31.トロリーバスの、乗降口の前まで来た
トロリーバスの、乗降口の前まで来た。
ステップの高さは普通だった。
今度は大丈夫だろう。
ただ、ちょっと気になるものを見付けた。
扉の下の、路面の上に、
鉄のボールが転がっていた。
ワイヤーで、バスの車体に繋がれている。
走るときは、
そのまま、あれをゴロゴロと転がしていくのだろうか?
何のため?
熊よけでもあるまいに・・・。
少し不思議に思いつつも、
私は足を上げ、バスに乗り込んでいく。
通路に立ち、車内を見回すと、
シートは既に、その大半が埋まっていた。
空きは、
そこに1つ、向こうに1つ、
こっちに1つ、奥の方に1つ。
残念ながら、ふたり一緒には座れないようだ。
私は後ろを振り返り、少年を見た。
少年も、私を見上げた。
私は、
だらんと下げていた腕を、そのまま近くの空きシートの方へ振り上げ、
すぐに、パタンと下ろした。
少年は、視線をその空きシートの方へ向けた。
しかし、
また視線を戻し、私を見上げた。
私は、
その少年を見据えたまま、もう一度同じ動作を繰り返した。
自分の腕を、
伸ばしたまま、下向きのワイパーのように少し振り上げ、
すぐさま下ろす。
少年は、私を見上げたままだった。
けれども、
少しすると、私に促された空きシートに目を向け、
そちらへ歩いていき、
通路からシートの前へ入っていくと、そこに腰を下ろした。
すぐにこちらを振り返る。
私の顔を、じぃっと見ている。
私は、
その少年に向かって微笑み、黙って頷いた。
後ろへ向き直し、通路を歩いていき、
空きシートに腰掛ける。
カバンは、膝の上に乗せた。
発車を待っていると、
少年が、シートの横から顔を覗かせた。
振り返り、こちらを見ている。
気付いた私が少年の方へ視線を向けると、
少年は、慌てて顔を引っ込めた。
私は、静かに鼻息を漏らす。
窓の方へ顔を向ける。
ガラスの向こうに、
私たちを案内してくれた、さっきの係員の黒い制帽と、
短くキレイに刈り上げられた、彼の後頭部が見えている。
片手を頭の上にまっすぐ伸ばし、
それを、左右に大きく振っている。
勤勉な彼の目が、
恐らく、
また、迷える観光客を見付けたに違いなかった。
発車を告げるアナウンスの後、
続けて、ドアの閉まる音が聞こえた。
バスが動き出す。
深々と頭を下げている係員たちの姿が、窓の向こうに現れ、
後ろへと流れていく。
バスは、速度を徐々に上げていった。
乗り場を離れると、
すぐさま、右へ大きく曲がった。
バスがギリギリ1台通れるほどの、幅の狭いトンネルを進んでいく。
左右の内壁には、
電灯が、等間隔に数多く設置されている。
かなり明るい。
でも、
本を読むには、少し心許ない。
このトロリーバスは、
ずっと、トンネルの中を走っていく。
その身を、最後まで外気に晒すこと無く、
山の裡を進んでいく。
自身の駆動音を、その硬い内壁に反響させ、
音を残し、
去り。
そうして、
山の反対側の、終点オオカンポウまで走っていく。
それ故、窓の外に見える風景は、
ただ、ひたすらに、
いつまでも、
どこまで行っても、
コンクリートの壁と電灯、
それに、
壁の表面を這って延びている、何かのケーブルだけだった。
トンネル内の雰囲気が、急にガラリと変わった。
仄暗くなり、
道の左右にそそり立つ内壁が、下から深い青色で照らされている。
その、ちょっと不気味な感じのする区間へと、
私たちの乗るバスは侵入していく。
すぐに、車内放送が流れ始める。
それによれば、ここは、
破砕帯と呼ばれる、開通工事中の大変な難所とのことだった。
昭和32年、
日本が敗戦直後の貧困と混乱を乗り越え、
高度経済成長の道を歩み始めた、まさにそのときだった。
この一帯は、
地下水をふんだんに含んだ、とても脆弱な地盤で形成されていた。
掘ったそばから天井が崩落し、その土砂とともに大量の水も降り注ぎ、
それが理由で、
なかなか掘り進むことが出来なかったという。
そのときの水の量は、毎秒660リットル。
一般家庭の浴槽が約200リットルなので、だいたい3杯分。
重さにすると、実に660kg。
1秒間に、それだけの水が、
まさしく滝のように、
激しく、止めどなく、容赦なく、
天井から、
作業員たちのいる、薄暗い坑道内へと一気に降り注いだらしい。
更に、その水温は4℃と、
凍りつく寸前の、真冬の湖ほどに冷たく、
工事は過酷で厳しく、困難を極めたという。
破砕帯と呼ばれる、この区間は、
それ故、
そうした天井の崩落に怯えながら、手作業で少しずつ掘り進まなければならず、
たった80mの、この短い距離を掘り抜けるのに、
通常であれば10日のところを、
実に、その20倍以上の、
7ヶ月もの期間を費やすはめになってしまったらしい。
私は、
窓の外の、トンネルの内壁を見ていた。
深い青色でライトアップされた、その薄暗い区間は、
もう、とっくに通り過ぎてしまった。
事もなく、わずか数秒で、
私たちの乗るバスは、走り抜けてしまった。
窓の外には、今は、
白い電灯に明るく照らされた、
平穏なトンネルの、無機質な壁しか見えない。
温かみのない、コンクリートの壁。
表情のない、コンクリートの壁。
いつまでも変化のない、コンクリートの壁。
トンネル内の電灯は、次々に私の顔を明るく照らし、
そして、次々に後ろへ通り過ぎていく。
私は、
窓の外の、トンネルの内壁を見ていた。
誇らしげに見守る、当時の作業員たちの雄姿を、
私はそこに、
何となく、思い浮かべていた。
”雄姿”という言葉は、本当は”勇姿”の方を使うべきなのかもしれません。
ただ、私の中では、
この2つの言葉の印象は明確に異なります。
勇姿というのは”勇ましい姿”であり、
雄姿というのは”英雄の姿”である・・・と私は捉えています。
ここの場面においては、
”勇ましい”よりも”英雄”の方が、私の意図するものに近いため、
敢えて”雄姿”の方を採用しています。
あと、
乗降口の下にあった鉄のボールは、帯電防止用だそうです。
トロリーバスはゴム製のタイヤを装着しているため、このままでは電車と違って静電気を路面へ逃がせないので、
それで、こうして、
車体と繋がれた鉄のボールを路面に下ろし、その役目を果たしているそうです。
ちなみに、鉄のボールは扉が閉まると同時に車体へ引き上げられるそうです。
2020/6/26 追記
小説内では、破砕帯のある場所は、
室堂(作中でのムラドウ)と大観峰(同オオカンポウ)を結ぶ立山トンネル内にあるように書いてますが、
実際は、黒部ダムと扇沢を結ぶ関電トンネル内にあります。
2年以上、ずっと勘違いしてました。
すみません・・・。
破砕帯の場所を訪れたい、と考えている人はご注意を。