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Summer Echo  作者: イワオウギ
V
280/292

280.そうして、その日からは

┌―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

│ そうして、その日からは、

│ 収録終わりに、

│ カメさん、色々なことをちょっとお話してくれるようになりました。

│ カメさん()のワンちゃんについての話を、

│ スマホにコピーしてきた たくさんの写真と一緒にあれこれ教えてくれたり、

│ あとは、

│ 好きな漫画や影響を受けた小説、ネットで話題になってるニュースとか、

│ 大学の研究室での、自分の研究に関しての話やメンバーさんたちの話、

│ そういったことを、

│ カメさん、色々忙しそうなのに、

│ 毎日、

│ ちょっとずつ、楽しそうに語ってくれました。

│ ワタシのことを心配し、

│ 少しでもワタシの気が紛れるよう、お話してくれているのが伝わってきました。

│ その気持ちがすごく嬉しくて、有り難くて、

│ だから、頑張らなきゃ・・・って思ったんですけど、

│ ただ、この2、3日前からでしたが、

│ ワタシの妊娠悪阻が、更に酷くなってきている状況でした。

│ 体がすごくだるくて、上体を起こすのだけでも ひと苦労で、

│ なので、その頃は、

│ 吐き気が来たときも、

│ ベッドに横になったまま、枕元に置いてある金属の容器に えずいてました。

│ 胃がお腹の中でいつまでもムカムカしていて、

│ それを延々と我慢し続けないといけないのが とにかくつらかったです。

│ 精神的に、

│ もう、かなり参ってしまっていた状態でして、

│ それで、

│ あの日の収録のとき、

│ 我慢の糸が、ぷっつりと切れてしまいました。

│ 『堕ろす』って言ってしまいました。

│ どうにか自分の気が落ち着いてきてから、

│ ワタシ、カメさんに謝りました。

│ 『ごめんなさい。

│  せっかくカメさん、毎日こうして病院に来てくださってたのに、

│  結局、ワタシ・・・。

│  ・・・。

│  ごめんなさい・・・』

│ 『・・・』

│ 『あの、

│  今日はもう、いいです。

│  少し、ひとりにしてください。

│  また、カメさんに八つ当たりしちゃうかもしれないし・・・』

│ ベッドの脇で、イスに(すわ)ってたカメさん、

│ スマホを手に持ったまま、黙っていましたが、

│ やがて、

│ そのスマホを指で少し操作し、ズボンのポケットにしまうと、

│ 『分かった。

│  じゃあ、帰る。』って言って、立ち上がりました。

│ そうして、

│ イスを元の場所に戻すと、

│ 出入り口のドアのところに行ってノブを掴み、

│ ちょっと間を置いたあと、急にこっちを振り向きました。

│ ワタシを見て言いました。

│ 『・・・明日は どうしよう。

│  僕、ここに来ても・・・』

│ 『あ、えっと・・・、

│  はい、明日は大丈夫だと思います。

│  お医者さんに言うのは、

│  多分、お父さんにも伝えてからですし・・・』

│ 『・・・分かった。

│  じゃあ、明日も来るから』

│ 『はい、分かりました。

│  今日も、ありがとうございました』

│ そして、

│ カメさんが帰って、病室にワタシひとりになったのですが、

│ その後、

│ やっぱり もうちょっとだけ頑張ってみよう・・・って、考え直しました。

│ 堕ろすのは、また保留に戻すことにしました。

│ 詳しくは、

│ 前回の近況報告投稿の、たなっぺさんへのワタシの返事をお読みください。

│ それで、

│ そう言えば、さっき皆さんへのお礼の言葉を忘れてたな・・・って思ってたら、

│ 夕方頃、

│ カメさん、再び病院に来てくれました。

│ ワタシが、

│ 『あ、

│  お礼の言葉の収録ですよね?』って訊くと、

│ カメさんが頷きました。

│ 『うん、

│  録り忘れてたから』

│ ワタシの容体があまり良くなかったこともあり、すぐに収録を始めました。

│ そして、その収録の中で、

│ ワタシは、

│ 堕ろすのをまた保留に戻したことを喋りました。

│ カメさん、驚いた表情をしました。

│ スマホ画面をタップし、録音アプリを止めたあと、

│ 顔を上げながら、ワタシに訊きました。

│ 『えと、

│  今、保留に戻した・・・って?』

│ ワタシは、

│ 『あ、

│  はい、そうです。

│  実はさっき・・・』って返し、

│ 保留に戻したワケを、カメさんに話しました。

│ 『・・・そっか。

│  分かった。

│  なら、

│  明日お母さんに言うのも、ひとまずは やめることにした・・・って、

│  そういうこと?』

│ 『はい』

│ 少し間があったあと、

│ 『・・・分かった』って、返ってきました。

│ 『あ、えと、

│  もし時間に余裕がないようでしたら、

│  ワタシのほうは大丈夫です。

│  カメさん、

│  全然関係ないのに、毎日毎日来てくれていて、

│  ワタシ、

│  悪いな、って思ってて・・・』

│ 『あぁ、えっと、

│  だから、それは別に気にしないでいいって。

│  じゃあ、

│  ウサギさん、なんか調子悪そうだし、

│  僕、そろそろ帰るよ』

│ 『あ、

│  はい、分かりました。

│  お忙しい中 来てくださいまして、ありがとうございました』

│ 『明日も、

│  来れるようならお昼に来るから』

│ 『はい、

│  ありがとうございます』

│ 続きます。

│ ※

│ カメです。

│ いつもたくさんのコメントをお寄せいただき、

│ 更には、

│ 温かい言葉や ためになるアドバイスで、いつもウサギさんを支えていただき、

│ ありがとうございます。

│ 本人の意思の強さや頑張りも勿論ですが、

│ 皆さんという存在があったからこそ、

│ ウサギさんは、ここまでやってこられたように思います。

│ 本当にありがとうございます。

│ これからも、

│ 皆さんの気が向いたときで結構ですので、

│ ときどき、お声をかけていただければ・・・と思います。

│ それで、

│ 今現在、ウサギさんによる少し前の回顧・・・というか、

│ 振り返り連載がこうして続いてまして、

│ 僕自身も一読者として、

│ 最初はそうだったなぁ・・・とか、

│ あのときのウサギさん、そんなことを思っていたのか・・・とか、

│ 毎回楽しく読ませていただいてるわけですが、

│ ただ、

│ ここで、

│ 僕のほうの胸中というか、

│ 僕が思っていたこと、考えていたことを、

│ 少し説明しておいたほうがいいような気がしましたので、

│ ウサギさんにちょっと話し、

│ 今回、この場を借りて書かせてもらうことにしました。

│ 補足みたいな感じで読んでいただければ幸いです。

│ あの日の夜、

│ 研究室の同期の兄ウサから、ウサギさんの話を聞かされ、

│ 紆余曲折を経て、病院でふたりで会うようになったわけですが、

│ 最初のうちは、

│ 僕は、

│ ウサギさんに対して、いわゆる特別な感情というのは持っていませんでした。

│ 仲良くなりたい、とか、

│ 付き合いたい、とか、

│ そういうのはありませんでした。

│ 惹かれるものが無かった、というわけではありません。

│ ウサギさんは妊婦で、

│ しかも、

│ 妊娠悪阻の療養のため、入院している身でした。

│ なので、

│ 僕の中では・・・ですけど、

│ そもそも、ウサギさんをそういう対象として見る発想がなく、

│ 更には、

│ ウサギさんは、産んだ子を特別養子縁組に出そうとしていました。

│ 勿論、

│ ウサギさんの事情を鑑みれば、それは仕方ないと思いました。

│ やむを得ないことだと思いました。

│ ただ、

│ 頭ではそう理解していても、

│ 感情的には、どうしても受け入れられませんでした。

│ 認めたくなくて、

│ 許すことができなくて、

│ それで、

│ 養子に出すことを考えているウサギさん自身も認めたくない・・・って、

│ なんか、

│ 言語化すると多分そんなふうな感情、わだかまりが、

│ 表には出さないようにしていましたけど、

│ でも、僕の心の中にありました。

│ なので、

│ 初めの頃は、

│ 付き合いたいとか、そういうのは無かったです。

│ ウサギさんのために、収録に来ることを申し出たのは、

│ これはもう、

│ 成り行きとその場の勢いによるところが大きかったです。

│ もともと、

│ ウサギさんに、入院中の投稿を勧めてみよう・・・とは考えていたんです。

│ 自分の入院中の様子を書いて投稿し、

│ そうして、

│ ここの皆さんと交流しながらの療養のほうが、

│ 多分、

│ ウサギさん、頑張れるんじゃないか・・・って。

│ 病院での2回目の対面で教えてもらった ウサギさんの一連の投稿を読み終わり、

│ そんなふうに感じた僕は、

│ 次の日・・・と言うか、正確には翌日なのですが、

│ 頼まれていた感想と一緒にそれも伝えようと、

│ 兄ウサとふたりで、

│ お昼に、ウサギさんの病室を訪れました。

│ で、

│ 伝えようと思っていたのですが、

│ ウサギさん、

│ スマホで文章を読むのは、ちょっと厳しそうでした。

│ サイトの人たちと交流しながら、ってのは、

│ なら、無理か・・・。

│ そう考えつつ、

│ 投稿についたコメントを、ウサギさんに代わって読み上げていたのですが、

│ そうしたら、

│ ウサギさんに、

│ “今からお礼の言葉を喋るから文字に起こしてほしい”と頼まれました。

│ で、その後、

│ ウサギさんの喋ったことを録音し、あとで僕が文字起こしして投稿するという話になり、

│ それで僕、ふと思ったんです、

│ だったら、

│ 僕が収録やサイトへの投稿、皆さんからのコメントの読み上げを代行したら、

│ ウサギさん、

│ サイトの人たちと交流できるじゃないか、って。

│ 交流をしつつ、病院で療養が続けられるじゃないか、って。

│ 勿論、

│ 多少 面倒そうに思えました。

│ けど、

│ じゃあ、言わずに帰るのか?、と考えると、

│ それも違うような気がしました。

│ で、

│ この数日前の面会室での対面のとき、

│ 僕、ウサギさんに無駄足を踏ませてしまっていました。

│ なので、

│ その罪滅ぼしも兼ね、ウサギさんに言うことにしたんです、

│ 自分の入院中の様子を投稿してみたら?、って。

│ 僕がここに収録に来るから、って。

│ わりと軽い気持ちでの言でした。

│ 妊娠悪阻については、僕も気になったのでネットで少し調べていて、

│ そしたら、

│ 《重い症状の場合、入院が必要になることもありますが、

│  ただ、その入院が2週間以上もの長期に渡るのは稀》とありました。

│ ウサギさんの入院期間は、

│ この時点で、既に1週間を過ぎていました。

│ なので、

│ 恐らくは、長くても あと1週間程度だろうと勝手に決めつけてまして、

│ それくらいの期間なら、まぁ、いいか・・・って、

│ あのときは、

│ ホント、そんな軽い気持ちで言いました。

│ 僕がウサギさんのお見舞いに毎日行っていた理由は、

│ 最初のほうだと、それもあります。

│ せいぜい5、6回程度なんだろうし、

│ だったら、

│ 行けるようなら毎日行こう、って。

│ ウサギさんの病室に毎日足を運ぶようになって、何日か経ったある日、

│ 午前中のことでしたが、

│ 研究室でレポートを書いていて、多少 行き詰まりを感じていました。

│ で、

│ 気分転換に外でも歩こうかと思い、時計に目をやると、

│ お昼ちょっと前でした。

│ なら、

│ 午前はもう切り上げることにして、

│ ウサギさんのところに行こう、と思いました。

│ 病院の受付で渡された面会証を首から提げ、

│ エレベーターで階を上がり、ウサギさんの病室の前まで行くと、

│ ドアの向こうで、ウサギさんが戻しているのが分かりました。

│ 大変そうだな・・・と思いつつ、ドアをノックし、

│ 直後、

│ あ!、っと気が付きました。

│ 『ごめん、またあとで来る』って慌てて返し、

│ ひとまず退散することにしました。

│ ラウンジで時間を潰したのち、

│ 改めてウサギさんの病室を訪れ、収録を開始しました。

│ それで、

│ 僕の言い方も やや配慮に欠けていまして、

│ で、

│ ちょっと言われてしまいました。

│ ビックリしました。

│ ウサギさん、

│ あまり感情のままに声を荒らげるような人ではないと思っていましたし、

│ 実際、そうなのですが、

│ ただ、このときは違っていました。

│ 別人みたいな感じでした。

│ 余裕が無いんだろうなと思いました。

│ 追い詰められているんだろうなと思いました。

│ それだけ、

│ 今、つらい思いをしているんだろうなと思いました。

│ 病室を出たあとの僕は、

│ なんとかしなければ・・・と、そういう気持ちでいっぱいでした。

│ ウサギさんに対する わだかまりは、

│ このときは、不思議とすっかり忘れてました。

│ 大学までの帰り道、自転車を走らせながら、

│ 頭の中では、

│ どうしたらいいか、考えてました。

│ バイトが終わり、アパートに帰ってからも、

│ ネットで、

│ 妊娠悪阻だった人の経験談や、他にも色々と調べつつ考えていて、

│ それで、

│ 結局、まずは無難に、

│ 何か面白そうな話をちょっとしてみよう・・・と思いました。

│ 次の日の昼、

│ 収録後に、

│ あの、ぬいぐるみとテリアの話をしました。

│ そしたら、

│ 会話の流れで、ウチの犬の話になりました。

│ ウサギさん、その日も容体がキツそうで、

│ なので、

│ あまり長居するのも悪いと思って、

│ 最初は、話すのはちょっとだけのつもりでした。

│ けど、

│ ウサギさんが僕の話を楽しそうに聞いてくれて、

│ 色々と積極的に尋ねてきて、

│ 僕がそれに答えると、色々な反応を返してくれて、

│ で、

│ 話してる僕のほうも気分が良くなってしまい、

│ つい、話し過ぎてしまいました。

│ 途中で時計を確認したら、結構時間が過ぎていて、

│ あっ、と思って、

│ それで、

│ 長話になってしまったことをウサギさんに詫びて、病室をあとにしました。

│ エレベーターのところに行って▽を押し、来るのを待っている間、

│ ウサギさんのことを考えていました。

│ ウサギさん、

│ 僕が気持ち良く話せるよう、気を遣ってくれてました。

│ 体がつらいはずなのに、

│ そういう素振(そぶ)りをほとんど見せませんでした。

│ いい人だな・・・と思いました。

│ 明日はどうしよう、と思いました。

│ 話すとウサギさんに気を遣わせてしまい、

│ (かえ)って良くないんじゃないか・・・と、少し迷いました。

│ 下りてきたエレベーターに乗り込んだあと、

│ さっきの、

│ 僕の話を聞いてるときの、ウサギさんの表情を思い浮かべました。

│ 明日も話そう、って思いました。

│ 翌日、

│ 収録のあと、

│ 前日と同じように、スマホでウチの犬の写真を見せつつ話をしていると、

│ 途中から、ウサギさんの相槌が返ってこなくなりました。

│ あれ? と思い、顔を上げると、

│ ウサギさん、

│ 自分の手にある僕のスマホに目を向けたまま、動きを止めていて、

│ そうして、

│ やがて、そのスマホを静かに僕に返すと、

│ ベッドテーブルの上にある容器に向かって、えずき始めました。

│ 収録も終わってることだし、

│ 僕はもう退散したほうが・・・とも思ったのですが、

│ なんとなく、帰りたくありませんでした。

│ えずいてるのが ひと息ついたタイミングで、

│ ウサギさんに、

│ 僕は帰ったほうがいいのか、尋ねてみました。

│ ウサギさん、

│ じぃっとしたまま、黙っていて、

│ けど、

│ 少しすると、

│ 再び、容器に向かって えずき出しました。

│ 絶対に帰ってほしいとか、そういうわけではなさそう・・・って感じた僕は、

│ イスから立ち上がりつつ、ウサギさんに言いました。

│ 『じゃあ、

│  僕、

│  部屋の片隅に行って、さっきの収録の文字起こしをしてるから』

│ えずいていたウサギさん、

│ 一旦小さく頷くと、

│ すぐに、また えずき始めました。

│ 僕は、

│ 『大丈夫そうになったら、声かけて』って言いました。

│ ウサギさん、

│ えずきながら、再び小さく頷きました。

│ 壁際に寄せてあるイスに坐り、

│ スマホで、気になるニュースや記事を読んでいると、

│ いつの間にか、

│ 耳に入ってくる音が、外で鳴いてるセミの声だけになっていました。

│ 顔を上げると、

│ ウサギさん、タオルで口元を拭いてました。

│ 僕は、

│ 『治まった?』って、ウサギさんに声をかけました。

│ 『はい、多分』って返ってきました。

│ 立ち上がった僕が、ウサギさんのほうへ戻っていくと、

│ ウサギさん、

│ 『すみません、

│  急に えずいちゃって・・・』って謝りました。

│ 『まぁ、仕方ないし』って返した僕は、

│ ベッドのそばに置いてあるイスに、再び腰掛けました。

│ 『時間は まだ大丈夫なんですか?』とか、

│ そういった、ちょっとした やり取りのあと、

│ ウサギさんから、

│ 『小説、結構読まれるんですか?』って訊かれ、

│ それで、

│ その後は、お互いのお気に入りの小説や漫画の話とかをしました。

│ 更に翌日のウサギさんは、

│ これまで以上に容体がキツそうで、

│ 見るからに元気のない表情をしていました。

│ 声にもあまり力が感じられず、

│ なので、

│ 少し心配しつつ、

│ 皆さんから頂いていたコメントの概要をウサギさんに伝えていたのですが、

│ ウサギさん、

│ その途中で、急に えずき出してしまいました。

│ しばらくして、

│ どうにかそれが落ち着きました。

│ 壁際のイスに移っていた僕は、

│ 再び、ウサギさんのそばのイスに戻りました。

│ コメント概要の残りを喋り、

│ それから、

│ ウサギさんの、入院状況の収録を始めました。

│ その収録の中で、

│ ウサギさん、

│ 心が折れかけてる・・・って、口にしました。

│ 少し泣いてました。

│ 収録が終わりました。

│ 労いや励ましの言葉をかけたほうが良いのか、

│ それとも、

│ 敢えて触れずに、

│ このまま、今日する予定の話を始めてしまったほうが良いのか、

│ 悩んでいると、

│ ウサギさんから、

│ 『・・・あの、

│  カメさんって、どんな研究をしてるんですか?』って訊かれました。

│ 『あぁ、えっと・・・』って返しつつ、慌てて気持ちを切り替えた僕は、

│ 自分の研究内容をざっと簡単に説明し、

│ その後、

│ 研究室の他のメンバーの話や、

│ 少し前に起きた、

│ 研究室内での ちょっとした事件(全然シリアスじゃないヤツです)の話などをしました。

│ ウサギさん、

│ 最初のほうは、

│ 僕の話を聞いて、なんとか相槌を打ってるだけ・・・といった感じでした。

│ かなりシンドそうでした。

│ なので、

│ 僕も、

│ そろそろ話を切り上げたほうがいいんじゃないか、ずっと迷いながら喋っていたのですが、

│ 少しすると、

│ ウサギさん、幾分 持ち直したみたいで、

│ 気になったことをちょっとずつ訊いてくるようになり、思ったこともポツポツ言ってくれて、

│ 最後のほうは、

│ いつもより控えめな感じでしたけど、笑ってくれるようになりました。

│ 無理してるのがなんとなく分かって、

│ つらいんだろうな、って思って、

│ 同時に、

│ それでも明るく振る舞おうとしてるウサギさんの人柄を、改めて感じました。

│ 次の日の午前中、

│ 僕は、研究室の自分のデスクで論文を読んでいました。

│ けど、

│ ノートPCの画面に表示されてる論文や資料を他所(よそ)に、

│ いつの間にか、

│ あぁそうか、昨日はこうやって説明したら良かったのか・・・とか、

│ 面倒だけど、やっぱりここは端折(はしょ)るべきじゃなかった・・・とか、

│ あれこれ考えていて・・・。

│ ハッと我に返った僕は、

│ 論文に集中しないと・・・って、再び読み始めたのですが、

│ でも、

│ また、いつの間にか、

│ こっちの説明のが良かったか・・・とか、思いを巡らせていて、

│ で、

│ どうも集中力が切れてしまってるような気がしたので、

│ 気分転換にお茶でも淹れてこようと、

│ ノートPCをパタンと閉じ、

│ カラのマグカップを持って、席を立ちました。

│ 仄かに湯気が立ってる緑茶を手に、再び席に戻ってきて、

│ その緑茶を啜りつつ、

│ 今日、病院で話すつもりの内容を、

│ 頭の中で軽くチェックしました。

│ 次いで、

│ 現在の時刻を見るために、充電中のスマホを手にしました。

│ まだ11時くらいでした。

│ ウサギさん、今も頑張って(こら)えてるんだろうな・・・って、

│ その様子を思い浮かべつつ、スマホを元の場所に戻しました。

│ そうして、

│ よし、あと1時間。それまで頑張ろう・・・って気合を入れ、

│ ノートPCを再び開き、

│ 論文の続きを読み始めたのですが、

│ ふと、

│ あれ?、と思いました。

│ なんとなく、

│ ウサギさんと会えるのを待ち遠しく思ってる自分がいる気がしました。

│ 少し考えてみました。

│ で、

│ やっぱりそうかもしれない、と思いました。

│ わだかまりの感情は、

│ 確かに、まだ自分の中にありました。

│ けれども、

│ もしかしたら、

│ 僕は、

│ ウサギさんのことを好きになり始めてるのかもしれない・・・って、

│ そのときに、そう思いました。

│ お昼になりました。

│ 研究棟から外に出ると、

│ 空を覆っている雲の色が多少怪しくて、

│ 降水確率をスマホで確認してみたところ、2、30%程度ありました。

│ なので、

│ 万が(いち)・・・と言うか、四が(いち)のことを考え、

│ 病院には、

│ 自転車ではなく、バスで向かうことにしました。

│ バスの車内では、

│ 座席に坐って、外の景色を眺めつつ、

│ 前日の、収録中のウサギさんの様子を思い浮かべていました。

│ ウサギさん、相当シンドそうでした。

│ “心が折れかけてる”とも言ってました。

│ なので、

│ 僕が支えてあげないと。できるだけ力になってあげないと・・・って、

│ 僕は自分自身に少し気合を入れて、

│ そうして、

│ いつものようにウサギさんの病室を訪れたのですが、

│ そしたら、その日の収録の中で、

│ ウサギさん、

│ 『もう無理です。』って口にし、

│ 続けて、

│ 『明日、

│  お母さんに、堕ろすことを伝えます』って言いました。

│ 僕、

│ え・・・と思いました。

│ 勿論、

│ ウサギさんが既にかなり限界に近かったことは把握していました。

│ けれども、

│ どこか僕の心の中で、

│ なんだかんだ言って、ウサギさん、耐えてしまうんじゃないか、

│ どうにか頑張って乗りきってしまうんじゃないか・・・と思っていて、

│ 限界が来るにしても、まだもうちょっと先のことのような、

│ 少なくとも4、5日は何事も起こらないような、

│ そういった、あまり緊張感のない心持ちでいました。

│ 昨日の今日でこうなるとは、まったく思ってもみませんでした。

│ ウサギさん、

│ 両手で顔を覆い、ベッドの上で泣いてました。

│ 脇のイスでその様子をただ呆然と眺めていた僕は、

│ 少しして、我に返りました。

│ 何をボケっとしてるんだ。

│ 支えてあげないと。力になってあげないと・・・って、

│ 何か声をかけようとしたのですが、

│ でも、結局、

│ 僕、何も言いませんでした。

│ 黙ってました。

│ 最初は、励まそうと思ったんです。

│ 何か言って励ましてあげて、元気付けてあげて、

│ 立ち直らせ、

│ そうして、

│ ウサギさんが、堕ろすのをまた保留に戻す気になれるように、

│ また頑張る気になれるように・・・って。

│ けど、ふと気付きました、

│ それって、

│ でも、ウサギさんにこれ以上の無理をさせるってことだよな・・・、

│ これ以上苦しい思いをさせるってことだよな・・・って。

│ そして、

│ そうまでして産んだとしても・・・と、その後のことを少し考えたら、

│ 励ますのは、なんか、違う気がして、

│ なので、

│ それは やめて、労いの言葉をかけることにしました。

│ 今までよく頑張ったと思う。仕方ない・・・って、

│ そんな感じのことを言おうとしました。

│ ただ、

│ この“仕方ない”って言葉は、

│ 要するに、

│ ウサギさんの堕ろすという選択を僕は暗に認め、支持する・・・って意味です。

│ なので、

│ 今この場で僕が“仕方ない”と口にしたら、

│ それは、

│ 堕ろすと言ったウサギさんの その背中を、僕がちょっと押すことになります。

│ 中絶を促すことになります。

│ なんとなく・・・ですが、

│ そのときは、

│ 僕、

│ それでウサギさんが自分の中絶を確定させてしまうような、そんな気がしました。

│ もう、考え直すことはなくなってしまうような気がしました。

│ ホントにいいのだろうか・・・。

│ 手術してしまったら、もう・・・と考え出した瞬間、

│ 不意に、

│ 僕の意識が、ウサギさんのお腹の中の存在に飛びました。

│ 目の前に現れたそれを、しっかり見てしまいました。

│ 僕、

│ それまでは、なるべく意識しないようにしていたんです。

│ 意識してしまうと考えてしまい、

│ そうして、

│ 気付きたくないことに自分が気付いてしまうような、

│ 分かりたくないことを分かってしまうような、そんな悪い予感があって、

│ だから、

│ 僕、なるべく意識しないようにしていたんです。

│ なるべく考えないよう、

│ ずっとその存在から目を背けていたんです。

│ けど、

│ そのときの僕は、はっきり意識してしまいました。

│ 見てしまいました。

│ 僕には関係ないはずの、その小さな存在は、

│ 僕と同じ道を歩く、同じ旅人のように思えました。

│ 同じ(かぜ)に吹かれ、

│ そして、同じ目をしているように思えました。

│ 僕は、

│ 少ししてから、息をひとつ吐きました。

│ “仕方ない”って、心の中で言おうとしました。

│ けど、

│ なんとなく後ろめたさを感じ、

│ “しかt”くらいで やめました。

│ そしたら、

│ 脳裏に、僕の産みの親たちがチラつきました。

│ 頭をすぐに振り、一旦は意識の外へと追い出したのですが、

│ でも、

│ いつの間にか、また考えてしまっていました。

│ 僕を産んだ親たちと、中絶を促すことを考えている自分とを比べてしまい、

│ 言いようのない引け目を覚えました。

│ 気にしないよう、考えないようにしても、

│ ウサギさんを労おうと思うたびに、それが僕の心に浮き上がってきました。

│ やがて、

│ ウサギさんの様子がちょっと治まってきて、

│ そうして、

│ ウサギさん、僕に言いました、

│ 少し、ひとりにしてほしい・・・って。

│ 言うならこのタイミングだと思ったのですが、

│ でも、ダメでした。

│ どうしても言う気になれませんでした。

│ で、

│ そのうち、ふと気付いたんです。

│ あぁ、そうか、

│ 別に無理して今言う必要ないじゃないか。

│ 明日でいいじゃないか。

│ 明日なら、

│ ウサギさん、お母さんに伝えたあとだろうし、

│ そしたら、

│ もう、仕方ないわけだし・・・。

│ そう考えた僕は、

│ 少ししてから、自分自身を納得させるよう小さく頷きました。

│ 次いで、

│ 持っているスマホに視線を向けると、四角マークを押して録音を止め、

│ スマホをポケットにしまいました。

│ ベッドの上で目元にタオルを当てているウサギさんを見つつ、

│ 『分かった。

│  じゃあ、帰る』と告げ、立ち上がりました。

│ イスを元の場所に戻した僕は、

│ 病室のドアのところへ行き、ノブを掴みました。

│ やっぱり今言おうか・・・と、ちょっと迷っていて、

│ そのとき、

│ あっ、と思いました。

│ 明日ウサギさんがお母さんに伝えたら手術の準備が始まってしまい、

│ 会えなくなるのでは?、と思いました。

│ 振り返りざまに、

│ 僕、

│ ウサギさんに、

│ 明日もここに来ていいかどうかを確認しました。

│ そしたら、

│ たぶん大丈夫、って返ってきて、

│ それで僕、

│ 分かった。明日も来る、って言って、

│ 病室を出ました。

│ エレベーターの到着を待ってるとき、

│ そうか、

│ ウサギさん、あと少しで退院か・・・と思いました。

│ 帰りのバスでは、

│ 行きとは違い、車内の通路に立ってました。

│ すぐそばのオレンジ色の支柱を掴み、

│ 窓の向こうを流れる、昼の街並みに目を向けてました。

│ やっぱり言うべきだったんじゃないか・・・と、

│ そのことを、まだ自分の中で引きずっていました。

│ ただ、

│ とは言え、

│ どことなく自分に似てる その存在を前に、“仕方ない”と口にすることに、

│ やはり、なんとなくの後ろめたさを覚えました。

│ そして、同時に、

│ 産みの親に対する引け目も感じました。

│ もちろん、

│ 言ってあげたい、言わなければならない・・・という気持ちはありました。

│ けど、その一方で、

│ 言ってはならないような、あまり口にしたくないような、

│ そういう後ろ向きな気持ちも、確かにありました。

│ 折り合いをどう付けたらいいのか、分かりませんでした。

│ 僕は、

│ 病室での、さっきのウサギさんの泣いてる様子を思い浮かべました。

│ ウサギさんの、

│ 悔しくて、悲しくて、

│ そして、つらそうな感情が伝わってきました。

│ 胸が苦しくなりました。

│ ウサギさん、産んであげたかったろうな。

│ 堕ろしたくなかったろうな。

│ 今までこんなに苦しい思いをし、こんなに頑張ってきて、

│ なのに、こんなことになってしまって・・・。

│ 今日だって、

│ あんなの、本当は絶対に言いたくなかっただろうし、

│ 明日なんて、

│ ウサギさん、お母さんに・・・と思ったところで、引っかかるものがありました。

│ 次の瞬間、

│ 僕は、ハッとしました。

│ そうだ、

│ ウサギさんだって言いたくなかったに決まってるじゃないか、

│ しかも、僕なんかよりも遥かにずっと。

│ これ以上ないくらいに近しい存在で、

│ 毎日想い、気遣っていて、

│ 大切にしていて、

│ 産まれてくることを、本当に心の底から望んでいて・・・。

│ 諦めてしまうことに関して、やめてしまうことに関して、

│ ウサギさんは、

│ たぶん僕の感じている この後ろめたさの、

│ 何百倍、何千倍もの後ろめたさを感じていたんだ。

│ なのに、

│ 自分でそれを選択せざるを得なかったなんて、

│ そう決断せざるを得なかったなんて、

│ いったいどれくらい悔しくて、どれくらい つらかったことだろう。

│ どれくらい悲しかったことだろう。

│ 僕のものなんて、

│ それに比べれば、全然大したことないじゃないか。

│ 改めて、

│ 先程のウサギさんの、病室での様子を思い出していた僕は、

│ 顔を少し俯かせました。

│ 言うべきだった・・・と思いました。

│ 言ってあげて、

│ ウサギさんの感じているであろう つらさや後ろめたさの、ほんの一部分でもいいから、

│ 僕が負ってあげるべきだった、肩代わりしてあげるべきだった、

│ そして、少しでもウサギさんを楽にしてあげるべきだった・・・と、

│ そう思いました。

│ ひと息ついたあと、

│ そのまま頭の中で、次の日にウサギさんにかける予定の言葉を思い浮かべると、

│ また、

│ あの、言いようのない引け目を感じました。

│ でも、

│ 少しして、心の中で“仕方ない”と唱えると、

│ 俯けていた顔を起こしました。

│ 窓の外の、流れ続けている街の景色を見ると、

│ ちょっと明るくなってるような、そんな気がしました。

│ 夕方近くになると、曇っていた空が幾分晴れてきました。

│ まだ明るい西日が、研究室の中へと斜めに差し込むようになりました。

│ 自分の席で伸びをしていた僕は、

│ 上げていた両手を下ろすと、立ち上がり、

│ 窓の前へ行きました。

│ 上から吊り下がってる棒の先端の、ミノムシみたいな部分を横にキュッキュッと捻り、

│ 揃って水平だったブラインドをカシャッと一斉に傾け、遮光状態にすると、

│ そのまま2つめ、3つめのブラインドも遮光にしました。

│ 最後の4つめでは、

│ ブラインド板の1枚を指でちょっと押し下げ、

│ 大きく広げた隙間に顔を近付け、真上付近の空模様を確かめたあと、

│ 押さえていた指を離して、

│ 脇でぶらんとしているミノムシ付き操作棒に目を向け、小さく捻って、

│ 最後のブラインドをカシャッと閉じました。

│ デスクに戻った僕は、

│ 立ったまま、ノートPCのタッチパッドを指で操作し、

│ シャットダウンを選択し、

│ 画面が暗くなるのを待ってから、パタンと閉じました。

│ 論文の閲読(えつどく)もちょうどひと区切りついたタイミングだったし、

│ いつもよりちょっと早めだったのですが、その日はもう帰ることにしました。

│ 帰り支度を済ませた僕は、

│ イスの上に置いた、口の開いた自分のリュックのファスナーを閉めると、

│ そのリュックを持ち上げ、背負って、

│ 最後に、

│ 自分のイスを、手でデスクに深く押し込みました。

│ 『じゃあ、お先に失礼しまーす』

│ 『おー、お疲れー』『お疲れさまでーす』『かれー』『明日は来るなよー。お盆休みだからなー』

│ セミたちの賑やかな合唱の中、

│ 自転車を漕いでアパートに帰ってきました。

│ 部屋に上がると、

│ 郵便受けに入っていたチラシを確認しつつ、奥へと進み、

│ 途中にある調理場のゴミ箱にドサッと捨てました。

│ それから、

│ 更に部屋の奥の、机のところへ行き、

│ 背負っていたリュックを、キャスター付きのイスの座面へ下ろしました。

│ そして、

│ 部屋干ししておいた洗濯物の脇を抜けて、窓の前へ行き、

│ ガラガラガラ・・・と、その窓を開け、

│ すぐに流しのところへ引き返し、コップに水を()ぎ、

│ 窓辺で気持ち良さげに太陽の光を浴びてる盆栽に、少し水を・・・って、

│ まぁ、そんな感じで色々済ませた僕は、

│ 机の上のノートPCに向かい、SNSやニュースをひと通りチェックしたあと、

│ スマホを手に取り、

│ お昼に収録してきたウサギさんの音声ファイルを、ノートPCに送りました。

│ 次いで、

│ ペンスタンドの手前に転がってるイヤホンに目を向け、そちらに手を伸ばしかけたのですが、

│ その瞬間、

│ 病室での、あのときのウサギさんの姿が目に浮かびました。

│ なんとなく、声を聞く気になれなくて、

│ それで、

│ 伸ばしかけていた手をノートPCのところに戻すと、

│ タッチパッドを指で操作し、

│ 閲読途中だった さっきの論文を呼び出しました。

│ 続きを読み始めました。

│ ただ、

│ 気も(そぞ)ろと言うか、いまいち論文に集中できませんでした。

│ なので、

│ ちょっとして、ノートPCのディスプレイを手でパタンと倒すと、

│ 坐っていたイスから立ち上がりました。

│ 隣で風を送ってくれてる扇風機をベッドのほうへ向け直し、

│ そのベッドに寝転がりました。

│ 外のセミの合唱が網戸を少しも気にせず入ってきて、

│ そのままの賑やかな音声が、部屋の隅々にまで鳴り渡っていました。

│ ベッドの上の僕は、

│ 扇風機の心地よい風を浴びつつ、

│ ぼんやり、ウサギさんのことを考えていました。

│ そうか、退院しちゃうのか・・・と思いました。

│ 正直、

│ 病院でのこのやり取りを、まだ終わらせたくなかった自分がいました。

│ もっと続けていたかった自分がいました。

│ ただ、

│ 少しして気持ちを切り替えると、

│ 次いで、

│ 明日の収録のこととか、

│ 退院後、ウサギさんと付き合うことになったら・・・とか、

│ そういったことに思いを巡らせ始めました。

│ で、

│ やがて気付きました、

│ 付き合い始めたとしても、

│ ウサギさんの進む大学によっては、来年の春から遠距離になってしまうことに。

│ それで、

│ まぁ、ちょっと色々考えてまして、

│ そのうち、

│ ふと気になったんです、

│ 仮に、ウサギさんが堕ろさずに無事に出産できたとして、

│ そしたらどうなっていただろう、

│ 状況が少しは良くなっていたりしたのだろうか・・・って。

│ で、考えてみたんですけど、

│ 結論としては、

│ 恐らくは、どっちにしろそんなには変わらないな・・・と。

│ 確かに、

│ 出産後の、来年の春以降も、

│ 休日には会えそう(来春に僕は転居予定なのですが、そこまで遠方でないので)だし、

│ もしかしたら一緒に暮らせたりするかもしれないけれども、

│ でも、1年経てば、

│ 結局、

│ ウサギさんの進学先によっては、遠距離での付き合いになってしまうんだよなぁ・・・と。

│ それに、

│ まず、そもそもの話ですが、

│ 産んだ子に対し、特別養子縁組の制度を利用することについては、

│ やはり、

│ 僕の中に、モヤモヤとした思いがありました。

│ どうしても納得できないと言うか、納得したくないと言うか、

│ 認めたくないと言うか、

│ そういう、如何(いかん)ともしがたい(かたく)なな感情がありました。

│ でも、かと言って、

│ ウサギさんひとりで育てるのは・・・と考えたときでした。

│ 違和感を覚えたんです。

│ ん?、と思い、

│ 次の瞬間、ハッとしました。

│ そうか、

│ 付き合っていれば、ウサギさんひとりじゃないんだ。

│ 僕がいるじゃないか。

│ 僕とウサギさんのふたりで育てればいい。

│ そしたら、産んでも養子に出さなくていい。

│ 何もかもが解決。

│ オールオッケーじゃないか。

│ なんだ、

│ こんな単純な答えがあったんじゃないか・・・と、一瞬嬉しく思ったのですが、

│ でも、

│ 正直、あまり気乗りはしませんでした。

│ 血の繋がりがないのに、

│ 僕は、その子をちゃんと愛せるのだろうか・・・と思いました。

│ これはあくまで一般論としての話ですけど、

│ 産まれてくる子というのは、

│ みんながみんな健康で、育てるのに楽な性格をしているわけでないと思います。

│ 何らかの病気や症状を抱えていて、世話をするのがちょっと大変だったり、

│ あるいは、

│ 気難しい性格であまり懐いてくれず、なかなかこちらの言うことを聞いてくれない・・・、

│ そういったことも、

│ 可能性としては、普通にあると思います。

│ それでも僕は、

│ 血の繋がりのないその子を、自分の子としてちゃんと愛せるのだろうか、

│ 愛情を持てるのだろうか、

│ その子のために、一生懸命に頑張れるのだろうか、

│ 責任持って育てられるのだろうか、

│ あとになって後悔したりしないだろうか・・・、

│ そういった一連の不安が頭を(よぎ)りましたし、

│ それに、

│ もうひとつ、別の不安もありました。

│ 多分、その子がある程度大きくなるまでは・・・ですけど、

│ 僕は、

│ 自分の本当のことを明かさぬまま、その子を育てることになります。

│ 本当は違うのに血の繋がってる親の顔をし、

│ 長い間、一緒に暮らすことになります。

│ できるのだろうか、と思いました。

│ その子が屈託のない顔で笑いながら向けてくれるその小さな目を、

│ 僕のことを一片も疑っていない、純粋でまっすぐな目を、

│ 僕は、ちゃんと正面からしっかり見ることができるのだろうか。

│ しっかりと見た上で、

│ その子に対し、

│ 親として、心からの笑顔や愛情の込もった言葉を返してやることができるのだろうか、

│ 自分のことをずっと隠したままで、明かさぬままで。

│ そうして、

│ その子が成長し、時期が来たら、

│ 僕は、自分の本当のことをその子に告げねばなりません。

│ 僕の真実を教えなければなりません。

│ そのときにその子が受けるであろうショックのことを考えたら、

│ そして、

│ その子がどういうふうに思うか、

│ どういう顔をし、どういう目をして僕を見るか、

│ 何を言われるか、

│ そういったことを考えると、

│ とてもじゃないけど僕にはできない、やりたくない・・・、

│ 正直、そう思いました。

│ 不意に、

│ 両親から告げられたあの日のことを思い出しそうになった僕は、

│ 慌てて目を固く(つむ)って、頭を何度も振りました。

│ 次いで、頭の横を手の土手で強く小突き続け、

│ その記憶をなんとか追い出すと、深呼吸を何回か繰り返し、

│ 自分が落ち着いたのが分かったのち、

│ 目を開け、息をひとつ吐きました。

│ 部屋の天井をそのまま見上げ、

│ 少しの間、

│ ただ、扇風機の風に吹かれてました。

│ ふと思いました、

│ でも、

│ 僕がやらなくても、きっと誰かがやることになるんだろうな・・・って。

│ 誰かがその役目を負うことになるんだろうな・・・って。

│ ぼーっと思いを巡らせていた僕は、

│ やがて、

│ また、小さく頭を振りました。

│ そのことはもういいじゃないか。

│ ウサギさんは、もう堕ろすって言ったんだ。

│ そう決まったんだ。

│ 考えたってしょうがない。意味が無い。

│ ベッドに仰向けだった僕は、

│ 両足を高く上げると、それを振り下ろす反動で上体を起こしました。

│ 横を向いて、床に足を下ろし、

│ 立ち上がると、

│ 冷やしてあるペットボトルの水を飲みに、冷蔵庫のところへ行きました。

│ そして、

│ 小腹も()いていたので、

│ 喉を潤したついでに手早く一品を作り(十中八九、モヤシ炒め)、皿に取り、

│ その皿と箸を手に、机のところにまた戻りました。

│ 皿を机の端近くに置くと、その上に箸を載せ、

│ それから、

│ 視線をイスの脇へと向けました。

│ 無人のベッドにひたすら風を送り続けていた扇風機を、再びこっちに向け直し、

│ イスに坐ると、

│ 手前のノートPCを脇へ()け、

│ 代わりに、さっき置いた皿を引き寄せ、

│ 箸を手に取り、

│ 作りたての一品をちょびちょび食べ始めました。

│ ときどき自分の口に箸を運びながら、

│ 頭の中では、

│ 引き続き、ウサギさんのことを考えていました。

│ “付き合えたとしても遠距離になるかも”と先ほど書きましたが、

│ ただ、逆に、

│ ウサギさんの行く大学が近場なら遠距離にはならず、普通に付き合えるわけで、

│ そうなったときのことを、ちょっと想像していました。

│ で、

│ 付き合いが順調に進めば・・・の話ですが、

│ どこかのタイミングで同棲し、結婚式を挙げ、家族になって・・・と考えたところで、

│ あれ?、ってなったんです、

│ 結婚式を挙げたら家族になるんだっけ・・・って。

│ なんか違う気がして、

│ それで すぐに、

│ あぁ、そっか・・・ってなりました。

│ 婚姻届を役所に提出したあとだ。そのときに家族になるんだ、って思いました。

│ で、

│ そんな感じで一旦は得心がいったわけですが、

│ けど、すぐに、

│ また、

│ あれ?、ってなったんです、

│ それって ちょっとおかしくない?、って。

│ 例えば、

│ 大海原(おおうなばら)を航行中の船が難破し、

│ 乗っていた男女がふたり、ある無人島に運良く流れ着いたとしましょう。

│ ふたりはそのとき初めて知り合った、他人も同然の間柄でしたが、

│ 島に流れ着いてからは協力し合い、なんとか生き延び、

│ そうして1年が過ぎ、

│ 女のほうが妊娠し、子をひとり産んだとします。

│ そのまま、その島で3人仲良く暮らしているとします。

│ 無論、

│ 婚姻届を役所に出していないでしょう。

│ けれど、

│ この3人は、どう考えても家族です。

│ 何故だろう。

│ 子供が産まれたから?

│ もしそうなら、

│ じゃあ、婚姻届を出せば家族になれるのはどうしてだろう。

│ 子がいなかったとしても、どうしてそれで家族になれるのだろう。

│ そういうルールだから・・・ということだろうか。

│ なら、

│ そういうルールがまだ存在しなかったであろう大昔はどうだろう。

│ 例えば、数万年前は?

│ その頃は子供が産まれないと家族になれなかった・・・けど、

│ 今だと、子供が産まれていなくても婚姻届を出せば家族になれる?

│ じゃあ、

│ 家族って、今と昔でちょっと違ってるわけ?

│ なんか、おかしくないか?

│ と言うか、

│ そもそも家族って何?

│ どういう状態を指すのだろう・・・。

│ と、

│ まぁ、そんな感じで、

│ 僕は、

│ 持っていた箸を皿に置くと、机に頬杖をつき、

│ 家族とは何か、

│ 自分なりに、ちょっと真剣に考えてみることにしたんです。

│ まずは、

│ 家族って、人間以外にも存在するよな・・・って思いました。

│ 犬や猫、馬といった動物にも存在します。

│ ハチやアリも、

│ やや異質ではあるけれど、女王を中心とした家族を有すると感じました。

│ ただ、

│ チョウやヘビには、家族は存在しないように思えました。

│ 亀(僕のことではなく、生き物の種類としての亀)もです。

│ 魚も微妙・・・と思ったのですが、

│ ふと、クマノミのことが頭を(よぎ)りました。

│ クマノミは群れをつくる魚でして、

│ 少々特殊な生態により、夫婦は群れごとに1組みしか存在しません。

│ で、

│ 夫婦のオスは、

│ 卵が孵化(ふか)するまでの世話(新鮮な海水をヒレで送ってあげたりする)を、他のオスとともに頑張り、

│ 夫婦のメス(群れで体が一番大きい)は、外敵を近寄らせないよう辺りの警戒役を担う・・・という、

│ そういった協同作業で子孫を増やす魚です。

│ 夫婦だけがそうなのか、あるいは群れ全体がそうなのかは判断がつきませんでしたが、

│ ただ、

│ いずれにせよ、クマノミには家族が存在するように感じました。

│ ここまでの生き物たちの例からすると、

│ どうやら僕は、

│ その生き物が家族を有するか否かを、

│ 夫婦、子供たちが一緒に生活する習性があるかないか・・・で判断している気がしました。

│ チョウやヘビ、亀の場合、

│ 交尾のあと、オスとメスはすぐに別れてしまう印象があります。

│ 更には、

│ 産んだ卵や、(かえ)った子の世話をする親も、

│ まぁ、もしかしたら種類によっては存在するのかもしれませんが、

│ ただ、

│ 少なくとも僕は、

│ これらの生き物の親が、自分たちの卵や子の世話をする印象は持っていませんでした。

│ なので、

│ チョウやヘビ、亀には家族が無いと感じるのだろう・・・と結論付けようとしたのですが、

│ ただ、このとき、

│ ふと、

│ 砂浜に産み付けられたウミガメの卵の、孵化のあとの光景が目に浮かびました。

│ 砂浜の一箇所から子亀が次々と顔を出し、

│ みんなで一斉に海へとジタバタ向かっていく、あの光景です。

│ 兄姉(きょうだい)のように思えました。

│ 兄姉であるなら、じゃあ、それは家族なのでは?

│ 亀でありつつも、ウミガメには家族が存在するのでは?・・・と、

│ 一旦はそう思ったのですが、

│ 少し考えてみた結果、

│ やっぱり、家族ではないように感じられました。

│ 孵化した子亀たちが、

│ 海に入ったあと、あるいは孵化の直後からかもしれませんが、

│ すぐさま散り()りになってしまうことが、僕にそう感じさせる理由の気がしました。

│ 兄姉らしさを感じる一方、家族らしさは感じない・・・というのは、

│ 個人的には、少し不思議に思いました。

│ まぁ、とにかく、

│ ここまで挙げた生き物について、

│ その生き物が家族を有するか否か・・・は、

│ 夫婦または親子、兄姉で、

│ 一緒に生活する習性があるかどうかだと思いました。

│ 続いて、ハトについて考えました。

│ ハトは、

│ ツガイのオスとメスが、

│ 人間と同様、

│ 自分たちの居住地(巣)で力を合わせ、子育てをします。

│ 間違いなく家族だ、と思いました。

│ では、

│ ただの2匹だった関係は、どの時点から夫婦(家族)になるのだろう・・・と考えると、

│ 卵からヒナが孵るよりも前、メスが卵を産むよりも更に前の、

│ 交尾をしたときからの気がしました。

│ 将来の自分たちの子のため、

│ 交尾のあと、2匹でせっせと巣作りに励む様を思うと、

│ 恋仲の関係というより、

│ その2匹はもう夫婦の関係で、もう家族になった・・・と考えたほうが、

│ 個人的にはしっくり来ました。

│ そうして、

│ その後の産卵、夫婦交代での抱卵、孵化したヒナたちの世話・・・と、

│ 彼らの子育ての奮闘ぶりを順に想像していったときでした。

│ 不意に思い付いたんです、

│ “交尾のあと”という条件は無くてもいいのでは?、と。

│ ただ単に、

│ 一緒に暮らしているのが家族、で問題無いのでは?、と。

│ そしたら、

│ 家族であるかないかの判断を単純化できます。

│ 夫婦の場合は・・・とか、

│ 親子、兄姉の場合は・・・とか、そういった場合分けは不要になり、

│ シンプルに、

│ 一緒に暮らしていれば家族、そうでなければ家族でない・・・とすることができます。

│ なかなか良い思い付きのように感じたのですが、

│ でも、

│ そんなわけないか・・・と、すぐに思い直しました。

│ もし一緒に暮らしているだけで家族なら、

│ 例えば、

│ 兄弟でない2匹のオスの、若いタヌキでも、

│ 同じ(ねぐら)で暮らしていれば、その2匹は家族である・・・ということになります。

│ 流石にあり得ない、と思いました。

│ この2匹は、ただ一緒に()んでいるだけの仲間です。

│ 家族ではないでしょう。

│ 人間の場合だってそうです。

│ 仮に、

│ 駆け出しの役者やカメラマン、メジャーデビューを目指す路上ミュージシャン、

│ 小説家志望のアルバイト、修行中の板前・・・の計5人が、

│ アパートの1室を共同で借り、みんなでルームシェアして暮らしているとします。

│ 一緒に暮らしているだけで家族なら、

│ この、ルームシェアの5人だって家族です。

│ おかしいでしょう。

│ そんなわけがないです。

│ 10年暮らしたって、

│ 20年暮らしたって、その関係はいつまでも・・・と、

│ 20年間ルームシェアで仲良く暮らしている彼らの様子を頭に浮かべたときに、

│ ・・・あれ?、ってなったんです。

│ なんか、その5人がもう家族の間柄になってしまったような、

│ 一瞬、そんな気がしたんです。

│ 僕、思わず苦笑いしました。

│ いやいや、あり得ないから。

│ だって、

│ たまたま集まって、たまたま一緒に暮らしてるだけの5人じゃないか。

│ それが何で家族になるんだ。

│ あり得ない。

│ 流石にあり得ない。

│ 彼らは仲間か、

│ あるいは、仲の良い友達同士の関係で・・・と、

│ その、間違ってると(おぼ)しき自分の認識を正そうとしたのですが、

│ でも、

│ 部屋で悪態をつきながら笑い合ってる、長年一緒に住んでる彼らの様子を目に浮かべると、

│ それが仲間や友達同士であるとは、

│ 僕は、どうしても思うことができませんでした。

│ 違和感がありました。

│ 寧ろ、

│ 家族であるような、そんなふうに感じられました。

│ え・・・と思いました。

│ だって、

│ タヌキのときは・・・と、

│ さっきの、同じ塒に棲む2匹のタヌキのことを再び考えてみたのですが、

│ こっちも、

│ 長年(野生のタヌキの寿命を5年として、例えば3年くらい)一緒に暮らしている2匹を想像すると、

│ やっぱり、

│ 僕には、その2匹はもう家族になってるような、

│ そういうふうに感じられました。

│ 兄弟みたいな存在、兄弟みたいな家族に思えました。

│ ・・・は?

│ じゃ、本当にそうなの?

│ 長年一緒に暮らしていれば家族、ってこと?

│ なら、

│ 長年って、何年くらいだ?

│ 3年か? 5年か?

│ 待て待て、

│ だったら、人間の恋人同士はどうなるんだ。

│ 同居して1年も経たないうちに家族になる場合もあれば、

│ 10年が過ぎてもならないこともある。

│ だいたい、

│ ハトとか他の動物なんかは、

│ 交尾して一緒に暮らすようになれば、それでもう家族に・・・、

│ いや、

│ そもそも、一緒に暮らしていなくても家族のケースだってあるじゃないか。

│ 例えば、

│ 人間の場合だけれど、

│ 仕事で父親だけ海外に長期出張してる一家については、その父親は間違いなく一家の家族だし、

│ 育てていた子が成長し、家を出て、親たちとは一緒に暮らさないようになっても、

│ その暮らさなくなった子と親の関係は、家族のまま保たれているはず。

│ 人間だけがそうなのかもしれな・・・いやいや、

│ 動物だって、一緒に暮らさなくなっても家族のケースがある。

│ 南極のコウテイペンギンがそうじゃないか。

│ コウテイペンギンは、

│ 秋の季節に、

│ 波打ち際から50km以上奥に行ったところの、氷上の自分たちの繁殖地に向かって、

│ まずはオスたちが、少し遅れてメスたちが1ヶ月近くかけて歩いていく。

│ メスたちが繁殖地に到着し、オスたちとの合流を果たすと、

│ それぞれでツガイをつくり、交尾をし、

│ メスが卵をひとつ産んで、その卵をオスに託す。

│ で、

│ メスたちは体力回復のため、そして将来孵るヒナの食料を自分の胃に蓄えるため、

│ 海へと、また50km以上の道のりをペタペタと帰っていき、

│ 残されたオスたちは、

│ みんなで集まり、体を寄せ合い、

│ −60℃にも達する極寒に

│ 一日中太陽の出ない極夜(きょくや)の中、卵を自分の足の上でひたすら暖め続ける。

│ 2ヶ月くらい経つと、

│ 海に行ってたメスが繁殖地に帰ってきて、

│ 自分の卵をオスから受け取るか、

│ あるいは、もう孵っていればヒナの世話を交代するのだけれど、

│ この、

│ オスとメスが離れ、一緒には暮らしていない2ヶ月の間も、

│ そのオスとメスは、間違いなく家族じゃないか。

│ 一緒に暮らすことは必須条件でない、ということ?

│ ・・・なら、

│ 家族って、

│ 協力し合って子育てを・・・いや、

│ ルームシェアの5人を考慮すれば、子育てに限定するのはおかしいか。

│ だったら、

│ 単に、協力し合う関係?

│ それが条件か?

│ でも、

│ それだと、ただの仕事仲間だってそうなってしまう。

│ 家族になってしまう。

│ なんか、違う気がする。

│ じゃあ、

│ どういう関係が家族なんだ。

│ どうなったら家族なんだ。

│ 机に頬杖をつき、考えに(ふけ)っていた僕は、

│ やがて、

│ 頬杖をやめ、坐っているイスから立ち上がりました。

│ 隣の扇風機を再びベッドのほうへと向け直すと、

│ 自分もそのベッドのところへ行き、ゴロンと仰向けになりました。

│ 両手を頭の後ろで組んで、枕代わりにし、

│ 部屋の天井を見上げ、

│ そうして、

│ 家族についての思案を再開させました。

│ しばらくして、

│ どういった関係が家族か、僕なりに結論を出せました。

│ まずは、

│ 人間以外、動物においての家族・・・ですが、

│ その説明に入る前に、

│ 条件をひとつ、つけさせてください。

│ 同じ種類同士の動物の組み合わせに限定する、というものです。

│ つまり、

│ はぐれた子キツネとそれを世話する親イノシシ・・・とか、

│ ヤドカリとその殻にくっつけられたイソギンチャク・・・とか、

│ そういった異なる種族の組み合わせは考慮しない、ということです。

│ 異なる種族の組み合わせを含めた上で考えると、

│ 僕の出した結論においては・・・ですが、

│ その説明が色々繁雑になり、かなり長くなってしまいます。

│ 要するに、分かりにくくなってしまいます。

│ なので、

│ 異なる種族の場合については、省かせてください。

│ 同じ種類の動物同士に限定させてください。

│ あと、

│ すみません、

│ 更に、補足もひとつ加えさせてください。

│ それは、

│ これから述べる、その動物たちが家族かどうか・・・の話は、

│ “人間の目から見て”その動物たちが家族かどうか・・・の話であるということです。

│ つまり、

│ その動物自身が、自分たちは家族であると感じているかどうかは関係ない・・・ということです。

│ 基本的には確かめようがないからです、

│ 『あなた方は家族ですか?』って訊いたって、答えてくれませんから。

│ それで、

│ 人間の目・・・と言うか、僕の目から見て、

│ その、同じ種類の動物同士が家族かどうか・・・を判断する基準ですが、

│ 一緒にいるのが自然な関係かどうか・・・のように思いました。

│ なので、

│ 家族になる条件は、

│ その動物同士が一緒にいるのが自然な関係になったとき、になります。

│ 群れをつくる動物だったら、

│ “自然な関係”を“より自然な関係”に置き換えます。

│ まず、チョウやヘビで考えます。

│ チョウやヘビは、

│ 基本的には群れをつくらず、それぞれ単独で生きているように思います。

│ ツガイで一緒に暮らしていたり、

│ 親が自分たちの卵や子の世話をしたりといった、そういうイメージもありません。

│ つまり、

│ 一緒にいるのが自然な関係をつくらないのですから、

│ それで、

│ 家族が無い、と感じるのだろうと思いました。

│ 無論、

│ チョウやヘビでも、交尾のときは一緒にいるのが自然でしょう。

│ ただ、

│ 例えばチョウの場合で考えますが、

│ 交尾の瞬間に突風が吹き、2匹が離れ(ばな)れになってしまったらどうでしょうか。

│ 一緒にいるのが自然な関係になっているのなら、

│ その2匹はお互いを探し合い、再び一緒になろうとするはずです。

│ けど、

│ そうはならないんじゃないでしょうか。

│ お互い、さっき離れた相手を探したりはしない気がしますし、

│ 仮に再び一緒になったとしても、

│ それは、

│ たまたま近くにいたから、が理由ではないでしょうか。

│ なので、

│ その2匹は一緒にいるのが自然な関係にはなっていない、

│ 家族になっていない・・・というのが僕の判定です。

│ ヘビも同様です。

│ 次に、

│ ウミガメの、孵化したばかりの子たちが海を目指してる光景です。

│ 無論、

│ 同じ産卵場所で孵化した子亀たちは、それぞれが血の繋がった兄姉同士に違いありません。

│ ただ、

│ お互い、一緒にいるのが自然な関係ではないと感じます。

│ 一緒にいようとしないからです。

│ なので、

│ 兄姉ではあるが家族ではない、ということになります。

│ ハトについては、

│ 一般的に、群れで生活しているように思います。

│ つまり、

│ 群れにいるのが自然である、ということになります。

│ しかし、

│ 交尾を経て、ツガイになると、

│ そのツガイの2匹は、

│ 群れにいる他のどの仲間たちよりも、一緒にいるようになります。

│ 他の仲間たちよりも、

│ そのツガイの2匹でいるほうが、より自然な状態・・・というふうに考えます。

│ なので、

│ この2匹は家族の関係である、ということです。

│ 孵ったヒナと親鳥の関係については、説明は不要でしょう。

│ 明らかに、一緒にいるのが自然な関係です。

│ だから、家族です。

│ なら、

│ その前段階、産んだ卵と親鳥の関係は?、と問われれば、

│ 僕は、

│ 少し迷いながらも、家族だと答えます。

│ 言うまでもなく、

│ 親鳥は自分の大切な卵と一緒にいようとしますし、危険を感じれば守ろうとします。

│ 対して、

│ 卵のほうは、確かに親鳥と一緒にいようとはしません。

│ けど、拒むこともありませんし、

│ 卵の中の、将来のヒナが、

│ 親鳥の温もりを心地良く感じ、すくすく育っているであろう様を想像すると、

│ 一緒にいたがっているような、そんな気がしてきます。

│ そうしたことを総合的に勘案した結果、

│ 僕は、親鳥と卵の関係を家族と感じるのでは?、と思いました。

│ 同じ塒に棲む2匹のタヌキについては、

│ 同居し始めの頃は、

│ 僕にとっては・・・ですが、この2匹は家族ではありません。

│ 一緒にいるのが自然な関係とは、その時点では感じないからです。

│ 何かの拍子でたまたま一緒にいるだけだろう・・・と思います。

│ でも、

│ 3年くらいずっと同じ塒に棲み続けているとしたら、話は変わります。

│ この2匹にとっては一緒にいるのがもう自然になっている・・・と思いますし、

│ もう、お互いにそういう関係になっている・・・と感じます。

│ なので

│ この、長年一緒に棲んでる2匹のタヌキについて、

│ 僕は家族と感じるのだろうと思いました。

│ コウテイペンギンについては、

│ 確かに、

│ 産卵後、ツガイのオスとメスはしばらく離れて暮らします。

│ 一緒にはいません。

│ けど、

│ およそ2ヶ月が過ぎると、メスはオスのいる繁殖地に戻ってきます。

│ “一緒にいるのが自然な関係”が保たれているから戻ってくるのであり、

│ だから、

│ 離れて暮らしている間も、その関係を家族と感じるのだと思いました。

│ ハトのツガイにおいても、

│ パートナーに抱卵を任せている間、

│ もう片方の親鳥は、自分の食事等のために一時的に巣を離れたりします。

│ それと同じ感覚です。

│ その、一時的に巣(繁殖地)を離れる期間が2ヶ月なのがコウテイペンギン・・・と、

│ つまりは、そういうことです。

│ ハトのツガイが、

│ 食事等のために一時的に離れ離れになっている間も、相変わらず家族なのと同様、

│ コウテイペンギンのツガイも、

│ 一時的に離れ離れになっている間も、相変わらず家族のままである・・・と、

│ そういう判定です。

│ 次いで、人間の家族です。

│ 人間は、

│ 他の動物たちと比べ、大きく発達した理性を有する生き物です。

│ 本能と理性で総合的に物事を判断し、日々の生活を営みます。

│ 高精度の意思疎通や深い思索を可能とする、複雑かつ柔軟性に富む言語を使いこなし、

│ 制度化された安定的な社会を形成し、

│ そうした中、

│ 数え切れないくらいの多種多様な人々が、

│ 数え切れないくらいの多種多様な生き方で暮らしています。

│ 他の動物たちとは、その生活風景は幾分様相が異なり、

│ それ故、

│ 家族に対する認識、家族としての在り方も、

│ やや特殊であるように思います。

│ で、

│ 人間の家族とは何か、どういう間柄だと家族と感じるのか・・・について、

│ 僕の場合は・・・ですけど、

│ 一緒に暮らしていても そう不自然さのない間柄、

│ 且つ、

│ 充分な絆になってる間柄・・・と考えました。

│ どうなったら家族になるのか、

│ どうなったら家族と感じるようになるのか・・・については、

│ なので、

│ そういう間柄になったと思ったとき、

│ あるいは、そういう間柄になったと感じたとき・・・になります。

│ 補足が2つあります。

│ 1つめは、

│ “一緒に暮らすことに そう不自然さはない間柄かどうか”、“充分な絆がある間柄かどうか”、

│ 言い換えると、

│ 家族かどうか・・・ですが、

│ これは、

│ 主観と客観、両方合わせての総合判断ということです。

│ 要するに、

│ 家族と思うかどうか、家族と感じるかどうか・・・は、

│ 自分にとって家族かどうか、の他に、

│ 一般的には家族と見做されるかどうか・・・も念頭に置いての判断だということです。

│ 2つめは、

│ “絆”という言葉についてです。

│ これは、

│ 断ち切りたくても、自分の意思で断ち切るのはなかなか難しい繋がり、

│ あるいは、

│ そもそも断ち切れない、永続性のある繋がりを指します。

│ 悪い意味での断ち切り難い繋がりの場合、“しがらみ”になります。

│ まず、

│ 恋人同士がいつ家族になるのか、についての説明です。

│ あるカップルがいたとします。

│ 交際が順調に進み、

│ やがて、どこかのアパートで同居を始めたとします。

│ ただし、

│ 女のほうが既に相手の子を身ごもっているとか、婚姻届はもう提出してあるとか、

│ そういった特別な事情はないものとします。

│ ごく一般的な、ごく普通のケースで考えます。

│ さて、

│ 同居を始めたばかりのこのカップルは、もう家族でしょうか?

│ 僕なら、NOと答えます。

│ このカップルはまだ家族ではない・・・と答えます。

│ 確かに、

│ “一緒に暮らしていても そう不自然さのない間柄”には、既になっているように思います。

│ 一緒に暮らすのが不自然な間柄であれば、

│ そもそも、同居を始めようとはしないでしょう。

│ でも、一方で、

│ “充分な絆になってる間柄”のほうは、まだなっていない気がします。

│ 別れたくなったら簡単に別れてしまうような、

│ お互いの関係を簡単に解消してしまえるような、そういう間柄のような気がします。

│ つまり、

│ 充分な絆になっていないと感じます。

│ なので、

│ 同居したばかりのこの時点においては、

│ 僕は、このカップルを家族と感じないのだと思っています。

│ なら、

│ どうなったら、僕はこのカップルの間柄が家族になったと感じるだろうか・・・と言うと、

│ 通常であれば、

│ 多分、

│ このカップルが結婚した、という情報を知ったときです。

│ 一般的な認識では、

│ 結婚したら家族、でしょうし、

│ それに、

│ 結婚したら簡単には別れない、

│ あるいは、簡単には別れられない印象が僕の中にあります。

│ つまり、

│ “充分な絆になっている間柄”に感じます。

│ 一般視点と自分視点の、両方からの判断を総合した結果、

│ 結婚したこのカップルを、僕は家族と感じるのだと考えています。

│ で、

│ さっき少し上で、“通常であれば”と意味ありげなワンクッションを入れましたが、

│ それに対する説明はちょっと待っていただいて、

│ 先に、

│ じゃあ、

│ このカップル自身は、いつ自分たちが家族になったと感じるだろうか・・・について述べます。

│ 同居を始めた時点で、

│ “一緒に暮らしていても そう不自然さのない間柄”と、本人たちも思っているでしょうから、

│ 恐らく重要なのは、

│ いつ、“充分な絆になっている”と思うか、

│ いつ、別れ難い繋がりになっていると実感するか・・・のほうでしょう。

│ これについては、人それぞれだと思います。

│ 最も多いのは、

│ やはり、

│ 婚姻届を提出したとき

│ or

│ その婚姻届が反映され、自分たちの名が家族として明記された住民票を見たとき、

│ ではないでしょうか。

│ 婚姻届を役所に提出し、婚姻を認めてもらうことは、

│ 自分たちの家族としての繋がりを、

│ 法的に、

│ 即ち、

│ 客観的に、世間的に認めてもらうことに他なりません。

│ 自ずと、自分たちの繋がりに自信が持てるようになるでしょうし、

│ 不安を感じていた人は、幾分ホッとするでしょう。

│ 加えて、

│ いったん婚姻関係になってしまえば、

│ それを解消するためには、

│ お互いの意思か、裁判での判決か、どちらかが必要になります。

│ 要するに、

│ いくらか別れ難くなる=ふたりの絆がより確実なものになる、ということです。

│ “充分な絆になっている間柄”と、より実感するようになるでしょうから、

│ それで、

│ 婚姻届を提出したときや、その後の住民票を目にしたときに、

│ 家族になったと感じる人が多いのだと、

│ あくまで僕の推測ですけれども、そう考えています。

│ そうして、

│ 自分たちが“充分な絆になっている”と実感するタイミングの件ですが、

│ 婚姻届提出以外のケースだって、普通に有り得ると思っています。

│ 例えば、

│ 何か大きな困難をふたりで協力して乗り越えたとき、

│ 妊娠してるのが分かり、

│ この子を産もう・・・って、お互いの気持ちが一致したとき、

│ 結婚式を挙げ、家族や知り合いに祝ってもらったとき、

│ 他にも、

│ 何の変哲もない、ごく普通の日に、

│ ふと、

│ この先10年20年、今のパートナーと一緒にいる自分が想像できたとき、

│ その自分の姿が不思議としっくり来たとき、納得できたとき・・・、

│ そうした様々な折々で、

│ 相手との絆を感じ、その絆の強さが自分にとって充分だと思えたのなら、

│ 婚姻届未提出であっても、そう思えたのなら、

│ そうしたら、

│ 恐らくは、

│ そのときに、自分たちは家族になった・・・と実感するのだと思います。

│ そして、

│ その、家族と実感したときのエピソード・・・、

│ 例えば、

│ 困難をふたりで乗り越えたとき、の話を僕が耳にし、

│ あるいは、その場面を直接僕が目にし、

│ 確かにこのカップルは、もう“充分な絆になっている間柄”で、

│ これからもずっと、ふたりは一緒に暮らしていくのだろうな・・・と感じることができれば、

│ そしたら、

│ 僕の中でもこのカップルの間柄は、

│ 多分、家族になります。

│ “通常であれば”、結婚したことを初めて知ったとき・・・にそう感じるんですけど、

│ このケースにおいては、

│ 恐らくは、そのときです。

│ 乗り越えた話を聞いたときか、その場面を見たときに、

│ あぁ、

│ このカップルはもう家族になったんだな・・・と、僕は感じるだろうと思います。

│ 無人島に漂着した男女が、いつ家族になるのか・・・も、

│ 同様に考えます。

│ “一緒に暮らしていても そう不自然さのない間柄”には、

│ 漂着して、

│ 2、3日も経てばそうなると思います。

│ その男女が置かれた厳しい状況を考えれば、

│ 一緒に暮らすことは、そう不自然でもないでしょう。

│ 第三者目線でも、

│ そして、

│ 恐らくは、その男女自身にとってもです。

│ で、

│ 当たり前の話ですけど、

│ ふたりきりでの島での暮らしは、どう考えても過酷です。

│ 毎日の水や食料を自分たちだけで何とかしなければなりませんし、

│ 海で魚を捕まえたにしても、それを焼くための火を起こすのにもひと苦労です。

│ そのうち、

│ 風雨を(しの)ぐための住処を作る必要も出てくるでしょうし、

│ 衣服や寝具だって、

│ その材料を現地調達し、自分たちで(こさ)えなければなりません。

│ 片方が病気で体調を崩している間は、

│ もう片方はその看病をしつつ、

│ ふたり分の食料をひとりで集めることになります。

│ そんな暮らしを続けていたら、

│ 絆は、あっという間に深まるでしょう。

│ 互いに相手がなくてはならない存在になり、

│ 離れ離れで生きていくことは想像できなくなって、

│ そうしたら、

│ そのとき、その男女は家族になるんだと思います。

│ 女のほうが妊娠するまでもなく、

│ 無人島に漂着した2、3ヶ月後くらいには、

│ この男女は、もう、家族の間柄になっていたような気がします、

│ 本人たちにとっても、

│ 第三者目線である僕にとっても、です。

│ 数万年前の大昔には、

│ 婚姻届なんて、確かに存在しなかったでしょう。

│ でも、

│ 自分たちが夫婦の関係になったことを、

│ 社会・・・と言うか、群れ全体に(しら)せるための、

│ 婚姻届と似た効力を持つ、何らかの仕組みはあったんじゃないでしょうか。

│ 例えば、

│ 夫婦になろうとするふたりが、親たちと一緒に(おさ)のところに挨拶に訪れ、

│ その夜、群れのみんなで宴を催す・・・などです。

│ そういった仕組みが無いと、

│ 男女トラブルが頻発し、群れがまとまらないだろうからです。

│ なので、

│ 大昔の人たちにとっての家族になるタイミングは、

│ 通常であれば、

│ 多分、このときだったろうと考えています。

│ 僕の挙げた例で言えば、

│ 長のところに挨拶に行ったとき・・・か、

│ その後の宴で、みんなに祝福されたときのような気がします。

│ ルームシェアの5人の件は、

│ 基本的には、

│ 無人島に漂着した男女が家族になる流れと同じだと考えています。

│ 事情があって同居せざるを得なくなった5人が、ひと所で一緒に生活し、

│ 絆を深めていき、

│ お互いがお互いのいない生活は考えられないくらい、その結びつきが強固になったら、

│ その絆が充分なものになったら、

│ そしたら、この5人は家族の間柄に・・・といった流れです。

│ ただ、

│ 無人島の男女のケースと違い、

│ 2、3ヶ月程度の同居では、

│ 僕の中では・・・ですけど、その5人をまだ家族のように感じないと思います。

│ 15年くらいは必要な気がします。

│ それだけ長くかかると考える理由は、2つあります。

│ 1つ目は、

│ ルームシェアでの暮らしは、

│ 無人島での暮らしに比べ、そこまで過酷ではないだろうからです。

│ 日頃の助け合いも些細なものが中心でしょうし、

│ 絆の深まりは、それほど急速には進まない感じがします。

│ 長い年月を要すると思う、もうひとつの理由は、

│ このルームシェアの5人みたいなケースは、

│ 今日(こんにち)の日本においては、あまり一般的でないからです。

│ 恋人でも家族でもない、仲間同士の間柄の人たちが各々の生活のために集まり、

│ 助け合って同居をし、

│ そのまま、10年とか20年もの長い間 一緒に暮らす・・・というのは、

│ 割と珍しいパターンの気がします。

│ 少なくとも僕の周りには、

│ 恐らくですが、いないように思います。

│ なので、

│ こういう仲間同士の人たちがルームシェアで一緒に暮らすにしても、多分、一時的だろう、

│ 家族と言えるほどの絆にはならず、

│ 少ししたら別々で暮らすようになるだろう・・・みたいな思い込みが、

│ 知らず知らずのうちに僕の中にあって、

│ それで、

│ その5人が家族の間柄になったと感覚的に納得できるまでに、

│ 余計に時間がかかってしまうのだと考えています。

│ 仲間同士の間柄で10年とか20年一緒に暮らすのが、もっと一般的であったなら、

│ そういう世の中であったなら、

│ きっと、

│ もっと短い期間の同居で、その5人の間柄を家族のように感じていたと思います。

│ 次いで、

│ 成長し、親元を離れて一人暮らしをするようになった子供の件です。

│ どうして、

│ 親と子が一緒に暮らしていないのに、

│ 依然として、その親と子は家族の関係にあると言えるのか・・・については、

│ “一緒に暮らしていても そう不自然さのない間柄”と“充分な絆になってる間柄”、

│ 即ち、家族としての条件が、

│ その離れて暮らす親子間で保たれているからだ・・・と、僕は考えました。

│ 最初に、

│ “充分な絆になってる間柄”のほうの、“絆”の説明をしますが、

│ これは、

│ 血の繋がりや親子の情などの、

│ その親子間を結びつけている何らかの要因のことを指します。

│ 子供が自立し、一人暮らしをするようになっても、

│ 血の繋がりや親子の情などの親子間の その“絆”は、まず消失しないように思います。

│ 少なくとも、

│ 一般的・・・客観的には、

│ 依然として維持されたまま、という認識である気がします。

│ もうひとつの、“一緒に暮らしていても そう不自然さのない間柄”については、

│ こちらも、

│ 何か特別な事情がない限りは・・・ですが、

│ 子が親元から離れて暮らすようになっただけでは、

│ その、“不自然さのない間柄”は解消されないでしょうし、

│ 一般的にも、そういう認識であると思っています。

│ 例えば、

│ 一人暮らしを始めたはいいが、何らかの事情で続けられなくなり、

│ 実家に戻って、また親と一緒に暮らす・・・というのは、

│ 違和感の無い、ごく普通の行為でしょう、

│ 一般的にも、

│ そして、恐らくはその親子当人たちにとっても・・・です。

│ 離れて暮らすようになっても、

│ 一緒に暮らすのが不自然ではない間柄が、依然として保たれている・・・と、

│ そういう認識だからです。

│ なので、

│ 結論として、

│ 成長した子が親から離れて暮らすようになっても、家族としての2つの条件が維持されたままなので、

│ その親子を、僕は家族のままであると感じるのだ・・・と考えています。

│ 長期出張中の父親のケースも、ほぼ同様です。

│ で、

│ 説明がだいぶ長くなりましたが、

│ そんな感じで、

│ 家族とはどういう間柄を指すのか、どうなったら家族になるのか・・・、

│ 自分なりの結論を出せた僕は、

│ 少ししてベッドから起き上がると、机のところに戻りました。

│ 扇風機をまた向け直してから、

│ イスに腰掛け・・・じゃなくて、

│ 低くなった西日が僕の机の上に届いていたので、窓のカーテンを片側だけ引いて、

│ そのあと、イスに腰掛けました。

│ 箸の載った、カラのお皿を脇へ除け、

│ ノートPCを開き、パスワードを入力してロック画面を解除すると、

│ 次いで、

│ イヤホンを手に取り、

│ 端子をノートPCに挿し、反対側の2コをそれぞれ左右の耳に押し込んで、

│ そうして、

│ お昼の病室での収録の、文字起こしを始めました。

│ 途中、

│ 気分転換にシャワーを浴びに行きました。

│ 浴室から戻ってきた僕は、

│ イスを扇風機のほうへと回しつつ、腰掛けました。

│ 前に屈んで、足先にある扇風機のスイッチを押すと、

│ 上体をちょっと起こし、

│ 両膝についた左右の肘で体を支える、前傾した体勢で、

│ 扇風機の風が、まだ湿ってる髪にも当たるようにしました。

│ 表で力いっぱい鳴いている、相変わらずのセミたちの声を聞きながら、

│ じっと、髪や体を乾かしてました。

│ 一緒に暮らしていても そう不自然さのない、

│ 充分な絆になってる間柄・・・か。

│ 僕は、

│ その、自分なりに出した結論を心の中で反芻しました。

│ B+(ビープラス)は貰えそうな、なかなか良い成果物の気がしました。

│ 満足でした。

│ けど、

│ 少し遅れて、ふと思ったんです、

│ ・・・いや、

│ これだとダメなんじゃないか?、って。

│ だって、

│ 家族だったら血が繋がっているはずなのに、

│ 僕の この条件だと、

│ 血の繋がりのない他人同士の間柄でも、問題なく家族になれてしまいます。

│ 例えば・・・ですが、

│ お互いに血の繋がっていない間柄のふたりでも、

│ 婚姻届を提出し、受理されれば、

│ より別れ難い間柄になるわけですから、

│ 場合によっては、

│ それで、条件の片方である“充分な絆になってる間柄”を満たしてしまいます。

│ つまり、

│ もう片方の条件の、

│ “一緒に暮らしていても そう不自然さのない間柄”が満たされていれば、

│ そのふたりは家族である・・・ということになります、

│ 血の繋がりが無いにも関わらず、です。

│ これはおかしい。

│ 条件を少し修正しなければ。

│ まず、血の繋がりは絶対必要だから条件に加えることにして、

│ で、

│ その上で婚姻届とかの・・・ん?

│ あれ? 血が繋がってるのに婚姻届?

│ ・・・変じゃないか?

│ 血が繋がってるってことは、要するに家族だろ?

│ なんで家族同士で結婚するんだ。

│ そもそも結婚って、

│ 普通、

│ 同じ家族の人とじゃなくて、余所(よそ)の家族の・・・、

│ え? 余所の家族?

│ ・・・あ。

│ そこで僕、

│ ようやく、ですけど、

│ 自分がいつの間にか勘違いしていたことに気付いたんです。

│ あぁ、そうか、

│ 何を勘違いしてたんだ、僕は。

│ 結婚って、

│ 普通、

│ 自分の家族以外の、他所の家族の人とするものじゃないか。

│ だから、

│ 結婚するふたりに血の繋がりがないのは、別におかしいことでも何でもなくて、

│ 自然なことで、

│ で、

│ 結婚し・・・いや、そうじゃなくて、

│ 互いの絆が深まって離れ難い繋がりになったら、ふたりは家族になって、

│ 新しい家族がひとつ産まれ・・・。

│ そうだよ、

│ 家族の中の夫婦って、血の繋がりが無いのが普通じゃないか。

│ 当たり前じゃないか。

│ 世界中の家族がそうで、昔からそうで、

│ だから、

│ 僕の()ぞ・・・あっ!

│ そうだよ! 僕の親父とお袋だって血の繋がりなんて無いじゃないか!

│ けど、

│ 親父とお袋は間違いなく家族で、疑いようもなく家族で・・・。

│ 親父と姉貴・兄貴、

│ お袋と姉貴・兄貴、

│ 血の繋がりのある親子の関係と同じくらいに、親父とお袋は家族で、

│ 少しも見劣りしない、正真正銘 本物の家族で・・・。

│ だったら、

│ だったら僕だってそうじゃないか。

│ 血の繋がりのない親父とお袋、その夫婦としての繋がりと同様、

│ 僕だって同じくらいに、両親や姉貴たちとは家族で、

│ 少しも見劣りしない、本物の家族で、

│ 疑いようもなく家族で、間違いなく家族で、

│ 確かに家族で・・・。

│ 目を瞑って、深く息を吸った僕は、

│ その、吸い込んだ息を、

│ 間を置いてから、

│ ゆっくり、静かに吐き出していきました。

│ 目を開けたあと、

│ 軽く鼻をすすりました。

│ そっか・・・、

│ 僕、家族だったんだ・・・。

│ そっか・・・。

│ 僕は、

│ 前傾した体勢のまま、手を自分の目元にあてがいました。

│ やがて、その手を下ろすと、

│ また軽く鼻をすすって、

│ そして、

│ 引き続き、

│ 扇風機の送ってくれる風で、髪と体を乾かしました。

│ そろそろいいかな・・・。

│ 頭に手をやり、髪の乾き具合を確かめていた僕は、

│ その手を下げるとともに上体を起こしました。

│ 坐ったままでイスを回し、机のほうへ向き直ると、

│ ノートPCの脇の、自分のスマホに目を向けました。

│ 少しして、

│ 手を伸ばしました。

│ 友達からメッセージが来ていたので、返信し、

│ ホーム画面に戻し、

│ そのまま、そのホーム画面をじっと見ていました。

│ 電話するのは、もうちょっと遅い時間のほうがいい気がしました。

│ なので、

│ スマホの電源ボタンを押し、スリープに戻し、

│ そのスマホを元の場所に置きました。

│ ノートPCを開いて、パスワードを打ち込んだあと、

│ ブラウザを起動させました。

│ ネットで自分と似た境遇の人を検索し、

│ 目についた記事を、ひとつひとつ読んでいきました。

│ 記事をいくつか読み終え、次のサイトに移ろうとしたときでした。

│ そう言えば、

│ 僕、

│ どうして、家族とは何かなんて考え始めたんだっけ・・・と、ふと思いました。

│ 画面から視線を上げると、

│ 頭の中の、自分の記憶を探ってみました。

│ ・・・あぁ、そうそう、

│ 最初は、

│ 家族とは何か、じゃなくて、

│ いつから家族になるのか、だったんだ。

│ ウサギさんと付き合えたときのことを想像してて、

│ いつから恋人同士の関係が家族に変わるんだろう・・・って思って、

│ それで、考えてみることにしたのがそもそもの始まりだったんだ。

│ 少しして思い出した僕は、

│ そのまま、ウサギさんのことを考えていました。

│ で、

│ 改めて思いました、

│ やっぱり、

│ 僕、ウサギさんのことを好きになってる・・・と。

│ それで、

│ まぁ、要するに・・・ですけど、

│ これからも一緒にいたい、と思ったわけです。

│ 家族になれたら、と思いました。

│ ここではない、将来のどこかの家の中で、

│ ウサギさんとふたりで食卓を囲み、一緒に食事をしている様を、

│ ちょっと思い浮かべてみました。

│ なんとなく上手くやっていけそうな気がして、幸せになれそうな気がして、

│ そんなとき、

│ 不意に、僕の頭を(よぎ)ったんです。

│ 正直、

│ 最初は、少し躊躇しました。

│ 試したくないと思ってる自分もいました。

│ でも、試してみようと思いました。

│ そのウサギさんとふたりの食卓に、もうひとり加えてみたんです。

│ 今のウサギさんのお腹の中にいる子がそこにいて、

│ 3人で食卓を囲み、一緒に食事をしている様子を思い浮かべてみたんです。

│ そしたら、

│ その風景が、すごくしっくり来たんです。

│ そこにいるのが自然で、当たり前で、

│ むしろ、

│ そこにいなければならない、なくてはならない存在のように思えたんです。

│ この子も、

│ 自分にとっての大切な家族であるような、そういう気がしたんです。

│ この子を幸せにしてあげたい、と思いました。

│ たくさん話して、たくさん笑わせて、

│ 色々なところに連れて行って、色々な景色を見せて、

│ 色々なものを食べさせ、色々なことを経験させ、

│ 色々なことを感じさせて・・・、

│ そうして、

│ 家族としての楽しい日々を、温かみのある思い出を、

│ 幸せな記憶を、

│ この子にたくさんプレゼントしたい、贈ってやりたい。

│ 覚えようとしても覚えきれないくらい、

│ 語り尽くそうとしても語り尽くせないくらい、いくら時間があっても足りないくらい、

│ たくさんの、たくさんの・・・と思ったところで、

│ 僕、

│ ハッとしました。

│ 自分もそうだったことに気付いたんです。

│ まだ幼稚園児だった冬のある日、

│ お袋と一緒に幼稚園から帰ってくると、

│ 居間のローテーブルの上に、トカゲのパジャマが置いてあった。

│ 通販で頼んだ着ぐるみパジャマに、お袋が少し手を加えて作ったもので、

│ マジックテープで取り外しできるようになっている尻尾もあった。

│ 大はしゃぎの僕は、

│ 早速トカゲになって、そのまま家の中を駆け回った。

│ 学校から姉貴や兄貴が帰ってくると見せびらかし、

│ 親父が仕事から帰ってくると、

│ トカゲになりきって、その足や背中にしがみついた。

│ 夏が近付き、暑くなってくると、

│ アセモができるから・・・という理由で、

│ そのパジャマは、押入れのタンスにしまわれた。

│ 夏が過ぎ、秋に入ると、

│ あのトカゲのパジャマはまだかと、毎日お袋にせがんだ。

│ 根負けしたお袋が、

│ タンスの中から、その防虫剤の匂いを(まと)ったパジャマを出すと、

│ 僕はすぐにトカゲに変身し、

│ 声を上げながら、また家中を駆け回った。

│ 小学校に上がって少し経つと、

│ 僕は、

│ 日曜の朝早くに親父と兄貴に連れられ、

│ 犬の◇◇と一緒に公園まで出掛けるようになった。

│ 公園では、

│ 親父と兄貴と僕の3人で、キャッチボールをした。

│ 学校や家、友達の話をしたり、

│ 冗談を言って笑ったりしながら投げていた。

│ ◇◇を連れて家に戻ると、

│ お袋が、冷たいジュースを出してくれた。

│ そのジュースを飲みつつ、兄貴と一緒にゲームをするのが、

│ 日曜の朝の、いつもの過ごし方だった。

│ ある日、

│ 僕と兄貴は、お袋にこっぴどく叱られた。

│ ふたりして部屋で落ち込み、黙って漫画を読み(ふけ)っていると、

│ 姉貴が部屋にやって来た。

│ トランプをしようと言った。

│ 部屋の中にあるトランプを出してきて、しばらく遊んだ僕たちは、

│ それぞれ床に寝転んだり坐ったりし、また好きな漫画や雑誌を読み始めた。

│ 少しすると、

│ 姉貴が漫画のページを捲りつつ、なんで怒られたのかを僕たちに尋ねた。

│ そうして、

│ いつしか、そのまま他愛のない話に移り、

│ 3人で盛り上がり、笑い合って、

│ 寝る時間になると、

│ 部屋を出ていった姉貴が、自分の布団や枕を持って戻ってきた。

│ 『今日は3人で合宿しよう』と言って、

│ その布団を、僕たちの部屋に敷き始めた。

│ 電気が消されたあとも、姉貴と兄貴はずっと喋っていて、

│ 僕はそれを黙って聞いていた。

│ 姉貴が、

│ 『カメ、もう寝た?』と訊いた。

│ 『寝たよー』と返したら、

│ 兄貴が、

│ 『起きてるじゃねーか』と言った。

│ それからは、

│ だいたい1ヶ月に1度の頻度で、合宿が開催されるようになった。

│ 僕は、この合宿が大好きだった。

│ その姉貴や兄貴は、

│ それぞれ、

│ 僕が小6のとき、中学に上がったときに家を出ていった。

│ 遠くの街で、

│ それぞれ、一人暮らしをするようになった。

│ 家の中が、少し静かになった。

│ 中学を卒業した。

│ あと2週間ほどで高校生活が始まる・・・というタイミングで、

│ 海外に長期出張中だった親父が帰ってきた。

│ 向こうでは こんなことがあってな・・・と、缶ビール片手に僕に語っているときに、

│ 親父が、急に何かを思い出した感じで言った、

│ 『あ、そうだ、

│  久し振りにウナギを食べたくなったから、男2人で旅に出よう』って。

│ 意味が分からなかった。

│ 『はぁ? 旅ぃ?』と僕が返すと、

│ 親父は、

│ 『そう、旅』と言った。

│ 『・・・どこに行くの?』

│ 『ウナギと言ったら、

│  やっぱり、ハマナ町じゃないか?』

│ 『・・・ウナギって、夏の食べ物じゃないの?

│  今って食べられるの?』

│ 『大丈夫 大丈夫。

│  お店のメニューに、年がら年中 載ってる』

│ 電車を上手く乗り継いで行けば、なんとか日帰りできそうだった。

│ でも、

│ 旅って言うくらいだから向こうで1泊するのかな・・・と考えつつ、

│ 僕は親父に、

│ 『いつ?』と尋ねた。

│ 親父が答えた。

│ 『父さん、明日は会社に顔を出さないといけないから、

│  明後日(あさって)明々後日(しあさって)かな。

│  1週間くらいだと思う』

│ 『・・・えっと、1週間って?』

│ 『あぁ、

│  それくらいかかるんじゃないかな。

│  ここからだと、軽く150kmは離れてるからな』

│ 『・・・もしかして、歩き?』

│ 恐る恐る、そう確認してみると、

│ 満面の笑みを(たた)えた親父が答えた。

│ 『そう、歩き。

│  面白そうだろ?

│  どうする?

│  あぁ、

│  言っとくけど、帰りは流石に電車だからな。

│  父さん、会社があるからな』

│ 3日後の早朝、

│ お袋と◇◇に見送られ、

│ 僕は、親父と一緒に家を出発した。

│ 着替え、タオル、洗面用具、予備の靴、

│ お茶の入った水筒やら非常食、懐中電灯、

│ 足にマメができたときようの消毒液や絆創膏、

│ 念の為の寝袋やら雨合羽などを詰めたリュックを背負い、

│ コンパスと地図、お店の人や出会った人から聞いた情報を頼りに、

│ ハマナ町への道を歩いていった。

│ 道中では、

│ 気ままに写真を撮ったりしつつ、色々なことをふたりで話した。

│ 学校のこと、友達のこと、

│ そのとき話題になってた出来事、

│ いま歩いている場所のこと、辺りの景色、

│ 姉貴や兄貴の小さかった頃の話、親父とお袋の若かった頃の話、

│ 腹減った、足が痛い、

│ いま何時? どこら辺まで来た? あとどれくらい?

│ 歩く時間は、

│ その日に泊まる予定の、宿の場所次第ではあったけれど、

│ 基本的には、朝から午後3時くらいまでだった。

│ クタクタの体で、ジンジンする足裏の痛みに耐えながら宿に着くと、

│ ふたりで部屋へ行き、足を靴から解放したあと、

│ 親父と僕で、お互いに相手の足のマッサージをした。

│ その後は熱い風呂に入り、

│ 余裕があれば、

│ 親父とふたりで、辺りの街をブラついた。

│ 5日目の午後だった。

│ 歩いてる途中で、僕の足がつってしまった。

│ 親父の肩を借りて道の脇まで行き、

│ 慎重に腰を下ろした。

│ 少し休んで、足の つりはどうにか治まった。

│ けれど、

│ 痛みのほうは引かなかった。

│ 歩けなかった。

│ 再び腰を下ろした僕に親父が言った、

│ 『カメ、

│  今日の残りはタクシーで行こう』って。

│ 僕は首を振った。

│ 『あとちょっとしたら、

│  多分、治ると思う・・・』

│ 日が傾いてきた。

│ 親父が僕に言った。

│ 『もうタクシーで行こう? な?

│  いつまでもここで休んでるわけにもいかないし』

│ 『・・・』

│ 『今日はこれで終わりにしよう。

│  もっとゆっくりできる場所で、じっくり治そう? な?』

│ 『・・・』

│ 道端に坐り、顔を俯けていた僕は、

│ 少しして、黙って頷いた。

│ 親父が道で拾ったタクシーの中でも、

│ 僕は、ずっと顔を俯けていた。

│ ときどき鼻をすすり、目を何度も拭った。

│ 次の日の朝、

│ つったところの痛みは、

│ もう、ほとんど消えていた。

│ 歩きに支障は無かった。

│ ふたりで話し合い、旅は続行となった。

│ 受付でチェックアウトを済ませ、建物を出ると、

│ 親父は、

│ ハマナ町とは逆のほうへと歩き始めた。

│ え?、と思った僕は、

│ 慌てて親父の隣に追いつき、

│ 『あっちじゃないの?』と確認した。

│ 親父が、

│ 前を向いたままで僕に言った。

│ 『このまま向こうに着いたって、

│  俺もお前も、すっきりできない。そうだろ?』

│ 『・・・。

│  でも、

│  今日の宿、着くのが遅くなっちゃうし・・・』

│ 『ほんのちょっとの距離だ。問題ない。

│  どうしてもダメなら、その1コ手前の宿にすればいいさ。

│  それだけのことだ。

│  ほら、

│  つべこべ言ってないで、昨日の場所までさっさと戻るぞ』

│ ハマナ町には、

│ 7日目の正午過ぎに到着した。

│ 喫茶店に入り、休憩がてら時間を潰すと、

│ その後、

│ 予定していたビジネスホテルに行って、リュックを預け、

│ 親父とふたりで街を少し散策した。

│ チェックインできる時間になると、改めてホテルに戻り、

│ 部屋へ向かい、

│ まずは、

│ いつものように、かわりばんこにお互いの足のマッサージをした。

│ 風呂に入り、疲れを多少癒やしたあと、

│ 夕方になるのを待って、

│ ウナギを食べに、ハマナの街へ繰り出した。

│ 店に着くと、

│ 早速ふたりでウナギの蒲焼を注文した。

│ しばらくしてやって来た、漆塗りの豪勢な重箱の蓋を、

│ ちょっと緊張しながら開けていくと、

│ 覗き込んでいた僕の顔面をアツアツの湯気の塊が襲った。

│ 慌てて顔を引っ込め、

│ 『・・・あっつー』と漏らすと、

│ 向かいの席で、親父が笑った。

│ 箸を手に取った僕は、

│ まずは、お吸い物に目を向けた。

│ 箸を握り込みつつ、その手を伸ばす。

│ 椀を両手で抱え、

│ そうっと、ひと口。

│ 椀を置き、

│ 次いで、

│ 重箱に収められた、今日の主役に視線を向ける。

│ 箸を構え、そちらへ伸ばす。

│ 向かい側の親父が、シミジミとした感じで言った。

│ 『そうか、

│  お前もいよいよ高校生か・・・』

│ 『うん』と返した。

│ 『高校入学、おめでとう。

│  よく頑張ったな』

│ 『・・・うん』

│ 少しすると、

│ 自分の(うち)に、様々な感情が次々に込み上げてきた。

│ やがて、(こら)えきれなくなり、

│ 僕は、

│ 目を潤ませ、ときどき鼻をすすりつつ、

│ 湯気の立ち上る、その、熱くて美味いウナギの蒲焼を一心不乱に食べた。

│ 一生忘れることのできない、大切な思い出となった。

│ 実家で暮らしていた頃のことを、ひとつひとつ思い出していった僕は、

│ 自分の机で、

│ ただ、呼吸をゆっくり繰り返していました。

│ 肘をついた手で両目とも覆って、

│ その手の下からは、止まらぬ涙を流し続け、

│ 鼻をときどきすすり上げ、

│ そうして、

│ 息を震わせ、体を震わせて、

│ ただ、呼吸をゆっくり繰り返していました。

│ あぁ、そうか、

│ 僕の家族は、僕にこれをくれたんだ。

│ この、かけがえのない大切な思い出をくれたんだ。

│ 親父は僕に、この父親の思い出を、

│ お袋は僕に、この母親の思い出を、

│ 姉貴は僕に、この姉の思い出を、

│ 兄貴は僕に、この兄の思い出を、

│ みんながそれぞれくれたんだ。

│ 家族ぐるみで、この家族の思い出をくれたんだ。

│ こんな、こんな有り難いことってあるか?

│ これ以上有り難いことなんて、この世の中に存在するのか?

│ 僕は、僕は何もしてないじゃないか。

│ なのに、

│ こんな、こんな有り難いものを、

│ こんなかけがえのないものを、

│ こんなにたくさん、こんなにたくさんも・・・。

│ 顔中を涙や鼻水でグシャグシャにし、

│ 声を必死に押し殺し、泣いていた僕は、

│ やがて、

│ その、押さえ付けていた声を(こら)えきれなくなりました。

│ 夏の夕暮れの、蝉時雨(しぐれ)の中、

│ 唸りにも似た嗚咽(おえつ)の声を幾度も漏らし、

│ (かたわ)らの扇風機の風に吹かれながら、

│ 僕は、

│ 部屋の中で、ひとりで泣き続けました。

│ 流しのところへ行き、顔を洗いました。

│ 蛇口の栓を閉め、水を止めると、

│ 手拭い用のタオルで顔を拭き、

│ また、机のところまで戻りました。

│ 立ったまま、

│ ノートPCの脇の、自分のスマホをじっと見ていて、

│ やがて、手を伸ばしました。

│ スマホのロック画面を解除し、アドレス帳を呼び出しました。

│ 画面をタップし、スクロールさせていき、

│ 《実家》のところで止めました。

│ 少ししてから、1回深呼吸。

│ その後、

│ 《実家》をタップし、表示された受話器マークを押しました。

│ スマホを耳に当てました。

│ 呼び出し音が鳴ってました。

│ 間もなく、

│ 鳴り続けていた呼び出し音が止まりました。

│ 静かになり、

│ 次いで、お袋の声が聞こえてきました。

│ 『カメ、カメなの?』

│ 『あ、えと・・・、

│  うん、カメだけど、

│  お袋、

│  その、僕――』

│ その瞬間、

│ 電話の向こうのお袋は、大きな声で泣き出しました。

│ そうして、

│ 少しすると、涙混じりの声で、

│ 『良かったぁ・・・、良かったぁ・・・』と繰り返しました。

│ スマホのスピーカーから響いてくる、

│ その、子供のように泣きじゃくっているお袋の声を、

│ 僕は、

│ 机のそばに立ったまま、しばらくじっと聞いてました。

│ お袋が落ち着いてきました。

│ 僕は、

│ お袋たちにしてしまった酷いことを謝りました。

│ 電話の向こうのお袋は、

│ 鼻をすすったあと、

│ 『そんなのいいわよ。

│  分かってくれればいいの。』と言ってくれて、

│ 続けて、

│ 『それより、

│  こっちには、いつ帰ってくるの?

│  研究室のほうは、もうお盆休みに入ってるんでしょ?

│  いつ帰ってくるの?』と訊きました。

│ 『えーと、』と少し考えた僕は、

│ 『・・・多分だけど、

│  そっちに帰るのは14日の夜だと思う』と続けました。

│ 『え、なんで?

│  研究室は、もうお休みなんでしょ?

│  何か用事でもあるの?』

│ 『えっと、

│  用事って言うか、その・・・』

│ ちょっと迷いましたが、

│ 僕は、お袋にウサギさんのことを話しました。

│ お袋は、

│ 『分かったわ。

│  ちゃんと、あなたがついていてあげなさい。』と言ってくれました。

│ 『・・・じゃあ、

│  こっちにいるのは、

│  明々後日の夜から、次の日のお昼頃ってことね?』

│ ここ1ヶ月くらいの出来事を、お互いに簡単に教え合ったあと、

│ お袋が僕に、そう確かめました。

│ 『うん、

│  多分、そうなると思う』と返しました。

│ 『分かったわ。

│  でも、

│  その子のことが済んで、少しゆっくりできるようになったら、

│  また改めて、こっちに帰ってきなさいね。

│  私もお父さんも、ちゃんとあなたと話したいし』

│ 『うん、分かった』

│ 『じゃあ、待ってるわ』

│ 『あ、

│  ちょ、ちょっと待って。

│  えっと・・・』

│ 『・・・なに? どうしたの?』

│ 『えと、あの、

│  お袋、その・・・』

│ 『なーに?

│  どうしたのよ』

│ 『その、

│  ・・・ずっと、僕の親でいてください』

│ 電話の向こうで、鼻をすする音がしました。

│ 次いで、息をひとつ吐いた音がして、

│ それから、

│ 少し(うわ)ずっている、お袋の声が聞こえてきました。

│ 『そんなの当たり前じゃない。

│  だって、

│  あなたは、私たち夫婦の大切な息子なんだから』

│ 通話を切り、

│ スマホの時計に目をやりました。

│ 自転車で急げば、

│ 面会終了時間には、なんとか間に合いそうでした。

│ 一瞬、

│ 明日でも・・・と思いました。

│ 明日の面会開始時間の直後、

│ ウサギさんが中絶を伝えてしまう、その親が来るよりも前の時間に行き、

│ そうして話しても・・・と思いました。

│ けど、

│ すぐに、

│ いや、今日行こう・・・と思い直しました。

│ 僕の、ウサギさんに対する気持ちと、

│ お腹の中にいる その子への思いを、今日伝えよう・・・と思いました。

│ 明日では、もう間に合わないような気がしましたし、

│ それに、

│ 自分の(はや)る気持ちを抑えられませんでした。

│ 出掛ける支度を手早く済ませ、

│ アパートの部屋をあとにし、小走りで自分の自転車のところへ行くと、

│ ロックを外し、

│ 自転車をカラカラと押していき、道路に出たところで跨りました。

│ そのまま、ウサギさんのいる病院へと急ぎました。

│ 立ち漕ぎし、息を切らせながら、

│ 頭の中では、

│ 向こうに着いてからのことを考えていました。

│ まずは、

│ 2回目の訪問の口実として、お昼に録り損ねたお礼コメントの収録をして、

│ それが終わったらウサギさんに・・・、

│ 元々は、そんな感じの予定だったんです。

│ 病院に着き、駐輪場に自転車を駐めた僕は、

│ 病院の玄関に向かいつつ、ポケットからスマホを出し、

│ 今の時刻を確かめました。

│ 信号待ちによる足止めが少なかったこともあり、

│ 時間は、多少余裕がありました。

│ 受付に行って面会を申し込み、エレベーターに乗りました。

│ ウサギさんの病室の階で降りると、

│ ひとまず、ラウンジに向かいました。

│ ソファに腰掛け、

│ 一旦自分の気持ちを落ち着けるとともに、

│ これからウサギさんに伝える内容を、頭の中で少し確認しました。

│ もしかしたら、迷惑がられるかもしれない・・・と思いました。

│ そんなこと言われても困ります、って、

│ ウサギさんに、そう言われちゃうかもしれない・・・と思いました。

│ けど、そうは言っても、

│ 今日伝えないと、

│ もしかすると、手遅れになってしまうかもしれません。

│ そしたら、取り返しがつかなくなってしまいます。

│ いくら後悔したって、もう、どうにもならなくなってしまいます。

│ 僕は、

│ 息をひとつ吐いて、覚悟を決め、

│ そうして、

│ ラウンジのソファから立ち上がりました。

│ で、

│ ウサギさんの病室に行き、

│ お礼コメントのための収録を開始したわけですが、

│ そこで、

│ ウサギさん、

│ 堕ろすのを保留に戻した、と言いました。

│ もう少し頑張ってみる、と言いました。

│ え?、と思いました。

│ スマホの録音アプリを止めたあと、

│ ウサギさんに、

│ 保留に戻した件について尋ねてみました。

│ そしたら、

│ ウサギさん、

│ お昼の収録後の、500円玉のことを話してくれました。

│ それで もう少し頑張ってみることにした・・・と言いました。

│ 『・・・そっか。

│  分かった。

│  なら、

│  明日お母さんに言うのも、ひとまずは やめることにした・・・って、

│  そういうこと?』

│ 『はい』

│ ウサギさんの返事を聞いた僕は、迷いました。

│ 堕ろすのを保留に戻したのであれば、

│ 一応は、まだ大丈夫・・・ということですので、

│ 別に、

│ そこまで無理をして、いま言う必要もないことになります。

│ 病院の面会終了時間も迫ってましたし、

│ ウサギさんの妊娠悪阻も しんどそうでした。

│ 伝えるのは明日にしたほうが良いのでは?、と思いました。

│ ただ、一方で、

│ 今は堕ろすのを保留に戻していても、

│ 明日の朝には、また考えが変わってしまう可能性もあります。

│ 堕ろそう・・・と、なってしまうかもしれません。

│ 午前中に面会に来たウサギさんのお母さんに、

│ そのまま、ウサギさんは堕ろすことを伝えてしまうかもしれません。

│ なら、

│ やっぱり、無理にでも いま伝えたほうが良いのでは?、と思いました。

│ で、

│ いま伝えるか、明日に先送りするか、

│ 迷っていたんですけど、

│ そのときに、

│ 僕、ふと思ったんです。

│ さっき、ウサギさんの病室に来る前にラウンジで考えていたことですけど、

│ 僕がウサギさんに自分の気持ちを伝えても、

│ ウサギさんは、それを迷惑に感じてしまうかもしれません。

│ 要するに、

│ 僕は、フラれてしまうかもしれません。

│ フラれてしまったら、

│ お互い、会うのは気まずくなってしまいます。

│ 僕は、ここ(ウサギさんの病室)に顔を出しづらくなってしまいますし、

│ もしかすると、

│ ウサギさんに、

│ もう来ないでほしい、と言われてしまうかもしれません。

│ そうしたら、

│ 僕は、ウサギさんのサポートができなくなってしまいます。

│ 支えられなくなってしまいます。

│ なので、

│ ちょっと考えた末、

│ この日に伝えるのは、やめにしました。

│ 伝えるのは、

│ ウサギさんの妊娠悪阻の症状が改善し、退院が決まったときか、

│ あるいは、

│ ウサギさんが産むのを諦め、堕ろすのを決心したときにしようと思いました。

│ 朝になってウサギさんの気が変わり、それをその後に来た母親に言ってしまって・・・という、

│ さっき懸念してたケースについては、

│ そのときはそのときで、

│ 直後のお昼の収録の際に伝えようと思いました。

│ もしそれができないのであれば、

│ その場合は、

│ 仕方ない、と諦めることにしました。

│ ひとり小さく頷いた僕は、

│ 『・・・分かった』と、ウサギさんに返しました。

│ その病室をあとにし、

│ 駐輪場で自転車に跨がり、夜道を走ってアパートに帰りました。

│ 以上、

│ かなり長くなってしまいましたが、

│ 僕からの補足(と言うには長文すぎる気もしますが)は、

│ 一応、これで終わりになります。

│ ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

└―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

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