201.翌朝、10時頃
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│ 翌朝、10時頃。
│ ワタシは、
│ お盆を持って自分の部屋を出て、1階に下りていき、
│ 台所に向かいました。
│ 相変わらずのセミの声に混じって、掃除機をかけている音が聞こえていました。
│ 台所には、誰も居ませんでした。
│ お盆をテーブルに置いたワタシは、
│ 冷蔵庫のほうを向き、
│ その扉を、息を止めてから開けました。
│ 中を少し探し、
│ 梅干しのたくさん入ったビンを見付けると、それを持って、
│ 冷蔵庫を閉めました。
│ ビンのフタを開け、軽く匂いを嗅ぎ、
│ それから、
│ 小皿に梅干しをひとつ取って、そのビンを冷蔵庫に戻しました。
│ イスを引き、そこに腰掛けたあと、
│ 小皿の上の梅干しを指で摘み、口の中に入れました。
│ 普段は酸っぱすぎて、あまり好きになれなかったのですが、
│ このときはその酸っぱさが何故か心地よく、普通に食べられました。
│ 正直、
│ 梅干しの存在をこんなに有り難く思ったことは、今までありませんでした。
│ 産まれて初めてでした。
│ 感謝の気持ちでいっぱいでした。
│ なんとなく、
│ りんごジュースも飲めそうな気がしたので、
│ お盆の上のグラスを手に取り、
│ ひと口だけ飲んでみました。
│ 大丈夫でした。
│ ワタシは、
│ お盆の上の漢方の包みを開け、
│ 昨日と同じように、りんごジュースと一緒に飲みました。
│ 窓の向こうの庭には、
│ ギラギラの太陽のもと、洗濯物がたくさん干されていて、
│ その中には、
│ ゆうべ、お母さんに体を拭いてもらったときの、
│ 手拭いのタオルもありました。
│ ワタシはそのまま、
│ ひとりで、りんごジュースを少しずつ飲んでいました。
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│ 少しすると、お母さんが、
│ 雑巾のかかったカラのバケツを持って、台所に入ってきました。
│ 「あら、起きてきたの。
│ どう? 少しは良くなった?」って言いました。
│ ワタシは、首を振りました。
│ 「ううん、
│ あんまり・・・」って返しました。
│ 「ゼリーはどうだった?
│ 食べれた?」
│ ワタシは、
│ もう一度首を振りました。
│ 「なんか、ダメそうだった・・・」って返しました。
│ 「そう・・・」
│ 「あ、でも、
│ ゆうべ、ネットで調べてみたらね、
│ 梅干しがいいよ、って書いてある記事を見付けて、
│ さっきちょっと食べてみたんだけど、
│ それは大丈夫だった。
│ 普通に食べれた」
│ 「あぁ、梅干し。
│ 言われてみれば、確かに昔からよく聞くわ。
│ すっかり忘れてた。
│ ・・・りんごジュースも飲めてるみたいね」
│ 「あぁ、
│ うん、朝起きたときは飲めなかったんだけどね、
│ 梅干し食べたら飲めそうな気がして、
│ それで・・・」
│ ワタシがそう言うと、
│ お母さんは、
│ 「あら、それは良かった。
│ じゃあ、
│ 寝るときに枕元に置いとくのは、
│ あなたの場合、梅干しのほうがいいかもね」って言って、
│ 開けていた蛇口を閉め、
│ その後、水の入ったバケツを下に下ろし、
│ 雑巾で床を拭き始めました。
│ ワタシは立ち上がり、
│ 冷蔵庫を開け、
│ 冷奴とオクラの小皿を出しました。
│ ラップを外し、食べてみようとしたのですが、
│ こっちは無理そうでした。
│ お母さんが訊きました。
│ 「ダメだった?」
│ 「あ。
│ うん、ダメそうだった・・・」
│ 「そう、
│ 無理しないほうがいいわ。
│ あとで私が食べるから、
│ そのままそこに置いといてちょうだい」
│ 「うん、分かった・・・」
│ 「あぁ、そうそう、
│ ゆうべ、
│ 食器を洗い桶の中に入れるとき、
│ なんか、ちょっとつらそうな顔してたけど、
│ もしかして、洗剤?」
│ 「あ、
│ うん、多分・・・」
│ ワタシがそう返すと、
│ お母さん、
│ 床を拭きながら、
│ 「そう・・・」って返しました。
│ そのまま、
│ ぼんやりとお母さんの拭き掃除の様子を見ていると、
│ お母さんが、
│ 「今、何時くらいなの?」って訊きました。
│ 「えーっと・・・、
│ 10時20分くらい」
│ 「なら、
│ 早く部屋に戻って、ちょっと休んでおきなさい。
│ 時間になったら教えてあげるから。
│ あと、
│ 今日は車があるから、病院には私が送っていくわ」
│ 「うん、
│ ありがと・・・」
│ ワタシは立ち上がりました。
│ 一瞬、フラッと来たので、
│ 手をイスの背に置いて、
│ そのまま少し、じっとしていました。
│ お母さんが、不意に尋ねました。
│ 「そう言えば、
│ 同意書、どうするつもりなの?」
│ 「・・・。
│ 貰ってくる、つもり・・・」
│ ワタシがそう返すと、
│ お母さん、
│ 雑巾を動かす手を止め、顔を上げました。
│ ワタシの顔をじぃっと見て、
│ 「・・・どうして?」って訊きました。
│ ワタシは、顔を俯けました。
│ 少ししてから、
│ 「・・・だって、
│ 貰ってこないと、
│ お父さん、怒りそうだし・・・」って返しました。
│ 「・・・堕ろすことにしたの?」
│ 「そういうわけじゃ、ないけども・・・」
│ ワタシがそう答えると、
│ お母さん、
│ 「・・・そう、分かったわ」って言って、
│ 上げていた顔を戻し、
│ また、床の上をゴシゴシと拭き始めました。
│ ワタシは、
│ 少しの間、黙ってそこに立っていましたが、
│ やがて、横を向いて台所を出ると、
│ そのまま階段を上っていって、自分の部屋に戻りました。
│ 続きます。
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