47.ゴンドラ側面の窓に右の頬を近付けて
ゴンドラ側面の窓に右の頬を近付けて、
ロープウェイの進んでいく方へ、目を向けていた。
窓の向こうには、
少し遠くの向かい側でそびえる山々の、麓の方だけが見えていて、
一面が、木々の緑で埋め尽くされている。
その緑一色の遠景の遥か手前、空中の左の端っこ全てに、
灰色のコンクリート壁が、パッと細く現れ、
そのままこちらへ近付いてくると同時に、
左端から幅をどんどん広げていき、遠くの麓の風景を覆い隠していき、
そうして、
コンクリート壁の左の端っこに、今度は縦長の大きな暗がりが現れたかと思うと、
私たちの乗るゴンドラは、その暗がりの中へと入っていく。
辺りが、フッ・・・と暗くなった。
私の視線の先には、まだ低い位置にある鈍色の柵。
こちらへゆっくりと近付いてきていて、
その柵の横には、駅員がふたり立っている。
ともに、
黒の制帽で、白の長袖ワイシャツで、紺のネクタイで、
身なりは同じ。
でも、背丈はだいぶ違ってて、
手前に立つノッポの駅員は、片方の手で柵の上を掴んで立っていて、
奥の、背の低い方は、
両手を後ろで組んで立っていた。
ふたりとも顔を上げ、下からじっと見上げていて、
少しずつこちらに上がってくる。
そうして、
そのふたりの姿がもうすぐゴンドラの横に並ぶ・・・というところで、
ガタッと音が聞こえた。
車内が揺れ、小さなどよめきが起こり、
再び、ガタッと揺れた。
ゴンドラの進む速度が、一段とゆっくりになる。
柵の上を掴んで立っていたノッポの駅員は目線を下げ、
同時に、足を踏み出した。
キャリーバッグを引くかのように、柵をガラガラと動かしていく。
また、ガタッと音が鳴った。
車内は、今度は少し大きく揺れる。
窓のすぐ向こうまで歩いてきたノッポの駅員は足を止め、
掴んでいた柵をそのまま少し押し込んだ。
顔を上げ、両手を頭へ持っていく。
制帽を正したノッポの駅員は、
クルリと反転し、こちらに背を向けた。
足を踏み出す。
聞こえてくる音は、乗客たちの声だけだった。
車輪の音は、もう響いていない。
ロープウェイのゴンドラは、
ついさっき、
大きめの揺れとともに、ホームに停車していた。
私たちは、クロバダイラに到着した。
ガヤガヤしている車内の扉の向こうの、背の低い駅員のところに、
ノッポの駅員が合流した。
カチャリ・・・と音が鳴り、
間を置いて、
扉が、ガラガラッ・・・と左右に開かれる。
「ご乗車ありがとうございました。お気を付けてお降り下さい」
車内アナウンスとともに、
乗客たちはゴンドラを降り始めた。
お喋りしつつ、ホームを続々と歩いていく。
私は顎を引き、自分のすぐ下を見た。
目の前に、小さな黒い頭。
左を向いている。
「・・・そろそろ降りれそう?」
「もう降りれるよー」
「降りる?」
「降りるー」
「じゃ、降りよう」
「うん!。
ねぇねぇ、また僕が先ぃ?」
私の降りる番になった。
車内は、乗客たちの人熱れが少し篭もっていて、
更に、
空にいる間中、ずっと太陽にギラギラと照らされていたおかげで、
暖かいを通り越し、僅かに蒸し暑くなっていた。
なので、
ゴンドラの乗降口に立ち、外へと足を踏み出すと、
顔に当たる空気は思った以上にひんやりとしていて、期待した以上の爽やかさだった。
気持ちが良い。
正面は、すぐにコンクリートの壁だった。
大きな窓、格子付き。
縦に細長い、それぞれの隙間からは、
外の真っ白な日差しとともに、木々のテッペン部分が少しだけ見えていて、
その明るい景色の手前を、私は左へ曲がっていく。
前を歩く少年が、
顔をこちらへ向け、すぐに戻す。
減速しつつ脇へと寄っていき、私の隣に並ぶ。
そのまま一緒に歩いていく。
私の両頬や喉の辺りを、心地よい冷たさが絶えず通り過ぎていく。
ここクロバダイラの標高は、オオカンポウよりも500mほど低い。
その影響だけでも、3℃くらいは暖かいはずだ。
ロープウェイのホームは、
ちょっと先で、
まっすぐ延びる、トンネルのような通路へ繋がっていた。
トンネルのような・・・と言っても、
天井には、
埋め込み式の四角い白い照明が、2つセットで奥の方までズラッと等間隔に並んでいたし、
左右の壁には木目調の板材が使われているおかげで、
見た目の雰囲気に暗さはまったく無く、
むしろ、とても明るい。
その通路の中央には、腰の高さほどの柵があって、
それが、向こうの方までずうっと延びていた。
要するに、通路が左右に分かたれていた。
左半分には、大勢の観光客たちがこちら向きで立っていて、
長い列となっていた。
中央の柵へと身を乗り出し、スマートフォンのカメラを構えている人もいれば、
下ろしたリュックの中から上着を取り出し、それを子供に渡している人もいるし、
隣の人とのお喋りに熱中している人もいる。
停車中のロープウェイのゴンドラは、
今度はこの人たちを乗せ、
また、崖の中腹にあるオオカンポウまで上っていくのだろう。
私は、そうした人々を見ながら、
通路の反対側・・・右半分の方へ、少年と一緒に入っていく。
私たちの前を、たくさんの観光客たちが歩いている。
全員、同じゴンドラに乗っていた人たちで、
その全ての後ろ姿が、それぞれのペースで上下にリズミカルに揺れている。
私は、足を動かしつつも顔を右へ向けた。
板材の壁には、大きいサイズの写真のポスターが並んでいた。
初々しい短めの若草の中で、
茶・黒・白の3色からなる、細かいモザイク模様の鳥が丸まっていて、
そのすぐ近くで、
小さい黄色のヒナたち4匹が同じように丸まっている、鳥の親子連れ。
オレンジ色に染まった大空の下、
真っ白い広々とした雲海の中から、険しそうな山が自分の黒い頂だけを小さくちょこんと覗かせている、
空と山の風景。
上の方から順に、
空の白色の層、山々の藍色の層、森の黒色の層があって、
黒い森のすぐ下、半分以上ある広いスペースに、
白から少しずつ紺色へと移り変わっていく、美しいグラデーションの水面が大きく写り込んだ、
森の中にある閑静な湖畔。
1台のバスが道路のカーブを走っていて、
そのカーブの両脇には、
雪の層が、
バスの屋根の5、6倍の高さまで、まっすぐ垂直にそびえ立っていて、
更に上の、窮屈な狭いスペースには、
晴れ渡る青空が気持ち良く広がっている、冬の雪国の景色。
そうした、通路に並ぶ色々な写真を順に眺めつつ、
私は歩いていく。
そして、
写真を見ることをやめ、正面へ目を向けたときだった。
前を歩く人影たちの細い隙間、その向こう側に、
チラリと見えた。
子供くらいの大きさだった。
上の方は白で、下は茶色だった気がする。
私は、ちょっとだけ横にズレてみる。
・・・あぁ、ソフトクリームか。
あの置き物から先は店内のようだ。
お土産の店らしい。
奥に見える陳列棚の、一番上の段には、
ケーブルカーやバス、ロープウェイのゴンドラの模型が置かれていて、
下の段に、
それらの乗り物のイラスト付きの箱が、ズラッと並べられている。
その棚のすぐ手前を、
小さなリュックを背負った子供たちが、次々と元気よく横切っていく。
店内の右側の壁、ソフトクリームの置き物の真後ろには机があり、
そこに行き着いた子供たちは、
みんなでワイワイと騒ぎつつ、机の上で代わりばんこに何かをしている。
私は、視線を少し上げた。
┃ ↓クロバダイラ記念スタンプ ┃
視線を戻す。
人影の隙間の向こうで、満足そうに机から離れていく子供たちを見ながら、
自分の幼いときの記憶を思い起こし、歩いていると、
やがて、
温かくて美味しそうな、麺つゆの匂いが香ってきた。
私は、
通路の突当りの角にあるソフトクリームの置き物の、その右側へと目を向ける。
ソフトクリームの置き物の手前にも、別の店への入り口があり、
上には、紺色の暖簾がかけられていた。
暖簾には、
白色の、太い筆の線で、
大きく力強く、《クロバそば》と1文字ずつ書かれていて、
最後には、椀に入った蕎麦の絵があった。
その暖簾の向こう、店内へ目を向けると、
テーブルを囲った客たち数人が、
箸を握って、下を向いていて、
湯気の立つ蕎麦を、それぞれがそれぞれのペースで熱心にすすっている。
しかし、残念ながら、
通路はその蕎麦屋とは逆の、左手側へ折れていた。
少年と私は、
突当りの、ソフトクリームの置き物の手前で左へ向きを変えた。
美味しそうな誘惑に背を向け、歩いていく。
通路が、また続いていた。
ここの左側にも、ロープウェイ待ちの人が何人か並んでいたので、
そのまま右へと避けていく。
その、短い列の最後には、
白いワイシャツ姿の、向こう向きの係員がいた。
係員は、
床に立てたプラカードの長い柄を握り、立っていて、
プラカードに目を向けると、マジックペンで大きく《個人改札口》と書かれていた。
ちょっと不思議だった。
裏側にも?
どうしてだろう?
でも、その係員の脇を通り、
通路の右端、お土産店の敷地スペースに沿って歩き始めたときに気が付いた。
裏面に書いてある案内は、
さっきの蕎麦屋や、このお土産店を出てきたばかりの人たちのためなのだろう。
恐らく、
知らず識らずのうちに列の横入りをしてしまわないよう、書いてあるのだ。
納得した私は、
そのまま足を動かしつつ、
通路のちょっと先、そこの天井へと目を向ける。
案内用の標識が雑多に並んでいて、
それを、手前から奥へ順に確かめていく。
┃ ケーブルカー↑ ┃ ┃ レストラン→ ┃
┃ 屋上展望台→ ┃
┃ 女← ┃
│ きっぷうりば← │
│ 進入禁止↓ │
最奥の5列目の標識は、
通路を抜けた先に広がっている小ホールの天井の、その右の方に吊り下げられていて、
《進入禁止↓》の矢印の指す先には、
左側を衝立で仕切って小ホールと隔てただけの、即席の通路への入り口があった。
即席通路は、
見ると、すぐ先で壁に突き当たっており、
そこで右へ折れている。
あそこは、
でも、進入禁止なのか。
じゃあ・・・、どこだろう?
私は再び目線を上げて、
今度は、小ホール天井の左の方へと目を向ける。
┃│ ケーブルカー↑ │
┃ │ 男← │
┃⊇ │ │ 3 │ │ 5 │
3列目の《⊇》の標識は、
その左半分が、
手前にある、通路左側の木目調の壁の向こうに隠れていた。
しかし、通路を進むにつれ、
隠れていた部分は、壁の向こうから少しずつ現れてきて、
《2》になって、
続いて、その左に《1》の標識も見えてきた。
あそこが、そうに違いない。
《1》の下には、既に列が長く延びていて、
隣の《2》を見ると、まだ数人しか並んでおらず、
そのちょっと離れた後ろで、
気の強そうな若い係員が、《こちらにお並びください》と書かれたプラカードを持って立っていた。
更に隣の《3》の下には、
また、列が長く延びていたが、
この列だけは、少しずつ前へと進んでいる。
改札の番なのだろう。
少しの間、そのまま通路を進んでいると、
すぐ隣で、
「ねぇねぇ」と、少年の声がした。
両目を細め、
小ホールの向こうを懸命に見つつ、歩いていた私は、
そのまま、「ん?、何?」と短く返した。
画面の、あの感じだと、
《1》じゃなくて《2》のような気がするけど・・・。
「また、あのナナメ電車に乗るのー?」
「・・・ケーブルカー?」
「そう、それー。
また乗るのー?」
「・・・」
「ねぇ、乗るのー?」
私は、
遠くの突当りにある、巨大な液晶ディスプレイを見るのを諦めることにした。
細めた目を戻し、顔を隣へ。
少年と、その手元にある赤いフィギュアをチラリと見て、
再び前を向く。
歩きながら、
「うん、乗るよ」と短く返す。
「まーた、あのナナメ電車かぁ・・・」
「うん。
まーた、あのナナメ電車」
「そっかー。
・・・ん?、あれ?」
「どうした?」
「ねぇ、
あのナナメ電車って、何色だったー?」
訊かれた私は、自分の記憶を辿っていく。
薄暗い構内・・・、
左右にそびえ立つ、階段ホーム・・・、
その間、
見上げた先の、大きな四角いシルエット・・・、
色は、確か・・・、
「オレンジ、だったと思うよ」
「黄色じゃなかったよねー?」
「うん、黄色じゃなかった」
「やっぱ、そっかー」
「・・・また同じナナメ電車かもしれないけどさ、
でも、
きっと、見える景色はだいぶ違うよ」
「え?、そうなのー?」
「うん。
今度は下りだし、
あと、
多分、ずっとトンネルの中だよ」
「えー、
ずっとトンネルの中ぁ?」
「多分ね。
パンフレットの絵だと、
駅から駅まで、ずっとトンネルで繋がってたから」
「えー。つまんないー」
「でも、短いから。
すぐ着くよ」
「すぐ着く・・・って、
どれくらいー?」
「5分」
「みじかっ!」
「もう、だいぶ近・・・じゃなくて、
えーっと・・・、
あ、トイレは?。まだ平気?」
「え?、トイレ?。
うーん・・・。
ねぇ、トイレってどこー?」
正面を見据えていた私は、すぐに目線を上げた。
天井近くの、《男←》の標識を見て、
それから顔を左へ向け、視線を少し落とす。
「ほら、トイレはあそこ」と口にしつつ、そちらを指差す。
私の指と視線の先には、
今ゾロゾロと動き出したばかりの、さっきの《1》の標識の下に延びていた長い列があって、
その長い列の向こう側、数m四方の小スペースの、右手側の壁に、
青色の人型マークが付いていた。
すぐ隣に、入り口の上の方だけが見えている。
少年の声が、
少し間があってから返ってきた。
「・・・あ!、あそこかぁ。
じゃ、行くー」
「なら、一緒に行こう。
・・・あ、ちょっと待って」
手をスーツの内ポケットに入れた私は、そのまま顔を右へ向けた。
そちらへ寄っていき、通路の右端を少しだけ歩いて、
窓の前を過ぎたところで足を止める。
スマートフォンを抜き出し、画面に目を向け、
また内ポケットに戻すと、顔を上げた。
前方の、小ホール奥の突当りにある液晶ディスプレイをもう一度確認したあと、
改めて顔を左へ向け、そちらへ足を踏み出す。
「じゃあ、行こうか」
少年が、私の横に並びつつ尋ねた。
「ねぇねぇ、
もしかして、時間を確かめてたの?」
「うん。
間に合うかなぁ・・・って」
「えー、そんなの余裕だよぅ」
「そうかなぁ。
こういうところのトイレ・・・って、意外と混んでるもんだよ?」
「あー、
そう言えば、そっかー」
「まぁ、大丈夫だとは思うけど・・・」
今の時刻は1時51分で、
ケーブルカーの発車予定時刻は2時ちょうど。
次発は、更にその10分後だったので、
恐らく、10分おきの発車だろう。
なので、
トイレが混んでいて遅れたとしても、乗る方は困らない。
さて、
せがまれたときのために、もうひとつくらい話題を考えておこうかな。