102.「8月になった」
「8月になった」
「外ではアブラゼミたちが、
大きな声で、やかましく鳴いていた」
「私は部屋の中にいた」
「雨戸を閉めたままの、
一日中、日の射さない自分の部屋で、
天井にある蛍光灯の、人工的な明かりに照らされ、
ひとり、無気力にゲームをしていた」
「私の生活は、あれからずっと変わらなかった」
「お昼過ぎに目を覚まし、
ゲームや、ネットをして時間を潰し、
そうして、朝早くに寝る」
「相変わらずの、引きこもったままの生活を送っていた」
「短かかった髪は、背中にかかるくらいに長くなっており、
ヒゲも伸び放題」
「時折、街で見かける、
浮浪者のような容姿になっていた」
「もう、自分の何もかもを諦めていた」
「全てがどうでも良くなっていた」
「夜の3時頃、
家族が寝静まったのを見計らい、部屋を出て、
ひとり、台所で食事をしていると、
自分は何のために、今これを食べているのだろう・・・と、
段々と疑問に思うようになってきた」
「毎日が退屈で、
毎日が虚しかった」
「何故、自分が生きてるのか、
分からなくなっていた」
「もう、いつ終わっても良い・・・と思うようになっていた」
「8月の中旬」
「その夜だった」
「隣の部屋では、
妹が自分で持ち込んだ、居間の電話で、
いつものように、誰かと楽しそうに話をしていた」
「私はひとり、
パソコンでネットをしていた」
「自殺した人に関する記事を、
その日は、ずっと読んでいた」
「何件も何件も読んでいた」
「開いていたページの記事を読み終わり、
次を探そうとしたときだった」
「ふと、彼女のことが頭を過ぎった」
「それまで、
なるべく思い出さないようにしていたことだった」
「途端に、
今まで忘れていた罪悪感と強い後悔が、私の中に蘇ってきた」
「心が締め付けられ、胸が苦しくなった」
「すぐさま、
その記憶を頭から追い出そうとした」
「忘れようとした」
「でも、考え直した」
「自分は、
もう、きっと長くはない」
「最後くらいは、
ケジメとして、自分のしたことにキッチリと向き合っておこう」
「彼女のことをしっかりと胸に刻んで、
そうして、
その痛みを抱えて、いなくなろう」
「この世界から、いなくなろう」
「もう、自分は必要ない」
「私は深呼吸し、心を落ち着かせると、
彼女に関する記憶を、
最初の方から、
ひとつずつ、ゆっくりと辿っていった」
「漢字だらけの文章が気に食わず、
読み飛ばしていたこと」
「対抗心から、読み始めたこと」
「いつの間にか、読むのが苦ではなくなり、
いつの間にか、惹かれていたこと」
「見過ごすことが出来ずに、つい書いてしまったこと」
「距離が一気に縮まり、
毎日、言葉を交わすようになったこと」
「お互いがお互いを気遣い、励まし合ったこと」
「自分の感情が、
段々と、抑えきれなくなっていったこと」
「そして・・・」
「私は、サイトでの彼女とのやり取りを、
時間を忘れ、夢中になって思い出していた」
「たった、5ヶ月前のことだった」
「でも、
そのときの私には、それが無性に懐かしかった」
「穏やかな気持ちが、
私の中に、久し振りに蘇ってきた」
「過去の、楽しかった記憶に、
しばらくの間、私はそのまま浸っていた」
「彼女のたくさんある名前を、
順番に思い出しているときだった」
「少し気になることがあった」
「彼女は普段、
ネジ式ヤタガラス、狂想レクイエム、暗夜のゴシック祈祷人・・・みたいな、
何となく、意味の分かりそうな名前を付けていた」
「でも、
ひとつだけ、違うものがあった」
「全く意味の分からない、読めない名前があった」
「漢字4文字からなる、その名前は、
一見すると、実在する人名のようだったが、
しかし、
そんな苗字を私は見たことが無かった」
「何かの漫画のキャラクターか、有名な小説家のペンネームか、
あるいは彼女の造語か、
その、いずれかだろう・・・と、
当時の私は、気にも留めなかった」
「ただ、当の本人は、
その名前を、いたく気に入っているようだった」
「最後の方は、ずっとそれを名乗っていた」
「由来は何だったんだろう・・・と気になった」
「それで、
パソコンのキーボードを叩いて、ネットで検索にかけてみた」
「検索結果に、
見覚えのある、談話室の彼女の投稿が、
ずらっと並ぶ」
「でも、それらに混じって、
1つだけ、
相談サイト以外のものが、そこには表示されていた」
「通販サイト」
「その商品名には、こう書いてあった」
「月夜の海と赤いお魚」
「絵本」
「審査員特別賞、受賞作品」
「作者名のところに、
検索した彼女の名前が、添えられていた」
「頭が真っ白になった」
「画面上のそれを、全く理解できなかった」
「何だ、これは・・・」
「何で、これが・・・」
「何も考えられなかった」
「何も分からなかった」
「ただ、呆然と眺めていた」
「しばらくすると、
自分の中に、温かな感情が湧いてきた」
「次から次へと、
後から後から湧いてきて、
心の中が、
すぐに、その感情で満たされた」
「温かな気持ちで、いっぱいになった」
「自分の中に、こんな感情があったのか・・・」
「私は驚いた」
「それは、
今まで経験したことのない、
とても温かな、
そして、とても心地良い感情だった」
「やがて、目から涙が溢れ始めた」
「私は急いでそれを拭うと、力いっぱい両目を閉じた」
「ダメだ、泣かないでくれ。
まだ、この感情に浸っていたいんだ。
この温かな感情に、もうしばらく浸っていたいんだ。
泣かないでくれ」
「私は、必死に涙を堪らえようとした」
「でも、体は言うことを聞いてくれなかった」
「閉じた目からは、涙が次々に溢れ出し、
すぐに呼吸も震え出し、
耐えきれなくなり、抑えきれなくなり、
ついには、私は、
その場でひとり、泣き始めた」
「家族に聞かれないよう、自分の声を懸命に押し殺し、
部屋でひとり、泣いていた」
「ノートパソコンの前で、
ずっと、いつまでも泣いていた」
「その次の日」
「朝の9時」
「私は、ドアの前に立った」
「深呼吸をひとつ」
「ゆっくりとノブに手を伸ばし、ロックを解除」
「もう一度、深呼吸」
「ノブに、改めて手を伸ばし、
そっと握り、
少し間を置いてから、右に捻る」
「ドアをそのまま押し開くと、
向かいの部屋でパソコンをしていた父親が、こちらを振り返った。
私は、
それを無視して、廊下を進む」
「居間に着くと、雑誌を読んでいた妹が私の存在に気付き、
すぐに立ち上がり、台所の方へと走っていった」
「私は、電話の前まで来た」
「受話器に手を伸ばし、
息をひとつ吐いてから、それを持ち上げる」
「持ってきたメモに目をやりつつ、ボタンを順番に押していき、
最後に、
ちょっとだけ間を置いてから、指を離した」
「電話の呼び出し音が鳴る」
「受話器を耳に押し当てたまま、
静かに待つ」
「部屋の入り口のところでは、
母親と妹が、固唾を飲んで見守っていた」
「相手は、なかなか電話に出ない」
「私は、
これから言うセリフを、頭の中で何度も何度も繰り返す」
「ひたすら繰り返す」
「自分の心臓が、聞いたことのないような大きな音をたて、
ドクドク・・・と、激しく鼓動し続けていた」
「カチャ・・・。
はい、お待たせしました。こちらNPO法人の・・・」
「あ、もしもし。あの、その・・・、
僕、引きこもりでして。
去年の10月頃から、ずっと学校に行ってなくて、
それで、えっと、何だっけ・・・。
えっと、えっと・・・」




