3.ホテルの自分の部屋に戻ってきた
ホテルの自分の部屋に戻ってきた。
歩きながら作業着を脱ぎ、
それをベッドの上の、通勤カバンの中に押し込んだ私は、
そのまま帰り支度をすぐに始める。
まずは、
サイドテーブルの上からスマートフォン用の充電器を外し、
それをカバンの中へ。
次いで、
部屋に干してある下着や靴下などの洗濯物を次々と回収していき、
全部まとめて、カバンの中にギュッと押し込み、
仕上げに、
カバンのファスナーを、ジー・・・っと閉めていく。
頭を上げた私は、
次に、壁のハンガーにかけてあるスーツの上着に目を向ける。
歩いていき、上着を手に取ると、
背中側へ、ふわっ・・・と回して、
右手を通し、左手を通し、
まっすぐ正面を向き、スーツの襟を両手で正してから、
前のボタンを2つ留める。
そうして、
ズボンのポケットに手を突っ込み、スマートフォンを出すと、
それを上着の内ポケットに入れ直して、
ふぅっと、ひと息。
部屋の中をグルッと見回す。
忘れ物は・・・、
多分、大丈夫。
私は、
ベッドの上からカバンを拾い上げると、部屋の出口の方へ向き直した。
歩いていき、
ドアの手前まで来てから、後ろを振り返る。
念のため、部屋の中をもう一度軽く確かめた私は、
それが終わると、横を向いた。
目の前の壁からカードキーを引き抜く。
照明が消え、部屋が薄暗くなる。
私は、改めてドアの方に向き直した。
ノブを握り、回し、
そのまま腕に力を入れ、重たいドアをゆっくりと押し開けていく。
通路に出て、そこに敷かれている赤い絨毯の上を歩き始めると、
少ししてから、
私の背後で、
ドアの閉まった音が、ガ・チャン・・・と鳴り渡り、
静かになった。
通路には、私の他には誰もいなかった。
エレベーターの前まで行き、ボタンを押した私は、
後ろへ1歩下がってから、視線を上へ向けた。
扉の上にある階数ランプの明かりが、右にひとつずつズレていく。
私は、
それを眺めながら、鼻息をひとつ漏らした。
すっかり手際が良くなってしまった。
エレベーターに乗り込んだあと、
スマートフォンで時刻をチェックすると、8時30分だった。
普段なら、会社を目指して歩いている頃合いだ。
フロントに行き、チェックアウトを済ませた私は、
ホテルを出て、そのままトミヤマ駅へ向かった。
駅は、
目の前にある、ちょっとした広場を挟んだ向こう側にあった。
すぐに着く。
そこから、新幹線に乗って帰るつもりだった。
お昼くらいには、
私は、自宅のドアを開けているだろう。
そう思ったとき、
途端に、
都内の、あの体にまとわりつくような、
ムシムシとした不快な熱気が頭を過ぎった。
私は、歩く速度をちょっと上げた。
髪がなびき、
顔に、
心地良い、爽やかな風が当たる。
トミヤマを去るのが、少しだけ惜しくなった。
駅に到着した。
構内に入ると、途端に涼しくなった。
冷房が効いているわけではない。
単に、空からの日差しが無くなっただけだった。
トミヤマの気温は、
既に、それだけ涼しくなっていた。
構内は広々としていて、やや薄暗かった。
人影も疎らで、
幾分、不気味さを感じる。
足を止めた私は、辺りをキョロキョロと見回す。
すぐに見付かった。
ちょっと奥の、左手側の壁に並んでいた。
黄緑色の、3つの券売機。
上にある横長のパネルに、大きく《新幹線》と書いてある。
その3つの券売機の、通路を挟んだ向かい側へ目を向けたとき、
そちらの壁際に、
色とりどりの、たくさんのパンフレットが並んでいることに気が付いた。
壁に長机が寄せられていて、
そこに置かれている、アクリル製の透明なボックスの中に、
それぞれ表紙が見えるようにして、立てて挿し込まれていた。
20種類以上はありそうだったが、
でも、
恐らくは、どれも観光案内だろう。
大抵の駅に置いてある。
隣の駅にだって、きっと置いてある。
別に珍しくもない。
興味もない。
私は、券売機の方へ向き直した。
足を踏み出し、歩いていく。
でも、少ししてから足を止めた。
次いで、
顔を長机の方へ向ける。
そこに並ぶパンフレットを、じぃっと見る。
やがて、
首から下もそちらに向き直した私は、
そのまま足を踏み出した。
静かな構内に、
革靴の硬い音が、コツコツ・・・と響く。
長机のところに来た。
私は、
パンフレットの表紙を順に見ていきつつ、
机に沿って、1歩1歩ゆっくりと進んでいく。
思った通り、ほとんどが観光案内だった。
登山に紅葉、温泉宿。
車の免許の合宿だけが、その例外だった。
端まで辿り着いた私は、
またパンフレットを見つつ、ゆっくりと引き返していき、
長机の中央辺りで足を止めた。
カバンを足元に置いたあと、たまたま目についたパンフレットに手を伸ばす。
温泉宿の案内だった。
白い湯煙の立ち上る露天風呂や、
整然と並んだ、美味しそうな懐石料理の写真を眺め、
紹介文を読んでいき、
裏面も見て、
それから、そのパンフレットを元の場所に戻した。
興味が湧かなかった。
何か他に良さそうなものはないだろうか。
登山・・・は、スーツと革靴だと少し無謀か。
紅葉は、まだ早いだろうし・・・。
そのとき、
ふと、あるパンフレットが目に入った。
放水中のダムの写真が、パンフレットいっぱいを使って載せられていた。
上の方に、
はっきりとした太い字で、《クロバダム》と書かれている。
そのダムの名前には、聞き覚えがあった。
確か、有名なダムだ。
でも、知ってるのはそれだけだった。
それ以外、何も知らなかった。
私は、ダムのパンフレットを手に取った。
中を開く。
正直言って、
特に、魅力を感じなかった。
そんなには、そそられなかった。
パンフレットを閉じた私は、裏面も見てみた。
地図があった。
どうやら、
クロバダムは、
ここT県のずっと内陸の方、N県との県境にあるようだった。
今いるトミヤマ駅から、
電車で1時間ほど揺られた先の、終点のタチヤマ駅で降りて、
そこから、ケーブルカーやバスなどを乗り継いでいって向かうらしい。
そのとき、ちょっと閃いた。
もしかしたら、
ダム観光のあと、そのまま太平洋側へと抜ければ、
そこから都内に帰れるのでは?・・・と。
私は、
ダムのパンフレットを机に置いてから、
上着の内ポケットに手を伸ばし、スマートフォンを抜き出した。
路線案内のアプリを起動させると、
画面上で指をスッスッと動かし、最後に《検索》を押す。
問題は無さそうだった。
ダムから先はバスでそのままN県へ抜け、
そこから更に電車を乗り継いでいけば、都内に帰れるようだった。
その際にかかる交通費は、
会社に事情を説明した上で、新幹線で帰宅した場合の運賃で請求すれば大丈夫だろう。
だが、そうは言っても、
やはり気乗りしなかった。
スマートフォンをスーツの内ポケットに戻した私は、
机の上に置いてある、ダム観光のパンフレットに視線を落とした。
少ししてから手を伸ばし、拾い上げる。
そのまま、表紙に載せられているダムの写真をじっと見つめる。
列車の運行案内を告げるアナウンスが、
やがて、
その余韻を僅かに残しつつ、駅の構内に響き渡った。
遠くの方から甲高いブレーキ音がゆっくりと近付いてきて、止まって、
間があってから、
蒸気音とともに、扉の開かれた音。
私のすぐ後ろを、
たくさんの靴音たちが、次々と通り過ぎていく。
辺りの音が、
また、静かになった。
聞こえてくる足音は疎らになり、
あとは、
目の見えない人用の、「ピーン、ポーン・・・」という無機質な電子音が、
ときどき、広い構内に鳴り渡っている。
長机の前で、
ひとり、手元のパンフレットに静かに目を向けていた私は、
その手を、
しばらくして、ゆっくりと下ろした。
視線をそのまま足元へ落とし、
反対の、空いてる方の手をまっすぐ下に伸ばすと、
カバンの持ち手を握り、
曲げていた腰を戻して、頭を上げる。
後ろを振り返り、足を踏み出す。
長机をあとにする。
パンフレットを片手に、黄緑色の3つの券売機の前を通り過ぎ、
そのまま奥へと歩いていき、
オレンジ色の券売機のところに来ると、私は足を止めた。
正面の液晶画面に目を向ける。
《200》から《1840》まで、数字のボタンがたくさん並んでいる。
私は、目線をちょっと上げた。
その液晶画面のすぐ上のパネルに、アヒルの横顔みたいな形をした路線図があって、
駅名とともに、そこまでの運賃が載せられている。
私は、
手元のパンフレットに視線を落とし、再び顔を上げた。
アヒルの横顔の路線図を眺めて、そのクチバシの先っちょの方に目を向けると、
視線を、下の液晶画面に戻し、
そこに並ぶボタンを見て、前に1歩進み出た。
券売機の手前に設けられた、手荷物用の狭いスペースにカバンを置いて、
その上にパンフレットを乗せ、
次いで、ズボンのポケットから財布を抜き出す。
千円札を券売機に挿し入れ、続けて硬貨を何枚か投入し、
液晶画面の《1220》のボタンに指を伸ばす。
ジャラジャラッ・・・と、お釣りが受け皿に返され、
その上に、
切符が1枚、ペッ・・・と排出される。
私は、
返された硬貨を財布にしまって、その財布をズボンのポケットに戻した。
そうして、
受け皿に残された切符を掴んで、スーツの胸ポケットに入れると、
さっき置いたパンフレットとカバンを持って、駅の奥へと目を向けた。
そのまま、改札口の方へ歩いていく。
ダムに着くのは、
多分、お昼過ぎくらいだろう。
分かる人は分かると思いますが、
この作品は実在の、立山黒部アルペンルートをモチーフにしています。
なので、風景や交通手段については、
多少の違いこそあれ、だいたいは現実に即したものとなってます。
ただし、各交通機関のスケジュールについては、
作品の都合上、全くのデタラメになってます。
実際に立山黒部アルペンルートを旅行する場合は、ご注意下さい。