108.夜も遅いためか
夜も遅いためか、
月明かりの差しこむ海の中は、ひっそりとしていました。
海底の、ゴツゴツとした大岩の上にいるイソギンチャクが、
たくさんの触手を、
あてもなく、フワフワと漂わせています。
その大岩の下辺りの、まっ白い砂地の上を、
赤い魚とヒカリの魚は、泳いでいました。
魚は、ほかには1ぴきも見あたりません。
岩のカゲでは、
頭も足もハサミも、全てをカラの中にしまったヤドカリが、
おとなしくしています。
向こうの方では、
海草の細い葉に、自分のシッポをからませたタツノオトシゴが、
目をつむったまま、
ときおり流れる、穏やかな潮に身をまかせ、
ゆらりゆらりと揺れています。
そんな夜ふけの、静まり返った海の底を、
赤い魚はポンポンと、ヒカリの魚はスイスイと、
2ひき並んで、いっしょに泳いでいました。
岩場を抜け、
じょうぶな厚い葉を、はるか上の方まで長く伸ばした巨大なコンブたちの根元を、
いくつもいくつも通り過ぎていき、
しばらく進むと、
辺りの広々とした砂地は、
やがて、ゆるい上り坂になりました。
2ひきは、
そこを、そのまま上っていきます。
高いところにあった海面が、だんだんと近づき、
赤い魚たちのすぐ上に来るくらい、海が浅くなると、
ずっと上り坂だった砂地は、
また、平らに戻りました。
「ここは、ニライカナイって名前の島の海辺よ。
秘密の場所は、あとちょっとだから」
赤い魚は、
そう言ってから、空を見上げました。
「・・・少し急ぎましょ。
間に合わないかもしれないわ」
尾ビレを少し強めに振って、ニライカナイの海辺を泳いでいると、
辺りに、小石や岩の姿が目立ち始め、
水底の、サラサラとした砂地は、
やがて、細かいジャリに変わりました。
そのまま、
ジャリの上を、2ひき並んで泳いでいると、
辺りを照らしていた月明かりが無くなり、暗くなりました。
水底のあちこちから、
木の、細長い幹のようなものが、
斜め上へと、それぞれ違う角度で生えていて、
それらは水の外で、ひとつずつつながっていき、
そのつながったもの同士が、さらにつながっていき、
最後には、そうした全てが、
太い1本の、
まっすぐ空へと伸び上がっている幹へと、つながっていました。
マングローブの木です。
マングローブの木は、
水上で、枝を四方八方に大きく広げていて、
葉をたくさん茂らせていました。
葉は、そのほとんどが緑色でしたが、
ときどき黄色い葉も、チラホラと交じっています。
この海辺には、そうしたマングローブの木が、
そこら中に、何本も何本も生えており、
巨大な森を作っていました。
2ひきの魚は、
その森の、
それぞれの木の根元をうすく浸している、とう明な水の中を泳いでいきます。
そうして、
マングローブの、斜めになった根の下をくぐり抜け、
岩と岩の、せまいすき間を通り、
浅い海辺を、奥へ奥へと進んでいくと、
やがて、前方に、
ひときわ大きい、1本のマングローブの木が見えてきました。
「あった。あの大きな木よ。
あそこの下に、入り口があるの」
赤い魚は、
そう言って、そちらへと泳いでいきます。
少し行くと、
平らだったジャリの水底は、ゆるやかな下り坂に変わりました。
どうやら、
この辺りの水底は、
あの、大きなマングローブの木を中心にして、
ちょっとだけ、くぼんでいるみたいでした。
2ひきは、
その、くぼみの中心に向かって、
ジャリの斜面を下りていきます。
くぼみの、いちばん深いところにたどり着きました。
赤い魚の、目の前には、
マングローブの、立派な太い幹が、
高々と、そびえ立っています。
赤い魚は、
その太い幹の根元の、すぐ隣を見ました。
そこには、
マングローブの幹に押されて片側が浮き、斜めになった四角い岩がありました。
その岩の下にできている、すき間の向こうはまっ暗でした。
奥の方まで、
ずうっと長く続いているみたいです。
「ここよ。このすき間を抜けた先にあるの。
中は、せまいし暗いから――」
気を付けて・・・と、言葉を続けようとしたところで、
赤い魚は、話すのをやめてしまいました。
ほほ笑みを浮かべて、
そのまま、ヒカリの魚の方を振り返ります。
「今夜は、あなたがいるから平気ね。
ワタシといっしょに来て、道を照らしてくれるかしら」
ヒカリの魚は、顔を誇らしげに高く上げると、
左にクルリと回りました。
すき間の奥は一本道で、
曲がりくねりながらも、下の方へと延びていました。
2ひきは、
赤い魚を先頭にして下っていきます。
少しすると、
道の奥に、うっすらと出口が見えてきました。
出口は、それからすぐに、
ぽおっとした、ヒカリの魚の明かりに照らし出され、
はっきりと見えるようになりましたが、
その向こう側は、暗いままでした。
赤い魚は、
出口に近づくと、そこで止まりました。
目の前には、
広い、筒のようなタテ穴が、
上にも下にも、長く延びています。
赤い魚は、
その筒の中ほどにある出口のヘリで、顔を真上に向けました。
星空に向かって、
タテ穴の壁が、まっすぐ高く延びており、
その壁の、途中から上にだけ、
月明かりが、斜めに当たっていました。
「ごめんね・・・、少し遅かったみたい」
見上げたまま、そう口にした赤い魚は、
それから、
自分の隣へ、ゆっくり目を向けました。
ヒカリの魚が、出口のヘリから顔だけを出し、
タテ穴の下の方を、
熱心に、のぞきこんでいます。
赤い魚も、
同じく、下をのぞきこみます。
ヒカリの魚の、ぽおっとした明かりのおかげで、
穴底が、うっすらと見えています。
「ホントは、きれいなものが見えたんだけど・・・」
赤い魚は、ちょっと残念そうに言いました。
ヒカリの魚は、しばらくの間、
そのまま、
赤い魚の隣で、下をのぞきこんでいましたが、
やがて、出口のヘリから離れ、
穴の中央へと、ゆっくりと泳いでいきました。
そうして、
それから顔を下に向けると、尾ビレを振って、
穴底へと、
1ぴきで、もぐっていきました。
「あ!」
出口のヘリから、それを見ていた赤い魚は、
急に声を上げました。
もぐっていくヒカリの魚を囲うようにして、
突然、
大きな、七色の丸い虹が現れたのです。
丸い虹は、
ヒカリの魚よりも少し低い位置の海中にできていました。
いちばん外に赤。
次がオレンジで、黄色をはさんで緑色。
明るい青から暗い青に変わっていき、もっとも内側は紫色。
七色の虹は、
ヒカリの魚がもぐっていくのに合わせて、少しずつ下の方へと逃げていき、
そして、その輪をだんだんと小さくしていきます。
「ねぇったら、ねぇねぇ!。気づいてないの?。
虹の輪っかが下にできてるよ!」
赤い魚が、大きな声で教えると、
穴底の近くをうろついていたヒカリの魚は、動きを止めました。
それから、
自分のすぐ下を、あちこち見回し、
次に、周りの壁をグルッと見渡し、
最後に、赤い魚の方を見上げました。
顔を、横に傾けます。
「見えてないの?。
ほら、
今もあなたのすぐ下に、きれいな虹の輪っかが・・・」
ヒカリの魚は、
それを聞くと、ふたたび顔を下に向けました。
そのまま、辺りをゆっくりウロウロします。
そして、
少ししてから泳ぐのをやめ、
赤い魚を見上げ、
まっ白い顔を、横に傾けました。
「あ、
もしかすると、その位置からだと見えないのかもしれないわ。
こっちに戻ってきて。
ここからなら、
きっと、虹が見えると思うから」
赤い魚が、そう言うと、
ヒカリの魚は顔を下に向けて、
広い穴底を、もう一度ざっと見渡したあと、
上を向いて、
そのまま、出口のヘリにいる赤い魚の方へと、
尾ビレを振って泳ぎ始めました。
「あ!、ちょっと待って。
ストップ、ストーップ!」
赤い魚の、その大きな声を聞き、
ヒカリの魚は、すぐさま動きを止めました。
赤い魚の顔を、
ふしぎそうな様子で、じぃっと見ています。
「あのね、
あなたが上がってくるのに合わせて、虹の輪っかも上がってきて、
だんだんと、また大きくなってきたの。
たぶん、あなたがここに戻ってくる前に、
大きくなった虹が、周りの壁にぶつかって消えてしまうわ」
赤い魚が、そう説明すると、
ヒカリの魚は、
ちょっとしてから、顔を横に傾けました。
わからなかったみたいです。
「えーっと、この場所はね・・・、
もうちょっと早くに来ると、月の光がまっすぐ下まで差しこんでね、
その光で、
穴の底に、山なりの曲がった虹が映りこむの。
今、あなたの周りにできている虹は、
それとは形が少し違ってて、輪っかになってるし、
あと、海中に浮かび上がってるけれど、
でも、
きっと、似たような原理だと思うの。
月の光の代わりに、あなたの光でその虹はできていると思うの」
ヒカリの魚は、赤い魚を見上げたまま、
話をおとなしく聞いています。
「たぶん、虹は、
あなたが穴の下の方にいないと現れないの。
そして、その現れた虹は、
きっと、高い場所からじゃないと見えないのよ」
ヒカリの魚は、
いったん、顔を下に向け、
少ししてから、
ふたたび、出口のヘリにいる赤い魚を見上げます。
「虹を見るためには、
光ってるあなたが、穴の下の方で虹を作って、
それと同時に、
もう1ぴきのあなたが、
ワタシのいる、ここの場所からその虹を見ないと、
たぶん、ダメなの」
ヒカリの魚は、しばらくしてから、
また、顔を横に傾けました。
やっぱり、わからないみたいです。
「えっと、
だから、あなたが下と上で2ひきいないとその虹は見れないのよ」
ヒカリの魚は、
顔を傾けたまま、
少しの間、じぃっと動きを止めていましたが、
やがて、
頭をピクッと動かすと、
左に、クルリと回りました。
上を向き、口を大きく開けると、
そのまま、
立てたままの自分の体を、徐々に下へと沈ませていきます。
「あっ、海草の新芽!」
口を閉じたヒカリの魚の、目の前には、
まぶしい白い明かりに包まれた新芽が、プカプカと浮かんでいました。
新芽が動かないのを、
その場でしばらくの間、確かめたヒカリの魚は、
急いで、赤い魚の方へと泳ぎ出しました。
そして、
出口のヘリの、赤い魚の隣に帰ってくると、
あらためて、
穴の底を振り返ります。
2ひきの魚たちの視線の先、
まぶしい明かりに包まれた、小さな新芽の、
その、さらに下には、
大きな七色の輪っかが、
タテ穴の海中に、
きれいに、はっきりと浮かび上がっていました。
ヒカリの魚は、
すぐさま穴の中央へと、勢いよく飛び出していきました。
クルリ、クルリ、クルリ・・・と、
何度も何度も回り続けます。
出口のヘリの赤い魚は、
その、ヒカリの魚がはしゃぎ回る姿を嬉しそうに眺めながら、
尋ねました。
「どう?。おもしろかった?」
ヒカリの魚は、すぐに回るのをやめ、
こくんこくん・・・と、
赤い魚に向かって、すばやく2回うなずくと、
ちょっとしてから、
顔を上に向けました。
タテ穴の、はるか向こうに広がる夜空を見つめて、
次に、赤い魚を見て、
また、夜空を見上げたあと、
赤い魚の方へと、ゆっくりと泳いでいきます。
出口のヘリに戻ったヒカリの魚は、
念のため、
もう一度、空を確かめます。
そうして、それから、
赤い魚の尾ビレの方を向くと、顔を近づけていき、
口を、パクパクと動かし始めました。
「・・・ダメよ」
赤い魚は、言いました。
「それは、イケナイことなんでしょう?。
ワタシ、あなたが喜ぶ姿を見て満足したわ。
とっても嬉しかった。
それで、じゅうぶんよ」
赤い魚は、
ヒカリの魚を見て、ほほ笑みました。
ヒカリの魚は、
赤い魚の、欠けた尾ビレのそばで、
口を開けたまま、動きを止めていましたが、
やがて、その口を閉じていくと、
顔を、ゆっくりと下へ向けていきました。
しょんぼりとしています。
「ほらほら、元気出して。
早く次の場所に向かいましょ。
ニライカナイの島には、
まだまだおもしろい場所が、たっくさんたっくさんあるんだから」
声を明るくして、そう言った赤い魚は、
クルリと身をひるがえし、タテ穴に背を向けました。
すき間に続く細い上り道を、また戻り始めて、
すぐさま、後ろを振り返ります。
「ほらぁ、
そんなところで、いつまでもしょんぼりとしてないで、
早く行きましょ。
あなたが照らしてくれないと道がまっ暗で、
怖くて帰れないわ。
ワタシ、あなたがいないとダメなの」
それを聞いたヒカリの魚は、
顔を、ゆっくりと起こしました。
「・・・いっしょに来てくれるかしら?」
穏やかな笑みを浮かべた赤い魚の顔を、じぃっと見ていたヒカリの魚は、
少し間を置いてから、
静かに、
こくん・・・と、うなずきました。
《マングローブ》とは、
正しくは、河口付近にある汽水域の森林のことを指す言葉だそうです。
なので、作中に出てくる《マングローブの木》は、
本来は、特定の種類の樹木を指し示す言葉としては不適切なのですが、
本当の名である《ヤエヤマヒルギ》と書いても、
普通の人は、そのタコ足のような根を持つ木を脳裏に描きにくいだろう・・・と判断し、
作中では分かりやすさを重視して、敢えて《マングローブの木》と表現しています。




