23.「ドアを閉めます」
「ドアを閉めます」
運転手の、穏やかな声のアナウンスが聞こえた。
バスのドアが蒸気音とともに閉められ、
乗客たちの話し声が車内から消えた。
しん・・・と、静まり返る。
「もう間もなくの出発です。
そのまま、しばらくお待ち下さい」
運転手が、そう続けると、
乗客たちは、すぐに話を再開させた。
車内の、あちこちが、
また、ざわざわと騒がしくなった。
少年は、こちらに背を向けて、
窓の外を、じぃっと眺めていた。
顔を、やや前方へ向けている。
その少年の後ろ姿を、
隣の席で、ぼーっと見ていると、
少年は、
片方の手を、恐る恐る顔の高さまで持ち上げた。
手のひらを窓の外に向けたまま、
左右に小さく、
ちょっと遠慮気味に、ゆっくりと振る。
誰かいるのだろうか?
シートに、もたれたままで、
その誰かを確認しようとしたが、
少年の体が、
窓の向こうの景色の、大部分を塞いでいた。
私は、背もたれから体を起こした。
改めて外を確認すると、
駅の建物の庇の下に、男性がひとり立っていた。
白いカッターシャツに、紺色のネクタイ。
黒い制帽。
年は私と同じか、やや若いくらい。
恐らく、別のバスの運転手だろう。
柔らかい笑みを浮かべたまま、
少年に向かって、顔の横で手を振っている。
私は、少年を見た。
少年は、笑っていなかった。
真顔のまま、
外に立つ男性に向かって、
その小さな手を、ゆっくり左右に振り続けている。
私は再び、
シートの背に、もたれかかった。
そろそろだと思うけど・・・。
視線を、ほんのちょっとだけ右上へ動かし、
車内のデジタル時計を見る。
《11 39》
次の瞬間、
消えていたコロンが現れると同時に、分の表示も切り替わった。
「それでは出発いたします」
運転手のアナウンスとともに、バスが動き出した。
クラクションが短く鳴らされ、
駅の建物の横を、そろそろと進んでいく。
少年は、徐々に後ろの方へ体の向きを変えていきながら、
手をゆっくりと振り続けていた。
そして、
ほぼ後ろ向きになったところで、振っていた手を止めると、
改めて窓の方に向き直した。
バスは、そのまま大きく旋回し、
片側一車線の、アスファルトの道路に入っていった。
道の左右には、
バスの屋根よりも高い木が、雑多にたくさん茂っていて、
それらの緑の葉っぱが、
窓のすぐ近くを流れるようになった。
車体が振動し、
ガタガタッ・・・と、大きな音を立てる。
エンジンの回転音が高くなっていき、
一瞬、静かになり、
ギアチェンジのあと、
再び、音が高くなっていく。
森の中にウネウネと続く、長い一本道を進んでいき、
少しずつ、山を上っていく。
バスは、
やがて、鬱蒼としたスギ林の中を走るようになった。
スギの木は、
どれもが、まっすぐ高々とそびえ立っていた。
10m以上は優にありそうで、
その葉も、
バスのシートに腰掛けている私たちの目線の、遥か上の高い場所で、
豊かに厚く、ワサワサと茂っていた。
果てしない広さの、澄んだ青空が、
今は、
ごく小さい、点のような見た目にされ、
それが、無数に散らばっていて、
まるで星のように、
あちらこちらで、キラキラと輝いている。
そんな、真っ昼間に広がる星空に向かって、
スギの茶色い幹は、
細く長く、まっすぐに伸び上がっていた。
薄暗い地面の、そこら中から、
何本も何本も伸び上がっていた。
見渡す限り、景色のずっと奥の方まで、
たくさんのスギの幹たちが、
空を目指して、
一斉に、一直線に伸び上がっていた。
それらは全て、
数十年、あるいは100年以上もの間、
いかな強風にも薙ぎ倒されることのなかった、
圧し折られることのなかった、
一度たりとも負けることのなかった、
立派で逞しい、力強いスギの幹たちだった。
その、しっかりとそびえ立つ幹たちは、
次々と窓の向こうに現れては、
何も言わずに、次々と後方へ流れていく。
しばらくすると、
スギ林に他の木々が混じり始め、
それに合わせて、
雑草やツタの姿も、よく見るようになった。
スギの木は、次第に少なくなっていき、
今はもう、
時折、
他の木々の中にポツンと立っているものしか、見かけなくなっていた。
バスが、
左へ右へ、大きく何度も旋回しつつ、
山間の森に続く、舗装された道路を登っていく。
ときどき、木々の隙間からは、
谷を挟んだ向こう側でこちらと平行に延びている、山々の尾根と、
その上にある青い空が覗く。
少年は、ずっと外を見ていた。
こちらに背を向けたまま、両手とも窓辺に置いて、
窓の向こうを、黙って見ていた。
私も、同じものを眺めていた。
シートに背を預けたまま、
少年の後ろ姿の向こうに広がる、
夏の、緑豊かな山の風景を、
ぼんやりと眺めていた。