1.夏の終わりのことだった
夏の終わりのことだった。
だだっ広い駅の構内。
朝。
まだ8時過ぎ。
辺りは薄暗く、人影も疎ら。
閑散としている。
ときどき、列車の運行案内を告げるアナウンスが流れ、
その音が、
小さな余韻を残しつつ、構内の空間に響き渡っている。
壁に寄せられている長机の前、
そこに、
私は、ひとり ポツンと立っていて、
手にあるパンフレットに、静かに視線を落としていた。
ダム観光のパンフレットだった。
そのときの私は、
上下とも黒のスーツで、つま先が少し色のハゲている黒い革靴を履いていて、
つまりは、ごく普通の会社員の身なりをしていた。
別に珍しくもない。
ただ、ネクタイは していなかった。
足元にある 黒の通勤カバンの中だった。
今日の仕事は、もう終わりだった。
先方への挨拶も済ませてある。
ここは北陸、
T県の県庁所在地であるトミヤマ市。
ただし、私の普段の勤め先は、
都内の端っこにある、2階建ての小さな会社だった。
つまり、
このトミヤマ市には、出張で来ていた。
今日で4日目だった。
突然の命令だった。
午前中。
白いワイシャツの上に紺の作業着を羽織り、
いつものように、自分のパソコンでカタカタと報告書を作成していると、
不意に、上司に名前を呼ばれた。
「はい、何でしょうか」
そう口にしつつ、
私は、そのままキリの良いところまで打ち込んでから顔を左に向ける。
隣の無人のデスクがすぐ近くにあって、
その向こう、通路代わりの狭いスペースの更に奥に、
こちら向きにしてあるデスクがあり、
上司の席は、そこだった。
上司は、デスクの向こう側でイスに腰掛けていて、
耳に受話器を押し当てたまま、こっちをじっと睨んでいる。
「お前、今日の予定は?」
訊かれた私は、急いで頭を回転させる。
「はい、
報告書の作成と、戻ってきた機器の動作確認と、
あと――」
「今夜の泊まりは平気か?」
答えている途中で、次の質問が飛んできた。
瞬時に頭を切り替える。
「あ、大丈夫です。いつまでですか?」
受話器を握ってる上司は、すぐに視線を左下へ落とした。
ひと言喋って、
何かを聞き、顔を上げる。
「今週いっぱい」
「金曜日まで・・・ということでしょうか?」
「金曜の夜まで」
「あ、はい。問題ありません」
私の返事を聞いた上司は、再び視線を斜めへ落とした。
受話器を耳に押し当てたまま、口をせわしなく動かしている。
上司の方にイスを向け、しばし様子を見ていた私は、
やがて、体の向きを自分のデスクの方に戻した。
キーボードをカタカタ鳴らし、
報告書のシートに要点だけを打ち込んでいく。
これから告げられるであろう地名の候補を、いくつか頭に浮かべていた。
「・・・そうか、分かった。
じゃあ、さっき言った通りにすぐに向かわせる。
10分後だな?
・・・分かった。じゃあな」
受話器を置く音が響いた。
私は手を止め、イスを上司の方に回転させた。
スタンバイOK。
デスクの向こう側の上司は、
両手を腰に当てた状態で座っていて、難しそうな表情を下に向けている。
そのまま様子を見ていると、おもむろに立ち上がった。
顔を上げ、私に言った。
「今すぐトミヤマに向かってくれ。
飛行機で」
「ト、トミ・・・えーと、え?」
「ト、ミ、ヤ、マ」
予想してない地名だった。
今まで足を運んだことがなかったし、
そもそも、そのときの私は、
ウチの取引先がトミヤマにもあることを知らなかった。
「・・・これからすぐに、ですか?」
質問してすぐ、
それはさっき言ってただろ・・・と、心の中で毒づく。
まだ、混乱している。
上司が答えた。
「そう、今すぐだ。
10分後に、また電話をかけてくる。
詳しい話は、そのときのアイツに訊いてくれ」
「えと、
電話って、誰からですか?」
私がそう尋ねると、
上司が、ニヤッと笑った。
「先週の中頃から、ずっと会社にいなかったヤツがいたろ?
ほら」
と言いつつ、顎先で自分の前を指す。
「あ、はい・・・」
私は、
自分の隣席にある無人のデスクを見て、そう返した。
入社して以来、
ずっと世話になってる先輩の席だ。
言われてみれば、
ここ最近、姿を見た記憶がない。
上司が尋ねる。
「お前、スーツの上着は持っているな?」
私は、視線を上司へ戻した。
「はい、あります」
スーツの上着は、ロッカーの中だ。
客先での作業時、冷房が効き過ぎて寒いことがあり、
そのため、
夏であっても、
私は、毎朝 律儀にスーツの上着を羽織って出社していた。
ただ、
そんなことをしているのは、社内では私だけだった。
他の人たちは、
皆、スーツの上着をロッカーの中に置きっぱなしにしていた。
会社には、
基本的には、半袖ノーネクタイのクールビズで出勤し、
スーツの上着やネクタイが必要なときは、それらをロッカーから引っ張り出し、
身に付け、
そうやって出掛けるスタイルだった。
私も、最初はそうしていた。
しかし、
今年の夏に入ってからは、やめた。
会社に置きっぱなしにすると、
自宅から直接 客先へ出向くとき、
ロッカーにある上着を、予め前の日に家に持ち帰らなければならない。
たまに忘れそうになるし、
それに、段々と億劫になってきたからだった。
春を過ぎた辺りから、
私は、社外に出ることがハッキリと増えた。
ほぼ毎日、どこかしらの現場に出ていて、
社内にいるときは、
大抵の場合、その作業報告の書類作成に追われていた。
まだ腰に手を当てたまま立ってる上司が、私に言った。
「なら、
上着を取りに、一旦 自宅に帰る必要はないな。
向こうは、
もう、涼しいからな」
「え?
・・・あ、はい」
そう返しつつも、
涼しいとは多少 大袈裟だろうと思った。
会社の外の、空から照りつける強い日差しと、
ヤケドしそうなくらいに熱されたアスファルトから立ち上ってくる、
むわっとした熱気が思い浮かぶ。
「・・・ほら、何をぼやっとしている。
支度 支度」
上司にそう急かされた私は、
「あぁ、すみません」と返しつつ、
イスを回して、パソコンの方に向き直した。
しばらく文字を打ち込んでからファイルを保存、
席を立った。
動作検証用の機器の前に行き、
ひとつひとつ状態を確かめつつ、電源を落としていると、
電話が鳴り、
取った人が私を呼んだ。
先輩から、と伝えられる。
すぐに自分のデスクに戻り、受話器を取った。
だいたいの事情を教えてもらったあと、
持ってきて欲しいもの、必要になるものを聞いて、
メモしていく。
受話器を戻すと、
パソコンを使って飛行機のチケットを手配。
初めてで少し手間取ったが、なんとかなった。
次いで、
メモを見つつ、指示されたものを探していき、
他にも、
あった方が良さそうなパーツや工具を集め、
それらを、
ロッカーから出した自分の通勤カバンの中に、ギュッと詰めた。
充填率98%になったカバンの隙間に、
更に、
自分の着ていた紺の作業着を押し込んでいく。
両足でカバンを挟み込み、
開いた口のファスナーを、少しずつ慎重に閉めていく。
息をひとつ吐いた私は、
頭を上げ、自分のロッカーに目を向ける。
中のハンガーにかけてある、スーツの上着に手を伸ばす。
それを羽織いつつ、ロッカーの扉を閉めると、
順に上着のボタンを止めて、
それから、足元にあるカバンを拾い上げた。
部屋の出入り口の方へ歩いていき、カバンをまた下ろし、
そのすぐ脇の壁にあるホワイトボードに、
マジックペンで、出張期間と行き先をキュキュッと書き込む。
マジックペンにキャップをし、ホワイトボードに置くと、
足元のカバンを拾い上げ、
「いってきまーす」と口にしつつ、部屋を飛び出していく。
ハァ、ハァ・・・と呼吸をし、歩道を走っていた私は、
通りの向こうの青い人形マークが点滅し始めたのを見て、スピードを緩めた。
そのまま少し歩いてから足を止め、手を上着の内ポケットに入れる。
スマートフォンを抜き出すと、
画面の時計表示を確認し、またポケットへ。
念のため、まだ走った方が良さそうだ・・・。
これくらいの距離、
昔は なんともなかったんだけど・・・。
私は、
額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、それから顔を上げる。
お昼ゴハンをどうしようか、と考え始めると、
左右に行き交っていた車の流れが止まった。
右折レーンで停まっていた車が順に曲がっていき、
それから、向かい側の信号が青へと変わる。
息をひとつ吐いた私は、
また、勢い良く駆け出した。
炎天下のシマシマの上を、真っ黒なスーツをバタつかせながら走っていく。
T県の地に降り立ったのは、午後の2時頃だった。
空港の建物から外に出ると、
空からの日差しは、相変わらず強烈だった。
都内と、そう大差なかった。
ただ、
辺りの空気は、まったく異なっていた。
冷房の効いた社内よりも更に涼しく感じられ、爽快で、
すぐ分かるほどに、空気はハッキリ澄んでいた。
息を深く吸い込んでいった私は、
間を置いて、ゆっくりと吐き出していった。
次いで、
辺りをキョロキョロと見回し、
少し離れたところでドアを開けて停まっている、トミヤマ行きのバスを見付けると、
そちらに足を向けた。
つい4日前のことだった。
頭の上には、
雲ひとつない、真っ青な空が広がっていた。
連載は初めてなので、少しドタバタするかもしれません。