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Summer Echo  作者: イワオウギ
34/289

34.「ねぇ、早く行こうよー」

「ねぇ、早く行こうよー」


少年の声が、下から聞こえてきた。

テラスの端の方で、そのまま空を仰ぎ見ていた私は、

慌てて、


「あぁ、ごめんごめん」


と口にし、額に当てていた手を下ろし、

顔を下に向ける。

少年が、

すぐ近くで、こちらを見上げていた。

私は、口を開く。


「じゃ、行こっか」


「僕、

 もう、お腹ペコペコだよー」



少年と私は、

テラスの奥に隣接している、コンクリート造りの巨大な建物を目指して、

歩いていた。

その建物の壁には、窓がひとつも見当たらない。

だだっ広い、のっぺらぼうな壁が、

少し先の正面で、

高々と、そびえ立っている。


ロープウェイ乗り場だった。


そのロープウェイ乗り場の建物は、

屋外テラスより更に左側、谷の方へと、

ちょっと、せり出していた。

そして、

せり出した部分の、屋上に近い高いところからは、

夏の、真っ青な空をバックに、

数本の、か細い黒い線が、

山裾のある斜め下へと、まっすぐ延びていた。

ロープウェイのゴンドラを支えるケーブルだろう。


足をそのまま動かしながら、視線を更に上げていく。

(あご)先が上を向き、後頭部がカクンとなった辺りで、

建物のテッペンが、ようやく見えた。

とても高い。

でも、

スギ林のスギの方が、もう少しだけ高かった。


上を向いたまま、右を見ると、

岩肌の目立つ険しい崖があった。

テラスのすぐ(そば)から、ほぼ垂直に近い角度で切り立っており、

それが、

ずうっと高いところまで続いている。


その、屹立(きつりつ)する崖には、

緑葉を(まと)った木々の姿が、(いた)る所にあった。

線のような、ごく狭い不安定な足場から、

しなやかな細い幹が、空を目指して伸びており、

自分の枝葉を、精一杯に遠くへと広げている。

目も(くら)むような高所で、

命綱も無しに、

崖を離れて空中へと、斜めに大きく身を乗り出している。

それらの木々が、

崖下にいる私の遥か頭上で強風に煽られ、

細い幹ごと、ユサユサと揺れている。

視界のずっと先で、

微かに小さく映る、その様子を見ているだけで、

安全な場所にいるはずの私の方が、何だか少し怖くなってくる。

でも、

彼らにとっては、これくらいは何ともないのだろう。

何年もの間、

そうやって、そこで過ごしてきたのだ。

嵐が来ようとも、雪が降ろうとも、

ただ、そこで、

自身の足元にある、ほんの(わず)かな大地をぎゅうっと掴み続けて、

ひたすらに、

じっと耐えてきたのだ。



私は、

右手側にそびえている崖を、そのまま少しだけ見上げたあと、

今度は逆の方へと、

自分の左にある景色の方へと顔を向ける。


観光客たちの背中が、すぐそこに並んでいた。

ずらっと、横一線にたくさん。

テラスの(へり)の、

私の胸元くらいの高さの、頑丈そうな安全柵の手前で、

皆、向こうを向いたまま、

思い思いの姿勢で、静かに立っていた。


黒のニット帽で、黒のジャンパー姿の、

ひょろっとした、長身の男性は、

柵の近くで腕組みをし、

片方の足を自分の横へと、ピンと斜めに差し出していた。

背中の、オレンジ色のナップザックが、

中身の重さで、滴《しずく》のように下に細く(しぼ)んでいる。

黙って、(たたず)んでいる。


真新しい青色のリュックを、ダウンジャケットの上から背負っている茶髪の女性は、

柵の上で、左右の肘をそれぞれ外向きへ突っ張るようにして腕を寝かせて、

中央で重ね合わせた自分の手の上に顎を乗せ、

背中を少しだけ丸めた、T字のような後ろ姿をして立っていた。

頭のサイドの、くるっとカールした細長い髪を、

風に(なび)かせている。


その髪の靡く先には、

全く同じT字の後ろ姿の、ダウンジャケットを着た男性の顔があった。

真新しい青色の、お揃いのリュックをこちらに向けたまま、

肘の先で、隣の女性と繋がったままで、

遠くを、じっと眺めている。


そして、

そうした様々な観光客たちの、

横に並んだ、それぞれの頭の少し上には、

空の色が入り混じり、ちょっとぼやけた緑色の、

ところどころ《へ》の字に折れ曲がった、山々の稜線が、

左右に長く、

視界の端から端まで、

静かに、

すぅ・・・っと、そびえ立っていた。

何も語ることなく、

何も誇ることなく、

何も(おご)ることなく、

大きく、

雄々しく、

ただ、そこに。


呼吸を、

いつの間にか忘れていた。

気付いたときには、

もう、そちらに足を向けていた。

人垣に沿って歩く。

切れ間を見つけ、

テラスの(へり)の、柵の前に立つ。



私の横っ(つら)を、冷えた風が吹き付ける。

片側の髪が、ぶわっと起き上がり、

懸命に横に靡こうとし、

耳元の空気が、

ボウボウという音を立て、激しく震えて、

スーツの裾が、バタバタと暴れる。


視界を遮るものは、何ひとつ無かった。

眼下に広がる、圧倒的な空間。

遥か遠くの方まで続きゆく、山々の景色。

夏の強い日差しのもと、

山の植物たちの、

幾億もの、瑞々(みずみず)しい緑の葉が、

視界の一面、そのほとんど全ての場所で、

ずっと細かく、ずっと小さく、

びっしりと、ひしめき合っている。

見渡す限りの、

(おびただ)しい、鮮やかな緑。

夏の深山(みやま)の、その全景だった。



私は、顔を下に向けた。

自分の胸元の高さまでを覆っている安全柵の上に、()いている方の手を乗せる。

瞬間、手がビクッと跳ね上がりそうになったが、

咄嗟に我慢。

そっと握り込む。

想像以上に冷たい。


下を向いたまま、目の焦点だけを奥へと飛ばす。

柵の手すりとテラスの(へり)の向こう側、ちょっと下の方に、

立つのがやっとの角度の、

勾配(こうばい)の、草むした山の斜面。

その斜面を、目で辿っていくと、

急勾配を保ったまま、

生い茂る草木の緑が薄っすらと白むほど遠いところまで、ずっと低いところまで、

まっすぐ、一直線に下っていた。

そして、その下り斜面は、

こちらの山裾(やますそ)と向かいからの山裾が複雑に噛み合う、左右に長い谷に突き当たっており、

そこを越えると、

今度は、

上り斜面が、私の目線よりも僅かに高い位置まで続いており、

それが、

遠くの正面にそびえ立つ、山々の長大な尾根を形成していた。

左を見ても、右を見ても、

遙か向こうの方まで、遠く向こうの方まで、

そうした山々の景色はずっと続き、

そのほとんどを、植物たちの葉は覆い尽くしていた。


しばらくの間、

目の前に遥かに広がる山間(やまあい)の、雄大な風景を、

私は、呆然と眺めていた。

それ以外、何もできなかった。

何も考えられなかった。

テラスの(へり)に立ち、

ただただ圧倒されていた。



ここ、オオカンポウは、

切り立つ崖の、その中腹にあった。

崖から少しだけ突き出て丘になっているところの、ごく狭い場所にあった。

右も、左も、正面も、

地面にしがみつくのが精一杯の、急勾配の山の斜面。

振り返っても断崖絶壁。


ここの四方は、

そんな、

人の侵入を強く拒む地形に囲われていた。

敷地の外には、

それ故、

自由に出られないようになっていた。


オオカンポウは、そんな隔絶された世界の、

秘境のような場所にあった。

切り立つ崖と澄んだ空、

その境目にポツンと浮かぶ、孤島のような場所だった。



私は、柵に手をかけたままで、

遠くに目を向けていた。

冷えた風が、オオカンポウの(へり)の間際に立つ私を、

横から強く吹き付ける。

また、片側の髪が一斉に起き上がって横に流され、

耳元で、ボウボウと空気が震え、

スーツの裾をバタバタと激しく揺らす。


不意に、

カバンを持った方の手の、スーツの袖が、

ちょんちょん・・・と、軽く引っ張られた。

少し間を置いてから、もう一度。


?。

・・・、

・・・、

・・・あっ。


慌てて後ろを振り返る。

少年。

ちょっと怖い顔をして、

頬を膨らませて、

下から私を、じぃっと見ている。


「ごめんごめん。

 良い景色だったから、つい・・・」


「・・・」


「ご飯だったよね?。早く行こ?」


「・・・」


「ほら、早く食べに行こ?」


「・・・」


「行こ?」


「・・・」


「・・・」


「・・・」


仕方ないので訊いてみる。


「何、どうしたの?」


「もぅ!。

 僕さっき、お腹へったーって言ったでしょー?」

作中で、《幾億もの、瑞々しい緑の葉》と書いてますが、本当にそれだけあるのかなぁ・・・と少し心配になったので、

ざっと計算してみました。

両目で同時に見える範囲が、だいたい左右120度・・・とのことなので、

大観峰からの、それくらいの角度の範囲は、南沢岳から後立山連峰の布引山までかなぁ・・・と Google マップで当たりを付けて、

その尾根筋の両端と大観峰を結ぶ面積を調べてみる(Google マップ上で簡単に出せます)と、約56平方キロメートルでした。

葉っぱの面積の平均を仮に10平方センチメートルとして、それで割ると56億になるので、

少なくとも全くの見当違いの表現ではない・・・と思います。

まぁ、この算出方法は、

高さの概念や葉っぱの重なり、平均面積の妥当性、枚数の数え方等々、

問題だらけですけど。

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