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君を忘れる  作者: 焦げたナポリタン
8/10

8【分かり切っている】

  【分かり切っている】


 戸笈の部屋はシックな家具で統一されて、女の子の部屋のイメージである華やかさは感じられなかった。

 戸笈の母親に通された俺は、部屋の中央に置かれたローテーブルの前に正座する。近くには戸笈が使っているであろうデスクがあり、その端にはキャンプの時に憶が撮った四人の写真がフォトフレームに表示された。

「アイスティーで構わないかしら?」

「ありがとうございます。頂きます」

 口をつけて、それが飲み慣れた冷やした麦茶や緑茶ではなく、紅茶である事に驚いた。その違いだけで、戸笈の育ちの良さを感じる。

「どこまで聞いていたのかしら?」

「すみません、戸笈さんが怒鳴り声を上げたくらいからです」

「そう」

「立ち聞きするつもりはなかったんですが、結果的にそうなってしまってすみませんでした」

「いいえ、限から貴方達がもうすぐ来る事は聞いていたから問題ないわ」

 サラリと表情を変えずにそう言った戸笈の母親に、少しだけ恐怖心を抱いた。俺に聞かれることを想定してあれを言ったのだと、戸笈の母親は俺に言ったのだ。怒る気は全く起きないが、素直に恐ろしい人ではあると思った。

「限は優秀な子よ。今でこそ不登校にはなって躓いていたけど、学校に行くようになったのなら、もう問題は無いわ」

「戸笈は転校したいと言っているんですか?」

「分かっているわ。限が学校に通うきっかけになったのは貴方よ。でもそれは結果であって、だからといって貴方と限が関わり続けるのを私は許容出来ないわ」

 断固とした拒絶、確固たる意思。目の前にいるこの人の考えを変えさせるのは不可能ではないかと思う。俺という存在が、戸笈限という人物の人生に関わる事を良しとしていない事が、言葉で言われなくても目や口調で伝わってくる。

「限は中学まで歴史ある女子校に通っていたの。そこでも優秀な成績で先生方からも大きな期待をされていたの。でも、あの子は本命の高校の入試に行かなかった。そして、今の学校に行くと言って聞かなかった。そこからよ、あの子の人生が狂ったのは」

 おかしい、戸笈の人生の話をしているはずなのに、この場に戸笈は居ない。しかもその戸笈の人生について語っているのは戸笈自身ではなく戸笈の母親だ。

「限はずっと女子校に通っていたから、男性と関わるのは初めてだったの。だから共学の学校に馴染めるわけなかったの。現に不登校になっていたわ」

「戸笈がそう言っていたんですか?」

「いいえ、でもそうに決まっているわ」

 どうしてこうも、この人は決め付けるのだろう? まるで自分が戸笈であるような、戸笈が自分と同じ考えを持っているかのように話している。そして、それを全く疑おうとしないし、それが正しいと確信している。

「貴方から限に言ってもらえないかしら? きっと貴方から転校してほしいと言われればあの子も決意が出来ると思うの」

 仕舞いには、自分が全否定してしかもそれを相手に知られる事も厭わなかった俺に頼み事をする厚顔の持ち主だった。流石に怒りはしなくても良い気は全くしない。

「俺は戸笈さんが転校してほしいとは思いません。戸笈さんに転校する事で何かいい事があるのかも知れませんが、俺は戸笈さんが居なくなるのは寂しいと思いますし、俺以外にも戸笈さんが転校するのを寂しいと思っている人が居ます」

「どうせ限の事を忘れてしまうのに、無責任な」

 鼻で笑い、吐き捨てた。その言葉にはやはり俺に対する嫌悪と拒絶が含まれている。

「セシリアから記憶喪失するって宣告をされた次の日、学校に行ったら学校側から休校するように勧められました。どうやら、保護者の中に俺の事を良く思わない人が居たみたいで」

「それは当然だと思うわ。子供たちを動揺させたくないというのは、親として当然の事よ」

「そうかも知れませんね。でも、戸笈さんはそれを否定して俺を庇ってくれました」

「それは、貴方が仮にも限の友達という立場に居たからでしょう?」

「それが、俺と戸笈さんが友達になったのはその後だったんです」

 戸笈の母親は眉間に皺を寄せ、訝しげな表情を俺に向ける。

「貴方、限がもしこの先不幸になっても責任が取れるの? 私は限の幸せを思って転校を勧めているの。より良い環境で勉強して良い成績で居れば、それだけ将来の選択肢を増やしてあげられるの」

「確かに、大学に進学するにも成績が良くなければ選ぶという事は出来ません。でも、先の選択肢を増やすために今の選択肢を消すのはいい事なんでしょうか?」

 戸笈の問題に口を出すつもりはなかった。でも、戸笈の母親からその場に引きずり出されたのだから、多少の発言は許されるはずだ。

「戸笈さんは未来を生きている訳じゃありません。今、この時を生きてます。今この時、自分が大切なものを、自分がやりたい事を選ぶというのは、いけない事なんでしょうか?」

「限はまだ子供よ。正常な判断が出来るとは思えないわ。きっと将来後悔することになる」

 戸笈の母親は心配なのだ。それはかなり行き過ぎた心配だと思うが、子供の事を考えた結果の事だと分かるからこそ、キッパリと間違っていると言いづらい。

「戸笈さんは、転校したくないと言っていました。俺はその理由までは聞いていませんが、戸笈さんのお母さんは聞かれましたか?」

「それは……」

「もし、理由をちゃんと聞かずに頭ごなしに否定しているのなら、どうか理由だけでも聞いてあげてください。理由を聞いた後でも否定する事は出来ると思います。それにちゃんとした理由を聞いた方が、戸笈さんのお母さんも否定し易いのではないでしょうか 」

「……確かに、限があそこまで今の学校にこだわる理由を聞いてはいないわ」

「じゃあ」

「分かりました。転校を拒む理由も含めて、もう一度、限と話をします。でも、理由を聞いたとしても私の考えは変わりません」

「そうですか、でも話を聞いて下さると言ってもらって安心しました。ありがとうございます」

 俺は深々と頭を下げた。

 俺は、役に立てただろうか? 俺は、意味のある事を出来ただろうか? 俺は、戸笈のためになる事を出来ただろうか? 正直、よく分からない。でも、戸笈と戸笈の母親がもう一度話せる機会は出来たはずだ。後は、戸笈の頑張り次第。

「では、俺はそろそろ失礼します。もうすぐ戸笈さんも帰ってくると思いますし、俺が居たら話しづらいでしょうから」

「何故、限が帰ってくるなんて分かるのかしら?」

 玄関先で靴を履いた俺は、戸笈の母親に振り向き笑みを浮かべた。

「さあ、なんででしょうね」

 そう言って、俺は戸笈の家の扉を少し開け、すぐに閉じた。そして、壁に背中をつけて立っている戸笈と憶に視線を向ける。

「何時から気付いていたの?」

「さあ、何時からだろうな」

「……ありがとう」

「礼を言うのは早いだろ。それに、後は戸笈次第だからな。じゃあ、俺達は帰るよ。憶、行くぞ」

「ちょっ、ちょっと待ってよ」

 憶を置いていく勢いで歩いて行き、俺はエレベーターのパネルを操作する。すぐに到着したエレベーターの中に入ると、後から滑り込むように憶が入っていた。

「何時から気付いてたのよ」

「憶、立ち聞きしてる時にドアノブにぶつかっただろ? その音で」

「なんで私だって分かるのよ! もしかしたら戸笈さんかもしれないじゃん」

「そういうドジ踏むのは憶くらいだ」

 そう言うと、憶は不服そうに頬を膨らます。

「全く……立ち聞きされてるならあんな臭い事言わなかったのに」

 恥ずかしさで体が熱くなる。今世紀最大の辱めだ。

「私はカッコイイって思ったけどな~」

「からかうな」

 後は戸笈が戸笈の母親を説得するしかない。でもそれは戸笈にしか出来ないことだ。だから、戸笈が頑張るしかない。

 でも、不思議と戸笈なら上手くやれるんじゃないかと思う。まあ、その理由が口喧嘩の相手なら、戸笈の母親の方が戸笈よりも圧倒的に弱く感じた。ただそれだけなのだから、説得力も何も無い。


 家に帰ると、母さんの体調は回復し、俺は父さんと母さんにどれだけ実りのない検査であったかと、もう二度と行かないという事を出来るだけ明るく話した。

 どうやら母さんは、俺に検査を求めてきた電話で、俺が実験の材料にされるのではないかと思ったらしい。まあ「今後同じ症状の人が現れた時のために調べたい」という事をどうにか曲解すれば「研究の為に色々と試したい」に変換できなくもないが、母さんが異常に心配症なだけだ。

 でも、母さんには悪いが、そうやって心配してくれるのは嬉しかった。

 晩飯も風呂も済ませて、ホッと一息ついていると、スマートフォンが着信が入った事を知らせるメロディを流す。スマートフォンを手に取って画面を見ると、着信の相手は戸笈だった。

「もしもし」

『今、大丈夫かしら?』

「ああ」

 外は暗くなっているが、まだ通話をするのが非常識な時間ではない。

『あの公園に今居るのだけれど』

「はぁ? 今すぐ行く! 少し待ってろ!」

 戸笈の言葉を聞いて跳ね起き、適当に服を着てからすぐに家を飛び出す。

 家から数分と離れていない公園に息を切らせながらたどり着くと、真っ暗な公園のベンチに座る戸笈が見えた。

「夜に女の子が一人で出歩くなよ。危ないだろうが」

「ごめんなさい、でも会って話をしておきたくて」

 全力疾走した後の疲労感たっぷりな体をベンチに下ろすと、戸笈は俺に視線を向けず真正面を向いたまま話し始めた。

「結論から言うと、転校をしなくてよくなったわ」

「そうか、良かったな」

「これから学校を休まずに行く事と、成績を落とさないという条件があるのだけれど」

「戸笈なら大丈夫だろ、その条件くらいなら」

「後、母さんは貴方の事を嫌いだと言っていたわ」

「そうか」

 まあ、自分の家族の問題にあれだけ噛み付かれたのだ。自分から話そうと持ち掛けたにしても、良い気はしないだろう。

「貴方には感謝しているわ。ありがとう」

「どういたしまして」

 素直にお礼を言われると、素直に反応できない。だから素っ気ない反応をしてしまい、心の中で後悔する。

 とりあえず、戸笈が転校しなくて良くなったのなら、一安心だ。これで、憶の事も戸笈の事もひとまず丸く収まったと言って良いだろう。

「母さんとあんなに話したのは久しぶりなの。今までは、母さんに口答えしたことなんてなかったから」

「でも、なんで今回はあんなに口答えしたんだ?」

「どうしても、今回は譲れなかったの。どうしても、転校を受け入れるわけにはいかなかった」

「その理由を母親に話せたのか?」

「ええ、包み隠さず全て話したわ。そうしたら、母さんは呆れていたわ。でも、結果的には認めてくれた」

「呆れるってどんな理由だったんだ?」

「それは秘密よ」

 やっとこっちを見たと思ったら、ニッコリ笑って受け流しやがった。一応、俺は話し合いの場を曲がりなりにも作った張本人のはずだが、教えてはくれないようだ。

「貴方には嫌な思いをさせてしまったし、迷惑を掛けたから、直接話しておきたかったの。今回は本当にごめんなさい」

「気にするな、俺も余計な事したなって思ってたから」

「そんな事無いわ! あっ……」

 急に大きな声を出して否定したと思ったら、戸笈はふと我に返って恥ずかしそうに俯いた。

 あれ? 戸笈ってこんなに可愛かったけ?

 初めて会った時からの綺麗である事は分かっていたし感じていた。でもその綺麗さは身近なものではなかった。

 美術館に厳重な警備で展示されている美術品を、ガラスケース越しかつ柵の向こう側から眺めている感じ。近いようで遠くて、絶対に手の届かない場所にある。そんな、綺麗さだった。

 でも、今の戸笈はそんな途方もない綺麗さは感じない。

 散歩中に見かけた犬や猫みたいに、手を伸ばせば撫でられる愛でられる愛らしさ。そんな身近な可愛らしさを感じた。

 今の戸笈は凜とした高音の花ではなく。普通の同級生の可愛い女子みたいだった。

「初めてだったから嬉しかったわ。家族以外の人で、真剣に私の事を考えてくれる人は」

「憶だって戸笈の事心配してたぞ」

「もちろん、麻直さんにも感謝しているわ。飛び出した後、彼女が側に居てくれてどんなに救われたか」

「そっか」

 戸笈から目を離し、俺は公園の入口にある街灯をボーッと見つめた。

「麻直さんの告白、断ったそうね」

「な、なんで知ってるんだよ」

 不意に放り投げられた予期せぬ話題に、恥ずかしいほど露骨に動揺してしまう。

「麻直さんに聞いたのよ。でも、麻直さんは笑ってたわ。告白を断られたのは残念だけど、貴方に気持ちを伝えられて良かったそうよ」

「そ、そうか、でも気まずくなったりはしてないからな。ちゃんとわだかまり無く解決出来たと思うし」

「ところで、なんで断ったのかしら? 麻直さんほど貴方を理解している人は居ないでしょうし。何より麻直さんは可愛いわ。それにしても、麻直さんも保柄くんの告白を断って、この朴念仁に告白するなんて」

「朴念仁って酷い言い草だな」

「だってそうでしょう? 麻直さんの気持ちに全く気付いてなかったのだから」

 確かに女子からしたら察しの悪い奴なのかも知れないが、ずっと幼馴染みとして生活してきた相手が自分の事を好きだった。なんて普通、気付けるわけがない。

「んなの気付いたらエスバーだっての。てか、期裄の告白の事知ってたんだな」

「ええ、保柄くんに事前に聞いていたわ。貴方の前で麻直さんに告白するから、私にも居てほしいと」

「でも、戸笈居なかったよな?」

「居れるわけないじゃない」

 その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。その言葉には、途方もない寂しさを感じた。

「貴方達三人が重ねてきた長い時間に比べて、私が貴方達と過ごした時間はあまりにも短いものよ。貴方達の関係を大きく左右するかも知れない大事な時に、私が立ち会えるわけないじゃない」

 そんなの、俺達が気にするわけない。そう言おうとして、言葉を飲み込んだ。俺達が何と言おうと、戸笈には負い目があったのだろう。そう思った瞬間に、言葉を掛けることが出来なかった。

「そういえば、麻直さんも保柄くんのやりたい事が終わったのなら、次は私の番よね?」

「ああ、そうだな」

 戸笈はベンチから立ち上がり、俺の正面に立って首を傾げながら腕を組む。

「困ったわ」

「ん?」

「何も考えてなかったわ」

「おい」

 戸笈の間抜けな発言に、俺は呆れるしかない。あれだけ何かやりたい事があります。みたいな雰囲気を出しといて、何も考えてなかったとは酷すぎる。

「憶みたいな感じでいいぞ。みんなでやりたい事とか無いのか?」

「そうね、特にないわ。この前のキャンプで十分楽しい思いはさせてもらったし」

「そうか、じゃあ無理やらなくていいんじゃないか?」

「嫌よ、私だけ何もやらなかったら損じゃない」

「ダァー、めんどくさいな~」

「失礼ね」

「すまんな、期裄みたいに空気読めないんで」

 その時、戸笈がまた笑った。また、高嶺の花ではない、年相応の女子高生らしい笑みを浮かべた。

「貴方は何かやりたい事は無いの?」

「俺? 俺はそうだな~」

 俺は空を見上げて考えてみる。……………………あれ? 何も思い浮かばない。

「貴方も何も思い浮かんでないじゃない」

 答えが出せない俺を見て、戸笈はからかうように笑い、勝ち誇った表情を見せて言う。

「急に言われて思い付くか! 憶は多分、素直にやりたい事考えて出てきた天然の産物だろうが、期裄のは前々から考えてたんだろ。告白なんて思い付いて出来るもんじゃないし」

 それにしても、急にやりたい事を言えと言われても、なかなか出てこないものだ。

「明日までには考えておくわ。だから、貴方もちゃんと考えておくのよ」

「分かった」

 戸笈はクルリとその場で俺に背を向ける。ふわりとスカートがはためき、戸笈の黒く長い髪がなびいた。

「やりたい事は、二つではダメかしら?」

 こちらを向かず、そう言う。

「やりたい事は一つずつって決まりだろ?」

「分かっているわ。だから、麻直さんと保柄くんと一緒にやる事とは別に、貴方と私と二人でやる事の一つずつよ」

「いや、それでも戸笈が二つやるって事には変わりないんだが……。でもまあ、俺だけで出来る事なら内容によってはいいけど」

「簡単よ、今すぐにでも出来るわ」

 再び体をこちらに向けた戸笈が、両手を後ろに組んで俺を真っ直ぐ見る。

「名前を呼んでくれるかしら?」

「は? 戸笈?」

「違うわ、名字ではなくて名前で呼んでほしいの」

「えっ? そ、そんな事か。なんかとんでもない事を頼まれるのかと思ったぞ」

 笑いながら頭を掻き、戸笈から視線を外す。おかしい、どうしてこうも気恥ずかしいのだろう。

 人の名前を呼ぶなんてどうと言う事もない。話し掛けるときには何気なく口にするものだ。憶や期裄にも普通に名前で呼び合っている。なのに、どうして俺はこんなにも体が熱くなっているのだろう。

 戸笈の名前を知らないわけじゃない。なのに、言葉にするのを躊躇ってしまう。本当に呼んでも良いのだろうか? 呼んだら変な目で見られないだろうか? 戸笈に嫌な思いをさせてしまわないだろうか? そんな不安が浮かんでくる。戸笈自身が呼んでほしいと言っているのだから何ら問題ないはずだ。でも、踏ん切りを付けるきっかけは掴めない。

「…………」

「私の名前を呼ぶのは嫌かしら?」

「そっ、そんなこと無いぞ! ただ、なんだか恥ずかしいというかだな」

「麻直さんは普通に名前で呼んでいるわよね?」

「いや、憶は幼馴染みだし。物心付いた頃から名前で呼んだからさ」

「保柄くんとは幼馴染みではないでしょう?」

「いやいや、男と女じゃ違うだろ」

 気が付けば、もうそれなりに遅い時間になっていた。遅くに女の子である戸笈をこのまま出歩かせておくわけには行かない。

「とりあえず、もう遅いから送る。歩きながら話そう」

「分かったわ」

 公園を出て、街灯に照らされた夜道を歩く。日が落ちて周りにあるのがコンクリートやアスファルトばかりなせいか、もうすぐ夏が近いというのに冷たい夜風が吹く。でも、体が火照っているせいか寒さは感じなかった。


 隣を歩く戸笈は、正面から体を撫でる風を楽しむようにスッと瞳を一瞬だけ閉じた。戸笈の瞳が再び開かれるまで俺は息を呑んで彼女に目を奪われ、彼女の瞳が開いた瞬間に我に返り視線を逸らす。

「貴方ってやっぱり変わっているわね」

「なんだよ、急に」

「普通の人なら悲観して落ち込んでしまう事も前を向いて歩こうとしているし、赤の他人の母親と対峙しても全く物怖じしない。なのに身近な人が自分に向けた恋心には鈍感で、ただ知り合いの名前を呼ぶだけのことに怖じ気づいている。本当に変わっていると思うわ」

「褒められてるのか貶されてるのか良く分からないな」

「なにを言っているの? 嘲笑っているに決まっているじゃない」

「もっと悪かったか……」

 戸笈は口元に手を当てて顔を綻ばせながらクスクスと笑う。

「母さん、本当に貴方の事が気にくわなかったみたい。あの人が他人に対してあんなに物事を言うのは珍しいし」

「強烈な人だったからな。面と向かって無責任って言われたのは初めてだったぞ」

「それは……本当に申し訳ない事をしてしまったわ。不快な思いをさせて本当に、なんて謝ったらいいのか。……ごめんなさい」

「いやいや、別に戸笈を責めるつもりで言ったんじゃないから謝らないでくれ。ただ、相当俺の事が気にくわないんだろうなってのは分かってるって事だ」

 立ち止まって深く頭を下げる戸笈に困惑する。そんなつもりじゃ無かったのだ。戸笈に頭を下げてほしいとは思ってなかった。戸笈に暗い思いをさせようなんて思っていなかった。俺は、戸笈にそうさせてしまった自分を恥じた。なんて空気の読めない奴なんだろう、俺は。

「貴方を最低の人間とまで言っていたし、もう貴方に関わらないようにも言われたわ」

「まあ、そうなるわな」

 そりゃあ、他人の家庭の事情に首を突っ込んだ挙げ句に、散々自分を否定した人間だ。しかもそれが自分より遥かに年下で娘と同い年の高校生なのだから、虫の居所は相当悪かっただろう。

「でも私は拒否したの。貴方と関わらない事を」

 戸笈は立ち止まって居た足を再び進め、俺より数歩前を歩き始める。

「貴方と私は一週間と少しの関係でしかないわ。でも、たったそれだけでも私は貴方に関わったおかげでとても大切な物を教えてもらったわ」

「俺はそんな大層な事はしてないぞ」

「ええ、多分他人からしたら些細な事かもしれない。でも、私にとってはとても大きな事よ」

 戸笈は数歩先で振り返り、笑った。今まで見たこと無い、満面の、空に浮かぶ星々や月が霞むくらい明るく輝いた笑顔だった。

「貴方に出会って、私は人生を楽しいと感じたの。それは、私にとってとても大切でとても大きな変化よ」

 もし彼女が、彼女の人生が、本当に俺と出会った事で輝いたのなら、俺はそれを素直に嬉しいと思う。嬉しいと思うのは素直な気持ちだ。でも、なんだろう? このこみ上げてくる単なる幸福とは違う高揚感は。なんだろう、思わずにやけてしまうこの温かいものは。

 随分距離があると思っていた戸笈の家までが、あっという間に過ぎてしまった。

 ライトアップされた高層マンションがはっきり見えて、マンションの出入り口まで来ると戸笈が立ち止まり、ジッと俺に視線を向けてくる。

「さて、着いたのだけれど、結局話は進まなかったわね」

「え?」

「名前よ」

「あ、ああ」

 音がない夜。風が消え、もちろん鳥の鳴き声も聞こえない。車が風を切る音も、人が歩いて靴が地面を鳴らす音も聞こえない。いつの間にか音以外にも周囲の色もモノクロになっていた。ただ、俺の視線の先に居る戸笈だけが色彩を持っていた。

 なんで俺は戸笈にしか色を見れないのだろう。なんで俺は戸笈を見てこんなにも目を奪われるのだろう。なんで、俺は戸笈の名前を呼ぶのに、こんなにも躊躇うのだろう。いや、そんなのは分かり切っている。

「…………限……さん」

「……気持ち悪い」

「随分な言い方だな!」

「だって、貴方が私に敬称を付けるなんて、広い草原の真ん中にコンビニが建っているようなものよ?」

「たとえがイマイチ良く分かんないんだが」

「そうね、簡単に言えば合っていない、似合っていないという事かしら」

「最初からそう言ってくれ」

 せっかく、無い勇気を振り絞って言ったのに、戸笈の反応はイマイチどころか目が不満を俺に訴えている。

「……やり直し」

「は?」

 そんな戸笈は凜とした声で俺に告げる。

「敬称を付けずにもう一度呼んで」

「わ、分かったよ……」

 さっき振り絞った勇気は無駄に終わった。でも、一度踏み切ったからか、二回目はさっきよりも抵抗感はなかった」

「……限」

 口から出た言葉は、ただそれだけで俺の耳をくすぐる。でも、その響きは滑らかで柔らかく、不思議と口に馴染んだ。

「……合格ね」

「合格って、なんかの試験だったのかよ」

 戸笈は唐突に俺へ合格宣言をしたと思ったらクルリと背を向け、一歩前へ歩いた。

「では、また明日学校で」

「ああ、また明日」

 戸笈が振り返らずにマンションの中へ入っていく。マンションの外から、戸笈がエレベーターに乗るのを見送る。

 戸笈が見えなくなってしばらくその場に俺は立ち尽くしていた。もう戸笈を乗せたエレベーターが上がったであろうマンションの上階を見上げる。

 どうしてだろう、さっき会ったばかりなのに、明日また学校で会えるのに、寂しい。もう一度彼女の声を聞きたくなった。もう一度彼女の笑顔が見たくなった。

 それがどうしてかは、分かっている。

 俺は、恋をしたのだ。

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