、
ようやく、角をあとにしたばかりだった。
いつも以上に、ゆっくりと歩いてる気がする。
私は、少年を見るのをやめ、
柵の上から顔を出し、堰堤の下を覗き込む。
そこには凹凸の無いコンクリートの壁が、
垂直か、それ以上の角度で、
ずっと下に続いていた。
途中、かなり低いところに、
金網状の細い足場が、
アーチ型に緩く凹んだ堰堤の壁に沿って、水平に渡されている。
足場の幅は、
恐らく、ひとり分くらいはあるのだろうが、
そこまでの距離と、あとはダムの圧倒的なスケールも相まって、
余計に細く、頼りなく見えてしまう。
金網状の足場は、
更に下の方に、間隔を空けて何段も据え付けられており、
それらの、ずっと下には、
山側の、さっきのコンクリートの崖の端っこと、
その端っこの先の、右側には、
向こうへ細く延びる、緩やかな傾斜の穏やかな河原があった。
中央を、水が薄く流れている。
遠くの方、てらてらと輝く水面の奥、
川底の、濡れた色合いの石がハッキリと見える。
随分と高い。
軽く100mはありそうだ。
遥か眼下の木や岩は、どれも小さく目に映り、
草地は、
まるで、まぶされた抹茶の粉のように、
地面に細かくこびり付いている。
下の景色をじぃっと見つめて、
いつの間にか、柵の存在が頭から抜け落ちてしまった私は、
一瞬の恐怖とともに、慌てて頭を上げる。
ここから、何か物を落とせば、
当然、
その姿は、あっと言う間に小さく見えなくなるだろうが、
地面との衝突音が返ってくるまでには、それから更に数秒を要するだろう。
・・・音?
そう言えば、
ザー・・・という、
大気を震わすような重い音が、絶えず辺りに響いていた。
それほど遠くはない。
右の方から。
私は、そちらに顔を向ける。
見ると、
視界の少し先、アーチ状に延びる堰堤の一番凹んだ部分、
そこの、高さ半分くらいの位置にある2つの穴から、
夥しい量の白く砕けた水が、勢い良く噴き出していた。
噴出した水は、それぞれが扇形に大きく広がり、
空中で合流し、繋がり、
霧のような水煙を辺り一帯に漂わせつつ、
壮大なシャワーのように、地上へと降り注いでいた。
その横幅は、目算で数十mほど。
飛距離も数十mほど。
そこら辺の学校の校舎が、すっぽりと収まってしまうほどの、
桁違いな大きさの、存在感のある水しぶき。
噴出口の、すぐ上に渡されている金網状の足場と比べても、
遥かに大きい。
その水しぶきは真っ白で、
見た目は滝ではなく、むしろ雪崩に近い感じだった。
宙に放り出された、巨大な2つの白い水塊が、
少しも臆することなく、堂々と空を落ちていく。
「凄いねー」
放水の音に飲まれて、やや薄まった声が背後から聞こえた。
「うん」
私は、
ダムの、ややスローモーに映る水しぶきに目を向けたまま、
小さく返事をする。
少年の耳には、届かなかったかもしれない。
「行こ?」
少し間を置いて、
また背後から少年の声が聞こえた。
「あ、あぁ・・・、ごめんごめん」
私は、柵から体を離し、
噴出口の真上付近、ダム堰堤の中央部に向かって歩き出す。
すぐに少年が追いつき、私の隣に並ぶ。
柵の棒に手を当てるのは、やめたようだ。
代わりに、
長袖シャツの袖口に引っ込めた手を、手すりに乗せて、
まるで服の生地で空拭きをするかのように、その上を滑らせ、
歩いていた。
「・・・そう言えばカタウデマンは?」
「ポケットの中。・・・何で?」
「いや、落とすとちょっと危ないかもしれないし・・・」
「平気だよぅ」
「え、何で?」
「だってカタウデマンは飛べるんだよ?。知らないのー?」
「・・・知らないよ」




