13.ふたりで、駅の建物に戻ることにした
ふたりで、駅の建物に戻ることにした。
ダムまでの運賃を確認するためだ。
空のペットボトルを、広場のゴミ箱に捨てて、
ロータリーを横断していく。
駅の入り口に着いた私は、
上り階段の手前で立ち止まり、右を向いた。
スライドしたままの、開けっ放しのガラス戸の向こうに、
窓口がいくつか並んでいる。
上を見る。
《きっぷうりば》
視線を下ろし、そのまま入ろうとしたが、
ふと、左に目をやると、
壁に、大きな案内板が設置されているのを見付けた。
ルート全体の高低の様子が、大まかにイラストで描かれており、
その下には、
それぞれの区間を結ぶ乗り物の写真と、その所要時間があった。
各地点までの運賃も載っている。
私は、その案内板の方へ歩いていく。
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クロバダム
おとな 片道 6750円
往復 10790円
こども 片道 3380円
往復 5400円
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「えーと、
何て名前の駅で、電車に乗ってきたんだっけ?」
隣を見て、尋ねる。
「電車?、僕が乗った駅?」
少年は、
案内板を見上げたまま、訊き返す。
「うん」
「イナミ町」
「家は、そのイナミ町の駅からは近いの?」
「そんなに近くないよ。15分くらい」
「歩いて?」
「うん。・・・何で?」
「え?。あ、いや、
お金が足りるかなぁ、って・・・」
「平気だよ。イコマイカもあるし」
「イコマイカ?」
「改札でタッチするヤツ。えーと・・・、」
少年は、
顔を下に向け、ズボンのポケットを弄った。
そして、
中から水色のパスケースを抜き出すと、それを私に見せ、
顔を上げ、
「ほら、これ」
と言った。
中央部分の、大きく空いた透明の窓の向こうに、
電車とバスの絵柄のカードがあり、
隅の方を見ると、《イコマイカ》と印字されていた。
「あぁ、ICカードか。
こっちのは、イコマイカって言うんだね」
「うん」
「分かった、ありがとう」
お礼の言葉を口にすると、
どこぞの黄門さまの付き人よろしく、パスケースを披露していた少年は、
「うん」
と、満足そうに言って、
それをズボンのポケットに戻した。
壁の案内板を、再び見上げる。
私も、
少し遅れて、案内板に目を向ける。
残念だった。
「・・・そう言えば、高い山には登ったことあるの?」
案内板のイラストを見つつ、
私は、次の作戦を試すことにした。
「え?、高い山?」
少年の声が、こちらを向いた。
「ほら、
ダムに行く途中、ここで2400mくらいまで上がるんだ」
私は、
ルートの、その部分を指差し、
それから少年を見た。
少年は、私の指先に目を向け、
「ムラドウ・・・ってところ?」
と訊いてから、
また、顔をこちらに向けた。
「そう。
これくらいの高さの山には、登ったことがあるのかなー、って」
「あるよー。
去年、じいちゃんと登ったー」
少年は、
そう答えて、案内板に視線を戻した。
「え?、どこ?」
「コマ岳」
「えーと・・・、
あ、もしかして3000mくらいの山?」
「多分、それくらーい」
「キソコマ岳?」
「うーんと・・・、
確か、そんな名前ー」
「頂上まで登ったの?」
「うん」
「どうだった?」
「すごく寒かったー」
「気持ち悪くならなかった?」
「気持ち悪く?。・・・何で?」
案内板を見上げたまま、
少年は、少し不思議そうに言葉を返した。
「えーと、何て言ったら良いのかなぁ・・・。
高山病のことなんだけど、知ってる?」
「あ、それのことー。へいきー」
「家に帰るまで、何ともなかった?」
「うん、何ともなかったー。
でも、ちょっとだけ疲れたー」
「そうかぁ。
頂上は良い景色だった?」
「ううん、真っ白で何も見えなかった」
「あぁ、
ガスっ・・・じゃなくて、霧が出てたのか」
「そうみたい」
それは確かに寒かったろう。
残念だったね、と少年に言うと、
すぐに、
うん、残念だったー、と、
屈託のない声が返ってきた。
私は、視線を案内板に戻した。
そして、
私の今の状況も、相当にガスってるな・・・と、
心の中で苦笑した。
視界不明瞭。
先が全く見えない。
参った。
しかし・・・、
しかし、だとしても連れて行くのは、
どう考えても非常識だ。
有り得ない。
困った。
どうしよう・・・。
しばらくの間、
そこに立ち尽くし、黙って考えていると、
他の観光客たちが案内板を見に来た。
邪魔にならないよう、
私と少年は、離れた場所の壁際に移動する。
「約束して欲しいんだけど・・・」
少ししてから、私は話を切り出した。
目の前を、
麦わら帽子をかぶった女性と、
肩に水筒をかけた、その息子らしき男の子が横切り、
続けて、
猫耳フードの小さな女の子をおぶった、眼鏡の男性が通り過ぎていく。
「・・・なにー?」
ちょっと遅れて、少年の声。
「ダムに行ったあと、
ちゃんと今日のうちに家に帰ること」
「・・・」
「それが約束できないなら、連れて行けない」
私は、隣の少年を見た。
少年は、顔を下に向けていた。
そのまま、返事を待っていると、
しばらくしてから、
少年は、
「・・・うん」
と、小さく頷いた。
「ホント?」
「うん」
「・・・分かった」
「・・・」
「それと、もうひとつ」
「え?、もうひとつあるの?」
少年は驚いた表情をし、私を見上げた。
「家の人に、
これからダムに行くことを電話すること」
少年は、
顔を、再び下に向けた。
「・・・でも、電話が」
「私のを貸してあげるから」
内ポケットからスマートフォンを抜き出し、
少年の前に差し出す。
少年は、
少ししてから、僅かに目線を起こし、
スマートフォンをチラリと見て、
すぐに、また俯いた。
もしかしたら泣き出すかもしれない・・・と、少し心配したけれども、
私としても、
これは絶対に譲れない条件だった。
眼下の間近にある、少年の黒い頭を見つめて、
返事を、じっと待つ。
「・・・どうしても電話しないとダメ?」
少年が、
顔を下に向けたまま、やや上ずった声で尋ねた。
「駄目」
私は、すぐにそれを突っぱねた。
少年は、
また、黙ってしまった。