103.「9月に入った」
「9月に入った」
「始業式の、その次の日」
「朝の10時半」
「およそ1年振りの高校の、4階の空き教室」
「中央に、長机がひとつだけ置かれており、
私は、そこに一緒に用意されていたイスに座って、
先生が来るのを待っていた」
「静かだった」
「聞こえてくるのは、
遠くの方を走る電車の音と、
あとは、
私のすぐ隣に座る母親の、
ガサゴソ、ガサゴソ・・・という、ハンドバッグの中を混ぜ返す音だけだった」
「落ち着かないようだった」
「教室に着いてから、
母親は、自分の荷物を何度も確認していた」
「私も、少しだけ緊張していた」
「ときどき、
左襟の校章バッジの向きを正したり、ネクタイを締め直したりして、
気を紛らわせていた」
「4階の教室の、開け放たれた窓の向こうに広がる、
晴れ渡った青空を見ているときだった」
「背後の方で、
ガラガラッ・・・と、扉の開く音が聞こえた」
「振り返ると、
大きな茶封筒を持った先生が、入り口のところに立っていた」
「私が学校に行かなくなったときの、担任の先生だった」
「おー、久し振りだなぁ。
だいぶ窶れた顔してるけど、元気だったかぁ?」
「入ってきた先生が、
後ろ手で扉を閉めつつ、そう言ったので、
座ったまま頭を下げようとすると、すぐに肩を叩かれた」
「隣を見ると、
席から立ち上がっていた母親が、こちらを睨んでいた」
「私はすぐに立ち上がり、
近付いてくる先生に向かって、頭を下げた」
「先生は片手を軽く上げ、それに応えると、
そのまま長机の向こうに回り、イスに腰掛けた」
「あ、そちらもお掛けになって下さい。
えーっと、
昨日、電話でも簡単に説明したけど、
キミは・・・」
「先生は、茶封筒から紙を出しつつ、
そう言って、
私の、学校での状況を淡々と説明し始めた」
「出席日数が足りず、去年は留年になったこと。
今年も、普通に通っていたのでは3年に進級することは出来ず、
授業後や、休日中の補講が必要になってくること」
「そして先生は、出席日数などが書かれた紙から顔を上げ、
私を見て、
改めて訊いた」
「それで、キミはどうする?」
「辞めます」
「やっぱり退学か」
「はい」
「退学したあとは、どうする?」
「フリースクールに行きます」
「フリースクールでは高卒の資格は取れないぞ?」
「知ってます。
そこに通いながら、高卒認定試験を受けるつもりです」
「そのあとは?」
「センター試験を受けて、
それから、行けそうな大学に進みます」
「高卒認定試験って、何月だっけ?」
「8月と11月です」
「じゃあ、キミが受けようとしているのは11月か・・・」
「はい、そうです」
「センター試験の願書の提出期限は知ってるか?」
「知ってます。
10月中旬です。
センター試験は、来年受験する予定です」
「来年受験するつもりなら、
通信制の高校に通うという選択肢も、一応はあるけど・・・。
それは知ってるか?」
「はい、知ってます」
「編入という形を取れば、この学校で取得した単位がそのまま引き継げるから、
高卒認定試験に受からなくても、通うだけで高卒と認められるぞ?」
「いえ、フリースクールに行きます」
「理由は?」
「僕は、ずっと引きこもっていました。
そういったサポートがあるところの方が良いと思いました」
「その話、
もう、お母さんにはした?」
「はい、しました」
「何て?」
「それで良い、って言ってました」
「そうか・・・。分かった。
じゃあ、先生はこれからお母さんと話をするから、
キミは、この退学届けを見ておいて。
まだ、記入はしなくて良いから」
「分かりました」
「休んでる間、
何か、あったの?」
「え?。
いや、特には何も・・・」
「そう?。
以前のキミとは、雰囲気がだいぶ変わった気がするけど・・・」
「当時の私は、
先生の、その質問に対し、
少し考えてから、こう返したんだ」
「あぁ、
そう言えば、確かに髪型はちょっと変えました」
「その後、
授業料の払い戻しについての会話を耳にしながら、目の前の退学届けを眺めているとき、
私は先生の言葉の意味にようやく気付き、急に恥ずかしくなった」
「先生同士の話のネタにされないか、ちょっと心配だった」
「でも、同時に、
少しだけ嬉しかったのを覚えている」
「その帰り、駅で母親と別れた私は、
そのまま本屋に足を向けた」
「店に入ると、
レジの向こうでヒマそうにしていた店長が顔を上げた」
「おぉ、キミか。
あの絵本、届いてるよ。
ちょっと待っててな」
「あ、はい。ありがとうございます」
「この前は無駄足を踏ませてしまって悪かったね。
もっと早くに届くと思ってたからさ」
「いえ、特には急いでなかったので大丈夫です」
「お、あったあった。
お客さん、これですよね?」
「はい、そうです」
「月夜の海と赤いお魚・・・で合ってる?」
「はい、合ってます」
「良かった。
じゃあ、お会計は・・・1980円になります」
「分かりました」
「そういや、
学校は、もう終わったの?。
えらく早いけど」
「え?。
あぁ、今日は体調が優れなかったので、
それで早退してきました」
「なるほど。
お、ちょうどか。毎度どうも。
ブックカバーはどうする?。付けられるけど?」
「えーと、
あ、ブックカバーは無くていいです」
「あいよ。
じゃ、さっさと会計済ませちゃうから。
・・・でも、
見たところ、この前より元気そうだけどな」
「そうですか?」
「おう。
今日は何か、晴れ晴れとした良いツラしてる。
注文に来たときの方が、よっぽど病人っぽかったぜ。
はい、絵本」
「ありがとうございます」
「私は、開けていたカバンに絵本を押し込むと、
少し前の自分の言葉を忘れ、
本屋の入り口に向かって、駆け出した」
「すぐに背中から、
店長の、キツめの声が飛んできた」
「店内はお大事に!」
「お静かに・・・の言い間違えだったことには、あとで気が付いた。
でも、
もしかしたら、敢えてそう言ったのかもしれない・・・と、
私は、
お大事にしなくて良い店の外で信号を待ちつつ、ぼんやりと考えていた」




