112.ふと気づくと
ふと気づくと、
赤い魚は、夜の空を泳いでいました。
雲は、ひとつも見当たりません。
まっ暗な空に、光り輝く砂ツブをたっぷりと振りまいたような、
そんな、途方もない美しい星の空が、
赤い魚の見ている先の、すべての場所で広がっていました。
右も左も、上も下も、後ろを振り返っても、
赤い魚の周りは全部そうでした。
星いっぱいの夜空でした。
夜空は、
深く、果てしなく、どこまでも続いているようでした。
静かでした。
魚たちの声も、潮の流れる音も、
そればかりか、自分の泳ぐ音すらも聞こえませんでした。
ひっそりとしています。
赤い魚は、
そうした中、1ぴきで泳いでいます。
自分以外、だれもいないようです。
(ここは、どこだろう?。
ワタシ、どこを目指しているのだろう?。
そもそも、いつから泳いでいるのだろう?。
みんな、どこに行ったのだろう?)
そうした疑問が、ちょっと頭をよぎりましたが、
でも、すぐに忘れてしまいました。
赤い魚は、
星たちの海の中を、
気分よさそうに、1ぴきでスイスイと泳いでいきます。
しばらくして、
泳ぐのに飽きた赤い魚が、
前方に広がる、きれいな星空を眺めて休んでいると、
そのずっと手前の、すぐ近くの場所に、
小さくて白い、光の星が現れました。
(何だろう?)
黙って見ていると、
光の星は、急に右へと動き出しました。
星自身が通った跡を、その場にキラキラと残しつつ、
奥の方へと徐々に向きを変えていきながら、
スイーっと滑るように動いていき、
そのまま滑っていき、そのまま曲がっていき、
向こう側を今度は左へ進み、
まだまだ曲がっていき、
やがて、こちらへと向かってきて、
戻ってきて、
そうして、
赤い魚の目の前をふたたび右へ進んでいって、スタート地点にたどり着くと、
その瞬間、
光の星は、パッと消えてしまいました。
赤い魚の前には、
光の星が描いていった、キラキラの大きな輪っかだけが残されています。
少しの間、じっと様子をうかがっていた赤い魚は、
やがて、
そのキラキラの輪っかに、さらに近づいていきました。
口先で、つんつんしてみます。
しかし、感触はありませんでした。
そのまま通り抜けてしまいます。
赤い魚は、
試しに、輪っかの線に沿って泳いでみることにしました。
ぐるっと1周してきます。
そうすると、輪っかは消えてしまいました。
そして、
赤い魚の目の前に、ふたたび光の星が現れ、
キラキラを残しつつ奥へと滑り出し、
すぐさま左へ曲がり、どんどん曲がり、
そうして、
ちっちゃな輪っかを描いて1周してきて、また後ろから戻ってきましたが、
光の星は、そのまま赤い魚を追い越していき、
さらに何周か回って、
それで、ようやく消えました。
赤い魚は、
ちょっと考えたあと、また泳ぎ始めます。
1周しても、思ったとおり輪っかは無くなりませんでした。
それから4周を回ると、
そのちっちゃな輪っかは消えました。
光の星が、目の前に現れます。
キラキラの線を残しつつ、今度は真上にまっすぐ上っていき、
止まった・・・と思ったら、
その、引いたばかりのキラキラの線の周りをクルクル回りながら徐々に下りてきて、
そして、
元の場所に戻ってきて、星はそこで消えました。
赤い魚は、顔を上へ向けました。
線をたどって、一気に上っていきます。
テッペンに着くと横を向き、
そのまま勢いよくクルクルと回りつつ、線からちょっとだけ外れながら、
急いで下りてきました。
期待に満ちた目をして、次を待っています。
しかし、
いくら待ってみても、光の星は現れませんでした。
キラキラの道も残されたままでした。
赤い魚は、
顔をちょっと横へ傾けました。
考えています。
そうして、
ちょっとしてから、傾けていた顔をゆっくりと戻すと、
キラキラの道を見上げて、
ふたたび、そのまま上へと泳ぎ出しました。
テッペンにたどり着くと、
今度は線から外れないように注意して、
ていねいに、ゆっくりクルクルと下りていきます。
キラキラの線は、
思ったとおり、パッと無くなりました。
同時に、
目の前に、また光の星が現れ、
動き出し、
新しい輪っかを描いて、すぐに消えていきます。
赤い魚は、
尾ビレを強く振って、張り切って泳ぎ出します。
そこは、
物音ひとつ聞こえない、
しん・・・と静まり返った、美しい夜空の世界でした。
どこまでも広がる、はてしない星たちの海でした。
そのまん中で、ちっぽけな体の赤い魚は、
光の星と、その光の星が残していくキラキラの線に導かれ、
1ぴきで、ただ黙々と泳ぎ続けます。
何周も、何周も、
クルクル、クルクルと、
いっしょうけんめい、せっせと回り続けています。
「どうしたの?」
ふいに、声が聞こえました。
上の方からです。
赤い魚は、
泳ぐのをやめ、そちらを見上げました。
星空をバックに、
ぽおっと光る、1ぴきの魚がいました。
全身まっ白で、目はありません。
のっぺらぼうの顔をこちらに向けたまま、
上から、じっと様子をうかがっています。
「はじめまして」
赤い魚が、あいさつをしました。
白い魚は、顔を横に傾けました。
口を開きます。
「また、キミの言い間違い?」
赤い魚は、
すぐさま顔を左右に振りました。
「ううん、言い間違いじゃないわ。
ワタシ、
あなたと会うの、初めてだもの。
どなたかしら?」
白い魚は、
ちょっと不機嫌そうな声になって言いました。
「どなた・・・って、ひどいなぁ。
夜の海をいっしょに泳いで、あんなに遊び回ったじゃないか。
きょうだって朝まで遊んでたでしょ?。
忘れたの?」
赤い魚は、
白い魚の、のっぺらぼうの顔を、
あらためて、じぃっと見てみました。
そして、
少ししてから言いました。
「・・・やっぱり、ワタシ、
あなたと会うの初めてだわ。
だって、
あなたの顔に見覚えがないし、
それに、
その声だって聞き覚えがないもの」
白い魚は、
ますます不機嫌そうな声になって、言いました。
「ボクの声に聞き覚えがないのは、そっちが聞こえないからでしょ。
まったく、
あんなにがんばって、しゃべったのにさ・・・」
赤い魚は、大きな目をパチクリさせました。
「え?、聞こえない?。
でもワタシ、
今、ちゃんと聞こえてるよ?」
「そんなの知らないよ。
聞こえない・・・って、あのときのキミは確かにボクに言った。
すっごくガッカリしたんだから」
「・・・そうなの?」
「うん」
「ごめんなさい、覚えてないわ・・・」
「・・・まぁ、その話はもういいや。
それよりもさ、どうしたの?」
赤い魚は、キョトンとしました。
「え?。
どうしたの・・・って?」
白い魚は答えました。
「キミの声が聞こえたんだ。
助けて、って」
「?、助けて?。
ワタシ、そんなこと言ったかしら・・・」
赤い魚は、
見上げていた視線を、さらに上げました。
白い魚の頭の上の、はるか遠くに広がる星空に目をやりつつ、
ちょっとの間、考えてみます。
でも、思い出せませんでした。
心当たりがありません。
そうして、それどころか、
自分には、昔の記憶がまったくないことに気がつきました。
思い出せることと言えば、
星の海を1ぴきで泳いでいたことと、
小さな光の星に導かれて、
この辺りを、クルクルと泳ぎ回っていたことだけです。
(ワタシは、だれなんだろう?。
どうして、こんなところに1ぴきでいるんだろう?)
赤い魚は、
ぼんやりと、そんなことを考え始めました。
白い魚が、
やがて、口を開きます。
「何でもないのなら、ボクはそれでいいんだ。
・・・じゃあ、もう帰るよ」
そう言った白い魚は、
自分のバックに広がる星の海を振り返り、泳ぎ出しました。
その瞬間、
「待って!」
赤い魚は大きな声を出し、白い魚を呼び止めました。
どうしてか・・・は、わかりません。
白い魚の後ろ姿を目にした途端、
心が、キュウ・・・っと締め付けられ、
すぐに不安がこみ上げてきて、
いっぱいいっぱい、こみ上げてきて、
気づいたときには、
もう、
その言葉が、勝手に口から出ていたのです。
白い魚は、すぐさま泳ぐのをやめました。
後ろを振り返って、赤い魚に尋ねます。
「なに?、どうしたの?」
赤い魚は、
口を小さく開けたままで、ぼう然としています。
でも、ハッと我に返ると、
上にいる白い魚に向かって、あわてて聞き返しました。
「え?。えっと・・・、なに?。
どうしたの?」
白い魚は、あきれました。
「それはこっちのセリフだよ。
今、キミはボクを呼び止めたじゃないか。
待って・・・ってさ。
何か用事があって、それで呼び止めたんじゃないの?」
「いや・・・、
えっと、あの・・・、」
口ごもってしまった赤い魚は、
間を置いてから、顔を徐々にうつむけていき、
そうして、小さめの声で、
「ごめんなさい、何でもないの・・・」
と、ちょっと寂しそうに謝りました。
白い魚は、
下でうなだれている赤い魚の方に顔を向けたまま、
高いところで、じぃっとしていましたが、
しばらくすると、
静かに、ゆっくりと下りていきました。
赤い魚に近づいていき、
うなだれている、その様子を、
そうっと、うかがうと、
すぐに身をひるがえし、後ろへ向き直しました。
向こうを向いたまま、赤い魚に尋ねます。
「ねぇ、
さっきまで、ここで何をしていたの?」
「・・・」
「ねぇったら。
・・・聞いてるの?」
赤い魚は、我に返りました。
顔をあわてて上げました。
「え?、なに?。
今、なんか言った?」
白い魚は、
向こうを向いたまま、答えました。
「うん、言ったよ。
さっきまで、ここで何をしていたの?・・・って」
「あ、ダンスの練習。
ワタシ、ダンスの練習を・・・」
口から勝手に、
また、言葉が出ていました。
白い魚は、さらに尋ねました。
「ダンス?。
あれは、ダンスの練習だったの?」
「・・・」
「・・・どうしたの?」
そう聞いた白い魚は、赤い魚を振り返ります。
赤い魚は、
少し間を置いて、
その顔を、静かに左右に振りました。
そうして、
「ううん、何でもないの」
と言って、顔をうつむけ、
消え入りそうな弱々しい声で、
「何でもないの・・・」
と、同じ言葉をまたくり返しました。
振り返ったままだった白い魚は、
赤い魚をじぃっと見たあと、
顔を、ゆっくりと前に戻しました。
落ち着いた声で、また尋ねます。
「ねぇ、
ボクも、やってみていい?」
「・・・え?」
「ボクも、やってみていい?」
「えっと・・・、何をするの?」
「ダンスの練習。おもしろそうだから」
「あ、
うん、いいよ・・・」
「この、大きな輪っかの線に沿って泳げばいいんだよね?」
「うん・・・」
「回って1周したら・・・、次はどうするの?」
「うん・・・」
「いや、
うん・・・だけじゃ、ボクわからないよ。
次は、どうしたらいいの?」
「うん・・・」
「ちょっと、・・・聞いてる?」
「うん・・・」
「・・・」
「うん・・・」
「・・・ボク、
今からダンスの練習してくるよ」
「うん・・・」
そう言われた白い魚は、
けれども、なかなか泳ぎ出そうとしませんでした。
前を向いたまま、じっとしています。
でも、
少ししてから尾ビレを大きく振ると、
そのまま、自分の正面に続く輪っかの線に沿って泳ぎ出しました。
赤い魚は、
ちょっと遅れて、顔を下に向けていきました。
(ワタシ、
いったい、どうしちゃったんだろう・・・)
「ねぇ。
・・・ねぇったらー!。
おーい!」
白い魚の大きな声が、離れたところから聞こえてきました。
赤い魚はハッとして、
あわてて顔を上げ、言いました。
「え?。
あ、どうしたのー?」
「キラキラの輪っか、途中で急に消えちゃってさー。
で、代わりに、
この、ちっちゃな輪っかが現れたんだけど、
今度は、これを回ればいいのー?」
「あ、うん。
次は、それを回るのー」
「わかったー」
「あ!、ちょっと待ってー」
「え?。なにー?」
「それ、
1周じゃなくて、5周だからー」
「あー。
だから、さっき星が何周も回ってたのかぁ・・・」
「そう。
あと、向きもあっ――」
「知ってるー。こっちでしょー?」
白い魚は、
赤い魚の声を途中でさえぎると、
尾ビレを振って、元気よく泳ぎ始めました。
クルリ、クルリ・・・と、
左に小さく回り続けています。
赤い魚の心が、
また、
キュウ・・・っと締め付けられました。
5周を回り終えた白い魚は、
その後、
真上に伸びたキラキラの線をたどって、高く高く上っていきます。
そうして、テッペンに着くと、
今度は、うずを巻くように小回りしながら下りてきて、
次は、
また目の前に現れた大きな輪っかに沿って、そのまま泳ぎ出します。
白い魚が、
突然、泳ぐスピードを上げました。
その勢いのまま、
宙返りを、グルン、グルン・・・とくり返しています。
それが終わると、
スピードをゆるめ、ふつうに泳ぎ出しましたが、
でも、少しすると、
お腹を上にして、仰向けになりました。
ときおり尾ビレだけを動かして、のんびりと泳いでます。
そのまま、キラキラのコースを大きく外れていきます。
気にしません。
何かの歌を口ずさみながら、気持ちよさそうにしています。
しばらくして、歌うのをやめた白い魚は、
ふたたび、お腹を下にすると、
キラキラの輪っかのところに戻ってきました。
線の左右を行ったり来たり、フラフラしながら、
そして、
その合間に、ときどき宙返りを挟みながら、
自由気ままに、思うがままに泳いでいます。
白い魚は、そうして、
コースを途中で何度も外れながらも、
円をぐるっと1周して帰ってきましたが、
キラキラの輪っかは、
なぜか、パッと無くなりました。
すぐに光の星が現れ、
次のコースを描いたあと、消えていきます。
白い魚は顔を上げ、左にクルリと回りました。
ご機嫌な様子で尾ビレを振って、
また、さっそうと泳ぎ出します。
きらめく星たちの海をバックに、
1ぴきで楽しそうに泳ぎ回っている白い魚。
赤い魚は、その白い魚の姿を、
静かに、じぃっと見ています。
白い魚が右に行けば右を向き、
左に行けば左を向き、
高く上がっていけば、それに合わせて上を向いていき、
下に戻ってくれば、それに合わせて顔を戻していき・・・。
そうして、
まるで、見えない糸に引かれているかのように顔を動かし、
白い魚の姿を追っています。
広い夜空を埋めつくす、きれいな星たちも、
次々と描かれるキラキラの線も、
赤い魚の、その大きな2つの目には映っていません。
白い魚の泳ぐ姿だけを追っています。
片時も目を離すことなく、
ずっと追い続けています。
白い魚が戻ってきました。
ぼーっとした様子の赤い魚に尋ねます。
「ボクのダンス、どうだった?」
「・・・」
「ねぇ、どうだった?」
「・・・」
「ぼーっとしてないで答えてよ」
「・・・」
「ねぇってば」
「・・・」
赤い魚は、
その顔を、ゆっくりとうつむけました。
そのまま、じっとしています。
白い魚は、ちょっと心配そうに尋ねました。
「・・・ボクのダンス、
もしかしてダメだった?」
赤い魚は、
顔を左右に振って、白い魚に言いました。
「ううん、そうじゃないの。
あなたのダンスは好き。
でもね・・・、
あなたのダンスを見ていると、なぜか知らないけど心が痛くなってしまうの。
苦しくなってしまうの」
「・・・え?」
「あのね、
あなたのこと、全然思い出せないんだけどね・・・、
でも、たぶん、
ワタシ、
あなたといっしょにいたいんだと思うの。
あなたの横に並んで、
それで、
すっといっしょに泳いでいたいんだと思うの」
「・・・」
「たぶん・・・、たぶんだけどね、
きっとワタシ――」
「ボク・・・、
ボク、そろそろ帰らなきゃ!」
「え?」
赤い魚は、顔を上げました。
白い魚は、
いつの間にか向こうを向いていました。
そうして、
「・・・これ以上ここにいると、
ボク・・・」と言って、その顔をうつむけました。
「え?。
・・・あの、どうしたの?」
「・・・」
「ねぇったら」
「・・・じゃあね」
白い魚は、そう言うなり顔を上へ向けました。
尾ビレを大きく振って、勢いよく泳ぎ出します。
「待って!」
赤い魚も、すぐに尾ビレを振って追おうとしました。
でも、ダメでした。
できませんでした。
体が、ちっとも前に進んでくれないのです。
赤い魚は、自分の尾ビレを振り返りました。
大きく欠けていました。
赤い魚は、すぐに前へ向き直しました。
欠けている尾ビレを振り続けます。
力の限り、いっしょうけんめい振り続けます。
「お願い、待って!。
ワタシを置いて行かないで!。
もう、1ぴきにしないで!」
ヒカリの魚の姿は、
けれども、どんどん小さくなり、
遠く向こうへと離れていきます。
赤い魚の体は、
やがて、
見えない何かによって、後ろへと強く引っ張られ始めました。
ゆっくり、ゆっくりと、
下に沈んでいきます。
少しすると、
そのずっと下の、夜空の底に、
もやのような深い闇が、ほんのちょっと現れました。
それは、モウモウと大きく膨れ上がっていき、
夜空をグングンかけ上がっていき、小さな星たちを次々と一瞬で飲みこんでいき、
すぐさま全ての星が消え、見えなくなり、
ヒカリの魚も見えなくなり、
何もかもが見えなくなり、
まっ暗闇の、静かな夜の世界には、
いっしょうけんめい尾ビレを振り続ける、小さな赤い魚だけが取り残され、
そして・・・。




