51.「着いたねー」
「着いたねー」
そう言った少年は、
手すりを掴んだまま、体を捻って振り返り、
後ろに立つ私を見上げた。
私は、その少年の顔を見て微笑んだ。
「うん、着いた」
「降りるー?」
「うん。でも・・・」
私は顔を上げた。
運転スペースの向こう側の、乗降口の方へ向き直す。
人溜まりが出来ていた。
ひとりずつ、順番に降りていく。
「また、空くの待つー?」
少年の声。
そっちへ顔を向けると、
少年も、乗降口の方へと向き直していた。
「うん。ゆっくり降りよう」
私が、そう答えると、
少年が尋ねた。
「こういうの、何て言うんだっけー?」
「ことわざ?」
「うん」
「急がば回れ?」
「もっと長いヤツ」
「・・・急いては事を仕損じる?」
「うーん、そんな難しい言葉じゃなくて・・・。
何だっけー?」
「何だろ・・・」
私は、
運転スペースの向こう側の、乗降口を見ながら考える。
人溜まりは、なかなか解消されなかった。
誰かが降りるたび、
車内階段に出来た行列から、別の誰かが上がってきて、
その人溜まりに加わっていく。
「あ!、思い出したー!」
少年の、嬉しそうな声が聞こえてきた。
私は、すぐにそちらを振り向く。
「何だった?」
「んーとね・・・」
「うん」
「残り物には福があるー」
私を見上げていた少年は、
そう言って、ニッコリと微笑んだ。
ちょっと誇らしげ。
私は、少し間を置いてから言った。
「・・・それ、
残り物じゃなくて残る者じゃない?」
少年は、不満そうな表情をした。
「えー、どっちも変わらないよー」
「変わるよ・・・」
「えー」
言いたいことは他にもあったけど、
それは黙っておくことにした。
ケーブルカー内が、少し閑散としてきたところで、
残り物の私たちも降りることにした。
先に少年。
私は、そのあと。
車外に出ると横に並んで、
階段状のホームを、一緒に下りていく。
私たちの前には、
コンクリートに囲まれた、平たいカマボコ型の空洞が、
斜め下へと、まっすぐ延びていた。
窓は無い。
ひとつも無い。
天井にある、たくさんの蛍光灯が、
構内のホームを明るく照らしている。
眼下には、
階段を下りていく観光客たちの、たくさんの後ろ姿。
長い列になっていて、
およそ2階分ほど下にある階段の終わりを通り越し、更にその先へと延びている。
ザワザワとした話し声。
私のすぐ後ろでは、
中年の男性が、
ちょっと大きめな声で、誰かにずっと喋り続けている。
大勢の、バラバラの足音が、
カマボコ型の構内に、絶え間なく響いていて、
そんな中、
ケーブルカーの行き先を告げる放送が、
その僅かな余韻とともに、広く鳴り渡っている。
階段の、最後の段を下りた。
正面には、
トンネル状の通路が、まっすぐ向こうへ続いている。
ただし、今は通り抜けられないようだ。
通路の少し先で、
太眉の、ちょっと強面の係員が後ろ手を組んで立っていて、
係員のすぐ後ろには、
弛んだ真っ赤なロープが、何本もの設置式の支柱とともに通路の右から左まで渡されている。
その、真っ赤なロープの波の向こう側には、
こっちを向いた観光客たちの列があった。
ケーブルカーの、更に次の乗客なのだろう。
最前列に立つ年配の女性ふたりが、
私の背後の、ホームの上の方を指差し、
互いに顔を寄せ合って、盛んに何かを喋っている。
私は、
足を動かしつつ、そのふたりの頭の上へ目を向ける。
グリーンの標識。
《← クロバダム》
顔を左へ向けると、
そちらに、別の通路への入り口があった。
少々、狭そうだった。
前を歩く人たちも、次々とそこへ入っていく。
多分、
正面のケーブルカー待ちの行列を避けて、その向こう側へ出るための、
迂回路だろう。
少年と私は、
太眉の係員の前まで行き、左へ曲がった。
狭い通路に、そのまま入っていき、
20mほど直進し、突き当たりを右に折れ、
また20mほど直進し、右に折れ、
現在は、
さっきの、ケーブルカー待ちの列の、
ちょうど裏に出る道を進んでいる。
迂回路の幅は乗用車1台分くらいで、ちょっと狭かった。
天井の高さも2mと少し。
背伸びをすれば、私でも手が届きそうだった。
そして、
その天井には蛍光灯があったが、
設置間隔が広いため、通路内は仄暗かった。
私は、歩きながら、
すぐ横の、コンクリートの壁に目を向ける。
あちこちに、
抹茶の粉をまぶしたような、緑色のシミがあった。
すっかりカビている。
そうして、
その、カビた壁の表面には、
ところどころ、水が薄く流れていた。
空気も湿っていて、ひんやりとしており、
辺りには、
雨の日の、路面の匂いが漂っている。
そうした、
陰気で、うら寂しい少し窮屈な通路に、
ダムに向かう人々のたくさんの足音と、明るい話し声が響き渡っている。
迂回路を抜け、列の裏に出ると、
天井が高くなった。
それまでの薄暗さも、幾分マシに。
私は、
そのまま少し歩き、足を止める。
目線を上へ。
どうやら、
ここを左に折れて進んでいけば、ダムに出るらしい。
天井近くの標識を見上げ、順路を確認した私は、
目線を下ろした。
向かい側にも、通路があった。
その通路は、
天井が低くて、狭くて、暗めで、
まるで、
今、抜けてきたばかりの迂回路の続きのように、
向こうへ延びていた。
《遊覧船のりば》
通路入り口の上にある標識に、そう書いてある。
ロープウェイのゴンドラから見えた、
あの、エメラルド色の貯水湖を巡るのだろう。
私は、その通路入り口の脇に目を向けた。
そのまま、そちらへ歩き出す。
「あれ?、そっちー?」
「うん、ちょっと時間だけ」
入り口のすぐ脇の壁に設置された、白い照明パネルの前まで来た。
照明パネルは、上の方に《遊覧船時刻表》と書かれていて、
その下には、
出航時刻と到着時刻が、それぞれズラッと並んでいる。
えーっと、
14時20分の船があるけど、これは最終便で、
今は・・・14時8分か。
私は、
スマートフォンを内ポケットに戻しつつ、顔を隣へ向けた。
「どうする?」
少年は、こちらを見上げた。
「乗れるのー?」
「ぎりぎり」
「ちょっと待って。考えるから」
そう言った少年は、
腕組みをし、下を向いた。
うーん、うーん、と唸りつつ、
首を、
右へ左へ、ゆっくり傾けている。
そして、
その首が3往復したあと、少年は動きを止めた。
組んでいた手を下ろし、私を見上げて言った。
「いい」
「いいの?」
少年は、うん、と頷き、
口を開いた。
「僕は、ダムを見るためにここまで来たんだ。
だから、まずはダムに行かなくっちゃ」
力強い、まっすぐな眼差し。
いつかの、揺るぎない瞳。
いつかの、純粋な瞳。
遠い過去。
古い記憶。
胸の奥が、僅かに疼く。
「・・・そうか。そうだったね」
「うん」
私は顔を上げた。
ダムの方へ、ゆっくりと向き直す。
後ろの遠くで、発車を告げるベルが鳴っている。
それが止まり、静かになると、
甲高い、クラクションの音が通路に響く。
次いで、
石臼を挽くときのような、ゴォゴォ・・・という重たい音。
徐々に離れていく。
私は、溜めていた息を吐き出すと、
少し間を置いてから、顔を少年の方へと向けた。
「・・・じゃ、行こう」
声をかけると、
すぐに、元気な声が返ってきた。
「うん!」




