45.ロープウェイ乗り場の、改札口に立つ駅員に
ロープウェイ乗り場の改札口に立つ駅員に、
桜色の乗車チケットと黄色の整理券の、2枚の紙を渡した。
駅員も私も、
黒い革靴を履いていて、上下とも黒のスーツだった。
年齢は近そうで、体型も似ている。
ぱっと見、同じ感じ。
ただ、
私の頭の上には、立派な黒い制帽は乗っていなかった。
ネクタイだって つけてない。
「はい、
ご協力、ありがとうございます」
その駅員は、
感謝の言葉を述べつつ、桜色のチケットだけを私に返し、
受け取った私は、
それを胸ポケットにしまいつつ、ひとりで奥へと歩いていく。
後ろで、
声色を少し変えた駅員の声が聞こえてくる。
「それじゃボク、
乗車チケットと整理券、見せてくれるかな?」
頬を緩ませて喋る駅員の表情が、私の脳裏に浮かんできた。
改札を抜けたあとは、
幅3、4mくらいの、狭めの通路が延びていた。
足元の床は、ツヤツヤしたオレンジ色で、
左右の壁と天井は、ともに淡いクリーム色で塗られていた。
なんとなく、暖かな雰囲気だった。
天井の左右の端っこに、それぞれ白い蛍光灯が並んでいて、
その、上の2方向から降り注いでる光が、
通路全体を明るく照らしている。
この暖かな感じの通路は、
少し先で壁に突き当たっていて、そこで左に折れている。
ロープウェイのゴンドラの発着場は、
方向的には、
あの突当りの壁の、向こう側にあるはずだ。
そう考えていると、
背後から、
パタパタと元気な駆け音が近付いてきた。
私の左に少年が並ぶ。
少年は、
持っているチケットをズボンのポケットに押し込むと、
次いで、
顔を反対側へ向け、そちらのポケットに手を突っ込んだ。
中から赤いフィギュアを取り出し、
歩きながら、その顔を指で少し拭いている。
通路は、
左へ折れたあとも同じ雰囲気のまま、延びていたが、
ただ、
突当りの壁は、今度は右へ折れていた。
私は、
その壁が近くなってくると、歩く速度を多少緩めた。
少年と一緒に、角を右へ折れていく。
その曲がり角のあとの通路は、7、8mほど続いていて、
そこからは、
打って変わって薄暗い雰囲気の、広そうな場所になっていた。
天井も、かなり高そうだった。
ここからでは、まだ見えなかった。
その、奥の広そうな場所は、
一面オレンジ色のツヤツヤした通路の床から、
四角い、焦げ茶色のタイルが敷き詰められた床に切り替わっていて、
タイル張りの床の、ちょっと先には、
くすんだ銀色の、ステンレスか何かの金属製の柵が設置されていた。
その向こうは溝だった。
要するに、転落防止のための柵だった。
溝の横幅は3mほど。
それが、まっすぐ向こうへ続いていて、
少し先で、そのまま空に放り出されていた。
ロープウェイの発着場だった。
ロープウェイのゴンドラの出入りのため、
建物の壁は、
そちら側は、まるごと無かった。
広く、大きく、ぽっかりと、
あけすけに空いていた。
外の、眩しいくらいの強烈な明かりが上から斜めに差し込んでおり、
正面の、遥か遠くで広がる空の鮮やかな青の色と、
連なり合う山々の稜線の、薄っすら白んだ緑色が、
そのままの色と形と空気感で、そこに見えていた。
そうして、
その、解放的な風景のずっと手前、この建物付近の宙の、上の方からは、
黒色のケーブルが5本、一緒に向こうへと垂れていて、
離れていきつつ下の方へ、山裾のある下の方へと、
細く長く、緩やかに続いていた。
無論、
これら5本のケーブルはロープウェイのものに違いなく、
その行き着いてる先は、
ここからでは、まだ確かめられない。
私の靴音が、硬質な響きへと切り替わった。
ロープウェイ乗り場に出た。
そのまま足を動かしつつ、視線をちょっと右に向ける。
少し先に、
コンクリートの太い柱が立っていて、
その手前に、
制帽をかぶった駅員の姿があった。
白いマスクをつけていて、
目の合った私に ちょこんと頭を下げて、
左腕を、そのまま体の真横に上げていく。
その駅員の、水平に伸ばした手の方へ目を向けると、
そちらにも、
金属製の柵と、その裏側に幅3mほどの溝があり、
私たちの乗るゴンドラは、そこに停まっていた。
観光客たちが、既に大勢乗っている。
ガッシリとした体格で半袖シャツの男性ふたりが、
ゴンドラ内の吊り革を握り、こちら向きで立っていて、
日に焼けた顔を向け合い、笑い合いながら口を動かしている。
その若い男性ふたりの、胸元辺りの手前には、
地味な色のチューリップハットをかぶった、ふたりの後ろ姿があった。
ともに背中が少し丸まっていて、
窓際の席に、
隣同士、ピッタリくっついて座っている。
乗り込み口は、
どうやら、ゴンドラの向こう側にあるようだ。
車体のこちら側には見当たらない。
パラパラとした人の列も、そちらへ続いている。
マスクをした駅員の手前で、少年と私は右に進路を変えた。
ゴンドラを左に見つつ、進んでいく。
ゴンドラの見た目は、小型のバスに似ていた。
とは言え、車輪は下には無かった。
上にあった。
私は、ゴンドラの屋根を見上げる。
屋根には、
脚立のような形状の、大きい三角の鉄塔が据え付けられていた。
鉄塔の最上段には、
たくさんの小さな車輪が連なって出来た、ローラーブレードのローラーのようなパーツが取り付けられており、
そのローラーみたいなパーツは、すぐ奥にもう1ライン並んでいて、
それら2ラインのローラーが、
それぞれ、ピンと張られた黒ケーブルの2本の上に乗っかっていた。
このゴンドラは、
そうして、
そこから、先ほどの屋根上の鉄塔を介し、
私の目の前に ぶら下がっている。
ゴンドラの乗り込み口のある向こう側へ、グルっと回り込んでいくと、
ここにも駅員の姿があった。
乗り込み口を過ぎた辺りに立っていて、
「お足元の段差にご注意下さい」と口にし、頭を下げる。
片方の手をゴンドラ内に差し向ける。
足を止めた私は、
その駅員の言う、足元の段差に目を向ける。
乗り場のタイル張りの床と、ゴンドラ内の床との段差は、
しかし、ほとんど無いように見える。
乗客たちの重みでゴンドラが沈み込んでいて、
それで、
今は、ホームとの段差がかなり解消されているのだろう。
隙間も、ほぼ空いてなかった。
3cmもない。
顔を上げた私は、
少年の方を振り返り、手で促した。
「ほら、先に」
こちらを見ていた少年は、
「うん」と小さく頷き、
すぐに、ゴンドラの方へ向き直した。
下を見て、
慎重に、
左足、右足の順にゴンドラに乗り、
そのまま少し様子を見たあと、顔を上げた。
右を見て、左を見て、
そのまま、ゴンドラのこちら側の窓際を横歩きで伝い、
人混みの少ない後ろの方へ入っていく。
私も続くことにした。
左足、右足。
・・・。
揺れは全く無かった。
安定している。
ゴンドラは、
大勢の乗客たちで、既に充分 重くなっている。
そこに、
私ひとりの体重が増えても、そう影響は無いのだろう。
ゴンドラの中はギュウギュウで、ざわざわしていた。
人熱れで、周りの空気が少し生温い。
ただ、
出発しさえすれば、幾らか涼しくなるはずだった。
ゴンドラ前面と後面の、上の方に、
眉毛のような、左右2組の細窓がついていて、
それが4つとも開いていた。
ゴンドラが動き出せば、
山間の上空を吹く爽やかな風がそこから入り、
車内を流れるはずだ。
座席は、
ゴンドラ内の向かい側の窓際とは違って、こちら側には無いようだった。
少年と私の周りの人は、
皆、
天井から、ぶら下っている吊り革か、
あるいは、窓の手前に水平に渡された手すりを掴んで、
立ったまま、ゴンドラの発車を待っている。
「たくさん乗ってるねー」
少年が、
私の顔のすぐ下で言った。
「うん、いっぱいだね」
私は、
窓の外の、薄暗いホームに目を向けたまま、
そう返した。
乗客は、
私たちが乗り込んだあとも、まだ増えていった。
それに従い、
私たちは、車内の後ろ後ろと追いやられ、
今は、
一番後ろの、角に近いところにいた。
窓に押し付けられている少年と私の体は、
今や、ピッタリとくっついている。
少年が、また話しかけた。
「何人くらいかなー?」
私は、
ちょっと考えたあとで訊き返す。
「・・・乗ってる人?」
「うん」
「パンフレットに定員80名、ってあったから、
それくらいじゃない?」
「え、僕の学年より多いじゃん」
「何人いるの?」
「67人」
「なら、
まるごと乗れるね」
「うん、
まるごと乗れるー」
しばらくすると、
ガラガラッ・・・と、ドアのスライドする音がして、
静かになり、
カチリ・・・と、ロックされた音が響いた。
窓の外の駅員が、キャスター付きの柵を両手で掴む。
そのまま上半身を斜めに倒し、
少し重たそうにしつつ、
1歩、また1歩と横へ押していき、
スライドさせていき、
そうして最後に、ガチャン・・・と閉じた。
ゴンドラ内に、穏やかな声のアナウンスが響く。
「ご乗車ありがとうございます。
クロバダイラ行きロープウェイ、まもなくの発車となります。
発車の際、揺れま――」
「いよいよだねー」
すぐ下にいる少年が、
車内アナウンスを遮り、私に話しかける。
「うん、そうだね」
「ロープウェイ、乗ったことあるー?」
「あるよ。
でも、もっと短いヤツだった」
「僕もあるー」
「どこで乗ったの?」
「スキーに行ったときに乗ったー」
そのとき、
けたたましいブザー音が、映画館での上映開始のように鳴り始める。
そうして、
その鳴っていたブザー音が止まると、
ゴンドラ内は、
しん・・・と静まり返っていた。
誰かが小さく鼻をすすり、
続いて、別の場所で衣服の擦れる音がした。
ささやかな音だけが聞こえている。
私は、目を下に向けた。
手すりに掴まる私の手の横で、
ひと回り小さい少年の手が握られている。
私は視線を戻した。
程なくして、
落ち着いた声のアナウンスが、車内に響き渡った。
「お待たせいたしました。
それではロープウェイ、発車いたします」
ローラーブレードは商標、あるいは会社名で、
正しくは、インラインスケートという名称なのだそうです。
要は、ホチキスとステーブラーみたいな関係です。
ここではローラーブレードの方が色々と分かりやすいと判断し、
敢えてそちらを採用しています。
あと、実在の立山ロープウェイも5本ケーブルなのですが、
その内訳は、ネットで調べたところ、
支索(車輪の転がるケーブル。電車のレールに相当)が2本で、
曳索(大観峰側でゴンドラを引っ張り上げるケーブル。黒部平側から見ると平衡索)が2本とのことでした。
残りの1本(他の4本の上に、少し離れて張られている)については、記述が見付かりませんでした。
電線かなぁ・・・と思ってます。