25.「じゃあ、猫の話でもしようか」
「じゃあ、猫の話でもしようか」
私は、
天井に向けていた視線を、隣に座る少年に移し、
そう切り出した。
少年は、両方の足の先っぽを、
シートとシートの間の狭いスペースで、交互にバタバタと動かした。
「うん、」
少年は、そう返事をし、
「どんなお話?」
と言って、日に焼けた顔をこちらに向けた。
すぐ近くに、
少年の、あどけない顔。
汚れない、2つの大きな目。
私を見ている。
まっすぐな心で、私をじっと見つめている。
「・・・実家で、猫を飼っているんだ」
私は少年から目をそらし、前を向き、
話を切り出した。
「うん!」
すぐに、少年の元気な声が返ってきた。
猫の話は、好きなようだ。
「黒猫のメスで、全身まっくろ」
「うん」
「これくらいの大きさの頃から飼っていて」
私は、そう言って、
自分の手のひらを少年に見せ、
「いや、これくらいかな?」
と、
そこから、ほんの少しだけ指を曲げた。
少年は、私の手をじぃっと見つめた。
やがて、
自分のお尻の下に敷いていた手を、片方だけ抜き、
私の、軽く握り込んだ手の横に並べると、
熱心に見比べつつ、
その手を握ったり、少し戻したりした。
「これくらい?」
少年は、
ほんの少しだけ握りしめた小さな手を、こちらに差し出し、
私の顔を見上げ、尋ねた。
「うん、それくらい」
私が、そう返すと、
少年は、その手を自分の胸元に戻し、
じっくりと見つめた。
小さく、細かく、
何回か握り、
感触を確かめている。
少ししてから、
少年は、また顔をこちらに向けた。
「赤ちゃんの頃からー?」
少し嬉しそうにしながら、私に訊いた。
私は、少年に向かって頷いた。
「うん、多分」
「たぶん?」
「拾ってきた猫だし、正確には分からない」
それを聞くと、
少年は、急に表情を曇らせてしまった。
少し間を置いてから、
静かに私から視線を外し、目を伏せ、
力なく、項垂れてしまった。
そのまま、無言で前に向き直し、
軽く握った、その手を、
また、お尻の下に、
ゆっくりと差し戻した。
「・・・捨てられてたの?」
少年は、
俯いたまま、ポツリと尋ねた。
「うん。公園に捨てられてた」
「そっか・・・」
「妹が拾ってきたんだ」
「そっか・・・」
「小さな紙の箱に入れられてて・・・」
「・・・」
「みぃみぃと鳴いていて・・・」
「・・・」
「それで・・・」
「・・・」
少年は黙ってしまった。
背中を小さく丸め、両手をお尻の下に敷き、
うつろな表情で、
ただ静かに、
自分の膝の辺りを、じっと見つめている。
私は、口を開いた。
息を吸い込み、
息を止め、
少ししてから、小さく更に息を吸い込み、
再び息を止め、
やがて、
ゆっくりと、
そのまま、
何もしないまま、
その、開けた口を、
声を発することなく、
ただ静かに、
そっと、閉じた。
少年の横顔を、じっと見つめる。
窓の向こうに広がる、
夏の太陽に照らされた、光に満ち溢れた明るい世界。
次々に流れ行く、鮮やかな木々の緑。
その手前には、
項垂れた少年の小さな横顔が、影のように暗く。
止まった横顔。
沈んだ横顔。
少年は、凍りついたように動かない。
何も喋らない。
バスが、縦に大きく揺れた。
ガタガタン・・・という音とともに、
少年も私も、シートの上で小さく揺れる。
少年は下を向いたまま。
私は少年を見つめたまま。
揺れは、すぐに収まった。
バスのエンジン音が、再び聞こえるようになり、
その、細かい振動が、
シートから体の芯へと伝わってくる。
私たちを乗せた、大きな白い観光バスは、
舗装された山の道を、
晴れ渡る青空の下、
ただ、ひたすらに登っていく。
少年は、下を向いたままだった。
動かない。
私も、少年を見つめたままだった。
動かない。
ふたりとも、
そのまま、ひと言も喋ることなく、
しばらくの間、
ただ静かに、バスに揺られていた。