49.ケーブルカーの改札が始まった
ケーブルカーの改札が始まった。
列が、ジワジワと前に進んでいく。
私は、顔を少年の方に向けた。
口を開きかけたが、
何も言わずに、すぐに顔を正面に戻す。
少年の手には、既にチケットが握られていた。
カタウデマンの姿は無かった。
もう、ポケットの中に隠してしまったのだろう。
改札を抜けると、
幅3人分くらいの、狭めの通路が続いていた。
ゴォォ・・・という、
こもったような重い音が、奥の方から微かに響いてきている。
私は通路を進みながら、
前を歩く観光客たちの頭の間の、その向こう側へ目を向けた。
コンクリートの天井が、奥へと斜めにまっすぐ下っている。
その下り坂の天井の、左側は、
すぐに、そのまま駅構内の壁に繋がっていて、
それとは逆の、天井の右側は、
私たちのいる通路の右の壁、その切れ目の更に向こう側へと広がっている。
通路を抜けた。
それまでずっと響いていた音が、少しクリアになり、
視界の右が開けた。
足元の床は、ここから先は下り階段となっている。
その下り階段の右側、視界が開けた方には、
銀色の手すりを挟んで向こうに、幅5mほどの深い溝があった。
階段とともに、まっすぐ下へ延びている。
溝の向こう側は、こっちと全く同じ下り階段があり、
更に向こう側の壁にある窓から差し込んできた日の光が、
その段の表面に当たっている。
そっちは、降りた客が使うのだろう。
誰もいない。
ケーブルカーは、
まだ、このホームに来ていない。
少年と私は、
ふたり並んで、ホームの階段を下りていく。
眼下で、たくさんの頭が、
それぞれ細かく、上下に揺れ動いている。
その先に目を向けると、
30段ほど下、およそ2階分の高さを下ったところからは、
立ち止まった観光客たちの、長い列が出来ていた。
各段に2人ずつで、
全部で、およそ50人くらい。
階段を下りながら、手すりの上にちょっと身を乗り出し、
右手側の溝を覗き込むと、
底に敷かれた、ホームの先へとまっすぐ延びる2本のレールと、
そのレールの間に、
同じようにまっすぐ延びる、2本の黒いケーブルが見えた。
ケーブルの太さは、
綱引きの綱よりも、僅かに細い程度。
ともに、ピーンと一直線に張られており、
よく見ると、
互いに違う方向へと、ジリジリ動いていた。
片方は上へ。
もう片方は下へ。
一定の速度を保って、ゆっくりと動いていた。
私は、乗り出していた身を戻す。
ふと、隣を見ると、
そこに、少年がいないことに気が付いた。
慌てて、そのまま背後を振り返る。
少年は、私の真後ろにいた。
私は、
手すりから1歩離れると、足を動かす速度をちょっと緩めた。
そして、隣に少年が来たのを確認すると、
また、速度を戻した。
少年は、いつの間にかカタウデマンを出していた。
手に持ったカタウデマンを、手すりの上で滑らせつつ、
階段を1段ずつ下りていく。
途中、手すりの切れ目に出くわすと、
カタウデマンを高くジャンプさせ、
緩やかな放物線を描いて、そのまま次の手すりへと着地させ、
また、その上を滑らせつつ、
階段を下りていった。
階段の、列の最後尾に並んだ。
私は背伸びをし、
前に立つ人の頭の上から、前の方を覗き見る。
列の先頭で、
制帽をかぶった駅員が、こちら向きで立っていた。
スーツの上着を着ている。
ここの他の駅員たちは、
皆、白いワイシャツ姿だった。
その駅員の向こうに目をやると、
10段くらい下に、コンクリートの壁があった。
下り階段は、そこで途切れ、
行き止まりになっている。
右を見ると、
壁に、馬蹄形をしたトンネルの入り口が大きく開いており、
そちら側にあるケーブルカー用の溝の、底に敷かれている銀色の一対のレールは、
黒い2本のケーブルとともに、
トンネルの奥へと、まっすぐ長く延びていた。
ホームに響き渡る音も、ここから聞こえてきているが、
その音の主の姿は、この位置では確認できない。
私は、右隣にいる少年の方を見た。
少年は、
こちらに背を向け、つま先立ちをし、
手すりを握って、その上に身を乗り出して、
顔をトンネルの方に向けていた。
奥を、一生懸命に覗き込んでいる。
私は、その少年の足元に視線を落とすと、
背伸びをしたまま、
出来るだけ、そちらの方に寄って立ち、
顔を上げ、再び正面に目を向ける。
今度は、
トンネルの、ずうっと奥の方に、
点のような小さな光が、ひとつだけ灯っているのが見えた。
目に刺さるような、とても強い明かり。
光は、ほんの少しずつ、
着実に、確実に大きくなっていく。
辺りに響いていた重い音が、だいぶ近付き、
ハッキリと聞こえるようになった。
ケーブルカー前面部の額の位置の、ヘッドライトの強い光の他に、
今は、
車内灯の、ぼんやりとした明かりと、
それに照らし出された、フロントガラスの向こうに立ち並ぶ人々の姿も見えた。
たくさん乗っている。
トンネル内の片側には、等間隔で白色灯が並んでおり、
その近くにケーブルカーが来ると、
暗闇の中から、クリーム色の車体が姿を現し、
通り過ぎてしまうと、すぐに周囲の闇と同化し、
また、ヘッドライトと車内灯の明かりだけに戻っていく。
ケーブルカーは、
そうやって、現れたり消えたりをゆっくりと繰り返し、
その姿を徐々に大きくしながら、こちらへと上がってきていた。
私は、少ししてから背伸びをやめ、
顔を少年の方に向けた。
少年は、まだ手すりの上に身を乗り出し、
トンネルの奥を見ていた。
「ケーブルカーが来ると危ないから、そろそろ見るのをやめないと」
声をかけると、
ちょっと間を置いてから、
少年は、手すりの上に乗せていた上半身を起こし、
浮かせていた踵を下ろした。
そして、
片足を引き、体の向きを変えようとしたところで、
動きを急に止めた。
視線を下に向けたまま、
何も言わずに、じぃっとしている。
「・・・どうしたの?」
尋ねてみると、少年はそれには答えずに、
列の先頭の方へと向き直した。
そして、
手の中のカタウデマンを、静かにいじり始めた。
私は、その少年の横顔を黙って見つめていたが、
少ししてから、
小さく鼻息を漏らすと、顔を上げ、
また、正面を向いた。
前に並ぶ観光客たちの頭の間から、トンネルの奥を眺める。
クリーム色の車体は、
白色灯の横を通り過ぎても、闇には返らなかった。
薄っすらと見えたまま。
ケーブルカーは、
もう、すぐそこまで来ている。
「ケーブルカーの音って、大きいよね」
前を向いたまま、私は話しかけた。
少し遅れて、
少年の、ぶっきらぼうな声が返ってきた。
「・・・急に何?」
「いや、
うるさいから色々な音が聞こえにくいなぁ・・・って」
「・・・え?」
「美味しかったよね、焼き芋」
「・・・」
「あれ?、どうしたの?」
「・・・もう!」
脇腹を小突かれた。
ケーブルカーは、クラクションを1回だけ鳴らして、
トンネルから出てきた。
タチヤマで乗った車両と同じ、前後に斜めに傾いた車体。
でも、
車体正面の窓は、巨大な全面ガラスではなかった。
左右にある中サイズのものと、その間にある小サイズのものの、
計3つの窓が、
まるで、人の顔の目鼻のように付いていた。
全くの無表情だけれども、どことなく愛嬌がある。
そのケーブルカーは、ホームの間をゆっくりと上ってくる。
私に背を向け、手すりを握る少年の頭の、
すぐ向こうを、
クリーム色のボディと、その中にいるたくさんの乗客たちが、
斜めに通り過ぎていく。
程なくして、
ケーブルカーの動きが止まった。
蒸気音。
車両の向こう側のドアが、一斉に開く。
乗客たちが次々と降車し、
ガヤガヤと、賑やかに階段を上っていく。
乗客たちが車内からいなくなると、
ドアは、また閉じられた。
平行四辺形の車両の、上側の運転スペースにいた運転士が、
シートに忘れ物がないか、左右を見回しつつ、
ガランとした車内階段を、
ひとり、1段ずつ下りていく。
そうして、
その運転士が、下側の運転スペースに行き着くと、
少し間を置いてから蒸気音が聞こえ、
今度は、
車両先頭の、こっち側のホームに面したドアが開かれた。
構内に、駅員のアナウンスが大きく響く。
「お待たせしました。
お足元にご注意して、お乗り下さい」
タチヤマのケーブルカーとは違って、貨車は付いていなかった。
下りの運転も、
上りと同様、乗客たちに囲まれながら、
そのまま、そこで行うのだろう。
少年に続き、ケーブルカーに乗り込んだ。
少年は、
顔を左に向けたまま、運転スペースの近くまで進み、
足を止めた。
次いで右を向き、車内階段を見上げると、
それから再び、左を見た。
私も、そちらに顔を向ける。
運転スペースの左右にある隙間の、それぞれのリアウィンドウの前には、
しかし、
残念ながら、既に人が入り込んでいた。
タチヤマのときのように、
そうそう場所を譲ってくれるものでもない。
私は口を開く。
「上に――」
「車内の上へ、お進み下さーい」
その、私の声にかぶせるようにして、
すぐ後ろから、
ちょっと掠れた、甲高い大きな声が聞こえてきた。
乗り込み口の脇に立っていた、あの駅員だ。
少年は、それを聞くと、
ピクッと頭を動かし、すぐに右を向いた。
顔を上げ、車内階段の上を見据えると、
そのまま、黙って上り始める。
私も、少年のあとに続く。
少年は腿を高く上げ、
段差のある階段を、
力強く、勇ましく上っていく。
段を上がるたび、
少年の、小さな黒い後頭部が、
私の目の前で、勢い良く上下に動く。
階段を上りきった。
前方には、
少し高い足場の、今は無人の運転スペース。
その右脇にある隙間には、人が立っていたが、
逆側は、まだ誰もいなかった。
少年は、
そちらへと歩いていき、隙間に入り、
ケーブルカーの左目にあたるリアウィンドウの前に立った。
そこの左右に渡された棒状の手すりを、
何も持っていない方の手で、ギュッと握って、
ホーム入り口の方を、黙って見上げる。
私は、少年の真後ろに立ち、
その頭の上に渡された、もう1本の手すり棒を握った。
そして、
「先頭が良かった?」
と尋ねて、リアウィンドウの外に目を向けた。
正面に、
ケーブルカー1台分の幅の溝。
その底が、
上り斜面となって延びていて、
それとともに、
2本のレールが、まっすぐ向こうへ。
でも、
レールは、すぐに途切れていた。
私の目線の高さに、ギリギリ届いていない。
その先へは、
2本の、黒いケーブルだけが延びていて、
溝の突当りの、コンクリート壁の穴の奥へと続いている。
ケーブルは、
まだ、2本とも動いていなかった。
ピーンと、まっすぐ張られたままだった。
それにしても・・・。
私は、目を下に向ける。
さっきから、少年の返事が無い。
「ずっとトンネルの中だし、
前も後ろも、景色はそんなに変わらないよ」
今度は、やや大きめな声で話しかけてみる。
「・・・」
やはり、返事が無い。
「ねぇ、聞こえてる?」
「・・・」
「おーい」
「・・・なに?」
「どうしたの?」
「・・・別に」
「もしかして、まだ怒ってる?」
「・・・うん」
「ごめん」
「ヤダ」
しばらくして、
プシュー、という蒸気音が聞こえてきた。
続けて、
背後の離れたところで、扉のスライド音。
すっかりヘソを曲げてしまった少年を、必死になだめていた私は、
それを中断する。
ジリリリ・・・。
目覚まし時計のベルのような、けたたましい音が響く。
音が鳴り止むと、警笛が短くひとつ。
ケーブルカーが動き出す。
レールの上を転がる、車輪たちの重々しい音。
エンジン音は無い。
車体の振動が、床から足へと直に伝わり、
私の体を、芯から細かく震わせる。
ケーブルカーは、
2つの階段の間を、のろのろと下っていった。
両脇から手すりが次々と現れては、次々と上に遠のいていき、
その、光沢のあるフォルムを、
向こうへと、細く長く伸ばしていく。
不意に、私の視界の中に、
ホームの階段に立つ、駅員の姿が入ってきた。
頭を下げ、礼儀正しく送り出すその姿は、
すぐさま向こうへ離れていく。
甲高い彼の掠れ声が、
私の耳に、まだ残っている。
急に走行音が大きくなり、
車内放送が、ちょっと聞き取りにくくなった。
直後、
私の視界の周縁に暗い壁が現れ、
その壁が、
ホームの明るい光景を丸く厚く囲っていき、次第に狭めていく。
トンネル内にケーブルカーが入り、
それから少しすると、
階段上の駅員は、ようやく頭を起こした。
制帽を両手で軽く正し、こちらに背を向けると、
階段を見上げる。
引き返さなかった。
程なくして、ホームの上の方から誰かの足が覗き、
すぐに別の誰かの足が覗き、
そうして、
次の乗客たちが、続々と階段を下りてきた。
遠ざかっていくクロバダイラのホームは、
しばらくすると、
随分と高い位置に遠のいた。
そして、
その姿を、更に小さくしていきながら、
トンネルの天井裏へと徐々に上がっていき、隠れていき、
ついには、見えなくなった。
大きなリアウィンドウの向こう側には、
今は、もう、
トンネル内の、薄暗い陰気な風景だけが、
遠く高いところへと、まっすぐ長く延びていた。




