203.病室のベッドで仰向けになり
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
│
│ 病室のベッドで仰向けになり、
│ ひとりで、点滴を受けていました。
│ ボーッと天井を見上げていたワタシは、
│ 診察の終わりのほうで先生に言われた言葉を、なんとなく思い出してました。
│ 「それと、
│ ウサギさんの容態がこのまま改善しないのであれば、
│ 近いうちに、入院が必要になってくると思います」
│ 外では、
│ 相変わらず、たくさんのセミたちが大きな声でミンミンと鳴いていましたが、
│ ワタシのいる病室はシーンとしていて、
│ ときどき、時計の針の振れる音が響きました。
│ 学校のみんなは、
│ 今は、お昼ゴハンの時間か・・・って、
│ その光景を思い浮かべました。
│ ドアが、2回ノックされました。
│ ワタシは、
│ 「どうぞー」って返しつつ、顔をそちらへ向けました。
│ ドアが少しだけスライドし、
│ その開いた隙間から、先生が顔を覗かせました。
│ 白衣は脱いでいて、紺色のシャツがチラリと見えていました。
│ なんだろう・・・って思いました。
│ 先生が尋ねました。
│ 「ウサギさん、ってさ、
│ さっきの診察のとき、確か、ポシェットを持ってきてたよね?」
│ 「え?
│ ・・・あ、はい、持ってましたけど」
│ 「それって、どんなのだった?」
│ 「えっと、
│ 白い兎の顔で、耳も付い・・・あ!」
│ すぐに上体を起こしたワタシは、
│ ベッド脇にある荷物カゴを見ました。
│ カラでした。
│ 先生が言いました。
│ 「受付の横を通ったとき、
│ 忘れ物用のカゴの中に、見覚えのあるポシェットがあってさ。
│ じゃあ、やっぱりウサギさんのか」
│ 「はい、多分・・・。
│ トイレを出ようとしたとき、
│ 個室のドアを閉め忘れたことに気が付いて、一度戻ったんですが、
│ そのとき、そのまま洗面台に置き忘れちゃったんだと思います・・・」
│ 「あぁ、そっか。
│ ごめんね、
│ ウチのトイレ、個室のドアが外開きだから、
│ 使ったあとは、わざわざ自分で閉めなくちゃいけないもんね。
│ つい、忘れちゃうよね。
│ 外に開くようにしているのは、
│ 個室の中で体調を崩された人を救助しやすいように・・・なんだけど、
│ ドアを閉め忘れてそのままトイレを出ちゃう人が、やっぱりときどきいてさ、
│ その度に、開きっぱなしのドアが通路を塞いじゃっててね。
│ もう少しトイレが広ければいいんだけどね。
│ ・・・よし、
│ じゃあ、今から持ってきてあげるよ。
│ ちょっと待ってて」
│ 「え?
│ あ、大丈夫です、
│ ワタシ、自分で取りに行きます」
│ 「すぐ近くだし、
│ それに、
│ 今はお昼休みで時間に余裕があるから、気にしないで。
│ じゃあ」
│ 先生は、そう言ってドアを閉めました。
│ 聞こえてくる音は、
│ また、窓の外で鳴くセミの声だけになりました。
│ 少ししてから、
│ 病室のドアが、再び2回ノックされました。
│ 「どうぞー」って返しました。
│ ドアが、ガラガラッ・・・と開き、
│ 紺のTシャツ姿の先生が現れました。
│ クリップボードを腋に挟んでいて、その手にはワタシのポシェットがあり、
│ 部屋の中に入った先生は、
│ 後ろにやった、空いてるほうの手でドアを静かに閉めました。
│ そうして、
│ その閉めた手で、逆の腋からクリップボードを抜きつつ、
│ こちらへ歩き出し、
│ 近付いてくると、
│ ポシェットをワタシのほうへ差し出しながら、
│ 「これ、そうだよね?」って言って、
│ ワタシのベッドの脇に立ちました。
│ ワタシは、
│ 「はい、そうです。
│ ありがとうございます」って返しつつ、
│ そのポシェットを受け取りました。
│ 先生が言いました。
│ 「良かった。
│ 一応、中身も簡単に確認しておいて。
│ それで問題が無ければ、
│ この紙の受取人の欄に、ウサギさんの名前を書いてくれるかな。
│ 日付も忘れずにね」
│ 「あ、
│ はい、分かりました」
│ 差し出されたクリップボードを受け取ったワタシは、
│ それを一旦置いて、ポシェットの中を簡単に確かめたあと、
│ 再びクリップボードを手に取りました。
│ ホルダーに嵌めてあったボールペンを外し、名前と日付を記入し、
│ 持っていたペンを元のところに嵌めると、
│ 顔を上げ、先生のほうを見ました。
│ 先生は、
│ 点滴スタンドに吊り下げられた、ワタシの点滴袋を見ていました。
│ ワタシは声をかけました。
│ 「・・・あの、記入しました」
│ 「あぁ、ごめんね」
│ すぐにこちらを向いた先生は、
│ ワタシの差し出したクリップボードを受け取ると、
│ それを左の前腕で抱えるように持ち、
│ 右手でクリップボードから外したボールペンを使って、
│ ササッと何かを書きました。
│ そうして、
│ ペンを元のところに嵌めると、クリップボードを持つ手を下ろし、
│ 顔をワタシのほうへ向けました。
│ 先生が、
│ 「具合はどう?
│ ちょっとは良くなった?」って訊きました。
│ 下を向いたワタシは、
│ 「えっと、その・・・、
│ よく分からないです・・・。
│ あまり変わってないような気がします・・・」って答えました。
│ 先生が、すぐに言いました。
│ 「ということは、
│ 悪くもなってない、かな?」
│ 「はい、
│ 悪くもなってないです」
│ 「そっか、分かった。
│ まぁ、でも、
│ 点滴で、水分とか足りないものをいま補給してるからね。
│ ちゃんと良くなるからね」
│ 「はい・・・」
│ 「じゃあ、
│ そろそろ行くよ。
│ 何かあったら、そこのナースコールで呼んでね」
│ 「あ、あの・・・」
│ 帰ろうとした先生を、ワタシは慌てて呼び止めました。
│ 先生は、
│ こちらに向き直したあと、
│ 「ん? なんだい?」って訊きました。
│ ワタシは言いました。
│ 「あの、ちょっと訊きたいことがあるのですが、
│ 時間って大丈夫ですか?」
│ 先生は、
│ 自分の腕時計で時間を確かめたあと、その手を下ろし、
│ ワタシを見て答えました。
│ 「大丈夫だよ。
│ 僕に訊きたいこと、って何かな?」
│ 「えっと、
│ 特別養子・・・組、だっけ?」
│ 「縁組。特別養子縁組」
│ 「あ。
│ はい、ありがとうございます。
│ その、
│ 産んだ人で、特別養子縁組を利用する人・・・って、
│ どれくらいいるんですか?
│ 多いんですか?」
│ 「全国的な統計の数は、調べてみないと分からないよ。
│ ただ、
│ ウチの病院に限って言えば、ほとんどいないね。
│ あったとしても、
│ 年に1件とか、それくらい。
│ 全ての妊婦さんに説明してるわけじゃない、ってこともあるし」
│ ワタシは、
│ 先生に向けていた視線を、自分の手元の兎のポシェットに落としました。
│ 「そうですか・・・」って返すと、
│ 先生が、
│ ちょっと間を置いてから言いました。
│ 「・・・まぁ、
│ 特別養子縁組を希望される人は、
│ だいたいが、11週を過ぎてからの来院の人だね、
│ ウチの病院では」
│ 「・・・」
│ ワタシは、
│ ポシェットに目を向けたまま、じっと考えていました。
│ 先生が、
│ 「・・・僕への質問は、以上かい?」って尋ねました。
│ ワタシは、
│ ちょっと躊躇ってから、口を開きました。
│ 「あの・・・、
│ やっぱり、
│ もう、生きてるんですよね?
│ 心臓だって、
│ その、動いてるし・・・」
│ 少し、間がありました。
│ 先生の声が返ってきました。
│ 「・・・生物学的には、そうだね。
│ 学者の多くは、
│ きっと、そう判断すると思う」
│ 「そうですか・・・」
│ 「でもね、
│ その判断の根拠が、
│ 心臓が動いているから・・・という人は、きっと少ないんじゃないかな。
│ エネルギー代謝・・・つまり、摂取した養分を自分のエネルギーに変換できていて、
│ 細胞の自己増殖も行なわれていて、
│ だから、お腹の中の子は既に生きている・・・って、
│ 多分、そういう考え方。
│ 要するに、
│ 受精したら、
│ かなり早い段階で、もう生きている・・・って見解になると思う、
│ 生物学者の多くは、ね」
│ 「・・・えと、
│ その、生物学的に・・・じゃなくて、
│ なんて言うか、
│ ちょっと言葉が思い付かないんですけど・・・」
│ 「世間一般的に・・・って、
│ もしかして、
│ ウサギさんは、そう言いたいのかい?」
│ 「あ。
│ はい、そうです。
│ 世間一般的には、どうなのかな・・・って。
│ ちょっと気になって・・・」
│ 再び、間がありました。
│ 先生が訊きました。
│ 「・・・ウサギさんのお腹の中に、
│ 既に、新しい命が宿っているかどうか・・・について、
│ 世間一般の人はどう判断するか、ってことで合ってるかい?」
│ ワタシは、
│ 下を向いたまま、黙って頷きました。
│ 聞こえる音がセミの声だけになり、
│ 少しして、
│ 時計の針の振れた音が響きました。
│ 先生の声が返ってきました。
│ 「・・・まぁ、
│ 多くの人は、新しい命が既に宿っている・・・と考えるだろうね、
│ 心臓が動いてることを知ったあとは、特に」
│ 「やっぱ、そうですよね・・・」
│ ワタシが静かにそう溢すと、
│ 先生が、すぐに言葉を付け足しました。
│ 「でもね、
│ 多いとは言っても、結局は人それぞれだよ。
│ まだ、そうじゃない・・・って考える人だっているし、
│ そう考える人は間違っている・・・とは、少なくとも僕は思っていない。
│ 何をもって命と見做すか・・・は、
│ 人によって異なっててもいいんじゃないか・・・って、そんな風に思ってる、
│ ・・・僕は、だけどね」
│ ワタシは、
│ ポシェットの白兎の顔を、じぃっと見ていました。
│ そのまま、
│ また、口を開きました。
│ 「・・・先生」
│ 「ん? なんだい?」
│ 「もうひとつ、訊い・・・あ、
│ でも、時間・・・」
│ そう言ったワタシが、顔を先生の方へ向けると、
│ 先生は、
│ 「あぁ、時間はまだ大丈夫。
│ 遠慮せず、なんでも訊いて」って返しました。
│ 「はい、ありがとうございます。
│ えっと、その・・・、」って口にしたワタシは、
│ 視線を、また手元に戻しました。
│ ちょっと間を置いてから、思い切って先生に尋ねました。
│ 「赤ちゃん・・・って、
│ いつ人間になるんですか?
│ 最初から人間・・・って、わけじゃないんですよね?」
│ 先生は答えました。
│ 「とても難しい質問だね。
│ まず、
│ 最初から人間である・・・と見做しているところもあるよ。
│ 僕の知ってる限りでは、
│ いくつかの宗教が、そういう考えだったはず。
│ 最初・・・ってのが、
│ 受精した瞬間なのか、子宮に着床したあとなのか、
│ あるいは、
│ もっと別の、ぜんぜん違うタイミングなのか・・・、
│ それは、ちょっと分からないけども」
│ 「・・・」
│ 「日本の法律で言えば、
│ 赤ちゃんがひとりの人間として扱われるのは、出産後だね。
│ 母親の胎内にいる間は、
│ 人としての権利とか義務は――」
│ 「あの・・・」
│ 先生の方へ顔を向け、口を挟もうとしたワタシを、
│ 先生は片手で制し、
│ そのまま、話を続けました。
│ 「人としての権利とか義務は、
│ お腹の中にいる胎児には、ほとんど与えられていない。
│ 僕の知ってる範囲だと、
│ 与えられているものは、相続権や損害賠償の請求権くらいだね。
│ 他は、
│ 恐らく、無いんじゃないかな。
│ 健康保険だって適用されないし。
│ ・・・で、
│ 世間一般の認識では・・・と、訊きたいわけだね?、
│ ウサギさんは」
│ そう言った先生は、
│ ワタシを見て、ニコッと笑いました。
│ ワタシは、
│ 視線を手元に戻しました。
│ 「はい・・・」って返しました。
│ 先生が言いました。
│ 「いつからが人間か・・・ということへの、世間一般の認識は、
│ さっきの、命の始まりの質問のときと似たような感じだね。
│ 最初から・・・という人もいれば、
│ 11週を過ぎたとき、
│ いや、21週を過ぎたとき・・・という人もいるし、
│ お腹の中にいる赤ちゃんのことを、ふと、そう思ったとき・・・とか、
│ あるいは、
│ 自分がそう感じていることに気が付いたとき・・・って人もいる。
│ 千差万別、人それぞれ。
│ 誰もが納得する、ハッキリとした明確な答えは無い気がするし、
│ 僕は、それで良いと思っている」
│ ワタシは、
│ 兎のポシェットをじぃっと見ていましたが、
│ やがて、
│ 「・・・ありがとうございました」って、静かに返しました。
│ また、会話が途切れました。
│ 病室に、時計の針の振れた音が響いて、
│ しばらくして、
│ それが、もう1度響きました。
│ 窓の外のセミたちは、
│ その間、ずっと鳴いてました。
│ 変わらぬ声で、
│ ずっと、ミンミンと鳴いてました。
│ 不意に、
│ 先生の声が聞こえてきました。
│ 「・・・話は変わるけれどもさ、
│ シュークリームが好きなんだ、僕は」
│ 「あ、はい。
│ ・・・え? シュークリーム?」
│ 思わずそう返したワタシは、先生を見ました。
│ 先生は、
│ 口元に笑みを浮かべた顔で頷き、話を続けました。
│ 「そう、シュークリーム。
│ カスタードと生クリームの両方が入った、ふわふわの大きいものが特に好きでね、
│ 勤務の日は、
│ 昼飯を顔なじみの定食屋で済ませたあと、
│ 帰りのコンビニで、そのシュークリームをひとつ買って、
│ で、ここに戻ってきたら、
│ そのまま裏口に行って、腰を下ろし
│ ひとり静かに食べる・・・ってのが、僕の日課なんだ。
│ 今日だって、
│ そこの角にあるコンビニで買っ・・・、」
│ 急に下を向いた先生は、息をひとつ吐きました。
│ 顔を上げ、
│ 「ごめんね、
│ そういうつもりじゃなかったんだけど・・・」って謝りました。
│ キョトンとしたワタシは、
│ 「えと、どういう・・・」って返しました。
│ 先生は答えました。
│ 「好きに食べられず苦しんでいる人の前で、
│ 今の話は、ちょっと軽率だったな・・・って思ってさ」
│ ワタシは、
│ 手を体の前で振りながら、
│ 「あ、
│ いえ、ぜんぜん大丈夫です。
│ ワタシも、
│ 先生に言われて初めて気が付きましたから」って言いました。
│ 先生は、
│ もう一度、「ごめんね。」って謝ったあと、
│ 話を続けました。
│ 「それでね、
│ コンビニでシュークリームを買うとき、
│ レジの横にいつも置いてあるんだ、・・・募金箱が」
│ 「分かります。
│ どこかで大きな地震や集中豪雨があったとき、よく置かれてるし、
│ ちょっと前にあった大震災のも、まだありますよね?」
│ 「そうそう。
│ で、
│ その、
│ ちょっと前にあった大震災の募金箱には、
│ お釣りの小銭を何回か入れたことがあるんだけどね、
│ でも、
│ それ以外の募金箱には、
│ 僕は、基本的にはお金を入れたことが無いんだ」
│ 「・・・」
│ 「海外で甚大な被害をもたらした大洪水や干ばつ、
│ マラリアとかエイズ、戦災孤児・・・、
│ 色々な募金箱を、今までたくさん見てきた。
│ けど、
│ そのどれもに、僕は募金しなかった」
│ 「・・・」
│ 「シュークリームを持ってレジに行き、お金を払い、
│ 返されたレシートとお釣りを財布にしまって、
│ 買ったものが入ったちっちゃいビニール袋を持って、
│ 満足して店を出る。
│ その繰り返し。
│ 葛藤すらしない」
│ 「・・・」
│ 「100円を入れるだけで救える命は、
│ きっと、今までいくつもあったと思うよ。
│ 分かってる。
│ ただ、
│ 僕は、実際にはそれをしなかったし、
│ これから先も、
│ 恐らくは、ほとんどしない」
│ 「・・・」
│ 「これは目の前で起こっていることじゃないし、
│ 直接、助けを求められたわけでもない。
│ それに、
│ 僕が募金しなくたって、別の誰かが募金してくれる。
│ 救ってくれる。
│ 多くの人たちが、そうやって他人任せにしているじゃないか。
│ 僕だけではないじゃないか。
│ だいたい、
│ このお金は、僕が自分のために働いて得たお金だ。
│ 好きに使って何が悪い。
│ 文句を言われる筋合いはない。
│ ・・・正当化の言葉は、いくらでも出てくる。
│ けど、
│ 救いの手を差し伸べようとしなかったことには変わらない。
│ 救えるかもしれない命から、目を背けたんだ。
│ 間接的に見捨てたんだ。
│ どう言い訳をしたとしても、
│ その事実には、なんら変わりない」
│ 「・・・」
│ 「でもね、
│ 僕は、それでいいと思ってるんだ。
│ 仕方ないと思っているんだ」
│ 「・・・」
│ 「みんな、
│ 基本的には、自分の幸せのために生きている。
│ 自分が幸せになるように、
│ 自分が幸せでいられるように、頑張っている。
│ それは悪いことではない。
│ 当たり前のことだし、
│ また、そうでなければならないと思う」
│ 「・・・」
│ 「他人のため、
│ あるいは、将来の自分のために、
│ 一時的に自分が不幸になることを望むのは構わないけど、
│ でも、
│ 最終的に自分が不幸になることを望むなんてのは、
│ 僕は、あってはならないことだと思っているし、
│ して欲しくない。
│ 誰であっても、何があっても、
│ 自分自身の幸せを願っていて欲しい。
│ 諦めないで欲しい」
│ 「・・・」
│ 「ただ、そうは言っても、
│ みんなが自分の幸せだけを追求し、好きなことを自由に行なうと、
│ 様々な問題が生じてしまう。
│ 社会全体が生きにくくなって、
│ 最終的には、ほとんどの人が不幸になってしまう。
│ なので、そういった悲しい事態を避けるために、
│ そうして、みんながなるべく幸せでいられるように、
│ 今日の日本では、
│ 各々が、自分の好きなことをある程度我慢しつつ暮らしているんだ。
│ その我慢というのが、
│ 法や礼儀と呼ばれる社会のルールだったり、
│ あるいは、
│ 自分自身の判断で行なう気遣い、心掛け、サポートだったり・・・、
│ つまりは、そういった類いのものなんだ。
│ 無論、それらの中には、
│ 本人にとっては我慢ではなく、好きでやってることもあるだろうけども」
│ 「・・・」
│ 「ここまで長々と理屈を語ってきたけどね、
│ 日々の生活における我慢・・・、
│ さっき僕の言った、法とか礼儀、気遣い等は、
│ 結局は、
│ 回り回って、自分自身の幸せのためだと思うんだ。
│ みんなが少しずつ我慢し、暮らしやすい世の中にして、
│ その状態をなるべく保つようにして、
│ そうして、
│ 自分を含めたみんなにそれぞれ降りかかるかもしれない大きな不幸を、
│ できるだけ避けようとするための知恵なんだ、
│ 僕の考えではね」
│ 「・・・」
│ 「募金箱だって、
│ きっと、そうした知恵の一部なんだ。
│ 無論、
│ 多くの人は、そんな小難しいことなんか考えずに、
│ 単純に、
│ ちょっと助けよう・・・って軽い気持ちで、お金を投じているんだと思う。
│ でもね、
│ そういった、助け合うのが当たり前の雰囲気が大事なんだ。
│ 自分が本当に困っているときは、余力のある誰かが助けてくれるだろうし、
│ そんなに困ってないときでも、
│ 周りの人たちが、普段から気軽に助けてくれる。
│ みんなで助け合い、毎日が少し暮らしやすくなる。
│ 社会全体が幸せでいられる」
│ 「・・・」
│ 「コンビニの話に戻るけどね、
│ そこで募金箱を見かけるたびにお金を入れて、
│ 給料のほとんどを募金に費やしていたらさ、
│ 今度は、
│ 僕や、僕の家族が不幸になってしまう。
│ 他のみんなだって、きっとそうだよ。
│ 同じように、ほとんどのお金を募金してたら、
│ その人や、その人の家族まで不幸になってしまう。
│ 回り回ってくるであろう自分の幸せのために行なっているはずなのに、
│ これじゃあ本末転倒だし、
│ それに何より、
│ 社会のために仕事で働き、それで得た報酬のほとんどを募金してたら、
│ まるで社会の奴隷じゃないか。
│ それって、本当に良いことなの?
│ 正しいことなの?
│ だいたい、
│ 募金しないで自分の好きな物を買ったとしても、
│ それは誰かの助けになってる。
│ 少なくとも、
│ その好きな物を作ったりするのに関わった人たちや、
│ それを売る店の人の助けにはなってるはず。
│ そっちは見捨てても良いわけ?」
│ 「・・・」
│ 「だから、
│ 募金をするかしないか・・・については、
│ 僕は、
│ 自分の中で、ある判断基準を持っていて、
│ それで線引きをしてるんだ」
│ 「・・・」
│ 「募金をすると自由に使えるお金が減るし、
│ 見返りだって、直接的にはほぼ期待できない。
│ それでも尚、募金したいのかどうか・・・、
│ その人たちに力を貸したいと、
│ 心の底から強く思っているのかどうか、ってね」
│ 「・・・」
│ 「要するに、
│ 募金については、
│ 僕は、
│ 力を貸さなければならない・・・といった使命感や義務感よりも、
│ 力を貸したい・・・と強く思ってるかどうかを優先し、
│ それで判断しているんだ。
│ ある意味では、見て見ぬ振りを正当化している冷たい考え方だけれども、
│ でも、こういった考え方をしないと、
│ さっきも言ったように、
│ 僕は給料のほとんどを募金しなければならなくなり、
│ 生活が苦しくなって、
│ 最終的に、家族全員が不幸になってしまう。
│ なので、
│ これは仕方ないことなんだ・・・って割り切ってる。
│ 申し訳ない気持ちも多少はあるけれども、
│ でも、そういうわけで、
│ 募金については、
│ したいと思ったときにだけ、することにしている。
│ それで良いじゃないか、って思ってる」
│ 「・・・」
│ 「で、
│ レジの隣にいつも置いてある募金箱の話だけどさ、
│ その箱に貼ってある紙に書かれた、海外での様々な事柄については、
│ 残念ながら、
│ 僕の中に、そこまでの強い感情は湧いてこなかったんだ。
│ だから、
│ 今まで、お金を入れてこなかった。
│ ずっとスルーし続けてきた。
│ ただ、
│ ちょっと前に起こった大震災の募金箱を見たとき、
│ 昔、
│ 里帰り出産でウチに来てた夫婦の顔が、ふっと目に浮かんでね、
│ それで・・・」
│ 「・・・」
│ 「そうしたらさ、
│ その日の午後はちょっとだけ気分が良くてね、
│ 仕事の調子も少し良かったんだ。
│ で、それ以降は、
│ ときどき気が向いたときに募金するようになった。
│ あ、
│ でも、今日はしてなかったな。
│ 明日はしようかな、
│ ・・・覚えていたら、だけど」
│ 「・・・」
│ 「でね、
│ 同じように考えたら良いんじゃないかな、
│ ・・・産むかどうかの問題についても」
│ 「え?」
│ 顔を上げたワタシは、先生を見ました。
│ 先生は言いました。
│ 「僕が募金をするとき、ってさ、
│ 募金をしないといけない・・・とか、やるべきだ・・・とか、
│ そういった使命感や義務感よりも、
│ 募金をしたいのかどうか・・・という自分の気持ちを優先し、
│ それで判断してる、って言ったでしょ?
│ ウサギさんの妊娠についても、
│ 同じように考えてみたらどうかな、って思ってね」
│ 「・・・」
│ 「産まないといけない・・・とか、産むべきだ・・・とか、
│ そういう使命感や義務感よりも、
│ 産みたいのかどうか・・・という、
│ 自分の気持ちのほうを優先してみたらどうかな、ってね。
│ なんとなく・・・だけども、
│ ウサギさんは、
│ 出産するか否かを善悪で判断しようとしている風に、僕には思えてさ。
│ どちらの選択が正しいのだろう、って」
│ 「・・・」
│ ベッド脇に立つ先生を見上げていたワタシは、
│ その顔を俯け、
│ 次いで、ゆっくりと前に向き直しました。
│ 手元のポシェットをじぃっと見ました。
│ 先生が、話を続けました。
│ 「出産する・・・となると、
│ 妊娠した本人にも、その周りにいる人たちにも、
│ やっぱり、それなりの負担がどうしてもかかってしまうんだ。
│ 長期間に渡り、様々な面で我慢を強いられる。
│ そうした様々な我慢をひとつひとつ乗り越えていくための、一番の原動力って、
│ 僕は、今まで1000件以上もの出産に医者として関わってきたけれども、
│ 多くの人で、ともに同じだったように感じられたよ」
│ 「・・・」
│ 「お腹の中にいる子を、どれほど大切に思っているのか。
│ どれほど身近に、どれほど愛おしく感じているのか。
│ 実際に会える日や、その甲高い産声の聞ける日を、
│ どれほど楽しみにしているのか。どれほど待ち遠しく思っているのか。
│ 産んだばかりの自分の子をこの手に優しく抱いて、
│ すぐ目の前にある小さい顔に微笑みかける、その瞬間を、
│ どれほど夢見て、どれほど望んでいるのか。
│ どれほど懸命に希っているのか・・・。
│ そういった、
│ たくさんの強い気持ち、たくさんの強い想い、たくさんの折れない心、
│ 要するに・・・愛情だよ。
│ それが、
│ 様々な我慢を乗り越えていくときの、一番の原動力になった・・・って、
│ 僕には、そう感じられた。
│ 妊婦さんだけじゃなく、
│ 周りの人たちにとっても、ね」
│ 「・・・」
│ 「ウサギさんの場合、
│ 産むとなると、
│ 普通のケースよりも、
│ 恐らくは、様々な面でちょっと多めの我慢が要求されると思う、
│ ウサギさん自身だけじゃなくて、周りの人たちもね。
│ だから、
│ 自分の気持ちを知ること・・・って、
│ 尚のこと、大切なんじゃないかな。
│ 妊娠していることが分かって、
│ 今の自分は、どう思っているのか。
│ どう感じているのか。
│ 仮に、産みたいと思っているようなら、
│ じゃあ、
│ その、産みたい気持ちはどれくらいあるのか。
│ 反対する人たちを説得し、協力を仰ぎ、
│ 様々な我慢を一緒に乗り越えていけそうなほどに、それは強いものなのか、
│ 揺るぎないものなのか・・・。
│ そうした見極めが今のウサギさんにとっては重要で、必要なことじゃないかな。
│ そして、
│ 自分の中の気持ちが、それほどには強いものでない・・・と感じたら、
│ 少し足りないような気がしたら、
│ そしたら、仕方ないんじゃないかな。
│ 気持ちが不十分な状態だと、
│ やっぱり、色々と難しいと思う」
│ 「・・・」
│ ワタシは、
│ 手元に目を向けたまま、黙ってました。
│ セミたちの声が、
│ 室内に、ミンミンと響いてました。
│ 先生が、
│ 再び、話を始めました。
│ 「我が子への愛情・・・ってさ、
│ いわゆる普通の恋愛感情とは少し異なるものだ・・・と思ってるんだ。
│ どちらかと言えば、
│ 親とか兄弟に対して抱く家族愛の方に似ているかな。
│ でも・・・、
│ そうだね、やっぱりそれとも少し違う気がする、
│ 僕の場合は・・・だけどね」
│ 「・・・」
│ 「昔、
│ 僕がこの病院に勤め始めて、だいたい2、3年が過ぎた頃、
│ 色々なことが分かってきて、仕事にもだんだんと慣れてきた頃の話だけどさ、
│ 日々、診察のために訪れる妊婦さんたちを診ていて、
│ 不思議だな・・・と感じていたことがあったんだ。
│ 妊婦さんたちの、我が子への愛情ってのは、
│ 前もって話には聞いていたけれども、
│ 実際に目の当たりにすると、その聞いていた話以上に並々ならぬものがあってさ、
│ 正直、これは相当に難しいだろうな・・・って僕が思ってしまう状況においても、
│ 彼女たちはなかなか諦めようとせず、
│ その凄まじい熱意や執念で以って必死に抵抗し続けて、
│ ときには、本当にどうにか切り抜けてしまう。
│ そうした妊婦さんたちの姿を見てきてね、
│ その意思の強さに驚かされる同時に・・・不思議だったんだ、
│ 人にそこまでの力を出させる、我が子への愛情・・・ってものが」
│ 「・・・」
│ 「一般的には、
│ こうした妊婦さんたちの愛情は、母性本能・・・という言葉で解釈されるし、
│ それはそういうものだから当然だ、何も不思議なことではない・・・って、
│ 簡単に片付けられてしまう。
│ けれど、当時の僕は、
│ そういった答えに、なんとなく納得がいかなくてね・・・。
│ どういうものか、もっとちゃんと知りたかったし、
│ そんなにも愛おしく感じるのは何故なのか、自分なりに理解したいと思ってたんだ。
│ とは言え、
│ 診察に訪れた妊婦さんたちに訊くわけにもいかないからさ、
│ だから、ときどき、
│ 就寝前とかシュークリームを食べてるときとかに、ひとりで考えてたんだ。
│ その頃の自分の中にある感情で、それに一番近そうなものは、
│ 恋愛感情だった。
│ 好きな人のためになら、
│ 僕も、大抵のことは頑張れそうだったからね。
│ でもね、
│ ちょっと違うな・・・って思ったんだ。
│ 好きな人のために・・・というのは、
│ 例えば、
│ その好きな人が喜んでくれるから・・・みたいな、
│ 自分にとっての、なんらかのプラス要素が割とあったりするものだけど、
│ 妊婦さんたちの、我が子に対する愛情は、
│ どうも、そうじゃないように感じられたんだ。
│ 無条件な気がしたんだ。
│ だとしたら、
│ 近いのは、親とか兄弟に抱く家族愛だろうか・・・って考えた。
│ けど、
│ それとも、少し違う気がしたんだ。
│ もっと激しくて、
│ もっと絶対的な、抗いようのない感情みたいな気がしたんだ。
│ じゃあ、なんだろう、
│ どんな感じのものなんだろう・・・って、
│ そうやってね、
│ ときどき、ひとりでボーッと考えてたんだ。
│ でも、
│ 納得のいく上手い答えは、結局、見付けることができなくてね、
│ いつしか、それを考えることを忘れてしまって、
│ この病院での日々の業務に、ただ没頭するようになっていったんだ」
│ 「・・・」
│ 「その後、数年が経った頃・・・今から12年前のことだけれども、
│ 僕の家内が妊娠した。
│ で、9月頃だったかな、
│ 家内のお腹が既にだいぶ大きくなっていて、
│ 足の爪が自分じゃ切りにくくなってたから、代わりに僕が切ってたんだ。
│ 家内の、
│ 機嫌良さそうにして、
│ 胎教用の本をお腹の赤ちゃんに読み聞かせている声を耳にしながら、
│ 僕が爪切りを使って、
│ パチッ、パチッ・・・と家内の足の爪を切っているときにね、
│ ふと思い出したんだ。
│ そういや昔、
│ 妊婦の、我が子への愛情について、
│ あれこれと考えを巡らせていたなぁ・・・って。
│ その頃の僕は、
│ 家内のお腹の中にいる、自分の息子への愛情は既に持っていてね、
│ 息子がもうすぐ産まれてくることを考えるだけで、
│ 心の底から幸せな気持ちと温かな感情が込み上げてきて、
│ たとえ仕事でどんなに疲れていたとしても、
│ すぐに、頑張ろう・・・って気になれたんだ。
│ やる気が自然と湧いてきた。
│ ただ、そうした僕の中にある愛情も、
│ 僕の家内や、他の妊婦さんたちのそれと比べると、
│ やっぱり、
│ まだ いくらか弱いような気がしてね・・・、
│ 自分は少し薄情なんだろうか・・・って落ち込む気分になると同時に、
│ なんだかちょっと悔しくなってきて、
│ どうしてだろう、何か理由でもあるのだろうか・・・って思って、
│ それで、
│ 家内の足の爪を切りながら、僕は訊いてみることにしたんだ。
│ なぁ、ちょっといいか。
│ なぁにぃ?
│ お腹の中の赤ちゃんのこと、なんでそんなに愛おしいわけ?」
│ 「・・・え?」
│ 顔を思わず上げたワタシが先生を見ると、
│ 先生は、
│ 下を向いたまま、軽く笑ってました。
│ そうして、少しすると顔を上げ、
│ 笑みを浮かべながら、その後の続きを話し始めました。
│ 「家内からの返事は無かった。
│ あれ?、聞こえなかったのかな?・・・って思って、
│ もう一度訊こうとした瞬間、
│ あ!・・・って気が付いたよ。
│ いや!、違うんだ。そういう意味じゃないんだ!・・・って、
│ 慌てて取り繕いながら顔を上げたらさ、
│ 家内が、胎教の本の向こうから物凄い顔してこっちを睨みつけててさ、
│ ゆっくり、静かに、
│ 僕に向かってこう言ったんだ、
│ ・・・じゃあ、どういう意味?、って」
│ 「・・・」
│ 「怖かったよ。メチャクチャ怖かった。
│ で、
│ 全身に冷や汗をかきながら、必死になって僕は弁解したんだ。
│ 昔、
│ 妊婦さんたちの、我が子への愛情について考えていたこと。
│ 納得のいく答えが見付からなかったこと。
│ 爪切りのとき、
│ それを急に思い出したこと。
│ 僕の中には、
│ 自分の子に対しての愛情が、今はまだそれほど強くないこと。
│ それで、
│ 愛おしい理由が何かあるのかな・・・と思って、訊いてみたこと。
│ そしたら、家内が大きくため息をついてね、
│ 僕にこう言ったんだ、
│ 愛情って、そもそも理屈じゃないでしょ・・・って。
│ その瞬間、ハッとした。
│ あぁ、そうか、
│ 理屈じゃないんだ。
│ だから、愛おしいことに理由なんか無くて、
│ だから本能なんだ。
│ それだけのことなんだ。
│ こんな簡単なことに、どうして今まで気付けなかったんだろう・・・」
│ 「・・・」
│ 「そうしてね、
│ ひとりでボーッとしていたら、家内が続けて言ったんだ。
│ あなたの中の赤ちゃんに対する愛情が、今はまだそれほど強くない・・・ってのは、
│ 要するに、私と比べて・・・ってことでしょう?
│ そんなの仕方ないでしょ。
│ だって、お腹の赤ちゃんと私は、
│ 世界一近い距離で、
│ 24時間、ずっと生活を共にしているのよ?
│ 結婚式のセリフじゃないけど、
│ 病めるときも健やかなるときも、ひと時も離れることなく、
│ 繋がったまま、ふたり一緒に暮らしているのよ?
│ ときどき、
│ こっちの都合とか一切お構いなしに、お腹の中から殺人的な力で蹴っ飛ばされて、
│ 一瞬、うっ・・・って息が詰まって苦しい思いをしたりするけれども、
│ でも、それさえも愛おしいわ。
│ 可愛くて可愛くてしょうがない。
│ そんな私と比べて、
│ あなたの愛情がまだそれほど強くなかったとしても、何も不思議じゃないし、
│ むしろ、そっちの方が普通でしょ?
│ それにね、
│ あなたは職業柄よく分かっているだろうけど、
│ 親が、自分の子に対して強い愛情を持つようになるタイミング・・・って、
│ 性別差だけじゃなく、個人差もあると思うの。
│ 私の友達にね、
│ 妊娠しているときも、出産後も、
│ その赤ちゃんに対して、はっきりとした愛情を持てなくて、
│ 真剣に悩んでる子がいたのよ。
│ 自分はもしかしたら冷たい人間なんじゃないか・・・って、
│ 事あるごとに落ち込んでた。
│ でもね、
│ その友達は全然冷たい人間なんかじゃないのよ?
│ 優しくて、とても良い子なの。
│ 当時の、その友達は、
│ 産まれたばかりの赤ちゃんの世話に追われて、極度の寝不足になっていたし、
│ 産後鬱の影響もあって気が塞ぎがちでね、
│ それで私、心配だったから、
│ よく友達の家に行って、
│ 子守や家事を手伝ったり、話相手になったりしてたの。
│ でね、それから何ヶ月か経ったときにね、
│ 友達からメッセージが届いたの。
│ “娘のことをようやく愛おしく思えるようになった。嬉しい・・・”って。
│ なんかね、
│ ベビーベッドで寝ている赤ちゃんのために、
│ 歌を口ずさみながら、手であやしてたんだって。
│ そしたらね、ふと、
│ この娘も、あと数年したら歌を歌うようになるんだろうな・・・って思って、
│ その歌ってる姿と声を何気なく想像してたら、
│ 今あやしている赤ちゃんのことが、可愛くて可愛くて堪らなくなって、
│ それで、
│ この子を幸せにしてあげたい、この子のために頑張りたい・・・って、
│ 初めて心の底から思えるようになったんだって。
│ その友達、すっかり親バカになっちゃってね、
│ 何かにつけて、
│ 可愛い可愛いって、しょっちゅう写真やら動画やらを撮ってて、
│ 今、その子の弟か妹を妊娠してるわ。
│ だからね、
│ 親としての、自分の子への愛情ってね、
│ たとえ、芽生えてくるのが遅かったとしても、
│ それは、
│ 冷たいとか薄情とか、
│ そういうこととは、あまり関係が無いと思うの。
│ 少し慎重になっているのよ、きっと。
│ 自分にとって、その子は、
│ これから先、なんの疑いもなく本気で愛してしまっても構わない存在なのか、
│ 自分の人生の多くをその子のために費やすことになってもいいのか・・・、
│ そうしたことを自分の中の本能が見極め、覚悟するのに、
│ きっと少し慎重になっていて、
│ それで、
│ 愛情が本格的に湧いてくるのに、ちょっと時間がかかっているだけなのよ。
│ 冷たいわけじゃないと思う。
│ ほら、人見知りの人と似たような感じよ。
│ 人見知りの人だって、打ち解けるまでに多少時間がかかるけれども、
│ でも、
│ いったん仲良くなってしまえば、意外とこまめに気を遣ってくれたりして、
│ 実は優しかったりするでしょ?
│ 別に、冷たい性格ってわけじゃないでしょ?
│ それと同じよ。
│ 少し慎重なだけ。
│ だいたい、
│ 自分に強い愛情がなかなか湧いてこなくて、それで悩むような人が、
│ 冷たかったり、薄情だったりするわけがないでしょ?
│ 焦らずに待っていたら良いのよ。
│ そのうちあなたも、
│ 心の底から可愛くて可愛くて仕方なくなるわ。
│ ねー、
│ そうだよねー、たーくん。
│ ・・・僕の家内は、
│ 自分の大きなお腹にそう声をかけたあと、
│ 本の読み聞かせを再開させ、
│ 僕のほうも、その機嫌良さそうな声を聞きながら、
│ また、家内の足の爪を、
│ パチッ、パチッ・・・と切っていったんだ」
│ そこまで語り終えた先生は、
│ ふぅ・・・って、軽く息をつきました。
│ ワタシは、
│ 先生に向けていた視線を、ゆっくりと手元に戻しました。
│ 先生が、話を更に続けました。
│ 「・・・僕がウサギさんに言いたいのはね、
│ 我が子への愛情って、
│ きっと、そういうものだと思うよ・・・ってことなんだ。
│ その中心的な部分は理屈ではなく、本能なんだ。
│ 頭でいくら考え、いくら頑張っても、
│ 心のほうが動いてくれないと、結局はどうにもならない。
│ 頭が決めるものではなく、心が決めるもの・・・要するに、
│ 良くも悪くも、自分の意思では完全にはコントロールできないものなんだ」
│ 「・・・」
│ 「ウチに診察に訪れる人でね、
│ ウサギさんみたいに、
│ まだ なんの準備も覚悟もできていない状況での、突然の妊娠で・・・って人は、
│ ちょくちょくいるんだ。
│ それで、
│ 様々な事情があって産まないことを選択し、
│ 中絶の手術を受けることになって、終わって、
│ その麻酔から目覚めたとき、
│ たまに、そのまま声を上げて泣き出してしまう人がいてね・・・。
│ ごめんなさい、ごめんなさい。
│ 私を許して。
│ ごめんなさい、ごめんなさい・・・って。
│ その度に、
│ 僕は、
│ 仕方のないこともありますよ、そんなに自分を責めないでください・・・って、
│ 声をかけるんだけど、
│ でも、なかなか泣き止まなくて・・・。
│ そうした姿を目にするのは、やっぱりツライし、
│ その人が少し落ち着いてきて、
│ 静かにお礼を言って、帰っていったあとは、
│ 毎回、やるせない気持ちになってしまう」
│ 「・・・」
│ 「募金箱の話のあとにも言ったけどさ、
│ 出産に至る過程や、その後の育児に関する様々な困難を乗り越えるためには、
│ やっぱり、それなりの強い愛情を持って臨まないと厳しい気がするんだ。
│ そして、その愛情も、
│ 自分の思い通りに、自由にコントロールできるわけではない。
│ 自分の意思の力ではどうにもならない部分って、結構大きいと思うんだ。
│ だからね、
│ 中絶を選択した人たちには、
│ あまり自分を責め過ぎないでほしいな・・・って、僕はそう言いたいんだ。
│ 反省すべき点があったのならそれを反省する。
│ 次からは気を付ける。
│ でも、そのあとは、
│ また、いつもの自分に戻って、
│ いつものように毎日を普通に過ごしたら良いんじゃないかな・・・って思う。
│ 後ろめたさをずっと引きずったまま生きる必要は無いんじゃないかな・・・ってね。
│ 人間は万物の霊長・・・って言うけどさ、
│ でも、万能なわけではない。
│ できないことは、たくさんあるし、
│ 諦めないといけないことだって、たくさんある。
│ 僕たちは、誰ひとりとして神様ではない。
│ みんな、
│ 自分の未熟さをある程度受け入れ、
│ その未熟さを、ある程度許しながら生きている。
│ みんなが、そう。
│ だから・・・、
│ それで良いんじゃないかな。
│ 気兼ねなく、普通に生活しても良いんじゃないかな・・・って、
│ 僕は、そう思ってる」
│ 「・・・」
│ 「・・・で、
│ その、自分の未熟さの例じゃないけどさ、
│ 僕には、
│ この20年近くやってる仕事の中で今も悩むことがあったり、
│ どうするのが最善か、
│ 自分の中での、定まった答えがまだ見付かっていない問題が色々あってね、
│ そのひとつが、
│ 超音波検査のときの、お腹の赤ちゃんの、もう動き始めている心臓音の波形を、
│ 妊婦さんに見せるかどうか・・・って問題なんだ。
│ 出産する意思のある人には、波形を見せてもなんの問題も無い。
│ ただ、出産する意思の無い人や、
│ あるいは、迷っている人に対してはどうなんだろう・・・って」
│ 「・・・」
│ 「僕は医者だからさ、
│ ウチの病院に来た人に対しては、
│ 誰であっても、どんな事情があっても、
│ 基本的には、助けることを第一に考えたいんだ。
│ たとえ、それが、
│ 法的には、まだ人ではないと見做されている存在であっても」
│ 「・・・」
│ 「無論、
│ その存在の親である妊婦さんやパートナー、両人の家族等の周りの人たちも、
│ 各々で、様々な事情を抱えている。
│ それは分かる。
│ ただね、
│ 被害に遭った等の、特別な事情が無い限りは、
│ せめて、真剣に悩んで欲しいんだ。
│ 真剣に悩んだけど、
│ でも、
│ 今の状況では、私たちには厳しそうだった。そこまでの無理はできない。
│ 産むことはできない。
│ ・・・それだったら、僕は一向に構わない。
│ 仕方ないと思う。
│ でもね、
│ どう考えてもそうは見えない人たちも、ときどきウチに来るんだ。
│ 厄介払いをするかのように、中絶を望む人がいる。
│ ・・・腹が立つと同時に、忍びなくてね。
│ だから、
│ そういう人たちに対して、どうしても我慢できないとき、
│ 心臓音がもう確認できる状態であれば、
│ その波形を、敢えて見せることにしているんだ。
│ ちゃんと悩んで欲しくてね」
│ 「・・・」
│ 「勿論、
│ 大抵の場合、すごくイヤな顔をされるし、
│ 怒られたこともある。
│ なんでこんなものを見せつけるんだ。私を苦しめたいのか。
│ あなた方は、そうやって偉そうにちょっと言うだけで終わりだけど、
│ こっちは、
│ 産むとなると、これから20年近くも色々なことを我慢し、
│ 多くのことを犠牲にし、
│ そうやって、自分の人生をかけて頑張らないといけないんだ。
│ そんな簡単に言わないで欲しい。
│ あなた方の理想や満足感のために、私たちはそこまでしたくない。
│ あなた方は、
│ ただ言われた通り、黙って中絶の手術をしろ。
│ 余計なことをするな」
│ 「・・・」
│ 「分かるんだ、その気持ちも。
│ だって、これってさ、
│ さっきの、募金するかしないか・・・の話と似ているじゃないか。
│ コンビニで、
│ いつものように僕が募金箱をスルーしてレジをあとにしようとしたら、
│ 急に店員が自分のポケットから写真を出し、それを見せてきて、
│ その写真には、災害に遭って困窮している人々の様子が写っていて、
│ で、
│ どうしてあなたは募金しないんですか?、
│ 彼らを見捨てるんですか?、大切な命を助けないんですか?、
│ 同じ人間でしょう?・・・って、
│ 店員に、偉そうにそう諭されるようなものでしょ?
│ そんなことされたら、僕だって腹が立つよ。
│ 余計なお世話だし、
│ あなたの理想や満足感のために、
│ あまり気の乗らない募金をわざわざしたくない・・・って、
│ 心の中で文句を言うよ。
│ その店には二度と立ち寄らないし、
│ その後も、
│ きっと、
│ それまで通り、募金はほとんどしない。
│ 冷たい言い方だけど、
│ それほど特別な感情を持てない人たちのために、僕は我慢したくない。
│ 自分の幸せのための権利を手放したくない」
│ 「・・・」
│ 「これも、さっき話したことだけど、
│ 妊娠した子を、
│ いつから命ある存在と見做すか、いつから人と見做すか・・・については、
│ どうしても個人差があるし、
│ 愛情を持てるようになるタイミングだって、個人差がある。
│ まだ命は宿っていない、まだ人ではない、
│ まだ自分の中に愛情が湧いてきていない・・・そう感じている人たちに向かって、
│ じゃあ、
│ その、お腹の中の、まだ特別な感情を持てない存在のために、
│ これから先、20年近くにも及ぶ長い苦労を覚悟した上で、
│ ちゃんと責任を持って産んでください・・・って、僕は言えるのだろうか、
│ その資格はあるのだろうか・・・、
│ 特別な感情を持てないからと言って、普段から募金箱をスルーしている僕に」
│ 「・・・」
│ 「だから、
│ 心臓音の波形を見せて、文句を言われた際には、
│ 僕は、
│ 分かりました・・・とだけ言って、すぐに次の話へ移ってる。
│ そして、
│ あとあとになって、ときどきひとりで悩んでる。
│ どうしたらいいんだろうか・・・って」
│ 「・・・」
│ 「出産を迷っている人たちに対してだって、同じように迷う。
│ 動き出した心臓の音の波形を見せれば、
│ 妊婦さんや、そのパートナーは、
│ お腹の中の子が既に命を持っていることを、否応なく強く意識する。
│ 中絶を選択しづらくなり、
│ 仮に、それでも中絶せざるを得なくなった場合、
│ その妊婦さんは、
│ 多かれ少なかれ、余計に苦しむことになる。
│ 彼女たちの心に、より深い傷痕を残すことになる。
│ だとしたら、
│ 心臓音の波形を見せるのは、
│ 産みたい・・・という結論が、ちゃんと出されてからのほうが良いのではないか。
│ 迷っている段階で見せてしまうのは、時期尚早なのではないか」
│ 「・・・」
│ 「だからね、
│ 僕の中に、実は少しだけ葛藤があったんだ、
│ ウサギさんのときも。
│ ウサギさんの場合、
│ 特に、事情が事情だからね・・・、
│ もしかしたら、
│ まだ、見せない方が良いんじゃないか・・・って」
│ 「・・・」
│ 「でも、僕は見せてしまったし、
│ 特別養子縁組についても、そういうシステムがあることを教えてしまった。
│ 結果として、
│ ウサギさんを、こうして余計に苦しませることになってしまって、
│ 今、ちょっと申し訳なく思ってる。
│ 謝って済む問題じゃないけどさ・・・」
│ ワタシは、
│ ポシェットに目を向けたまま、少ししてから口を開きました。
│ 「・・・いえ、そんなことないです。
│ 言ってもらって良かったです。
│ あとになって知ったら、
│ ワタシ、
│ 多分、すごく後悔していたと思います。
│ だから、良かったです」
│ 「そっか・・・、
│ そう言ってもらえると助かるよ」
│ 「・・・えっと、
│ 特別養子縁組の子・・・って、幸せなんでしょうか?
│ 本当の親がいないことで色々と苦労したり、色々と悩んだりして、
│ それで、
│ 勝手に自分を産んだことを恨んだりはしないのでしょうか?
│ 産まれなければ良かった・・・とか、そう思ったりしないのでしょうか?」
│ そう訊いたワタシは、
│ ベッド脇に立つ先生を見上げました。
│ 先生は、
│ ちょっと驚いたような表情をしていて、
│ すぐに下を向き、少し笑って、
│ それから、
│ また顔を上げ、ワタシを見て答えました。
│ 「・・・最終的に幸せになれるかどうかは、僕にも分からないよ。
│ でも、たとえば、
│ 炎天下の部活で走り疲れて、休憩中に冷たい水をガブガブ飲んでいるとき、
│ あるいは、
│ 学校からの帰り道、ふと振り返ったらオレンジ色の夕焼けがキレイだったとき、
│ 電車の中でお年寄りに席を譲ったら、目を見て感謝の言葉を言われたとき、
│ 楽しみにしていた漫画を本屋で買い、走って家に帰るとき、
│ 素敵な誰かに恋をしたとき、
│ そして、
│ その、素敵な相手のことを部屋でひとりで考えているとき、
│ ・・・そういった幸せな時間、幸せな瞬間は、
│ その子の人生の中で、きっと1回は訪れる。
│ それだけで、充分じゃないかな・・・」
│ ワタシは、
│ 視線を、少ししてから手元のポシェットに戻しました。
│ 「・・・ありがとうございました」ってお礼を言いました。
│ 先生が尋ねました。
│ 「・・・重症の妊娠悪阻になった人の話は、
│ ウサギさんは、
│ もう、ネットの記事か何かで読んでみた?」
│ ワタシは答えました。
│ 「はい、読みました・・・」
│ 「そっか・・・」
│ 「・・・」
│ 「妊娠悪阻は、
│ 場合によっては、
│ 常人には耐え難いほどの、非常に厳しい状態に見舞われます。
│ その厳しさは、
│ 我が子への、並々ならぬ執着と愛情を持つ妊婦に出産を諦めさせ、
│ その妊婦に、
│ こんな苦しい思いをするのなら、もう子供はいらない、
│ 子供なんて、もう二度と作りたくない・・・、
│ そう思わせてしまうほどの、
│ とてもつらく、苦しいものです。
│ そこまでの状態になることは、そうそうありませんが、
│ ただ、
│ もしかしたら、そういった厳しい局面になるかもしれないことは、
│ 産む場合は、
│ 一応、覚悟しておいたほうが良いと思います」
│ 「・・・はい、分かりました」
│ 病室が、
│ また、セミの声だけになりました。
│ 相変わらずの元気な声で、ミンミンと鳴いていました。
│ たくさんたくさん鳴いていました。
│ 「あっ!」
│ 先生が、急に大きな声を上げました。
│ びっくりしたワタシは、すぐに先生を見ました。
│ 先生は、
│ ズボンのポケットからPHSを抜き出し、耳に押し当て、
│ 出入り口のほうを振り返って、
│ 「あぁ、ごめんごめん、すぐ行く・・・」って言いながら、
│ 早足で歩いていきました。
│ 扉をガラッと開け、
│ 廊下に出た先生が、後ろ手でその扉を閉めるとき、
│ あっ、
│ シュークリームのこと、謝らなきゃ・・・って思いましたが、
│ 扉は、ピシャリと閉められてしまいました。
│ 病室は、ワタシひとりになりました。
│ また、セミの声だけになりました。
│ ワタシは、
│ 自分のポシェットの、白兎の顔を見ました。
│ その頬や耳をちょっと触り、感触を確かめたあと、
│ ベッド脇の、荷物カゴの中に置きました。
│ 前を向くと、息をひとつ吐き、
│ それから、
│ 後ろの枕を確認しつつ、上体をゆっくりと倒し、
│ 再び、ベッドに仰向けになりました。
│ 日の当たっていない、ちょっと薄暗くなっている病室の天井を見上げ、
│ そういや、
│ いつから命があるのか、いつから人になるのか・・・、
│ 先生は、それについて、
│ ワタシにどんなことを話してくれたっけ・・・って思い出そうとしました。
│ でも、すぐにやめました。
│ 代わりに、
│ ワタシは、お腹の赤ちゃんのことをどう思っているのだろう、
│ どう感じているのだろう・・・って、
│ 頭の中で、少し考えてみました。
│ 分かりませんでした。
│ 続きます。
└―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ウサギさんの、
その、長い長い文章のあとには、
サイトのみんなからの、大量のコメントが付いていた。
キツイ言葉がたくさん並んだ、トゲトゲしいものが大半だった」
「その医者は、
全てが愛で解決すると思っている、頭の中がお花畑の、
ただの世間知らず・・・とか、
募金と出産を結びつけるのは違う。出来た子は、100%その両親の責任。
だから、その子についての責任は、その両親が背負うのは当たり前。
何を得意げに語ってるんだか。流石に強引過ぎる・・・とか、
中絶した子を忘れて幸せに生きるだって? そんなのおかしい。
産まれることのできなかった子のことを考えろ。
人の命をなんだと思ってるんだ・・・とか、
そういうコメントばかりが、20件以上は並んでいた。
このときは、
何故だか分からないけど、サイト側の審査があまり機能していない感じだった。
いつもは弾かれてしまうようなコメントが、そのままそこに載せられていた」
「ウサギさんは、
でも、そうした声に特に反応することもなかった。
その後も、
これまで通り、淡々と文章を投稿し続けていた」




