255.外で ひっきりなしに鳴いてる虫たちの
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│ 外で ひっきりなしに鳴いてる虫たちの声に混じって、
│ 近所の家の、門の開く音がしました。
│ 間があって、
│ 小さく、「ただいまー」っていう声が聞こえ、
│ 再び、虫たちの声だけになると、
│ ワタシの隣に座ってたお母さんが、黙って立ち上がりました。
│ 庭に面してるほうの窓を閉めてる音が聞こえ、
│ ワタシの正面のお父さんも、少し遅れて立ち上がり、
│ リビングの、もうひとつの窓のほうへ行き、
│ そうして、
│ 窓を閉め終えたお母さんたちが、
│ ワタシの正面と隣にそれぞれ戻り、腰を下ろしました。
│ リビングの中は、
│ 虫たちの、少し遠のいた声だけになりました。
│ 沈黙が続いてました。
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│ 顔を俯けていたワタシは、
│ 座卓の手前の端と、
│ そのすぐ奥にある、膝上で握った自分の手に目を向けたままで、
│ ゆっくりと、
│ ただ、呼吸をし続けていました。
│ すぐ終わると思ってました。
│ “ワタシ、堕ろすことにする”って言って、
│ ちょっと説明して、
│ それだけのことだと思ってました。
│ 5分もかからないかも・・・って、思ってました。
│ でも、
│ いざそのときになると、声が出ませんでした。
│ 落ち着こうと思い、深呼吸を繰り返し、
│ そうして、
│ 頭の中でセリフを確かめたあと、改めて言おうとしたのですが、
│ 間が空いてしまったせいで、なんとなく言い出しにくくなってしまって、
│ それで、言えませんでした。
│ お父さんがお母さんに、
│ お兄ちゃんの帰ってくる時間を訊きました。
│ お母さんが、
│ お兄ちゃんは、今日は遅くなることを伝えると、
│ お父さんは、
│ そうか・・・って言ったあと、
│ 麦茶を少し飲んで、息をひとつ吐いて、
│ そのコップを静かに置きました。
│ 虫の声だけになりました。
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│ ワタシは、
│ 膝上の手を、ギュッと握りました。
│ そうして思いました。
│ 別に、怖がる必要なんてないじゃん。
│ お父さんは怒らないだろうし、
│ と言うか、むしろホッとするだろうし、
│ お母さんだって、
│ ちょっと驚くかもしれないけど、
│ でも、
│ 言ってたじゃん、どっちの選択でも応援してくれる・・・って。
│ だから、
│ 別に、怖がる必要ないじゃん。
│ 大丈夫じゃん。
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│ ワタシは、
│ お母さんの言ってくれた言葉を思い出していました。
│ “あなたの思うようにしなさい。
│ あなたの本当に望んでることをしなさい”
│ 息を、ゆっくりと吐いていきました。
│ 言おうと思いました。
│ そのとき、
│ ワタシの握った手に、お母さんの手が重ねられました。
│ 少し考え、
│ あぁ、代わりに言おうか・・・ってことかな、って気が付きました。
│ ワタシは、
│ 下を向いたまま、首を小さく振りました。
│ お母さんの手が引っ込みました。
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│ ワタシは、
│ そっか・・・って、思いました。
│ お母さんだって、
│ 昔、言ったんじゃん・・・って。
│ だったら、ワタシもそれで・・・って思って、
│ だから、
│ なんて言ったんだっけ・・・って、少し考えました。
│ 思い出しました。
│ そうだ、
│ “私、今回は諦める”だった、って。
│ でも、
│ あれ? 何を諦め・・・って考えた瞬間、
│ 今まで思い出さないようにしてた、
│ あの白黒の、そら豆の画像が、
│ ワタシの脳裏を掠めました。
│ 白い大きな波が繰り返し繰り返し上書きされていく様子が流れ、
│ 不思議な感覚を思い出し、
│ 途端に、
│ ワタシの胸が、強く締め付けられました。
│ 苦しくなり、
│ 呼吸が、少し荒くなりました。
│ 心臓がドキドキし始め、頭の痛みも増してきて、
│ そんな中、
│ ワタシは、
│ 下を向いたまま、ただ呼吸だけを繰り返してました。
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│ お母さんの手が、
│ 再び、ワタシの手に重ねられました。
│ 一瞬、
│ もうお母さんに頼ろうか、言ってもらおうか・・・って思いましたが、
│ でも、
│ すぐに、それはダメなことに気付きました。
│ ワタシは、
│ 再び、首を振りました。
│ お母さんの手が、
│ ちょっと間があってから、ゆっくり離れていきました。
│ ワタシが言わないと・・・って思って、
│ けど、
│ 少しして、
│ あれ? なんて言おうとしてたんだっけ・・・って思いました。
│ 言うつもりのセリフを、すっかり忘れてしまっていました。
│ ワタシは焦りました。
│ なんだっけ・・・、なんだっけ・・・って、
│ 必死になって思い出そうとしました。
│ でも、
│ 考えても考えても、思い出せませんでした。
│ 頭痛が酷くなってきて、
│ 軽い目眩もしました。
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│ もう、なんでもいいや・・・って思いました。
│ ただ単に、
│ 堕ろすとだけ言おう・・・って思って、
│ 呼吸を少し整えていました。
│ ワタシの手に、感触がありました。
│ お母さんの手が、
│ また、ワタシの手の上に重ねられていました。
│ ワタシは、
│ その手を見ながら、首を振りました。
│ でも、
│ そのままでした。
│ お母さんの手は、離れませんでした。
│ ワタシは、
│ もう一度、首を振りました。
│ でも、
│ お母さんの手は、離れませんでした。
│ ワタシの手の上に、重ねられたままでした。
│ あぁ、そうか・・・って思いました。
│ 応援してくれてるんだ・・・って思いました。
│ 勇気づけてくれているんだ・・・って思いました。
│ “頑張りなさい”って、お母さんの声が聞こえたような気がして、
│ その瞬間、
│ 目頭が熱くなって、
│ 胸が詰まってしまって、
│ ワタシは、咳き込んでしまいました。
│ 口元を片方の手で押さえ、
│ ゲホッ、ゲホッ・・・として、
│ その後、
│ 息をひとつ吐いて、
│ 目元を両方とも少し拭って、
│ その手を、自分の膝上に戻しました。
│ お母さんの手は、
│ まだ、そこにありました。
│ 置いてあったワタシの手の上に、重ねられたままでした。
│ “どんなことがあっても あなたたちのことを見捨てたりはしないわ、絶対に”
│ “何があってもあなたの味方。絶対に”
│ また、目頭が熱くなりました。
│ 有り難くて、幸せで、心強くて、
│ そのとき、
│ ふと、お母さんの小指の先に目が行きました。
│ 瞬間、
│ ワタシの脳裏に、
│ 白い、繭みたいな姿が浮かびました。
│ すぐ隣に、同じ大きさの白くて小さい丸いものが並んでいて、
│ そのふたつの周りには、
│ 何もない真っ暗な宇宙が、ただ大きく広がってました。
│
│ 胸が、また強く締め付けられました。
│ より一層苦しくなり、吐き出しそうになるくらい苦しくなり、
│ 顔をしかめたワタシは、
│ はぁ、はぁ・・・と呼吸をしつつ、
│ 空いてるほうの手で自分の胸を押さえて、少し前屈みになりました。
│ 薄い視界に、自分のお腹が映りました。
│ また、見えた気がしました。
│ ワタシは、
│ 自分の胸の辺りを、思い切り強く握りました。
│ 更に前へと体を屈め、すぐ目の前にある座卓に向かって、
│ ゲホッ、ゲホッ・・・と咳き込みました。
│ 息を震わせ、
│ ただ、懸命に呼吸を続けました。
│ お父さんが言いました。
│ 「おいおい、
│ ウサギ、大丈夫か?」
│ ワタシの背中をさすってくれていたお母さんが、言いました。
│ 「今日は、
│ もう、終わりにしましょ?
│ 休みましょ? ね?」
│ 「ウサギは いったいどうしたんだ。
│ 何を言おうとしてたんだ。
│ 知ってるんだろ?」
│ 「・・・この子ね、
│ 考える時間が欲しいんだって。
│ 今日、
│ 病院の先生に、そう言ってたわ」
│ 「・・・。
│ 考える、って言ってもだな・・・」
│ ワタシは、
│ 違う、って思いました。
│ そうじゃない、って思いました。
│ だから、口を開きました。
│ それを声に出し、伝えようと思いました。
│ でも、
│ その瞬間、どうしようもなく胸が締め付けられ、
│ 苦しくて堪らなくなり、
│ そうして、また咳き込んでしまいました。
│ ワタシは、
│ でも、言わないといけないって思って、
│ もう一度、口を開きました。
│ 「・・・」
│ でも、言えませんでした。
│ 声にならず、息だけが漏れました。
│ ワタシは、
│ 胸の辺りを強く掴んだまま、呼吸を続けました。
│ 意識がグチャグチャで、
│ 自分で自分が、
│ もう、よく分からない状態になっていました。
│ お母さんの声が響きました。
│ 「この子、
│ ここで、ちょっと休ませたほうがいいわ」
│ お父さんの声が響きました。
│ 「そうだな。
│ オレ、向こうから布団とか持ってくる」
│ 「お願い」
│ 「待って・・・」って、
│ ワタシは言いました。
│ お父さんの声が響きました。
│ 「ウサギ、
│ 大丈夫か。どうした?
│ なんだ?」
│ 「お父さん・・・と、お母さん・・・、
│ あのね・・・、」
│ ワタシは、
│ もう、お母さんが言ってくれた答えでいいや・・・って思ってました。
│ そうして、
│ あとで、改めて伝えよう・・・って思ってました。
│ けど、
│ 考えるだけのために通院し、もしかしたら入院までしたりして、
│ これ以上の負担を家族にかけるのは申し訳なく感じて、
│ それに、
│ このときのワタシは、
│ それは、もう口にはできないような気がしていました。
│ もうムリになった気がしました。
│ なので、
│ ワタシは、
│ 介抱してくれてるお父さんとお母さんに、こう伝えました、
│ 「ワタシ、
│ この子を、産む・・・」って。
│ 続きます。
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