9【やりたい事】
【やりたい事】
目が眩むような光りを放つ太陽に照らされ、グラウンドの砂がこちらにギラギラと光りを照り返してくる。
忘れた頃にやってくる学内の一斉清掃。普段なら帰宅する生徒や部活へ向かう生徒で校内がざわつく時間だが、今は別の意味で校内はざわついている。
「男子が行ってきてよ」
「なんで俺達がゴミ捨てに行かなきゃいけないんだ」
雑草や落ち葉を集めて敷き詰めたゴミ袋が三つ。それを囲んで女子と男子が真っ向から対立する。女子に力仕事をさせるのか、男女平等なんだから、そんな互いの言い分を口にして譲らない。
俺はそんな向かい合う男女の間に入り、右手でゴミの入ったビニール袋を掴み上げた。それとほぼ同時に、憶と期裄が残った二つのゴミをそれぞれ掴み上げる。
「私達が捨てに行くからみんなもう帰って良いよ! 部活もあるし早く帰って塾とか行かないとな人も居るし!」
憶が明るい口調でクラスメイトに言うのを後ろに聞きながら、俺は既にクラスメイトから離れて歩きだしていた。
「もっと明るくやればいいのに」
「無愛想で悪かったな」
「まあ、それが出来たら苦労はしてないか」
いつの間にか俺の隣に並んでいた期裄が茶化す。
「記が良い奴だってのはみんな分かってるんだぞ。だからもう少し柔らかく出来れば――」
「俺は別に人に好かれるために生きてるわけじゃないからな」
「また勘違いされるような事して!」
「ゴフッ!」
背中に衝撃を受ける。その衝撃で俺は前方に吹っ飛ばされそうになってたたらを踏む。声から俺に衝撃を与えた主は分かっている。
「憶、いきなり何すんだ」
「記がまたみんなに嫌われるような事するからでしょ!」
「俺が何時自分から嫌われようとしたんだよ。俺は至って普通にゴミを捨てようとしただけだ」
「だったら、俺が捨てに行くよ、って明るく言えばいいじゃん! あんな無言で取りに行ったら感じ悪いでしょ!」
「それがめんどくさいからやらなかったんだよ。ゴミを誰が捨てに行くかなんていうしょうも無い事でいがみ合ってるど真ん中で、なんで俺がニコニコ笑わないといけないんだ。そんなのは期裄みたいな離れしてる奴か憶みたいな脳天気しか出来ない芸当だ。どうだ、その点を考えると憶より俺は空気を読んだことになる」
「私が空気読めないみたいに言うな! 記のフォローしたんだから感謝しなさいよね!」
フォローなんてされなくても大して問題はない。とは思ったが、それを言ってしまえば更に憶に怒られるのは必至だ。
「あ、あれ、戸笈さんじゃ?」
憶が視線を向けた先、そこには確かに戸笈が居た。そして、戸笈と同じクラスであろう生徒も立っていた。
「男子、手伝ったら承知しないわよ。この人、散々学校休んで委員会とか他人に押し付けてたんだから、これくらいはやって当然でしょ」
なんだか偉そうな女子が戸笈の目の前に仁王立ちして、自分の足元に置かれたゴミ袋四つを指差して言う。
「戸笈さん、いつもみんなに迷惑掛けてる分、これ持って行きなさいよ」
「分かったわ」
戸笈はその女子の指示通りゴミ袋を持っていこうとする。しかし、大きく膨らんだゴミ袋を女子の手で四つ運ぶなんて無理だ。上手く掴めず指の先から滑り落ちたゴミ袋がドサリと地面に落ちる。
「い、委員長、流石に戸笈さん一人は無理だって」
「ああ? あんたの父親が務めてる会社って県の仕事やってるのよね? パパに私が一言言えばあんたの父親無職よ」
なんともバカらしい恫喝だが、内容よりも彼女の口調や表情の方に気圧されて、戸笈を庇った男子が後退りする。
「よう戸笈、お前の所も外の清掃だったのか。てかゴミ袋の数多いな~、よーし俺達もゴミ捨てに行くから、ついでに手伝ってやろう」
そう言ってビニール袋を掴み上げようとすると、俺の掴んだゴミ袋の上に紺色のハイソックスとローファーを履いた足が乗せられる。
「……足、退けてもらえるか?」
「ゴミは足蹴にするものよ?」
「ドゥーユースピーク、ジャパニーズ?」
「あんた、バカにしてんの?」
「やっぱり日本語が通じないのか。今のをバカにしてる以外だと疑うなんて。俺英語の授業とかまともに聞いてないから英語とか話せないんだが」
せっかく憶の教えの通り、軽い感じで雰囲気を壊さないように心掛けてみたのに、一気に台無しである。
「これは私達のクラスの問題よ。他のクラスのあんたが口出さないで」
「いや、別にあんたに興味はないんだ。友達が困ってたら手を貸すだろう? それだけだ」
足を退かさず俺を見下ろしたままの彼女は、酷く冷たく蔑んだ目を俺に向ける。
「どうせ戸笈の事も忘れるんだから、そんな友達ごっこなんか止めたら?」
「言って良いことと悪いことの区別も付かないみたいだね」
俺に視線を向けてため息を吐いた期裄は、戸笈の手からゴミ袋を半ば強引に受け取ると、期裄らしい笑顔で期裄らしくない冷たい言葉を放つ。
「あ~気分悪い気分悪い! 戸笈さん、こんな人放っておいて行こう」
憶がゴミ袋を戸笈の手から受け取り、ギッと女子を睨み付ける。
「あ、あんた達、私に盾突いたらどうなるか――」
「どうせ忘れるから問題ないな」
「クッ……あっ!」
スッと横にゴミ袋を引くと、足を乗せていた女子がバランスを崩してたたらを踏む。それを見届けると、ゴミ袋を持ち直して戸笈に視線を向ける。
「戸笈、行く――」
「貴女、さっきの言葉を謝罪しなさい」
「戸笈さん? 聞いてます? 行きますよ?」
「聞いているわ。でもその前にこの人に謝らせなければ気が済まないの」
俺達はもうこの場を去ろうとしているのに、戸笈だけが女子生徒の方を指差す。
「何について謝らせるんだよ」
「貴方に対しての侮辱よ」
「いや、侮辱なんて一ミリもされてないんだが」
「あんな露骨な侮辱にも気づけないなんて、貴方大丈夫?」
「おい、その質問の方がよっぽど侮辱的だと思うぞ?」
なんだかご立腹の戸笈と自分でも意味の分からないやりとりをしていると、さっきの偉そうな女子が激しく足を鳴らして立ち去っていくのが見えた。その女子の友達なのか、数名の女子が彼女を追い掛けていく。そして、残された他の生徒達は、数人のグループを作って散り散りになって立ち去っていく。
「ホント、ああいうのサイテー!」
「ああいうのを見せられるのは、気分が良いものじゃ無いね」
俺と期裄、そして憶が二つ、戸笈が一つのゴミ袋を手にし、ゴミ捨て場まで歩く。その道中、憶は憤慨し、期裄は眉間にしわを寄せて嫌悪を口にする。
「今に始まったことではないわ。彼女はどうやら私が嫌いみたいよ」
「戸笈さん頭も良いし美人だから妬いてるだけだよ! 今度またなんかされたら私がガツンと言ってあげる!」
「止めとけ止めとけ、揉めも事の中心に憶を関わらせるのは火に油を注ぐどころか火に火薬投げ込むみたいなもんだ」
「そんな事言ったら記も相当ごちゃ混ぜにしてたじゃん! 記、本気で怒ってたし」
「そりゃあ、あんなの見たら怒るだろ普通」
戸笈の前に立ち、明らかに戸笈に悪意を向けられているのを見て、黙って見ているなんて出来なかった。
俺は、戸笈の事が好きだ。好きな人が悲しい思いをしている場面を見て、堪らなくなるのは普通の事だ。
「ありがとう。みんなが来てくれて助かったわ」
「まあ、俺達が出て行かなくても、戸笈なら言い負かせて泣かせそうだがな」
「ええ、もちろんそのつもりだったわ。でも、友達に庇ってもらうというのは、凄く嬉しいものね。迷惑を掛けてしまったという罪悪感もあるけれど、心が温かくなったわ」
彼女が笑う。それだけで今度は俺の心が温かく……熱くなった。
以前、俺は憶に聞かれた。好きな人は居ないのかと。それに俺は居ないと答えた。あの時はまだ俺は戸笈の事を好きじゃなかったのだろうか? それとも、ただ自覚していなかっただけだったのか。どちらにしても、俺はその時聞いた憶の言葉を思い出す。
『恋はきっと、記に大切なものを教えてくれるよ』
その言葉は、確かにその通りだった。
戸笈を好きだと自覚した瞬間、空気が前より澄んでいるように感じた。太陽の光りが前より強く感じた。小鳥のさえずりが前より楽しげに聞こえた。目に見える全てが輝いて見えるようになった。時間を積み重ねるのが楽しくワクワクして、学校に早く行きたくなった。早く、戸笈の顔を見たくなった。
でも、それと相反するように、俺は酷く後悔する。何故早く気づけなかったのか。何故、もっと早く戸笈に出会うことが出来なかったのかと。
俺にはもう、二週間弱しか時間が残されていない。その二週間後には全てを忘れてしまう。……二週間後に全てを忘れる?
その時、酷く胸を締め付けられる感覚を抱いた。背筋には寒気が走り、体が一気に重くなる。俺は、忘れてしまうのだ。戸笈の事を、戸笈を好きな事を。それが酷く恐ろしいと思った。
「記? 大丈夫!?」
「えっ?」
「凄く辛そうだから」
「あ、ああ、大丈夫大丈夫。運動不足だから疲れたのかもしれない」
「掃除で疲れるとかどんだけ運動不足なのよ!」
バシッと憶が背中を叩いて笑う。俺はその笑いに笑った表情を向けた。でも、その表情で繕っても心の中は暗いままだ。
「そういえば、私のやりたい事をこの機会だから言っておこうと思うわ」
「お! 遂に戸笈さんの番だね」
唐突に口を開いた戸笈は俺に視線を向けると、期裄と憶に視線を向け、手に握ったビニール袋を握り締めた。
「今夜、あそこに行かないかしら?」
戸笈が指差した方向を三人で見詰める。その先にあったのは、この辺で一番高い場所にある時計台だった。その時計台は住宅街を抜けた高台の頂点にある少し広めの公園の中にある、公園のシンボル的な存在のものだ。よく小学生の頃は遠足であの長い上り坂を登らされたものだ。しかし……。
「なんか、普通だな」
思わず、正直な言葉が口に出た。あの時計台のある公園なら、予定を立てていくほど面白いものがあるわけでもなく、予定を立てていくほど遠くにあるわけでも無い。
「だって、私が個人的にやりたかった事というのはもう終わってしまったもの。本人はすっかり忘れ去ってしまったようだけれど」
戸笈がキッと俺を睨み付けて言う。戸笈の言っている個人的にやりたかった事には思い当たる事があるし、忘れ去った本人として指された人物にも心当たりがある。
どうやら、戸笈を下の名前で呼ぶという、あの事のことを言っているらしい。しかし好きな人の名前を呼ぶというのはかなり気恥ずかしいものだ。しかも、それを期裄や憶という事情をまったく理解してない二人の目の前でやれと言われたら、更に恥ずかしさが増して躊躇ってしまう。
「貴方に私を下の名前で呼んでほしいとお願いしたはずなのだけれど、忘れてしまったのかしら?」
その涼しげな言葉とは似ていても大分意味合いの異なる冷た~い視線を向ける戸笈。その戸笈の言葉を聞いてニコニコと笑う期裄。そして、何故か俺にジトッとした視線を向けている憶。三人に囲まれ、居心地が悪くなる。
「急に名前で呼べって言われてもな。慣れるまで時間が掛かるんだよ」
「記……」
「な、なんだよ、憶」
「記だけズルイ! 私も名前で呼びたい! 戸笈さん、私も名前で呼んでいい? 限ちゃんって」
「か、限ちゃん?」
憶はなんだか意味の分からん文句を俺に言い、そして戸笈を予想外の要求で困惑させた。戸笈も流石に限“ちゃん”は予想外だったようだ。
「ダメ?」
「い、いえ、ダメでは無いのだけれど、なぜちゃん付けなのかしら?」
「だって、限さんだったらちょっと距離が遠いし、でも呼び捨てってのは相手に失礼だし! だから限ちゃん!」
「おい憶。俺は呼び捨てだぞ、失礼じゃないか」
「何? 記くん?」
「ダメだ……寒気が走る、気持ち悪い」
「ちょっと! 記の方が失礼じゃん!」
「二人が仲が良いのは良く分かったわ。麻直さんのお願いは、そうね私も憶さんと呼んでいいのなら構わないわ。私は流石にちゃん付けで呼ぶのには抵抗があるから」
「うんうん! 全然オッケーだよ! 限ちゃん!」
「よろしくね。憶さん」
クスクスと笑う戸笈と子どものようにピョンピョン跳ねて喜ぶ憶を見て、俺は羨ましいと思った。やはり、女子同士だから壁が低いのだ。相手が元々他人に対しての壁が皆無の憶だという要素もあるが、それでも男女ではこんな簡単にはいかない。
「さっさと行くぞ。今夜学校に行くんだったら早く帰って寝たいしな」
ゴミ袋を持ち直して歩き出す。期裄も憶も、そして戸笈も何も言わない。多分、俺が話題を無理矢理切り上げたのは分かっていたのだろう。それを分かっていながら何も言ってこない三人の優しさにホッとして、少し胸が締め付けられた。
集合場所は学校の近くにあるコンビニの前になっていた。そして、そのコンビニに向かう道中、二つのトラブルが発生した。急に、憶と期裄の都合が悪くなったのだ。憶も期裄も家の事情で、としか言わなかったから詳細は良く分からない。でも、二人が居ないとなると俺と戸笈の二人きりになってしまう。
「あら、早いわね」
「戸笈こそ、早いな。これでも早めに出てきたんだが」
スマートフォンで時間を確認すると、集合時間までまだ十五分ある。
「あ、そういえば期裄と憶、都合が悪くなったみたいだ」
「ええ、私にも憶さんから連絡が来たわ。保柄くんの方も憶さんから聞いてるから」
「そうか、すまないな」
「何故、貴方が謝るの?」
「だって、せっかくみんなでやろうって言ったのに、結局俺だけだったから」
「いいえ、大丈夫よ。さっそく行きましょうか」
「ああ」
戸笈と並んで、時計台のある公園に向かって歩き出す。
白いワンピース姿の戸笈。その隣を歩く俺は落ち着かなかった。ヒラリと揺れる裾は太ももの中程までしかなく、裾から伸びる細くて綺麗な戸笈の足に視線が奪われる。その自分の視線気付いて慌てて視線を逸らし、正面に見える等間隔に並んだ街灯を見詰める。
「やっぱり、私の名前を呼ぶのは嫌かしら?」
「えっ?」
「だって、あれから一度も呼んでくれないわ」
俺の方を見ず、正面に視線を向けたまま戸笈が言う。その戸笈には言えない。君のことが好きだから恥ずかしくて呼べないんだ、なんて。
「そんなに重要か?」
「重要よ、とっても」
「そうか」
俺は、その戸笈の言葉に慣れない苦笑いを浮かべるしかできなかった。
時計台のある場所までは、長い長い上り坂を登らないといけない。この高台はほとんど住宅地として使用されているため、商業地よりも夜の人通りは極端に少ない。それに、もう帰宅ラッシュの時間帯は過ぎているから、時々思い出した様に車が隣を走り去るくらいだ。
「今日は助かったわ」
「ああ、でも俺が出て行かなくても戸笈なら一人でなんとか出来ただろ」
「ええ。でも、一人で解決するのと、誰かに助けてもらうのは違うわ。今までは、ずっとああいう事があったら一人で解決してきたから。まあ、解決と呼べるほど綺麗なものではなかったのだけれど」
「これからは大丈夫だ。期裄と憶が居る。もう戸笈は一人じゃないさ」
きっと、綺麗な見た目と優れた知性は他人の憧れの的になる反面、それと同じくらいの嫉妬を集めたはずだ。そして、綺麗すぎる人や頭が良すぎる人に、他人は近寄り難いという印象を抱く。だから、彼女に憧れる人は遠慮して距離を置き、結果的に彼女は一人で何でも解決する事を余儀なくされたんだろう。
それは彼女は何も悪くない。悪いのは、彼女に踏み込もうとしなかった周りだ。
「居ないのね」
「ん?」
「これからに、貴方は居ないのね」
「…………」
戸笈の言葉に、俺は言葉を飲み込んだ。
俺は約二週間後には記憶を失っている。だから、今の俺では無い新しい俺になっているのだ。戸笈が口が悪く失礼な奴だという事も知らない。戸笈がいきなり友達になりたいと言い出す不思議な奴だという事も知らない。戸笈が、真っ直ぐで素直な奴だという事を知らない。戸笈が、こんなにも綺麗で魅力的な人だと知らない。そんな、戸笈と出会う前の俺と同じような俺になっているのだ。
それなのに、俺が居るなんて無責任な事は言えるわけがない。
「貴方はいつだってそう。先を見て他人が誰も傷付かないようにしている。他人を気遣えるというのはとても素敵な事よ。何でも後先考えず口にしてしまう私からしたら、貴方のそういう所はとても羨ましいわ。でも、貴方は他人を傷付けないために自分を犠牲にしている。それは、私は嫌い」
嫌いという言葉に過剰反応した。嫌いという言葉を聞いた瞬間血の気が引いた。嫌いという言葉を聞いた瞬間、進める足が重くなった。
「貴方はいつまでそうしている気? 普通に生活したい、そう貴方が願った事は本当に貴方自身の願いだったの? 本当は周りに心配掛けないように明るく振る舞った結果ではないの?」
戸笈の言葉の一つ一つが、何故か心に突き刺さる。俺は他人の事なんて考えてはいない。家族や期裄に憶、そして戸笈の様な友達ならいざ知らず、赤の他人なんてどうでもいいと思っている。それに、俺は心から平凡でありたいと思ってる。でも、そのはずなのに、戸笈の言葉全てが真実のように聞こえた。俺が周りの人達に気を遣い虚栄を張っていたように。
「セシリアからの記憶喪失を宣告された後、母さんは俺を見て、その場に崩れ落ちながら泣いたんだ。それを見たら、泣く事なんて出来ないだろう? 帰りの車の中で、口下手な父さんが必死に話題を作ろうと頑張ってたんだ。そんなの見たら、変に気を遣わせたくないだろ? 次の日憶に会ったら、あの俺に何でもかんでも遠慮無しに言ったりやったりしてくる奴が俺の事を気遣ってたんだぞ。そりゃあ、普通にしてほしいと思うだろう。だから、俺は無理してたんじゃなくて普通にしてただけだ。だから――」
「貴方は普通に無理をしてしまう人よ」
いつの間にか、長い長い坂道を上り終え、視線の先に公園への入り口が見える。切り株を模したコンクリート製の門から、左右に金属製のフェンスが伸びている。街灯が点いているが夜の公園はそれでも暗い。
俺は戸笈に何か言葉を返すこと無く、公園の中に足を踏み入れる。中は、酷く冷たかった。
公園の中央にそびえ立つ時計台を見上げ、ゆっくりと時を刻む分針の動きを目で追う。こうしている間にも刻一刻と俺の時間は過ぎていく。それを考えて、考えなければよかったと後悔する。
「私のやりたい事はこれで終わったわ。貴方のやりたい事は何かしら?」
「……やりたい事、か」
まず頭に浮かんできたのは、いや頭に浮かんできたのはたった一つしかなかった。でも、それは今更気付いても今更やっても遅すぎる事だ。だから、他の何かを考えなければいけない。でも、他にやりたい事なんてあるのだろうか?
俺は基本敵に無欲な人間だと思う。何が欲しいとか何をやりたいなんて事を今まで思った事はなかった。それは人一倍わがままだった憶に、おやつや公園でやる遊び、一緒に晩飯を食べたときに一個だけ残った唐揚げ、そんなものを色々と譲るクセが付いていたからかもしれない。俺はいつだって自分よりも他の誰かを優先していたのかもしれない。
なんだ……戸笈の言うとおり、俺は他人に気を遣って生きてるじゃないか。生まれて一秒たりとも離れたことのない自分自身よりも、二週間の付き合いである戸笈に俺について言い当てられた。それはなんとなく嬉しくて、なんとなく恥ずかしい。
視線を横に向けて、戸笈を見た。そして、戸笈を見なければ良かったと思った。
嫌だ。忘れたくない。これで終わりになんてしたくない。このまま、何もかも忘れ去ってしまいたくない。俺は、戸笈とまだこれからやりたい事がある。
夏休みは花火大会や夏祭りに行きたい。そこで浴衣姿の戸笈と一緒に出店を回ったり花火を見たりしたい。夏休みを過ぎればすぐに体育祭だ。運動なんて好きじゃないけど、戸笈と同じチームだったら楽しめる気がする。秋には文化祭がある。日頃とは違った、賑やかな雰囲気の学校を見て回って、戸笈にからかわれて俺がそれに反論する。そして、冬には高校最大のイベント、修学旅行。泊まりがけというだけでも特別な行事だが、日頃行かない所での一時はきっと一生の思い出になるはずだ。戸笈とはクラスが違うから自由行動の班は一緒になれない。でも、出来るなら一緒に見て回りたい。きっと、戸笈は京都の清水寺や金閣寺に立っても、変わらず綺麗に映えてみせるだろう。
でも、その全てを、俺は戸笈と過ごす事は出来ない。
「……忘れたく、ない」
絞り出た言葉と共に、頬を熱い何かが伝う。そして、地面にポトリと落ちた。
「嫌だ、忘れたくない。まだ、やりたい事があるんだ。二週間じゃ足りないんだ」
「……困ったわね。そればかりは、私でもどうしようもないわ」
戸笈は乾いた笑みを浮かべる。その瞳からは沢山の雫がこぼれていた。
「私だって貴方に忘れてほしくなんかないわ。せっかく、こんなに話せるようになったのに。またやり直さないといけないなんて、また私を知らない貴方に会わないといけないなんて」
「戸笈、俺は、戸笈の事が好きだよ。気が付いたら好きになってた。戸笈の事を忘れたくない」
止められなかった。溢れ出す涙と共に押し留めていた言葉が、堰を切って流れ出していた。
「……名前を呼んでくれないと、答えてあげないわ」
戸笈はそっぽを向いてそう言い放つ。俺は、その戸笈の両肩を掴み無理矢理こちら側を向かせる。涙を流す戸笈は、顔を逸らし俯いて視線を地面に向けた。
「……限、俺は限が好きだ」
「私は……」
限は右手で目元を拭うと、真っ赤になった瞳を俺に真っ直ぐ向けて、下手くそに微笑む。
「私も、記が好きよ」
俺はその時、自分の名前が記でよかったと思った。そして、こんなに自分の名前を呼ばれることが嬉しいのかと、初めて気が付いた。
俺と限はぎこちなく手を繋ぎ、公園の一番奥にある展望台に向かった。展望台と言っても、ちょっとした木造の建物、四阿に上る。四阿の上に上って端まで歩き、そこから眼下に見える街を見渡す。
「これは、デートと呼んでいいのかしら?」
「デートにしては色気もなにも無いからな。俺からしたらノーカウントにしてほしいんだが」
「私は、ノーカウントにはしてほしくないわ。夜の公園に二人きり、そこで熱烈な告白を受け、そして二人で手を繋ぎ高台から景色を眺める。とてもロマンチックじゃない?」
「……熱烈な告白は言い過ぎだろ」
「いいえ、とても熱くて素敵な告白だったわ。流石、私の彼氏ね」
「なんで限が得意げなんだよ」
照れ臭くて、ついついそんな会話しか出来なかった。それでも、その一時はとても尊く楽しく、そして儚かった。
「私で良かったのかしら?」
「限が良かったんだ」
「ありがとう。私も、記で良かったわ」
見詰める街には疎らな光りしか見えなかった。それでも、今の俺にとっては百万ドルの夜景よりも輝いて見えた。