28.バスが、終点のムラドウに到着した
バスが、終点のムラドウに到着した。
「ご乗車ありがとうございました。お気をつけてお降り下さい」
運転手のアナウンスがあり、
プシューという蒸気音とともに、ドアのスライドする音が聞こえた。
たちまち、車内は活気あるざわめきに包まれる。
あちこちから、
「あー、着いた着いた」
「いよいよ来たかー」
といった声が上がり、
乗客たちは、次々にシートを立ち上がった。
それぞれが、それぞれの降りる支度を始める。
自分の席の前で、窓側を向いて立っている若い女性。
顔を斜め上に向け、やや仰け反るような体勢で、
荷物棚のリュックに、両手を伸ばしている。
その隣では、
座ったままで、それを心配そうに見上げている年配の女性。
ときどき、何か声をかけている。
その女性たちの向こうでは、
大きめなリュックを背負った、若い男性が立っていた。
シートの背もたれに手を置き、
通路に出来た行列の行方を、じっと見守っている。
男性の後ろには、
同じくらいの年頃の、若い女性の姿があった。
自分の前に立つ、男性の首周りに両手を伸ばして、
襟を正している。
通路に出来た行列は、
じわじわと、少しずつ前に進んでいく。
バスを、ひとりひとり降りていく。
「着いたねー」
隣に座る少年が、こちらを振り返り、
笑顔で言った。
私は、
座ったまま、その少年を見て頷く。
「うん、着いた」
「降りないのー?」
「もう少し、空いてからにしようよ」
「うん、分かったー」
そう言った少年は、顔を窓の方に向けた。
左右の手を、片方ずつ順番にお尻の下へ挿し込み、
足を、ぶらぶらさせる。
私は、
通路の天井に設けられた時計に目を向けた。
12時31分。
昼食は、どうしようか。
車内の乗客が、だいぶ少なくなった。
私は立ち上がった。
息を吸いつつ、バンザイの格好。
気持ち良い。
息を吐き出し、両手を下ろし、
その手でスーツの裾を引っ張り、シワを簡単に伸ばしていく。
次いで横を向き、
やや反り返って、荷物棚を見上げる。
カバンの取っ手。
こちら側へと、はみ出している。
両手を上に、静かに高く。
スーツの伸びる音。
一方の手をカバンの持ち手に伸ばし、握り込み、
もう一方の手を、カバンの底へ。
息を止め、ずるずると引き出していく。
あるところで、
底に添えた手に、急にカバンの重みが乗っかる。
腕が沈みそうになり、咄嗟に力を入れ直す。
そのまま、慎重に下ろしていき、
体の向きを変え、
カバンを、シートのクッションの上に立たせる。
ふぅ・・・と、息をひとつ。
少年の方に、顔を向ける。
少年は、
両手をお尻の下に敷いたままで、座って私を見上げている。
「そろそろ降りようか」
「うん!」
少年は、すぐさまシートから飛び降りた。
こちらを向き、私を急かす。
「早く降りよー」
私は黙って頷くと、通路の方を振り返った。
行列は無くなっていた。
車内の乗客は、僅かに数人。
空っぽのシートが、
通路の左右に、ずらっと並んでいる。
私は、
シートに立たせた、自分のカバンに目を落とし、
その持ち手を握った。
カバンを、ちょっと高めに浮かせたあと、
そのまま通路へ出た。
バスの乗降口。
やや段差のあるステップを降りていく。
一段一段、慎重に。
一歩一歩、足場を確かめながら。
途中、顔を上げる。
大きな建物の、茶色いコンクリートの壁が、
正面に迫っていた。
標高2400mに位置する、ムラドウのバスターミナルだった。
私は、すぐに視線を足元に戻す。
ステップの、最後の段に足を下ろした。
続けて、逆の足を車外に差し出し、
そのまま、
ちょっと低いところの、アスファルトの路面へと下ろしていく。
・・・ドン。
着地の衝撃が、靴裏から胸の辺りまで伝わってくる。
すぐに、もう片方の足も下ろす。
少しだけ歩き、
後ろを振り返る。
少年は、
ステップの一番下で、足を揃えて立っていた。
顔を下に向けて、路面を見ている。
そして、
両膝を曲げると同時に、両手を後ろへ引き、
続けて、その手を前に振った。
ぴょん・・・と飛び降りた少年は、しっかりと両足で着地し、
下を向いたまま、息を吐いた。
顔を上げる。
私は、少年に向かって頷くと、
横を向いた。
バスを降りたばかりの人の列が、向こうへ延びている。
奥には、バスターミナルの入り口。
人々が入っていく。
私は、
何も言わずに、足を踏み出す。
「寒いねー」
歩いていると、
後ろから、少年の声が聞こえてきた。
確かに寒い。
身がすくむような寒さだった。
呼吸をすると、その通り道がスースーした。
空気は澄んでいて、とても冷たい。
透きとおるような冷たさが、
肌に、びっしりと押し付けられている。
スーツの首周りの、少し開いた隙間から、
冷え冷えとした空気が侵入し、
温もりを追い出し、
私の背中や胸の辺りを、そっと撫でていく。
私は、体をぶるっと震わせた。
立ち止まり、すぐに後ろを振り返る。
少年も足を止めた。
私を見上げる。
「なにー?」
「上着持ってるんだけど、着る?」
少年の服に目をやりながら、訊いてみた。
長袖のコットンシャツ。
見るからに薄そうで、やや頼りない。
「んー・・・。どんなのー?」
「作業服。紺色で長袖。
私のだから、ちょっと大きいけど」
「うーん・・・、」
少年は下を向き、考え込み、
それから、顔を上げて言った。
「いい」
「でも、風邪引くと困るし」
「いい。へいき」
「ホントに平気?」
「うん。へいきー」
私は、
そのまま、しばらく、
少年の顔をじぃっと見つめた。
「へいきだってばー」
少年が、そう言ったので、
私は、仕方なく前に向き直した。
入り口に向かって、再び歩き始める。
少年が、私の隣に並ぶ。
「ねぇ、やっぱ着ない?」
もう一度、訊いてみた。
「やっぱ着ない」
「お腹冷やすといけないから」
「お腹冷えない」
「本当?」
「ほんとー」
「念のため、着よ?」
「ヤダ」
「ケチ」
「ケチだもーん」
「じゃ、すごくケチ」
「すごくケチだもーん」
「すごくすごくケチ」
「すごくすごくケチだもーん」
「すごくすごく、とんでもなくウルトラスーパーデラック――」
「もー、」
少年は不満そうな声を出し、私の声を遮ると、
「そんなに難しくしたら、僕が覚えられないでしょー?」
と続けた。
「ごめん・・・」
「いいよー」
「お詫びに、上着を着せてあげるから許して」
少年は笑った。
「それ、ちっともお詫びじゃないじゃーん。
ヤダよー」
「ケチ」
「ケチだもーん」
「すごくケチ」
「すごくケチだもーん」
「すごくすごく・・・」




