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Summer Echo  作者: イワオウギ
I
48/292

48.ひとりで壁際に立ち

ひとりで壁際に立ち、

向かい側の、トイレの入り口に目を向けていた。

リュックを背負い、帽子をかぶった中年男性が入っていき、

少しすると、

メガネをかけた中学生くらいの若い子が出てきて、

私の斜め前で待っていた、ふたりの仲間たちと合流し、

差し出されたナップザックを背負い、

ゲームの話をワイワイしながら、3人で歩いていく。


その3人が売店への角を曲がったところで、私は視線をトイレに戻した。

次いで、その視線をそのまま左へ。

大きな窓。

窓辺に手を乗せた女の子と、窓辺に手をかけた背の低い男の子が立っていて、

ともに、顔を左上へ向けている。

その、小さなふたつの後ろ姿のすぐ向こうには、

日の光を浴び、爽やかな緑でモコモコの木のテッペン部分がたくさん並び、

それらの、モコモコ緑のデコボコ絨毯のすぐ上には、

少し遠くでそびえる、僅かに色の薄まった草原の上り斜面が、

窓枠いっぱいに広がっていた。

ワンスパン方式のロープウェイのケーブルやオオカンポウの建物は見えなかった。

恐らく、あのふたりの視線の先にあるのだろう。



「お待たせー」

すぐ隣で声がしたので慌ててそちらを向くと、

目の前に少年が立っていた。

下から私を見上げていて、

お腹の辺りで、左右の手のひらを上に向けている。

オペの開始を告げる外科医のようだ。


私は、

その、上に向けられた手のひらに目を向け、

小さな外科医に尋ねた。

「・・・カタウデマンは?」


「その前にハンカチー」


静かに鼻息を漏らした私は、

カバンを逆の手に持ち替えると、()けた方の手でズボンのポケットをまさぐった。

4つ折りのハンカチを抜き出し、少年の手のひらに乗せる。

それを見ていた少年は、

すぐに、その上へ反対の手のひらを押し付けた。

ギュウッ・・・と強くサンドイッチにし、

それから手を浮かせ、

ぽんぽん・・・と、拍手をするみたいにハンカチを軽く叩いて、

次に、手の甲で叩いて、

それが終わると、

改めてハンカチを両方の手のひらでサンドイッチにし、

そのまま、ぐるっと上下をひっくり返し、

また同じように、ぽんぽん・・・と手の表と裏で拍手をして、

そうして、もう片方の手の水分も拭き取った。


「ありがと」

少年は、

そう言いながらハンカチを私の方へ差し出し、自分のズボンのポケットに目を向けた。

私がハンカチを受け取ると、

少年は、

すぐにその手をポケットに入れ、真っ赤なフィギュアを取り出した。

顔の前で、じぃっと見ている。


ハンカチをポケットに戻した私は、カバンを再び元の手に持ち替えた。

スーツの内ポケットに手を伸ばしつつ、少年に訊いた。

「そういや、カタウデマンは手を洗ったの?」


少年は、

親指の腹でフィギュアの顔をゴシゴシと擦りながら、

「何でー?」と、短く返す。


私は、

半分だけ出していたスマートフォンを、またポケットに戻しつつ答えた。

「だって、

 カタウデマンもトイレに行ったんだから、手は当然汚れてるでしょ?。

 だったら、ちゃんと洗わないと」


「もー、

 カタウデマンがトイレに行くわけないでしょー?。

 物だって食べれないんだし」


「じゃあ、行かなかったんだ」


「当たり前じゃん」


「なら、カタウデマンは外で待っててくれたんだ。

 そこの出入り口の床に、ひとりでポツンと立ってさ。

 偉いね」


「もー、そういう意味じゃ・・・」と言いかけた少年は、急に勢いよく息を吐いた。

下を向いたまま、静かに固まっている。

そうして、やがて、

小刻みに、

ふ、ふ、ふ・・・と漏らし始めたかと思うと、

それが収まり、

でも、すぐに吹き出してしまい、

大きな声で、楽しそうにひとりで笑い出した。


少年は、

ひとしきり笑ったあと、ふぅ・・・と息をついた。

顔を上げ、

不満そうな表情を私に向ける。

「もー、変なこと言わないでよ・・・」


私は、口元に笑みを浮かべた。

「じゃ、行こうか」と言って向きを変え、そちらへ足を踏み出した。


すぐに隣に並んだ少年が、私に尋ねた。

「ねぇ、間に合うー?」


私は、前を向いたまま頷く。

「うん。

 時間は、まだ大丈夫だった」


「良かったー」


「・・・そう言えばさぁ」


「ん?、なにー?」


「トイレを出たときにも、同じように声をかけたわけ?」


「・・・どういう意味?」


「だって、

 ちゃんと外で待っててくれたんでしょ?。

 よっ、お待たせ・・・って声をかけたんじゃないの?」


「・・・」


「どうしたの?」


「・・・ぼ、僕、

 それくらいじゃ笑わないから」


「え?、そうなの?」


「うん」


「残念だなぁ」


「だいたい、それだったらカタウデマンは濡れてるはずじゃんか。

 僕の手が濡れてたんだから拾うときに――」

「じゃあ、

 自力でポケットに入ってきたんだ」


「え?」


「一生懸命に足をよじ登っ――」


少年は、私が言ってる途中で吹き出してしまった。

歩きながら明るい声で笑い続け、

そうして、

少ししてから落ち着くと、不満そうな声で私に言った。

「もー、

 変なこと言わないで・・・って、

 僕、さっき言ったでしょー?」



《3》の列に、ふたりで並んで待っていた。

改札は、まだ始まっていない。

でも、そろそろのはず。


私は、左に少し身を乗り出し、

目線をちょっと上げた。

私の前に並ぶ人々の頭と左側の《2》の列の間の、少し向こうの壁に、

丸時計が付いている。

長い針の先が文字盤の《12》を目指し、ほんのちょっとずつ動いていて、

その長い針を、線のような細い針が追い越していく。


私は、視線をそのまま左へ。

案内用の、巨大な液晶ディスプレイ。

画面中央に、

大きく太い字で《2:05発》とあり、

すぐ右には、ケーブルカーの写真も一緒に表示されている。


その案内用の液晶の下、《2》の列のちょうど正面には、

丸い制帽をかぶった女性駅員が立っている。

手首を返し、自分の腕時計で時間を確認すると、

下ろした手を前で組んで、

また、視線をまっすぐ正面に向けた。


私は、

はみ出していた半身を列に戻すと、顔を右へ向けた。

《5》の列には、誰も並んでいない。

団体客用の列なのだろう。

それと、

やはり、ここでも《4》は使われていないようだった。

さっき乗ったロープウェイの整理券でも、同じように()けられていたのだろうか。

《39》の次は、《50》なのだろうか。


「ねぇ・・・」

不意に、少年の声が聞こえた。

私はそのまま体を捻り、後ろを振り返った。

「何?」


「・・・」

少年は、けれども何も答えなかった。

下を向いたまま、

手の中のフィギュアをいじっている。


私は、改めて少年の方へ向き直した。

また、尋ねてみる。

「・・・どうした?」


少年の手が止まり、

そのまま、

少しの間、黙っていたが、

やがて、

顔を俯けたままで、ポツリと訊いた。

「・・・次、

 もう、クロバダム?」


私は、すぐには答えなかった。

ひと呼吸置き、

その後、ゆっくりと頷く。

「・・・うん」


「そっか・・・」

少年は、

ひとり、呟くようにそう口にして、

それっきり、黙ってしまった。


私は、

目の前で項垂(うなだ)れている少年の、その姿を、

ただ、じっと見ていた。

口を開いたが、

少ししてから、その口を閉じ、

また、黙って見つめる。

胸が苦しくなった。


そのとき、

下を向いていた少年が、不意に息を大きく吐いた。

サッと顔を上げる。

「ダム、面白いかなぁ?」


声を明るくし、そう尋ねた少年は、

私を見上げ、ニッコリと笑っていた。


細くなっている左右の目。

かわいい小さな鼻。

柔らかそうな丸いほっぺに、嬉しそうな口元。


少年の、その精一杯の笑顔には、

一点の(かげ)りも、一片の曇りも無い、

恐らくこの世界で最も美しい、紛れもない無垢(むく)な笑顔だった。


私も、すぐに笑顔を返した。

「あと少しで、きっと分かるよ」

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