34.「ねぇ、早く行こうよー」
「ねぇ、早く行こうよー」
少年の声が、下から聞こえてきた。
テラスの端の方で、そのまま空を仰ぎ見ていた私は、
慌てて、
「あぁ、ごめんごめん」
と口にし、額に当てていた手を下ろし、
顔を下に向ける。
少年が、
すぐ近くで、こちらを見上げていた。
私は、口を開く。
「じゃ、行こっか」
「僕、
もう、お腹ペコペコだよー」
少年と私は、
テラスの奥に隣接している、コンクリート造りの巨大な建物を目指して、
歩いていた。
その建物の壁には、窓がひとつも見当たらない。
だだっ広い、のっぺらぼうな壁が、
少し先の正面で、
高々と、そびえ立っている。
ロープウェイ乗り場だった。
そのロープウェイ乗り場の建物は、
屋外テラスより更に左側、谷の方へと、
ちょっと、せり出していた。
そして、
せり出した部分の、屋上に近い高いところからは、
夏の、真っ青な空をバックに、
数本の、か細い黒い線が、
山裾のある斜め下へと、まっすぐ延びていた。
ロープウェイのゴンドラを支えるケーブルだろう。
足をそのまま動かしながら、視線を更に上げていく。
顎先が上を向き、後頭部がカクンとなった辺りで、
建物のテッペンが、ようやく見えた。
とても高い。
でも、
スギ林のスギの方が、もう少しだけ高かった。
上を向いたまま、右を見ると、
岩肌の目立つ険しい崖があった。
テラスのすぐ傍から、ほぼ垂直に近い角度で切り立っており、
それが、
ずうっと高いところまで続いている。
その、屹立する崖には、
緑葉を纏った木々の姿が、至る所にあった。
線のような、ごく狭い不安定な足場から、
しなやかな細い幹が、空を目指して伸びており、
自分の枝葉を、精一杯に遠くへと広げている。
目も眩むような高所で、
命綱も無しに、
崖を離れて空中へと、斜めに大きく身を乗り出している。
それらの木々が、
崖下にいる私の遥か頭上で強風に煽られ、
細い幹ごと、ユサユサと揺れている。
視界のずっと先で、
微かに小さく映る、その様子を見ているだけで、
安全な場所にいるはずの私の方が、何だか少し怖くなってくる。
でも、
彼らにとっては、これくらいは何ともないのだろう。
何年もの間、
そうやって、そこで過ごしてきたのだ。
嵐が来ようとも、雪が降ろうとも、
ただ、そこで、
自身の足元にある、ほんの僅かな大地をぎゅうっと掴み続けて、
ひたすらに、
じっと耐えてきたのだ。
私は、
右手側にそびえている崖を、そのまま少しだけ見上げたあと、
今度は逆の方へと、
自分の左にある景色の方へと顔を向ける。
観光客たちの背中が、すぐそこに並んでいた。
ずらっと、横一線にたくさん。
テラスの縁の、
私の胸元くらいの高さの、頑丈そうな安全柵の手前で、
皆、向こうを向いたまま、
思い思いの姿勢で、静かに立っていた。
黒のニット帽で、黒のジャンパー姿の、
ひょろっとした、長身の男性は、
柵の近くで腕組みをし、
片方の足を自分の横へと、ピンと斜めに差し出していた。
背中の、オレンジ色のナップザックが、
中身の重さで、滴《しずく》のように下に細く萎んでいる。
黙って、佇んでいる。
真新しい青色のリュックを、ダウンジャケットの上から背負っている茶髪の女性は、
柵の上で、左右の肘をそれぞれ外向きへ突っ張るようにして腕を寝かせて、
中央で重ね合わせた自分の手の上に顎を乗せ、
背中を少しだけ丸めた、T字のような後ろ姿をして立っていた。
頭のサイドの、くるっとカールした細長い髪を、
風に靡かせている。
その髪の靡く先には、
全く同じT字の後ろ姿の、ダウンジャケットを着た男性の顔があった。
真新しい青色の、お揃いのリュックをこちらに向けたまま、
肘の先で、隣の女性と繋がったままで、
遠くを、じっと眺めている。
そして、
そうした様々な観光客たちの、
横に並んだ、それぞれの頭の少し上には、
空の色が入り混じり、ちょっとぼやけた緑色の、
ところどころ《へ》の字に折れ曲がった、山々の稜線が、
左右に長く、
視界の端から端まで、
静かに、
すぅ・・・っと、そびえ立っていた。
何も語ることなく、
何も誇ることなく、
何も驕ることなく、
大きく、
雄々しく、
ただ、そこに。
呼吸を、
いつの間にか忘れていた。
気付いたときには、
もう、そちらに足を向けていた。
人垣に沿って歩く。
切れ間を見つけ、
テラスの縁の、柵の前に立つ。
私の横っ面を、冷えた風が吹き付ける。
片側の髪が、ぶわっと起き上がり、
懸命に横に靡こうとし、
耳元の空気が、
ボウボウという音を立て、激しく震えて、
スーツの裾が、バタバタと暴れる。
視界を遮るものは、何ひとつ無かった。
眼下に広がる、圧倒的な空間。
遥か遠くの方まで続きゆく、山々の景色。
夏の強い日差しのもと、
山の植物たちの、
幾億もの、瑞々しい緑の葉が、
視界の一面、そのほとんど全ての場所で、
ずっと細かく、ずっと小さく、
びっしりと、ひしめき合っている。
見渡す限りの、
夥しい、鮮やかな緑。
夏の深山の、その全景だった。
私は、顔を下に向けた。
自分の胸元の高さまでを覆っている安全柵の上に、空いている方の手を乗せる。
瞬間、手がビクッと跳ね上がりそうになったが、
咄嗟に我慢。
そっと握り込む。
想像以上に冷たい。
下を向いたまま、目の焦点だけを奥へと飛ばす。
柵の手すりとテラスの縁の向こう側、ちょっと下の方に、
立つのがやっとの角度の、
急勾配の、草むした山の斜面。
その斜面を、目で辿っていくと、
急勾配を保ったまま、
生い茂る草木の緑が薄っすらと白むほど遠いところまで、ずっと低いところまで、
まっすぐ、一直線に下っていた。
そして、その下り斜面は、
こちらの山裾と向かいからの山裾が複雑に噛み合う、左右に長い谷に突き当たっており、
そこを越えると、
今度は、
上り斜面が、私の目線よりも僅かに高い位置まで続いており、
それが、
遠くの正面にそびえ立つ、山々の長大な尾根を形成していた。
左を見ても、右を見ても、
遙か向こうの方まで、遠く向こうの方まで、
そうした山々の景色はずっと続き、
そのほとんどを、植物たちの葉は覆い尽くしていた。
しばらくの間、
目の前に遥かに広がる山間の、雄大な風景を、
私は、呆然と眺めていた。
それ以外、何もできなかった。
何も考えられなかった。
テラスの縁に立ち、
ただただ圧倒されていた。
ここ、オオカンポウは、
切り立つ崖の、その中腹にあった。
崖から少しだけ突き出て丘になっているところの、ごく狭い場所にあった。
右も、左も、正面も、
地面にしがみつくのが精一杯の、急勾配の山の斜面。
振り返っても断崖絶壁。
ここの四方は、
そんな、
人の侵入を強く拒む地形に囲われていた。
敷地の外には、
それ故、
自由に出られないようになっていた。
オオカンポウは、そんな隔絶された世界の、
秘境のような場所にあった。
切り立つ崖と澄んだ空、
その境目にポツンと浮かぶ、孤島のような場所だった。
私は、柵に手をかけたままで、
遠くに目を向けていた。
冷えた風が、オオカンポウの縁の間際に立つ私を、
横から強く吹き付ける。
また、片側の髪が一斉に起き上がって横に流され、
耳元で、ボウボウと空気が震え、
スーツの裾をバタバタと激しく揺らす。
不意に、
カバンを持った方の手の、スーツの袖が、
ちょんちょん・・・と、軽く引っ張られた。
少し間を置いてから、もう一度。
?。
・・・、
・・・、
・・・あっ。
慌てて後ろを振り返る。
少年。
ちょっと怖い顔をして、
頬を膨らませて、
下から私を、じぃっと見ている。
「ごめんごめん。
良い景色だったから、つい・・・」
「・・・」
「ご飯だったよね?。早く行こ?」
「・・・」
「ほら、早く食べに行こ?」
「・・・」
「行こ?」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
仕方ないので訊いてみる。
「何、どうしたの?」
「もぅ!。
僕さっき、お腹へったーって言ったでしょー?」
作中で、《幾億もの、瑞々しい緑の葉》と書いてますが、本当にそれだけあるのかなぁ・・・と少し心配になったので、
ざっと計算してみました。
両目で同時に見える範囲が、だいたい左右120度・・・とのことなので、
大観峰からの、それくらいの角度の範囲は、南沢岳から後立山連峰の布引山までかなぁ・・・と Google マップで当たりを付けて、
その尾根筋の両端と大観峰を結ぶ面積を調べてみる(Google マップ上で簡単に出せます)と、約56平方キロメートルでした。
葉っぱの面積の平均を仮に10平方センチメートルとして、それで割ると56億になるので、
少なくとも全くの見当違いの表現ではない・・・と思います。
まぁ、この算出方法は、
高さの概念や葉っぱの重なり、平均面積の妥当性、枚数の数え方等々、
問題だらけですけど。