122.「見学に行き始めた頃はそんな感じでね・・・」
「見学に行き始めた頃はそんな感じでね、
もう全然ダメだったよ」
私は、そう口にしながら、
そのときの光景を思い出していた。
夏の、穏やかな昼下がり。
部屋の天井。
セミたちの声。
どこかの遠くで、
ときどき、子供たちのはしゃぐ声。
部屋でひとり、仰向けの私。
お腹に、薄いタオルケットをかけたまま、
何の面白みもない天井を見上げている。
その傍らでは、
古びた扇風機が首を左右に振りつつ、風を黙々と送り続けている。
虚しい気持ち。
やるせない思い。
無力感と、孤独感と。
境内の奥の暗闇に目を向けたまま、当時の感情に少し浸っていると、
隣から声が聞こえてきた。
「・・・そんなふうに見えなかった」
私は、ひと呼吸置いた。
ゆっくりと口を開く。
「・・・そう?」
「うん。
色々な人と普通に話してたし、全然そういうふうに見えなかった」
「まぁ、今はもう慣れたからね」
「大変だった?」
少年が、そう尋ねたので、
私は訊き返す。
「慣れるの?」
「うん」
「どうだったかなぁ・・・、」
私は、
そう言って、ちょっと考える。
そして、
「いや、
そんなには大変じゃなかった、かな・・・」
と答えた。
「・・・なんで?」
「ハッキリとした目的があったからね。
フリースクールでいくら失敗しようとも、
家に帰ってきてから、いくらグッタリしようとも、
私はヘッチャラだった。
よくよく思い返してみると色々と大変だったんだけど、
でも、
当時の私は、その大変さを全く感じていなかった。
とにかく、ガムシャラだったんだ」
「目的って、彼女さんのこと?」
「・・・うん」
「そっか」
「・・・」
「フリースクールの人たちとは、すぐに話せるようになったの?」
少年が、また尋ねた。
「すぐ・・・じゃないけど、
でも、
1ヶ月くらいしたら、それほど緊張しないで話せるようになったよ。
仲の良い人も何人か出来て、
勉強が終わったら、自転車で一緒に帰るようになった」
「人見知り、直ったの?」
「直ってはいないよ。症状が軽くなった・・・ってだけ。
それに、
その、症状が軽くなった・・・ってのも、
苦労して少しずつそうなったわけじゃないんだ。
見学に行き始めた頃には、
多分、もう、かなり軽くなっていたんだ」
「?、・・・軽くなってた?」
「そう。
・・・多分、だけどね」
「でも、
さっき、最初の見学はすごく緊張した・・・って」
「うん。
最初の頃は、確かにそうだね」
「それなのに、
どうして、軽くなってた・・・って」
少年の問い掛けに対し、
私は、
「うーん、どう説明したら良いかなぁ、」
と口にし、自分の考えを少し整理してから、
その続きを話し始めた。
「えーっと、しばらくフリースクールに通い続けて、
ちょっとずつ見学の時間を延ばしていって、
そうやって、そこの雰囲気に慣れてきたらさ、
誰かに話しかけることは、そんなに苦ではなくなっていたんだよ。
ドキドキしなくなっていた」
「・・・」
「みんなが話している漫画とかゲームの話題に、ときどき口を挟んだり、
作業の手順が分からなくて困っている人に、自分から声をかけたり、
そういったことが、
ほんのちょっとの緊張だけで出来るようになっていた」
「・・・」
「小さい頃から、なかなか思うように話しかけられなくて、
困っていて、
そうして、
10年以上、悩み苦しんできたことが、
不思議なことに、
ものの1ヶ月で、ほとんど普通に出来るようになっていたんだ」
「・・・ハッキリとした目的があって、頑張れたから?」
「確かに、それも少しある。
でも、多分、
相談サイトでの経験が大きかったんだと、私は思ってる」
「・・・」
「年齢も性別も分からない、見知らぬ誰かの投稿を読んで、
その人への回答を、時間をかけ真剣に考え、
そうして出来上がった文章を、勇気を出して何とか送信し、
審査され、掲載され、
しばらくして、相手からの返事がついて、
それに目を通して、
喜んだり、落ち込んだりして、
また返事を書いて・・・」
「・・・」
「そういったやり取りを、何度も何度も繰り返し、
慣れていくうちに、
勇気はそれほど必要じゃなくなってきて、
いつの間にか、話しかけることが楽しくなっていって・・・」
「・・・」
「そんな感じの、毎日続けていたサイト上での経験が、
多分、とても大きかったんだと思う。
文章と会話の違いはあるけれど、
そして、
じっくりと時間をかけられるか、どうか・・・の違いもあるけれど、
でも、
話しかけるという行為自体は、それほど変わらない。
そのときに考えることも、
気を付けることも、
感じる緊張も、ほとんど同じ。
ほとんど一緒」
「・・・」
「人見知りのつらかったところってさ、
私の場合は・・・だけれども、
誰かに話しかけようとしたときの不安や恐怖の正体が、
全く分からなかったところなんだ」
「・・・」
「話しかけようと思った瞬間、
心の中に、得体の知れない不安や恐怖が次々と湧いてきて、
わけも分からず緊張し始め、気付いたら心臓がドキドキしていて、
少しずつ息苦しくなってきて、
焦りの気持ちが、ジリジリと大きくなっていって、
際限なく大きくなっていって、
どうしたら良いか分からなくなって、
結局、それで話しかけられなくなってしまう」
「・・・」
「自分が何故そうなってしまうのか、全く分からなかったし、
そもそも、それに理由があるとも思わなかった」
「・・・」
「高いところに立つと足がすくむように、
寒くなると鳥肌が立つように、
私の場合、
人に話しかけようとすると、自然にこうなってしまうんだ、
自分はそういうタイプの人間なんだ・・・って、ずっと思っていた。
最初っから諦めていたんだ」
「・・・」
「でも、
フリースクールに通い始めて、だいぶ経ったときに、
その、話しかけようしたときの、
得体の知れない不安の正体に気付いたんだ。
自分が何を恐れていたか、気付いたんだ」
「・・・」
「拒絶されることを、
ただ単に、本能的に恐れていただけなんだ。
他人に受け容れてもらえないことを、嫌われてしまうことを、
過剰に怖がっていただけだったんだ。
それだけのことだったんだ」
「・・・」
「勿論、それに気付いたところで、
人見知りの全ての問題が、劇的に解決したわけでは無かった。
でも、だいぶマシになった。
話しかけようとして、無性に緊張してきたときに、
ある程度、冷静に対処出来るようになった」
「・・・」
「今、自分が不安を感じているのは、
この人に拒絶されることを恐れているだけだ。
たった、それだけのことだ。
だいたい、私だって誰かを拒絶することはあるじゃないか。
だったら、
この人にだって私を拒絶する権利がある。
それは当然のことだし、
例え嫌われたとしても、特に何か大きなことがあるわけでは無い。
誰もが経験している普通のこと。
だから、そんなに怖がる必要は無いんだ。
焦らなくても大丈夫なんだ。
落ち着け、落ち着け・・・って」
「・・・」
「人見知りは、正直言って今も完全には直っていない。
会社の仲間とお酒の席で話をしていても、
やっぱりどこかで拒絶されることを怖がってるし、
知らないうちに、自分の心に壁を作っている。
深く打ち解けることは出来ない。
でも、
仕事の相談を色々な人としながら会社の業務をこなすことは問題なく出来るし、
例えば、
不安そうにしている新入社員がいれば、その人に声をかけることも出来る。
普通に生活していく上で、人見知りで困ることは、
今はもう、ほとんど無い」
「・・・河原で僕に話しかけたときも、怖かったの?」
少年が、ポツリと口にした。
私は、
少し間を置いてから、
「・・・ちょっとね」
と返した。
「今も怖いの?」
「・・・ううん。
今はもう、そんなには怖くないよ」
「そっか」
「うん・・・」
私は、
ひとり、小さく頷いた。
ヒグラシは、もう鳴き止んでいた。
たくさんのバッタたちが、
今は、
その細く美しい声を、辺りの森に響かせている。
私と少年は、
燈籠用LEDの、オレンジ色の薄明かりの中、
少しの間、ひと言も喋らずにいた。
バッタたちの、絶えることのない賑やかな鈴鳴りに、
ふたりとも、
ただ、耳を傾けていた。
「それで、高卒の試験はどうなったの?」
少年の声が聞こえた。
私は、少年に聞こえないようにして、
息をひとつ、そっと吐き出す。
「・・・合格したよ」
静かに答えると、
少年が、すぐに次の質問をした。
「じゃ、彼女さんに送る手紙も書いたんでしょ?」
私は、
また、言葉を返す。
「・・・うん、書いた」
「返事はどうだった?。何て書いてあったの?」
少年の、ひときわ明るい声が、
こちらを向く。
私は、ひと呼吸置いた。
そうして、
少年の方を見ることなく、言葉を返した。
「・・・いや、返事は無かったよ。
手紙、送らなかったから」
「え?・・・、」
絶句した少年は、
間を置いてから、呟くようにして、
「・・・何で?」
と訊いた。
「潰れていたんだ」
「潰れていた、って何が?。
何が潰れていたの?」
「彼女の絵本を出版した会社は、
私が手紙を送ろうと思ったときには、もう潰れてしまっていたんだ。
無くなっていたんだ・・・」




