46.おもむろに、ゴンドラが動き出した
おもむろに、ゴンドラが動き出した。
天井から、ガタタッ・・・と音がして、
その音が消えると同時に、
私の足元が、急に左へ傾く。
小さなどよめき。
私は、咄嗟に左足を突っ張る。
そして、
ズレた重心を右へ戻そうとした、そのタイミングで、
足元の床が、今度は右へ揺り返した。
私は、
一瞬遅れたが、手すりを握る手に力を入れる。
何とか堪えた・・・と思った瞬間、
隣の客に寄りかかられ、そのまま体を強く押された。
鈍い音、右肩に衝撃。
ワンテンポ遅れて、痛みがジワジワと。
やはり、カバンは足元に置くべきだったか。
打ち付けた右肩を、ゴンドラ後部の窓から離しつつ、
私は、ちょっぴり後悔する。
ロープウェイのゴンドラは、
動き出したその速度を保ったまま、のろのろと構内を進んでいく。
ほんの少し、前に傾き。
ほんの少し、後ろに傾き。
大きなボディをゆったりのんびり揺らしつつ、少しずつ降下していく。
ゴンドラ内には、ゴォォ・・・という重い音。
間断なく響いている。
ケーブルの上を転がる、ロープウェイの車輪の振動が、
屋根上の、あの三角の鉄塔に伝わり、
ロープウェイのボディの隅々にまで伝播し、
車内の空気を細かく震わせ、音となり、
それが今、私の耳に届いているのだろう。
原理としては、糸電話と同じ。
残念ながら、
車輪たちの会話は、私には何ひとつ分からないけれども。
ゴンドラ側面の窓の向こう、私の目線と同じ高さに、
くすんだ銀色の、柵の手すりが現れた。
それは、そのまま上へ去っていき、
柵の縦棒が、目の前を次々と横切るようになり、
焦げ茶色の、タイル張りの床が下から迫ってきて、
正面に来て、離れていき、
今は、窓の向こうの景色は、
一面が、
すぐ傍を流れる、コンクリートの壁になっていた。
ロープウェイのゴンドラは、徐々にスピードを上げていく。
ホームの溝の間を、まっすぐ斜めに沈み込んでいく。
眼前に迫っていた壁が、唐突に切れた。
眩しい。
強烈な日差し。
窓の近くにある、私の顔面を、
さっそく照りつける。
目を細めつつ、何とか外を見ると、
そこには、一面が緑に覆われた山間の景色が、
遠くの方まで、ずうっと続いていた。
薄く白んだ山々の稜線が、
遥か先で、左右に長く延びている。
その上には、くっきりとした青い空。
緑に埋め尽くされた大地の上に覆いかぶっていて、
大きく、どこまでも広がっている。
私は、額を窓ガラスに近付けた。
下を覗き込む。
見えたのは、
ゴツゴツ岩の、ものすごい下り坂。
急速に離れていき、
あっという間に遠退いていき、
今は、もう、
斜面のところどころに群生する低木が、あんなに小さく。
私たちの足元の、遥か下で、
岩肌と、そこに生える草木の緑が、
ゆっくりと後方へ流れている。
ゴンドラの前後の揺れは、既に収まっていた。
乗客たちの楽しげな会話。
車輪の転がる重たい音。
車内の人熱れに混じって、
いつの間にか、
涼しい爽やかな風が、私の頬に微かに当たっている。
少年と私の乗る、ロープウェイのゴンドラは、
山の斜面、その上空に張られたケーブルを伝って、
晴れ渡る空のもと、
山間の、澄んだ空気の中を、
少しずつ少しずつ下っていく。
もうそろそろだと思うけど・・・。
眼下の、かなり低いところを流れている、
細々とした木々のテッペンを眺めつつ、
それを待っていると、
思ったとおり、案内放送が流れ始めた。
私は耳を傾ける。
放送によると、このロープウェイの路線は、
標高2300mのオオカンポウと、標高1800mのクロバダイラの、
高低差500mの2つの駅を結んでおり、
全長は1700mにも及ぶらしい。
そして、これだけ離れた2駅の間には、
ケーブルを支える支柱が1本も存在しない・・・とのことだった。
冬に頻発する雪崩で支柱が倒されてしまうから・・・というのが、その主な理由で、
この、支柱の無い形式を、
ワンスパン方式と呼ぶらしかった。
だとすると、ケーブルが、
私たちの乗る、この重いゴンドラを支えるためには、
線の両端を、凄まじい力で引っ張らなければならないし、
ケーブル自体も、
その、凄まじい力に耐え得るだけの強度が必要となってくる。
ふと、
このゴンドラの重さが気になった。
ざっと計算してみる。
乗客数は定員に近いだろうから80人。
1人50kgとすると4t。
それに、ゴンドラ自身の重量もある。
一般的な乗用車の重さが、だいたい1tとちょっとなので、
そうすると、およそ車4台分。
それだけの重量が、
長さ1700mもある、細いケーブルにぶら下がっていて、
その、自身を支えるケーブルを大きく撓ませながら、
現在、ゆっくりと下っているのだ。
私の足元にある、鉄の板の向こう側は、
空の真っ只中。
地面は、遥か下。
ケーブルが切れ、落ちてしまったら、
乗客もゴンドラも、ひとたまりもない。
私は、
視線の先の、遥か低い場所を
眼下の、離れたところを流れていく木々に目を向けたまま、
そんなことを考えていた。
少しだけ怖くなった。
私の黒いスーツの、太陽に照らされている部分が、
ほんのりと熱を持ち始めた。
窓の向こうには、
右上から左下へ、まっすぐ下っていく斜面の景色が広がっていた。
斜面の角度は、多分30°くらい。
三角定規の、尖ってる方の傾きとだいたい同じ。
斜面は、デコボコがほとんど無い。
かなり奥の方まで、きれいに斜めに真っ平ら。
そして、その表面全体を、
草や低木たちの緑が、隙間なく覆い尽くしていた。
私の目の前の、窓の向こうには、
そうした、斜めに傾いた緑一色の風景が広がっていた。
さっきからずっと、そうだった。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、
斜めに流れている。
少しすると、
案内放送の、「進路の正面に見えます山は・・・」という声が聞こえた。
斜面を見ていた私は、顔を左へ向けた。
ゴンドラ側面の窓に頬を近付け、そちらの景色を頑張って覗き込む。
最初に紹介されたのは、アケザワ岳という名の山だった。
高さは2678m。
この山には、
通称、猫の耳と呼ばれる地形が存在する・・・とのことだった。
アケザワ岳の、こちら側の斜面を下っている1本の尾根が、
途中で、左と右の2本に分かれており、
そこから更に少しだけ下った先の、
ともに、揃って再び高くなって、尖った山となっている部分、
この小ピーク2つのことを、猫の耳と呼ぶらしい。
雲が、ごく稀に、
2つの小ピークの背後の、尾根の分岐辺りにかかることがあり、
そうすると、その雲の手前に、
猫の、2つの尖った耳と、
それらの間を緩やかに結ぶ、猫の頭頂部に相当する地形が浮かび上がる・・・とのことだった。
しかし、
私は、猫の耳を拝むことはできなかった。
側面の窓からでは、
角度の関係で、進路正面にあるアケザワ岳が見えない。
今、ここからギリギリ見えている山は、
その隣にそびえ立つ、
現在放送で紹介中の、標高2752mのヒバリ岳だった。
しばらくの間、
窓から、
そちらの山々の、青空をバックにした稜線を見上げていた。
しかし、案内放送が、
ゴンドラの逆サイド、私の背中側の景色を紹介し始めたのを契機に、
私は、目線をそのまま下へ向けていく。
遠く向こうの、山裾に、
エメラルドグリーンの湖面が、ちょっとだけ見えていた。
ダムの貯水湖だろう。
貯水湖の周りは、白い湖岸が細くグルっと囲っていて、
帯のようになっていた。
その外側には、山の木々が鬱蒼と。
この白い帯は、
雨の少ない今だからこそ、湖面の水位が下がって見えているのだろう。
ダムの姿は、
少しだけ探してみたが、残念ながら確認できなかった。
恐らく、私の立ち位置の問題ではない。
ゴンドラの先頭に陣取る人たちにも、見えていないに違いない。
そういう歓声が、まだ聞こえてこないからだ。
そう言えば・・・。
ふと気が付いた。
ゴンドラが動き出してから、
少年は、ひと言も喋っていなかった。
私は顎を引き、
自分の顔のすぐ下にいる、少年の様子を窺った。
少年は、視線を貯水湖の方へ向けていた。
じっと見ている。
私は、
少し間を置いてから、口を開く。
「・・・後ろを見てごらん」
「え?、何?。後ろ?」
少年は、私を見上げて訊いた。
私は、頷いて言った。
「うん、後ろ」
「後ろって、どっちの後ろ?」
「ゴンドラの後ろ。オオカンポウの方」
少年は、すぐに右を向いた。
私も、
少し遅れて、顔をそちらへ向けた。
目の前にある、ゴンドラ後部の窓から、
外を見た。
緑に覆われた、山の上り斜面が、
ずぅっと上へ続いていた。
少年と私の頭上に張られた、5本の黒ケーブルと、
そのケーブルの隣の、少し離れたところに張られている全く同じ5本ケーブルが、
ともに、
途中でちょっと撓みつつも、
山の斜面に沿って、一緒に高いところへ延びている。
「なにがあるのー?」
少年が訊いた。
「ケーブルを、ずっと辿っていってごらん」
「ケーブル?。
・・・あぁ、あの線のことか」
そう言った少年は、顔をゆっくりと上げていく。
こちら側と、少し離れたところに張られたあちら側の、2組の黒ケーブルが、
緩やかな曲線を描いて、
お互いの距離を、次第に狭めていきながら、
山の斜面とともに、
揃って、高く高く上っていく。
「あ!、あんなとこにロープウェイ!。ちっちゃーい」
少年が、急に声を上げた。
隣の5本ケーブルを、向こうへ辿っていった先、
かなり遠く、かなり高い位置に、
ちっちゃなゴンドラが、少しずつ上へ動いていた。
「いつの間に、擦れ違ったんだろうね?」
私が、そう尋ねると、
少年が言った。
「もうあんなに遠いから、多分ずっと前だよー。
僕、ちっとも気付かなかったー」
遠方に見える、豆のようなロープウェイは、
岩肌があちこち露出した急峻な崖を、
ちょっとずつ、ちょっとずつ上がっていく。
そうして、
その先の、崖の上には、
すっかり小さくなった、オオカンポウの白い建物があった。
正面の壁に、
侵入口が、ぽっかり大きく空いていて、
2組の黒ケーブルは、
ともに、真っ暗なその中へと続いている。
あちらのゴンドラは、
もう、オオカンポウの建物のすぐ手前のところまで来ていた。
という事は、
こちらのゴンドラも、クロバダイラのかなり近くまで来ているはず。
なぜなら、
このロープウェイも、タチヤマで乗ったケーブルカーと同じく、
多分、つるべ式に違いないからだ。
そう思い、後部窓から、
ゴンドラの下の、地上の景色を覗き込んでみた。
確かに、
山の斜面に生える木々のテッペンが、だいぶ近くまで来ていた。
足元の4、5m下の辺りを流れている。
私は顔を上げた。
側面の窓の方へと、向きを戻す。
「ねー、聞こえたー?」
少年が尋ねた。
私は、
足の幅をジリジリと広げつつ、「何が?」と訊き返す。
声が、すぐに返ってきた。
「放送」
「あぁ。
うん、聞こえた」
「間もなく、クロバダイラに到着します・・・だってー」
「揺れると危ないから、しっかり掴まってるんだぞ」
「うん!」
私も、
また、ぶつけないように気を付けないと。
立山ロープウェイの支索(車輪が転がるケーブル)の直径は54mmだそうです。
500mlのペットボトルの直径が65mmなので、それよりもひと回り細い感じです。
ちなみに、
曳索(大観峰側から引っ張り上げるケーブル)は直径28mmで、
平衡索(黒部平側から引っ張り下げる and ゴンドラのバランスを保つケーブル)は直径24mmだそうです。
500円玉の直径が26.5mmなので、だいたいそれくらいです。
あと、念のために書いておきますが、
立山ロープウェイのケーブル切断事故は、1970年の開業から2020年現在まで1件もありません。