199.すぐに、お父さんが言いました
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│ すぐに、お父さんが言いました。
│ 「は?
│ おいおい、なに言い出すんだよ。
│ そんなの、わざわざウサギに確認するまでもないだろ。
│ ウサギはアイツに裏切られ、傷付けられたんだぞ?
│ 酷い目に遭わされたんだぞ?
│ そんなヤツの子を産んで育てたいとか、どう考えても有り得んだろ・・・。
│ 堕ろしたいに決まってる。
│ なぁ、ウサギ?」
│ 「・・・」
│ ワタシは、
│ 顔を俯けたまま、黙ってました。
│ お父さん、
│ 少ししてから言いました。
│ 「・・・お、おい、
│ まさか、産みたいって言うのか?、
│ そんなことされたのに・・・」
│ 「・・・」
│ 「じょ、冗談だよな?
│ ウソだよな?
│ そんなこと、あるわけないよな? な?」
│ ワタシは、
│ 口を少し開け、息を吸いました。
│ 声に出そうとして、
│ でも、
│ どうしても踏ん切りがつかなくて、何度か躊躇ってしまって、
│ それで、その口を、
│ また、静かに閉ざしました。
│ 外で鳴く虫の声だけが聞こえる中、
│ ワタシは、
│ 自分の握り締めた手を見て、ただひたすらに呼吸を繰り返していました。
│ 心臓はドキドキしっぱなしで、
│ 段々と、少し息苦しくなってきて、
│ いつの間にか寒気がしていて、
│ 気分が悪くなってきて、
│ 頭の痛いのも酷くなってきて、
│ それを感じつつ、
│ 言わなきゃ、早く言わなきゃ・・・って思ってました。
│ ワタシは、やがて、
│ 息を、できるだけゆっくりと吐き出していきました。
│ ほんの少しだけ心を落ち着けたあと、
│ また、
│ 息を吸いつつ、口を開けようとしたときでした。
│ お父さんの声が聞こえました。
│ 「父さん、
│ 産むなんてことは、絶対に許さんからな」
│ ワタシは口を閉じ、
│ 視線の先の自分の両手を、ギュウッと握りました。
│ 呼吸が苦しくなって、
│ 気持ち悪いのが、更に酷くなってきました。
│ 目眩もしました。
│ お母さんの声が聞こえました。
│ 「あなた、
│ ウサギの話をちゃんと聞いてあげましょうよ・・・」
│ 言い返すお父さんの声が、すぐに聞こえました。
│ 「は?
│ 聞いてあげるって、何をだ。
│ 何を聞くんだ」
│ 「勿論、
│ 産みたいのか、そうじゃないのか・・・ってことよ。
│ 当たり前でしょ?」
│ 「で?
│ それでどうするんだ?
│ ウサギが産みたいって言ったら産ませるのか?
│ は、冗談じゃない。
│ 人様の、しかもまだ高校生の娘に手を出し、
│ 勝手に孕ませておいて、
│ それで、
│ いざ妊娠が分かったら、さっさと消えていなくなるようなヤツの子供を、
│ なんでこっちが金払ってわざわざ産ませ、
│ 面倒見て育てなきゃならんのだ。
│ 馬鹿らしい。
│ 冗談じゃない」
│ 「・・・相手の男とか、面倒を見るとか、
│ そういうのじゃなくて、
│ その前に、
│ 私は、
│ まずは、
│ ただ、ウサギの気持ちを――」
│ 「それで?
│ もしウサギが産みたいって言ったら、お前は産ませるのか。
│ 通ってる高校を辞めさせて」
│ 「産ませるわ。当然でしょ。
│ それに、
│ 高校だって、もしかしたら辞めずに済むかもしれないわ」
│ 「何言ってるんだ、辞めさせられるに決まってるだろ。
│ だいたいだな、
│ お前は、ウサギを捨てたアイツのことをなんとも思ってないのか。
│ アイツを許せるのか」
│ 「許せないわ」
│ 「だったら――」
│ 「でも、
│ お腹の中の子は関係ないわ。
│ そうでしょ?
│ あの子には、なんの罪も無いわ」
│ 「あの子?
│ は、
│ なんだ、その、もうオレたちの家族にでもなったかのような言い草は。
│ 冗談じゃない。
│ ふざけるな、想像するだけで虫酸が走る。
│ いいか、
│ オレは、産むのは絶対に認めんからな、
│ 何があろうとも、だ。
│ だいたい、
│ お前は愛せるのか、
│ オレたちの大切なウサギをやり捨て――」
│ 「あなた!」
│ 「・・・勝手に妊娠させ、逃げ去った男の子供を、
│ お前は愛せるのか。
│ 手をかけ、一生懸命に面倒を見て、
│ その上で愛せるって言うのか!
│ 心の底から、本気で!」
│ 「面倒を見れるし、心の底から愛せるわ。
│ いい?、
│ 父親が過去に何をしていたとしても、
│ たとえ人殺しをしていたとしても、あの子には一切関係無いし、
│ それに、あの子はウサギの子供でもあるのよ?
│ 私たちの孫なのよ?」
│ 「だ、か、ら!、オレはそれがイヤなんだ!
│ いいか、
│ 成長し、大きくなるにつれ、
│ 段々とアイツの面影が出てくるんだぞ?
│ その表情で、
│ オレたちに向かって、ニコッと無邪気に笑いかけてくるんだぞ?
│ 甘えてくるんだぞ?
│ それでも・・・、
│ それでも受け入れ、愛せるって言うのか、
│ お前は!」
│ 「愛せるわよ。
│ 父親のことは、あの子にはなんの関係も無いもの。
│ あの子には、なんの責任も無いわ」
│ 「・・・は、ご立派な考えだな。
│ 生憎、オレはお前と違って聖人じゃない。
│ 無理なものは無理だ。
│ なんなんだ、お前は。
│ なんで、そんなにムキになってオレに突っかかってくるんだ。
│ なんで、そんなにアイツの子を産ませようとするんだ」
│ 「ムキになってなんかいないし、産ませようともしてないわよ。
│ 私は、
│ ただ、ウサギの話を――」
│ 「だいたい、
│ オレたちが大学に入って間もないとき、
│ 身籠った子を堕ろそうって言い出したのは、お前のほうじゃないか!」
│ 「・・・」
│ 「オレは産んでもいいと思ってたし、お前にもそう言った。
│ 周りはみんな猛反対してたけど、
│ でも、いざとなれば戦うつもりだった。
│ なんとかするつもりだったんだ、オレは。
│ なのに・・・」
│ 「・・・」
│ 「なんでだ。
│ なんでオレじゃなくて、
│ ウサギを捨てたあんなヤツのときに限って、お前は・・・」
│ 「・・・」
│ 台所が、シーンと静まりました。
│ 聞こえる音が、外で鳴く虫たちの声だけになり、
│ 少しすると、
│ サッ、サッ・・・っていう、ホウキで床を掃く音が聞こえてきました。
│ お父さんが言いました。
│ 「ウサギ、
│ いいか、明日病院に行って・・・、
│ お、おい、どうした」
│ ワタシは、
│ 口元を手で押さえて立ち上がり、急いで台所を出ました。
│ 人の気配がしたので玄関を見ると、
│ ドアの前に、お兄ちゃんが立ってました。
│ 「た、ただいま・・・」
│ おかえり、って返そうとした瞬間、
│ ウッ・・・てなったので、
│ すぐに向き直し、そのままトイレに駆け込みました。
│ 便器にしがみ付き、胃の中のものを戻していると、
│ 後ろで、お父さんの声が聞こえました。
│ 「お、おい、
│ 急にどうしたんだ・・・。
│ 大丈夫か」
│ ワタシは答えられませんでした。
│ 便器に向かって、口を大きく開け、
│ 何度も戻していました。
│ 少しすると、お母さんの声が聞こえました。
│ 「あなたたち、退いて」
│ 「あ、あぁ・・・。
│ えと、
│ いったいどうしたんだ、ウサギは。
│ 大丈夫なのか」
│ 「ツワリよ、
│ 妊娠悪阻なの、ウサギは。
│ ほら、
│ いらないタオルを何枚か持ってきたわ。
│ 使いなさい。
│ ここに置いとくわね」
│ 「なんだ、
│ その、妊娠悪阻ってのは・・・」
│ 「ツワリの症状が極端に重くなったものを、そう呼ぶんですって。
│ 場合によっては、入院が必要になるそうよ」
│ 「は?
│ おいおい、
│ 入院が必要になるって、どういうことだ。
│ 要するに、ただのツワリなんだろ?
│ 何をそこまで・・・」
│ 「ただのツワリじゃないわよ。
│ 悪化すると、
│ 水を飲んだり何かを食べたりといったことが、ほぼできなくなっちゃうし、
│ それに、
│ 水や食べ物をなんとか胃に入れたとしても、
│ こうして、すぐに全部戻してしまうの。
│ 脱水症状や酷い栄養失調で、まともに動けなくなるわ。
│ 今日だって病院で点滴打ってもらったし、
│ 明日も行って、打ってもらわないと・・・」
│ 「・・・症状を軽くする薬とか、そういうのはないのか?
│ 病院で出してもらえなかったのか?」
│ 「漢方は出してもらったわ」
│ 「効いてないじゃないか」
│ 「・・・漢方って、
│ そんなにすぐに効き目が現れるものでもないだろうし」
│ 「ツワリをなくす薬は無いのか?」
│ 「無いんじゃないかしら。
│ 少なくとも、私は聞いたことないし。
│ でも・・・」
│ 「・・・でも、なんだ?」
│ 「中絶すれば、
│ ツワリの症状は消える、って先生が・・・」
│ お母さんがそう答えると、
│ お父さんが、すぐに言いました。
│ 「だったら・・・、
│ だったら尚のこと、産むことなんかないじゃないか。」
│ そうして、
│ 続けてワタシに言いました。
│ 「ウサギ、
│ いいか、堕ろしなさい。
│ 明日、病院に行ったとき、
│ 先生に中絶することを伝えて、その同意書を貰ってきなさい。
│ 分かったな?」
│ ワタシは、
│ けれども、返事をすることができませんでした。
│ お父さんは、少しすると舌打ちをし、
│ ブツブツ何かを言いながら、台所のほうへ戻っていきました。
│ テーブルを叩く大きな音がして、
│ その後、
│ ホウキで床を掃く音と、ガラスの破片の転がる小さな音が聞こえてきました。
│ 続きます。
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