120.「最初、緊張しなかった?」
「最初、緊張しなかった?」
少年の声が、また聞こえた。
私は、
遠くに目を向けたまま、それに答える。
「いや、
最初に行ったときは、そんなには緊張しなかった」
「・・・なんで?」
「フリースクールのスタッフの人に、自分のことを説明しに行っただけだったし、
それに、その相手だって、
前日の電話で、既に私の事情をある程度は分かってくれていた」
「・・・」
「私は、極度の人見知りだったけれども、
でも、
そういった状況のときは、昔からそれほど緊張しなかったんだ」
「・・・」
「その代わり、
2回目のときは大変だった」
「・・・」
「フリースクールから帰ってきて、酷くグッタリしたのを覚えてる」
私は、そこで一息つき、
また、ひとりで話し始めた。
「2回目に行ったときは、母親はいなかった」
「私だけだった」
「自転車で、
ひとり、公民館の駐車場に入っていく」
「午後の2時を、少しオーバーしていた」
「本当は、もっと早くに着く予定だった」
「体力も落ちてるだろう・・・と思って、
それで、かなり余裕を持って1時頃に家を出た」
「でも、途中で道に迷ってしまった」
「母親と一緒にタクシーで来たとき、
景色をもっと覚えておけば良かった・・・と後悔していた」
「自転車は、
駐車場の端っこの、花壇の前に駐めた」
「そこに、たくさんの自転車が駐められていた」
「子供が乗るような、小さくてカラフルなものが多かったが、
大人用の大きい自転車も何台かあった」
「私は、
自転車の前輪に鍵をかけると、公民館の玄関へ向かって走り始めた」
「炎天下の広々とした駐車場を、斜めに突っ切っていく」
「車は1台も駐まっていなかった」
「玄関に着いた」
「入り口は両開きのガラス戸で、中は丸見えだった」
「入ってすぐのホールも、
その奥にあった上り階段も、外からよく見えた」
「照明は、やはり点いていなかった」
「暗かった」
「人の姿は見当たらない」
「ただ、奥の方からは、
子供たちのはしゃぐ声が、小さく聞こえていた」
「それをたしなめるスタッフの声も、ときどき聞こえていた」
「その場で、呼吸を少しだけ整えた私は、
後ろ向きにかぶっていた帽子を前にかぶり直し、
ツバの先端を少し下げた」
「腕時計を見て時間を確認し、息をひとつ吐くと、
それから、
入り口のガラス戸を押し開いて、館内へと入っていった」
「何の御用ですか?」
「突然、
横の方から声をかけられた」
「ドキッとして、そちらを振り向くと窓口があり、
その向こうで、年老いた男性が座っていた」
「水色の半袖カッターシャツの上に、紺色のベストを羽織っていて、
そのベストの胸には、
勲章のようなデザインの、何かのロゴマークが付いていた」
「警備員の人だった。
前日はスタッフの人と一緒だったためか、声をかけられなかった」
「あ、えっと、
僕、フリースクールの見学に来まして、
本当は2時の予定だったんですけど、道に迷ってしまって・・・」
「あぁ、そういや、
今朝、クマ先生が言ってたな。
お昼頃、もしかしたら高校生くらいの人が見学に来るかも・・・って。
思い出したよ。
ちょっと、そこで待っててな」
「警備員は、
そう言って席を立つと、後ろを向き、
立ったまま、誰かに電話をかけた」
「玄関ホールに置かれた、あちこち革の破れたソファに座って、
少しの間、待っていると、
スリッパの音をパタパタと響かせ、誰かが階段を急いで下りてきた」
「ガーコ先生だった」
「その日は、
前日とは違ってエプロンを付けていた」
「ごめんごめん、ちょっと手を離せなくて。
外は暑かったでしょう」
「すみません、ちょっと遅れてしまいました」
「私が謝ると、
ガーコ先生は、明るい声で陽気に言った」
「いいのいいの。気にしないで。
さぁさぁ、行きましょ。
紹介してあげるわ。
心配しないで。
みんな、とっても良い子ばかりだから」
「そうして、
今しがた下りてきたばかりの階段の方を振り返って、歩き始めた」
「暗いから、くれぐれも足元には気を付けてね。
本当は危ないから、昼間でも館内の電気を点けていたいんだけど、
区の職員さんから節電を徹底するよう言われてるの。
ごめんなさいね」
「ガーコ先生は続けてそう言い、階段を上っていく」
「私は、黙ってついていく」
「踊り場で折り返し、2階に出た」
「正面は、1階と同じく広いホールになっていて、
古びたソファが並んでいた」
「その向こうの、ガラスの窓からは、
明るい日差しが館内に、斜めに一斉に差し込んでいて、
壁際に集められた、いくつかのタバコの吸い殻入れを照らしていた」
「ガーコ先生は、
ホールの手前で左を向くと、薄暗い廊下をそのまま進んでいく」
「私は足を動かしつつ、視線をちょっと起こし、
帽子のツバ越しに、廊下の先をチラリと確認した」
「ちょっと離れたところに、横を向いたスリッパが何足か見え、
その奥にある突き当たりには、簀子とともに木の下駄箱が備え付けられていた」
「色々な大きさの靴が、
2段ある下駄箱の隅から隅まで、たくさん並んでいる」
「視線を、
スリッパの向いてる先の、右へ向けると、
部屋の入り口があった」
「お座敷だった。
少しだけ、その畳が見えている」
「私は、視線を下に戻した」
「子供たちのはしゃぎ声が近くなり、
だんだんと、はっきり聞こえるようになってきた」
「ときどき呼吸がつっかえてしまうほど、
私の心臓は大きな音を立て、強く鼓動し続けていた」
「お座敷の入り口まで来た」
「足を止めたガーコ先生が、こちらを振り返る」
「じゃあ、ここで靴を脱いで上がって。
脱いだ靴は、
そこの下駄箱の、どこか空いてるところに入れておけば良いから」
「ちょっと手前の場所で立ち止まっていた私は、
はい、と小さく返事をすると、
意を決して足を踏み出した」
「お座敷の入り口の前を、
そちらを見ないようにして、一旦は通り過ぎる」
「廊下の突き当たりで靴を脱ぎ、簀子に上がると、
その脱いだ靴を、
下駄箱の、誰かの靴の隣に並べて、
それから、ガーコ先生の方に向き直した」
「じゃあ、行きましょ。
帽子はかぶったままでも良いからね」
「ガーコ先生は、
私にそう声をかけてから、スリッパを脱いでお座敷に上がった」
「私もお座敷に上がり、ガーコ先生の斜め後ろに立った」
「みんなー、ちょっと静かにしてー。
こっちを見てー」
「賑やかだった室内が、急にひっそりとした」
「私は、帽子を深くかぶったまま、
自分の足元の畳を、じっと見つめていた」
「大勢の視線が、
今、私に向けられていることは、
顔を上げずとも分かった」
「この子、
今日からここに、ときどき見学に来るかもしれないから、
みんな、よろしくね」
「ガーコ先生が、そう言ったので、
私は、
ちょっと間を置いてから、慌てて頭を下げた」
「緊張のあまり、挨拶は言えなかった」
「じゃあ、
あっちの座卓のどこかに座って待ってて。
私は、すぐにキッチンに戻らないと。
何もしなくていいし、
帰りたくなったら、勝手に帰っていいからね」
「そう言ったガーコ先生が、
スリッパの音をパタパタと響かせ、離れていき、
遠くの方で、
ごめんね~、と誰かに謝った」
「私は、
なるべく顔を上げないようにして、座卓の位置を確認すると、
すぐに視線を戻し、
下を向いたまま、畳の上を歩いていく」
「そして、
一直線に並べられた座卓の、一番端の、
無人の卓まで行くと、
そこで黙って腰を下ろした」
「座卓の表面にある木目の模様を、じっと見つめる」
「室内の様子は、
もう、元に戻っていた」
「小学生らしき子供たちは、あっちこっちに分かれてグループを作り、
何かのアニメやアイドルの話で大騒ぎをしていて、
中高生らしき年齢の人たちは、
掃除機をかけたり、ホットプレートの入った箱を運んだりしていた」
「私は迷っていた」
「帽子は取らなくていい・・・ってガーコ先生は言ってたけど、
やはり、取るべきではないだろうか?。
みんなは、変に思っていないだろうか?。
だいたい、
ガーコ先生が言ってくれた、帽子を取らなくていい・・・て言葉は、
ここにいるみんなは聞いてなかったじゃないか。
やはり、取った方が・・・。
でも、バレないだろうか。
ハサミを使って、自分で髪を切ったことがバレないだろうか。
バカにされないだろうか。
どうしよう、どうしよう、どうしよう・・・」
「座卓で、ひとり延々と悩んでいると、
不意に、
すぐ近くで男性の声がした」
「これ、使う?」
「ビックリした私は、そちらに顔を向ける」
「垂れ下がった座布団と、誰かの足が目に入った」
「あ、はい。
ありがとうございます・・・」
「咄嗟にお礼を言うと、
その男性は、
持っていた座布団を、私のすぐ近くにそっと敷いた」
「そして、大きな声で、
ほら、みんなも座布団敷きを手伝ってー、
と言った」
「はーい、と返事が聞こえて、
話をしていた子供たちが、畳の上をドタドタと走っていき、
押入れから出してきた座布団を、
座卓の周りに、みんなでキレイに並べ始めた」
「男性は、
持っていた座布団を、私のいる座卓の周りに次々と敷いていくと、
最後に、私の正面に座った」
「座布団の上に座り直した私は、
少ししてから、帽子のツバの下で視線だけを上に向け、
その、正面に座った人をこっそりと見てみた」
「胸元に名札があった」
「リーダーと書いてあった」
「リーダーは、
それからずっと、そこにいて、
みんなに指示を出していた」
「今日は人数が多いから、
念のため、座卓をもうひとつ並べて」
「CDの音量、ちょっと絞って」
「誰か、そろそろお茶を用意して」
「あ、ついでに、
あと何分くらいで始められそうか、訊いてきて」
「私の真向かいに座ったまま、
そんな調子で、
みんなに、テキパキと指示を出していた」
「そして、しばらくしてから、
布巾を持ってくるよう、誰かに頼むと、
その持ってきてもらった布巾を、私の前に差し出した」
「悪いけど、
これで座卓を拭いてくれる?」
「あ、はい」
「私は、返事をしてから布巾を受け取り、
座卓の上を拭き始めた」
「最初は、
座ったまま、手の届く範囲だけを拭いていたけど、
途中で立ち上がり、それ以外の場所を拭き始め、
続けて、そのまま隣の座卓も拭き始めた」
「そうして、
全部の座卓を拭き終え、元の場所まで戻ってくると、
リーダーは立ち上がった」
「お疲れさん。
布巾、隣の座卓に置いといて。
あとで汚れたときに、それで拭くから」
「そう言って、
どこかへ行ってしまった」
「私は、
布巾をキレイに畳み直してから、隣の座卓の真ん中に置いた」
「そして、
また自分の座布団のところに戻ってくると、腰を下ろして、
少ししてから、
かぶっていた帽子を脱ぎ、脇の畳の上に置いた」




