105.その日は、もうとっくに夜は明けているというのに
その日は、もうとっくに夜は明けているというのに、
海の上も、海の中も、
ずっと、うす暗いままでした。
空を全て、どんよりとした厚い雲がおおっていて、
それが、
はるか上にあるはずの太陽の姿を、すっかり隠してしまっていました。
風が、ビュウゥゥ・・・ビュウゥゥ・・・と恐ろしい音をたてて、
強く吹いています。
やがて、風の中に、
目に見えないくらいの細かさの、粉のような雨粒が交じるようになりました。
しばらくすると、
そこに普通の雨粒が、
ときどき、ポツリポツリと交じるようになり、
さらに少しすると、
その普通の雨粒は、どんどん増えていき、
あっという間に、たくさんの量になり、
ついには、
ドシャ降りの激しい雨が、辺り一帯をまるごと包んでしまいました。
アラシが、やって来たのです。
広い広い海の全体に、
大量の雨が、休むことなく降っていました。
海のそこら中で、
その、水面に落ちるときの雨粒の音が、
ザアザア、ザアザアと、
少しの絶え間もなく、鳴り続けています。
滝のような、ごう音です。
それが、
海の、あらゆる場所で鳴っているのです。
風の音も波の音も、全部かき消されてしまって、
まったく聞こえません。
それほどの、すさまじい雨が降っていたのです。
海の上は大荒れでした。
あらゆる場所が、
ゆらり・・・、ゆらり・・・と、
大きく、不気味に波打っています。
水面が、ゆっくり持ち上がっていき、
クジラの背中くらいの高さになったかと思うと、少し止まって、
今度は徐々に低くなっていき、深く沈みこみ・・・。
少し間を置いてから、
その、沈みこんでいた海面が、
また、ゆっくり大きく持ち上がっていき、
クジラの高さになると止まって、
少しすると、
また徐々に低くなっていき、深く沈みこんでいき・・・。
そんな感じの、
普段の波とは比べ物にならないほどの、とてつもない大きさの上がったり下がったりを、
海は、
あちらこちらで、
ただひたすら、くり返していました。
いっぽう、海底は、
しかし、
そういった、さわがしい海の上と違って、
とても静かなものでした。
数百万とも数千万ともつかない、ものすごい量の雨粒たちが、
海面に、次から次へと落ちたときの、
一瞬も途切れることのない、そうぞうしい雨音も、
この、深い海の底までは届きません。
潮が、いつものように、
ときどき、ゆっくり優しく流れていき、
海草たちも、その潮に合わせて、
茎や葉を、
そよそよと、穏やかになびかせています。
赤い魚も、静かでした。
大きな目を少しだけ開けて、
そのまま、
うす暗い海底の砂の上で、
1ぴきで、じっと横になっていました。
ピクリとも動きません。
きのうの夜から、
ずっと、そうでした。
ずっと、倒れたままでした。
起き上がる元気は、
赤い魚には、
もう、残っていませんでした。
海の底が、ちょっとだけ明るくなりました。
太陽の光ではありません。
月の光です。
夜になり、アラシはようやく去ったのでした。
赤い魚は、海底の砂に寝そべったまま、
遠くの方を、
ただ、ぼんやりと眺めていました。
海の生き物たちは、1ぴきも見あたりません。
広々とした、うす暗い海の底は、
ひっそりとしています。
目が、かすんできました。
海の景色が、だんだんと見えなくなっていきます。
赤い魚は、
自分の今までのことを、ぼーっと思い浮かべていました。
群れで、毎日イジメられていたこと。
ある日、ガマンできなくなり、
そこを飛び出したこと。
体の大きな魚に尾ビレを食いちぎられ、
泳げなくなってしまったこと。
シマシマの魚と、いっしょに暮らすようになったこと。
裏切られたこと。
また、1ぴきだけに戻ってしまったこと・・・。
心が苦しくなりました。
でも、ナミダは出てきませんでした。
何日もの間、ずっと泣き続けていたため、
もう、とっくに枯れていたのです。
赤い魚は、
海の底で横になったまま、
1ぴきで、
おとなしく待っていました。
お迎えが来るのを、待っていました。
しばらくすると、
目の前が、ぽおっと明るくなりました。
どうやら、お迎えが来たようです。
赤い魚は、
口を、わずかに動かしました。
もう一度・・・、
甘くておいしい海草の実・・・食べたかった・・・な・・・。
辺りが、急に暗くなりました。
赤い魚は、
目を、ゆっくりと閉じていきました。
・・・、
・・・、
・・・?
口元に、
かすかな感触がありました。
小さな何かが、
ゆっくり、そうっと当たったような、
そんな感触でした。
しばらくすると、
また口元に、同じ感触がありました。
間を置いて、
さらに、もう一度。
赤い魚は、
倒れたままで、
少ししてから、目をうっすらと開けました。
夜の暗い海が、ぼんやりと見えました。
月明かりが、上から差しこんでいます。
だれもいません。
シーンとしています。
(気のせい・・・だったのか・・・な・・・)
うすく目を開けたまま、
海底の砂地で、じっとしていると、
やがて、
近くが、ぽおっと明るくなりました。
そして、
上から小さな何かが降ってきて、
赤い魚の口元に、ぽとり・・・と落ちました。
(なんだろ・・・。
ワタシの口元・・・に、
小さな何か・・・が、
今・・・、たくさん・・・乗ってる・・・。
軽くて・・・、丸くて・・・、小さくて・・・。
でも・・・、この感じ・・・、
ワタシ・・・、知ってる・・・気がする・・・。
なんだ・・・っけ・・・。
・・・。
・・・。
そう・・・だ・・・。
甘くておいしい・・・海草の・・・。
どうやって・・・、食べるんだっけ・・・。
確か・・・、こうやって・・・)
赤い魚は、
横になったまま、
口を、そうっと開けていきました。
すると、
口元に乗っていた、その小さな何かが、
いくつか、口の中へと滑り落ちてきました。
赤い魚は、そのまま口を閉じました。
(あぁ・・・、この味・・・。
やっぱり・・・ワタシの大好きな・・・海草の実・・・。
甘くて・・・おいしい・・・)
海草の実を、
ゆっくり味わって食べていると、
目の前が、
ふたたび、ぽおっと明るくなりました。
少し遅れて、
赤い魚の口元に、
さっきと同じ、小さくて丸いものが落ちてきました。
赤い魚は、
また、口を開けました。
滑り落ちてきたものを、パクリ・・・とキャッチします。
思ったとおり、海草の実でした。
時間をかけ、じっくり味わいながら、
ひと噛みひと噛み、大事に大事に食べています。
(あぁ・・・、おいしかった・・・。
ごちそう・・・さま・・・)
赤い魚は、満足そうな表情を浮かべると、
そのまま、
目を、少しずつ閉じていきました。
そうして、しばらくすると、
今度は、小さな寝息をたて始めました。
スー・・・、スー・・・。
スー・・・、スー・・・。
スー・・・、スー・・・。
赤い魚は、海の底で、
その夜、
ひさし振りに、ゆっくりと眠りました。
目が覚めました。
海底の、そこら中に、
明るい光が、サンサンと降りそそいでいます。
上を見てみると、
海の、すき通った水の向こうに、
雲ひとつない青空が広がっていて、
その空の、まん中では、
太陽が、まぶしくギラギラと輝いています。
どうやら、
もう、お昼のようです。
赤い魚は、そのまま、
水の向こうの、晴れ渡った空を、
ぼーっと眺めていました。
ゆらゆらと揺れる、明るい太陽の手前を、
ときどき、
小さな魚の群れが、
いっせいに、サッと横切っていきます。
その様子を、海の底から見上げつつ、
今日は何をしようかな・・・と、考え始めたときでした。
ハッ・・・と気づきました。
すぐさま、顔を下に向けます。
砂地の上に、
小さくて丸い海草の実が、いくつも転がっていました。
赤い魚は、
また、顔を上に向けました。
きれいな海の、きれいな水。
青い空。
太陽の、まぶしい光。
魚の姿は、今は見あたりません。
はるか上では、
カモメたちが大きくツバサを広げ、ゆうがに飛び回っています。
赤い魚は、
顔を上に向けたまま、あっちやこっちを少しキョロキョロと見回してから、
今度は、
自分の周囲に広がる海へと、目を向けました。
日光が、
まっすぐキラキラと差しこんでいる、明るい海の中を、
色とりどりの、たくさんの魚たちが、
気持ち良さそうに泳いでいて、
その手前を、
とう明な体のクラゲが、
フワリフワリと、のんびり気ままに漂っています。
赤い魚は、
次に、後ろを振り返り、
そちらを見てみます。
すぐ近くにあるサンカク岩の向こうの、白い砂地の上で、
2ひきのカニが、
仲良く食事をしていました。
ハサミを自分の口元へと、
左右順番に、のろのろと動かしています。
いつもの海の、いつもの景色でした。
変わった様子は、特にありませんでした。
赤い魚は、
もう一度、自分の下を見てみます。
砂地の上には、
確かに、海草の実が転がっています。
赤い魚は、
それらの実を見つめたまま、じぃっと考えました。
しばらくして、
手前にある1コに、
口を、おそるおそる近づけていきます。
・・・パクッ。
モグモグ、モグモグ。
・・・。
・・・。
・・・念のため、もう1コ。
・・・パクッ。
モグモグ、モグモグ。
・・・。
・・・。
・・・。
甘くておいしい、いつもの味でした。
どうやら、夢ではないようです。
赤い魚は、
もう一度、周囲をグルっと見回して、
それから、顔を上に向けました。
あたたかい海の、きれいな水の向こうに、
あい変わらず、太陽がギラギラと輝いています。
(海草の実、どうして降ってきたんだろう。
たまたまワタシのところに流れてきた、とは思えないし。
やっぱり、だれかが取ってきてくれたのかな・・・。
そうだとすると、いったいだれが・・・)
空と太陽を見上げたまま、
しばらくの間、考えてみました。
でも、サッパリわかりません。
(そうだ、ここで待ってみよう。
また、来てくれるかもしれない)
赤い魚は、砂の上に落ちてる実を、
パクッ・・・パクッ・・・と、
残さず全て、口に入れると、
岩場の方へ向き直し、ポンポンと泳いでいき、
そのまま岩カゲに身を隠しました。
そうして、口をモグモグと動かして、
今、自分が食べている海草の実を取ってきてくれた、そのだれかが来るのを、
そこで、
しんぼう強く、
じぃっと待ち続けました。




