117.風の無い、穏やかな夜の海
風の無い、穏やかな夜の海。
波音が、辺りに小さく響き渡っています。
それ以外、音はありません。
静かです。
空の星が、きれいです。
暗い海の向こうに、月が現れました。
三日月です。
下を向いてます。
空を、少しずつ上っていきます。
月の明かりが、
海底のサンカク岩を、ぼんやりと白く照らしていました。
近くには、だれもいません。
砂地には、
ちっちゃな海草が、1本だけ生えています。
少し前に芽を出したばかりの、幼い海草でした。
黄緑色の、細くて小さい葉っぱを上に伸ばし、
潮の、ゆるやかな流れのままに、
その、ういういしい細い葉っぱを、
ときおり横へ、
そっと、なびかせています。
遠くの方から、だれかが近づいてきました。
うす暗い海の底を、
ポン、ポンと小さく跳ねています。
赤い魚です。
赤い魚は、けんめいに跳ねながら、
サンカク岩のところへと向かっていました。
体はやせ細り、
その大きな目も、半分くらいしか開いてません。
ポン、ポン、と、
1回1回、がんばって跳ねています。
サンカク岩の近くに来ました。
赤い魚は、
まだ背丈の低い、幼い海草を、
ふしぎそうな顔をして見ています。
そうして、
ちょっとしてから、自分が実を食べ忘れていたことを思い出し、
次いで、すぐに、
あのときの、
ぺしゃんこになった気持ちを思い出し、
また、つらくなり、
少し遅れて、急に恋しくなり、
寂しくなり、
たまらなく苦しくなり、
むなしくなり、
砂地にポツンと生えた、幼い海草の隣で、
その顔を、
やがて、
ゆっくりと、うつむけていきました。
海草の、細くて小さい葉っぱが、
ときどき、
そよそよと揺れています。
赤い魚は、
しばらくしてから顔を起こし、そのまま夜空を見上げました。
視線の向こうの三日月は、いつもと変わりませんでした。
ぽおっと白く、優しく輝いています。
三日月が、徐々に高くなっていきます。
まっ暗だった夜空の色も、
いつの間にか、深い青色に変わっていました。
ずうっと月を見上げていた赤い魚は、
一度、口を開きかけましたが、
すぐに閉じてしまいました。
上げていた視線も戻し、正面へ向き直します。
赤い魚の前方には、
夜の、うす暗い海底が広がっていて、
上から、月の柔らかな明かりが差しこんでいます。
赤い魚は、その海底の方をじっと見ていましたが、
やがて、
欠けている尾ビレで、砂地をけとばしました。
だれもいない、静かな海の底を、
1ぴきで、
また、
ポン、ポン、と泳いでいきます。
三日月が、さらに高くなりました。
真下を向いていた、その向きも、
今は、ちょっと左に傾いてます。
月の少し下にある夜空の底は、
もう、だいぶ明るく白んでいます。
赤い魚が、
海の水面から、ちょこんと顔を出しました。
空に浮かぶ月を見上げています。
ここは、
ニライカナイの島の海辺の、浅くなっている場所で、
その水底の砂地の上に、
赤い魚は、尾ビレを使って立っていました。
水面をつたう、
うすい、とう明な波が、
顔を出したままの赤い魚を、そのまま通り過ぎていきます。
赤い魚は、
しばらくして、口を開きました。
「お別れを言いに来ました」
そこで、いったん口を閉じて、
夜明けの直前の、うっすらと白い三日月を見つめて、
がんばって見つめて、
それから、
ふたたび、口を開きました。
「もう、戻ってくるつもりは無かったのだけど、
でも、もしかしたらあなたが心配すると思って、
それで・・・」
赤い魚は、そこまで言って、
また、口を閉じました。
うすい波が、音も無く通り過ぎていきます。
間隔を空け、
いくつもいくつも通り過ぎていきます。
水面に顔を出したままの赤い魚も、
そのたびに、わずかに揺れています。
赤い魚は、
ゆっくりと、口を開けていきました。
「・・・」
その言葉は、
けれども、声にはなりませんでした。
口を閉じた赤い魚は、
間を置いてから、もう一度開けました。
声に出そうとします。
空の月を見上げて、
何度も何度も、がんばっています。
「・・・」
でも、ダメでした。
どうしても言えませんでした。
赤い魚は、
開けていた口を、
やがて、
ゆっくりと、閉じていきました。
半分しか開いていない、その大きな目で、
遠くの空に浮かんだ、遠くの月を、
そのまま、黙って見ています。
うすい波が、そっと通り過ぎていき、
赤い魚の体が、わずかに揺れます。
間を置いて、
うすい波が、
また、そっと通り過ぎていき、
赤い魚の体が、
また、わずかに揺れます。
明け方近くの、
自分しかいない、ひっそりとした海辺で、
赤い魚は、
そうして、空の月を見上げていました。
静かに、
ただ、見上げていました。
海の向こうの、空の底がオレンジ色に変わって、
そのオレンジ色が、さらに明るくなっていきました。
赤い魚は、
顔を、ゆっくりと水の中へ戻しました。
砂地の上で、そのまま少しだけうつむいて、
それから、
顔を上げ、後ろを振り返ると、
尾ビレで水底をけとばし、
1ぴきで、また引き返していきました。
ダンスの練習用の線をすべて消した赤い魚は、
ふたたび、サンカク岩のところへ向かっていました。
自分に寄り添ってくれた幼い海草に、お礼を言うためでした。
もう、朝になっていました。
海底の、そこら中には、
太陽の明るい日差しが、サンサンと降りそそいでいます。
大きなサンカク岩のすぐ近くの、
あの、幼い海草の小さな姿が見えてきたときでした。
赤い魚は、
突然、その場に止まってしまいました。
何かを、いっしょうけんめい見ています。
やがて、
ふたたび、
ポン、ポン、と泳ぎ出しましたが、
少しすると、
けとばしが、だんだんと強くなっていきました。
跳ねるスピードも、
どんどん、どんどん速くなっていきます。
幼い海草の前まで、やって来ました。
赤い魚は、
大きな目を、その根元へ向けています。
海草の実が落ちていました。
1つではありません。
砂地の上に、
いっぱい、いっぱい転がっています。
ぼう然とした表情で見ていると、
その赤い魚の目の前に、
上から、海草の実が1つ降ってきて、
そのまま砂地に落ち、
たくさんの実の中で、コロン・・・と転がりました。
赤い魚は、顔をすぐに上へ向けます。
すき通るような海の水。
上の方で楽しそうに泳ぐ、小魚たちの群れ。
その向こうでは、
大きく翼を広げた海鳥たちが、気持ち良さそうに飛び回っていて、
さらに、その向こう、
どこまでも晴れ渡った青空の、
ずっとずっと高いところには、
うっすらとした白い三日月が、
静かに、ポツンと浮かんでいました。
「彼女の書いた、月夜の海と赤いお魚は、
今、簡単に説明したけど、
だいたい、そんな感じのストーリーで、
そして、絵本の最後は、
文章の無い、絵だけの見開きページで締めくくられていた。
海底の大きなサンカク岩と小さな幼い海草が、明るいオレンジの日差しで一緒に照らされていて、
その幼い海草の根元には、海草の新芽が1つだけ転がっている、
・・・そういった内容の絵本だったんだ」
そこまで話した私は、息をひとつ吐いた。
正面には、真っ暗な境内。
キザハシの1段目に置いた、円盤形LEDの淡い明かりで、
暗闇の中に、
すぐ近くの地面と石燈籠の足だけが、ぼんやりと浮かび上がっている。
ヒグラシたちの声は、
もう、だいぶ小さくなっていた。
バッタたちの細い声が、
今は、そこら中で響き渡っている。
体育座りをしていた私は、膝先で組んでいた手を離すと、
その手で、自分のすぐ横をまさぐった。
少ししてから、顔をそちらへ向ける。
・・・あぁ、そうだった。
レモネードは、もう飲み干してしまったんだ。
「どう思ったの?」
少年の声。
私は、ゆっくりと正面に向き直した。
手を、また膝先で組み、
お尻を片方ずつ浮かせて座り直し、少年に訊き返す。
「・・・絵本?」
「うん」
「ショックだったよ」
ひと言、そう答えてから、
私は、
ふたたび、ひとりで話し始めた。
「私が見て見ぬフリをしている間、彼女はどんな気持ちで待っていたか、
それが、痛いほど伝わってきた」
「私は、なんてことをしてしまったんだ・・・って思った」
「落ち込んだよ」
「勿論、
彼女が私のことを大切に想ってくれていたことは嬉しかった」
「こんなに想っていてくれたんだ、って」
「でも、
全然、喜べなかった」
「私は、そんな彼女を裏切ってしまったんだ」
「絶望させてしまったんだ」
「つくづく、最低な男だと思ったよ・・・」
私は、そう言って顔をうつむけた。
息をひとつ吐く。
少し間を置いてから、もうひとつ。
少年は、何も言わなかった。
私は顔を上げた。
話を続ける。
「迷った」
「手紙を出すかどうか迷った」
「その絵本の出版社に、
ファンレターとして、彼女に宛てた手紙を出せば、
恐らく、本人の元に届けられるだろう」
「でも、
彼女にとって、それは迷惑じゃないのか・・・とも思った」
「あの絵本のラストシーンは、こうも読み取れた」
「私とのことは、もう過去の思い出として割り切り、
そうして、
これからは別の、新しい生活を始めよう・・・ってね」
「仮に、そうだった場合、
そんな彼女に対して、
私は、自分の都合だけのために手紙を出して良いのか」
「新たな1歩を踏み出そうとしている人に対して、
それを思い留まらせるような、邪魔するような手紙を出して良いのか」
「私は、絵本の最後のページを開いたままで、
部屋でひとり、ずっと悩んでいた」
「夕ご飯を食べ終わり、
自分の部屋で、
また、彼女の絵本を読んでいた」
「いや、
読んでいた・・・というより、見ていたんだ」
「彼女の描いた絵を、
1ページずつ、最初からじっくりと見ていた」
「表情豊かで魅力的な、たくさんの海の生き物たち」
「カラフルなサンゴ」
「青い海」
「青い空」
「キレイな星空」
「キレイな月」
「色鉛筆を使って、
ひとつひとつ丁寧に描かれていた、それらの絵を、
私は、
時間をかけ、隅から隅まで見ていった」
「最後のページを開いた」
「オレンジ色の日差しが、
海底のサンカク岩と、
小さな海草と、
その根元の、海草の新芽を照らしている場面」
「私は、
その最後のページの、端っこの方に、
ちょっとした違和感を覚えた」
「砂地の上に、
目立たないようにして、薄く何かが描いてある」
「緩やかに曲がった1本の線」
「円の一部のようだった」
「最初は、気の所為だと思った」
「私の早とちりだと思った」
「ただ、
どうしても、そうとしか考えられなかった」
「ダンスの練習用の線だと思った」
「絵本の中の赤い魚は、
また、練習用の線をわざわざ砂地に描いてたんだ」
「その線は、はっきりと描かれていたわけではなかった」
「砂地の模様や、
あるいは、単なる色ムラのようにも見えた」
「私は、
すぐさま、他のページの絵も見直した」
「何度も何度も見直した」
「他には何も見付からない」
「これだけだった」
「でも、
そうして彼女の絵本を見直しているときには、
もう、私の心は決まっていた」
「彼女に手紙を出すことを、
そのときの私は、
もう、決心していた」




