32.トロリーバスが、オオカンポウに到着した
トロリーバスが、オオカンポウに到着した。
ムラドウを発ってから、およそ10分後。
すぐだった。
ドアが開き、それと同時に乗客たちが次々と立ち上がる。
車内は俄に、ざわつき始める。
前の方で少し離れて座る少年が、
シートの横から、その小さな顔を覗かせた。
こちらを振り返っている。
私の顔を、じぃっと見ている。
「先に降りてて!」
大きな声で、そう言った私は、
膝上に置いたカバンの取っ手を掴み、立ち上がった。
少年は、動かなかった。
振り返ったまま、私を見ている。
声を再びかけようと、私が口を開いたところで、
少年は、顔を引っ込めた。
立った姿で通路に現れ、
すぐ傍にある乗降口に、足を向ける。
私は、
車内の列に並ぶと、体を出来るだけ通路の端へ寄せた。
斜めに伸び上がり、列の横に顔を覗かせる。
少年の片方の肩と頭が、どうにか見えた。
列は少しずつ進んでいく。
少年が、乗降口に立った。
顔を、こちらに向ける。
私は、何も言わずに頷く。
少年は、
ちょっと間を置いてから、乗降口の方へと顔を戻した。
そのまま、視線を下に向ける。
頭が僅かに沈み込み、
それが、また高くなると同時に、
少年の姿は、乗降口の向こうへと消えていく。
私は、
斜めに伸び上がっていた体を、ゆっくりと戻した。
少し遅れて、
私も、オオカンポウに降り立った。
ここも屋内だった。
すぐ目の前に、コンクリートの壁。
ススのような、点々とした細かな汚れが、
全体的に満遍なく、
びっしりと、こびり付いている。
その、やや薄汚れた壁には、
縦に細長い、スリットのような窓が設けられていた。
私は、前を歩く人についていきながら、
目を、ちょっとだけ窓の方に向けてみる。
遥か遠く。
緑の尾根と青い空。
私は、前に向き直す。
全く同じ形をした細窓が、いくつか視界に入った。
壁のところどころに、間隔を空けて設置されており、
それぞれの窓からは、
先程のような外の景色が、眩しいほどの白い光とともに細く覗いている。
その明るさは、
屋内の薄暗さを、より一層強調していた。
どことなく不気味で、どことなく物寂しい。
少年は、
ちょっと歩いたところの壁際に、ポツンと立っていた。
じっと私を見ている。
私が、
前を歩く人から離れ、そちらに足を向けると、
少年は、急いでこちらに駆け寄ってきた。
私は、足を止めた。
少年は、
私の着ているスーツに触れるくらいの、すぐ近くに立つと、
その顔を上に向けた。
不満そうな表情。
口を開く。
「僕、お腹へったー」
少年と合流した私は、
そのまま、近くの上り階段に足を向けた。
バスを降りた、他の大勢の観光客たちとともに、
その階段を上っていく。
階段の幅は狭かった。
ふたり並ぶのが、やっとだった。
加えて、
階段の左右は、コンクリートの壁に挟まれていた。
窓も付いておらず、
そのおかげで、やや窮屈に感じられた。
ざわざわとした話し声。
間断のない、沢山の足音。
歩調に合わせてチャリチャリ鳴る、何かの金具の当たる音。
薄暗い階段室に反響する、それらの音を耳にしつつ、
少年と私は、他の観光客たちとともに、
一段一段、上っていく。
寒い。
私は、肩をすぼめた。
冷えた空気が、頬や手先に当たり、
肌の奥の毛細血管が、ほんの少しだけ収縮する。
ここ、オオカンポウの標高は、
ムラドウと、ほとんど変わらなかった。
僅かに100m低いだけ。
なので、
気温も、ほぼ一緒だった。
私は、
前を向いたまま、隣の少年に訊いてみた。
「寒くない?」
「うーん・・・、ちょっとだけー」
「着ない?」
「着なーい」
私は、小さく鼻息を漏らした。
黙々と階段を上っていく。
すぐ目の前の、
前を歩く観光客の、真っ赤なリュックを見ていた。
ジッパーの先に取り付けられた、
小さな、白いウサギのキーホルダーが、
左右に揺れている。
少年の声が聞こえてきた。
「・・・ねぇ」
「どうした?」
「ケチって言わないの?」
「ん?。あぁ・・・、」
そういうことか。
私は前を向いたまま、
更に言葉を続ける。
「着てくれるなら言うけど」
「えー。やだー」
「何で嫌なの?」
「だって、変なふうに見られるもん」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよー」
「誰も気にしないって」
「気にするよぅ」
「・・・どうしても嫌?」
「イヤ」
「こんなに頼んでも?」
「うん」
「ふーん、そう・・・」
「・・・?」
「なら、私も言ってあげない」
「・・・え?」
「そんな分からず屋の人には、ケチって言ってあげない」
「・・・」
「この」
「・・・」
「ドケチ」
「・・・え?」
「聞こえなかったの?。ドケチって言ったんだけど」
私は、
自分の目の前で揺れ動く、ウサギのキーホルダーを見ていた。
段を上るごとに、
真っ白なウサギが、リズミカルに跳ね上がる。
左に、右に。
左に、右に。
少年の、無邪気な笑い声が、
それから少し遅れて、私の耳に届いた。