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君を忘れる  作者: 焦げたナポリタン
7/10

7【思い出にはいつも君がいる】

  【思い出にはいつも君がいる】


 心臓が弾けそうなくらい胸を打ち鳴らし、肺は押し潰されるかの如く空気を吐き出す。全身は疲労で重たくなり、背中はびっしょりと汗で濡れる。

 全力で走ったのは何時ぶりだろう。こんなに後先考えずに何かをやったのは何時ぶりだろう。でも、そのせいで学校の校門前に着いたのに、次の一歩を踏み出せない。

「全力、出し過ぎたな」

 制服が汚れるという事を気にする余裕もなく、校門に背中をつけて座り込む。空を仰ぐと太陽が照りつけ、もう昼食の時間だからか校内が騒がしい。

「これから、どうすっかな」

 俺は器用な人間じゃない。だから何かを同時にやって上手くこなせるわけがない。だから憶と戸笈の事を同時にどうにかしようとすると、どっちも何も出来なくて、結局無意味になってしまうかもしれない。

 憶の事は、いまいちどうすればいいのか分からない。憶が俺に告白した事にも驚いた。でも、それ以上に憶が胸の内に秘めていた悲しさとか苦しさを、一切分かっていなかった自分の無頓着さが恥ずかしくなった。憶が幼馴染みだと言っても世間一般的には他人だ。だから他人の気持ちを読み取るなんて不可能、そう言われてしまえば仕方ないのかも知れない。だけど、俺と憶は幼い頃から一緒にいて、色んな事を経験してきたはずだ。だから、少なくともただ憶を知っている人よりは、憶の事が分かっていると思っていた。

 憶が好きな食べ物嫌いな食べ物、憶が嫌な事嬉しい事、憶が笑うタイミング泣くタイミング、それらを憶の家族には遠く及ばないとしても、他の他人よりは知っているつもりだった。でも実際は、俺はなんにも分かっていなかった。

 戸笈の事は、こっちもどうすればいいのか分からない。そもそも俺が何かしていい問題なのか迷っている。戸笈の転校の事は、戸笈自身の問題であり戸笈の家族の問題だ。赤の他人の俺が口を出して良いことでは無いし、たとえ口出しをしたとしても俺の言葉を考慮するとは思えない。戸笈は転校したくないと言っていた。戸笈の意志は固まっている。でも、だからといって簡単に片付く問題じゃない。

 でも、戸笈はあの公園に居た。はっきりと聞いたわけじゃない。でも確かに戸笈は俺達を頼って来た。だったら、このまま何もせず時の導きに任せるなんて出来るはずが無い。

「記、今日休みだったんじゃないのか?」

「……期裄」

 目の前にお茶のペットボトルが差し出され、そのペットボトルを掴む手を辿ると、心配そうに視線を向ける期裄が居た。

「サンキュ」

 ペットボトルを受け取って蓋を開け、お茶を一気に飲む。全力で走って来たせいか、いつもよりもお茶が美味しく感じた。

「記、麻直さん何かあったのか?」

「え?」

「今日麻直さん、学校休んでる」

「そう、か……」

「やっぱり記と何かあったのか」

 期裄は俺の隣に座り、真上に昇った太陽を見上げる。俺は、その横顔から手に持ったペットボトルに視線を移して、口を開いた。

 戸笈が家出してきた事、憶に戸笈の話を聞いてもらった事。そして、憶に告白された事を話した。

「で、記は告白をどうしたんだ?」

「……断った」

「そっか」

「憶を女子として見てなかったわけじゃ無い。ちゃんと女子だとは思ってた。でも幼馴染みの女子だったんだ。いきなり、恋愛対象として見ろって言われても、どうしても出来なかった。だから……」

「分かってる。それに麻直さんも断られるのは分かってたんじゃないかな?」

「えっ……」

 期裄は顔を俺に向け、底抜けに明るく破顔した。

「こんな事を言ったらネガティブだって笑われちゃうかもしれないけど、なんとなく分かるんだよ。相手が自分を好きか嫌いかってなんとなくさ。麻直さんは俺の事は決して嫌ってはいなかったと思う。でも、絶対に恋愛対象とは見ていなかった。せいぜい、仲の良い男子くらいだったと思う。それが告白する前に分かるものなんだ。その人の事が好きであればあるほど、本気で想っていれば想っているほど」

 期裄は右手の拳を握り、優しく俺の胸に落とした。

「記と麻直さんは、俺じゃ立てない場所に居る。きっと、誰も二人の間には踏み込めないんじゃないかと思う。二人の幼馴染みって場所は、二人以外にはどう頑張って到達できない高みなんだよ。だから、何も言わなくても呼吸が合う、何も言わなくても相手の事がある程度分かる」

「でも、俺は憶が俺の事を好きだったなんて全然気付かなかった。憶が心に抱えていたものを全部分かってやる事は出来なかった」

「今言ったばかりだろ“ある程度”分かるって。全て分かるわけない。それは家族でも同じだろ? だから人間には言葉があるんじゃないか。思ってるだけじゃ分からない事から伝える手段があるんじゃないか。でも、言葉で伝えないと分からない事以外は、二人は無意識に感じ取ってる。麻直さんとそんな関係じゃない俺でも、気持ちが届かない事が分かったんだ。きっと、麻直さんも記の答えは分かってたはずだ」

「じゃ、なんで」

「後悔したくないから」

 期裄の言葉は重かった。そして、俺に向けられた言葉は突き放すような言葉だった。でもそれは俺の事を見放したわけじゃない。言われるばかりではなく自分で考えろという期裄の思いだった。

「……憶の気持ちを軽くする方法は思い浮かばない。でも、やらなきゃいけない事は分かった気がする」

「そうか、俺は何も出来ないけど、麻直さんの事を頼むよ」

 俺は立ち上がり、制服の袖で額の汗を拭う。

「期裄、先生に早退するって伝えといてくれ」

「バカ、記は休みになってるしまだ登校したことにもなってないぞ」

「そっか、ありがとう期裄」

「記」

「ん?」

「羨ましいぞ」

 期裄が胸に右手の拳をぶつける。さっきより勢いがあり、僅かに痛みを感じた。


 憶の家は、俺の家の近くにある一軒家。俺の家よりも外観は明るく、憶の母親の趣味である園芸で育てられた草花がその明るさをより際立たせている。

 塀に設置されたインターホンを鳴らして家の人が出るのを待つ。憶の両親は共働きだから、家に居るのは憶だけだろう。

「はい、麻直です……」

「憶、俺だ」

「……記」

「話がある」

「分かった」

 門を開いて玄関の前に立っていると、重い解錠音を立ててゆっくりと玄関扉が開いた。中から部屋着姿の憶が俺の方を向いて、視線を逸らした。

「入って」

「おじゃまします」

 憶の家は、俺の家よりも和風に近かった。食事をする場所もフローリングではあるもの、俺の家にあるような背の高いダイニングテーブルではなく、背の低いローテーブルで椅子もない。床に敷かれた絨毯の上にあぐらを掻いていると、憶がコップにジュースを入れて俺の前に置いた。

「サンキュ」

「記、凄い汗だけどどうしたのよ」

「病院から学校まで全力疾走した。学校からここまで来るのは流石に体力無くて走るのはは無理だったけど、真昼に歩くとやっぱり汗は掻くな」

「記は運動不足だから運動はした方がいいとは思うけど、急にすると怪我するだけよ。ちゃんと走る前に準備運動……するわけないか。明日覚悟しておきなさいよ、絶対筋肉痛になるから」

「マジか……」

 出されたジュースはオレンジジュースで、果汁が多めのものなのか柑橘系特有の爽やかな酸味を強く感じる。

 憶がコップをテーブルの上に置いたのを確認してから、俺は頭を下げた。

「すまん」

「えっ? ちょっと、いきなり何謝ってるのよ!」

「憶の事、なんにも分かってなかった」

 顔を上げて見た憶は、俺を困惑の表情で見ていた。

「俺は、きっとみんなに無理をさせてたんだよな。学校のみんなにも期裄にも戸笈にも、父さんにも母さんにも、そして憶にも。俺だったら学校のあまり話した事ない奴が記憶を一ヶ月に失うって聞いて、平然と学校で生活するのは多分無理だと思う。興味本位でそいつの事を誰かに聞いちゃうと思うし、そいつを学校で見掛けたらついつい視線を向けてしまうと思う。それが期裄や戸笈、家族、憶だったら、俺は多分顔に出出ちゃうと思う。辛さとか悲しさとか苦しさとか、そんなのが全部出て普通になんて出来ないと思う。そんな難しくて苦しくて残酷な事を、俺はみんなにやらせてたんだよな。特に、憶には本当に辛い思いをさせてしまったと思う。だから、謝っておきたかった。謝ったからってどうかなるとは思えないけど」

「記は悪くないわよ。ごめん、私がちょっと弱かっただけ」

「バカ野郎、なんで憶が謝るんだよ。俺が謝れないだろ」

「なによ、意味分かんない」

 憶は笑った。そして泣いていた。

「全部忘れちゃうんでしょ」

「分かってたか……」

「嘘を吐くときの記は分かり易いのよ。目が泳いでる」

「……セシリアは一ヶ月後に自己に関する記憶を全て失うって言ってた。自分に関する事全てを指すなら、間違いなく憶の事も忘れると思う」

「そっか……やっぱキツイね、ハッキリ言われると」

 憶は間違いなく俺の一部だ。保育園も小学校も中学校も全部同じで、クラスが何度か別になった事はあっても毎日の様に顔を合わせて笑っていた。楽しかった思い出にも憶が居て、悲しかった思い出にも憶が居る。その全てを忘れて仕舞うとしたら、俺は憶の事を忘れるだろう。

「でもね、私少しだけよかったと思ってるの」

「良かった?」

「うん、嬉しいとは違うんだけど、安心した良かったと希望がある良かったかな」

 コップを両手で持ち、憶ははにかんだ。

「最初、記がセシリアの診断のせいで病院に運ばれたって聞いたとき、私、記が死んじゃうかと思ったの。今の技術じゃ治せない病気が見付かって、記が居なくなっちゃうと思った。でも、記憶を失っちゃうけど記は死なないって知って、ホッとしてよかったと思った。全然良くなんかないんだけど、記に一生会えなくなるわけじゃないって分かって安心した。それにね、私、記が私の事を恋愛対象として見てないの分かってたから。記の態度とか見てたら、私の事を信頼してくれてるのは分かったし嫌ってないのも分かった。でもそれは好きな女の子じゃなくて、幼馴染みの女の子としてだって分かってたから」

 目の前の憶は無邪気に笑う子どもっぽい憶ではなく、高校生の憶、いやもっと大人に見えた。

「記が私の事を忘れるって事は、今まで記と経験した思い出を全部忘れちゃうって事。それは凄く悲しいし辛いけど、幼馴染みっていう絶対に超えられない壁も無くなるって事でしょ? だった、もしかしたら記が私の事を好きになってくれるかもしれない。自分で作り上げちゃった超えられない壁が無くなれば、また一から記と関係を築けるかもしれない。幼馴染みじゃなくて男の子と女の子として仲良くなれるかもしれない。そう思ったら私の恋にも希望があるのかなって希望は持てた。……でも、その何十倍も辛いけどね」

「憶……記憶を無くした後の俺はもしかしたらめちゃくちゃ冷たくて、他人を拒絶するかもしれない」

「大丈夫、記はそんな冷たい人じゃないから。記は不器用なだけだよ。人と上手く接するやり方を知らないから、いっつも誰かと話すときはおっかなびっくりで、私や保柄くんがフォローしてあげないといけない頼りないやつ」

「そうか、俺ってそんなに頼りないやつだったのか」

「それに、記がもし私の事を拒絶したって、私が離れるわけないじゃん」

 憶が隣に座り、勢いよく俺の右腕を引ったくって抱き締めた。顔は笑い、俺の頬に右手の人差し指を突き立てる。

「絶対離さないんだから。私と保柄くんと戸笈さんで、絶対また仲良くなって夏休みにキャンプに行くの! 今度こそ晴れの日に花火して! それに体育祭も優勝して文化祭も目一杯楽しんで、そんで来年は修学旅行もあるし、絶対四人でグループ組んで色んな所回る! 絶対に、絶対! 記も一緒にッ! 沢山楽しい思い出を、作るの……」

 途切れる言葉、漏れ出す嗚咽、溢れる涙。それらを、憶は必死に堪えようとしていた。俺はそんな憶の頭を優しく撫でた。

「情けないけど、よろしく頼む。きっと憶が引っ張り回してくれなかったら、俺は冷めたまま楽しいこと全部通り過ぎちゃうからさ。今までの楽しい思い出は、全部憶が引っ張ってくれたから経験できたんだ。だから、きっとこれからも楽しい時の隣には憶が居ると思う。また俺に楽しい事を教えてくれよ。今度キャンプに行くとき雨降ってたら、今度こそ俺のせいにしていいからさ」

「分かった。今度また雨降らせたら目一杯責めてやるわよ」

 涙は混じっている、悲しみも混じっている、でも憶は笑った。その笑いは今まで見た本当に嬉しい時や楽しい時の憶の笑顔では無い。でも、決死でネガティブな笑いでない事は分かった。これが期裄の言ったある程度であるのかは分からない。でも、これだけはきっと嘘ではないと確信出来た。

「記、戸笈さんの事どうするの?」

「なにかしないといけないとは思ってる」

 散々涙を流して泣いた憶が落ち着いた後、そう俺に尋ねた。

「なんとかしないといけないとは思ってるけど、実際俺が何かをしていいのか分からない。俺が戸笈の気持ちを汲んでほしい、そう戸笈の両親に言ったって聞いてもらえるとは思えない。でも、このまま放っておくわけにもいかないんだ。戸笈は俺達を頼ってくれたんだ。俺達に助けを求めてきたなら、少なくとも戸笈自身は俺達に助けてほしいと思ってるんだと思う」

「俺達って、記以外の誰を頼ったって思ってるの?」

「だって、戸笈が憶の話を思い出してあの公園に来たって言ってただろ? ……な、なんだよその目は」

 憶が俺にジトッとした目を向ける。そして大きくため息を吐く、明らかに俺に対して呆れた様子だ。

「記憶が無くなっても、この鈍い性格は変わらないのよね。そこはちょっと大変かも……」

「なんだよ、ボソボソ言ってたら分からん」

「別に、私の独り言だから関係ないわよ。とにかく、このまま戸笈さんが転校しちゃうのは嫌だよね」

「戸笈の両親を俺達で説得するのは、まず無理だろうな。実の娘が言っても聞かないなら、他人でしかも子どもの俺達が言ったくらいじゃ聞かないだろうし」

 戸笈の近況が実際どんなものか分からない。話し合いが出来ないと言っていたが、そもそもそれをやろうとしていないだけではないのか? いや、迎えに来た戸笈の母親の態度を見ていたら、確かに他人の意見を聞くような感じには見えなかった。

 話し合いをさせるのか? もう一度話してみろよ、と言えば解決出来るのか? いいや、そんな簡単な話じゃない。それに、俺はそこまで踏み込むには、あまりにも戸笈を知らな過ぎる。

「部活の友達から聞いたんだけどさ。その子、戸笈さんと同じクラスなのに、戸笈さんの声を聞いた事がないんだって。戸笈さん、私達以外に仲の良い友達が居ないみたい」

「そうか……」

 多分そうなのではないかとは思っていた。実際、本人も友達が居ないとは言っていたし。でも戸笈は俺とは遠い場所の存在だが、俺に近い性格の人間だ。

 初めて戸笈を見た時、俺は彼女の雰囲気を誰も寄せ付けない、排他的な雰囲気を感じた。でも今思えば、それは俺の勘違いなのではないかと思う。

 彼女は、俺と同じで他人が苦手なのだ。

 他人に対してどう接したら良いか分からない。どんな話題を使って会話すれば良いか分からない。どうやったら他人に好かれるのか、嫌われてしまうのか分からない。どれが正解なのか分からないから、答えない。どう足掻いたって結果が変わらないからと無意味になる。

 きっと、戸笈も同じなのだ。

「戸笈さん、凄く可愛いし優しいしいい子だよって教えてあげたんだけど、話し掛けづらいって。そんな感じ全然しないのに」

「誰にでも平等に接することが出来るのは、憶や期裄くらいだ。普通は、まず相手の顔色を窺うものだからな」

「失礼ね! 私だってちゃんと空気くらい読むもん。なんか元気なさそうだから、ちょっと話をいてみようかなとか。なんか怒ってるから、楽しい話して嫌な事忘れさせちゃおうとか考えるし!」

「全部話し掛けて解決しようと出来るのが、憶達くらいだって事だよ。俺だったら、自分が関わっても何も出来ないからって関わらないようにしてた」

「でも、戸笈さんは絶対に転校したくないと思う」

「憶も聞いたのか。戸笈は絶対に嫌だって言ってたしな」

「えっ? ううん、そうだね」

 憶は一瞬驚いた表情をして、そして優しく笑いながら首を横に振った後、深く頷いた。

「でも、転校って完全に家庭の問題だからな」

「うん、そうだけど、やっぱり戸笈さん転校してほしくないし、なにか出来るならしてあげたい」

「……とりあえず、戸笈と会って話してみよう」

 ポケットからスマートフォンを取り出す。形は一昔前のスマートフォンと変わらないが、機能はその時代で高性能と言われ販売されていたデスクトップパソコンよりも良い。そのスマートフォンにある通話用のソフトを立ち上げ、今朝交換した戸笈の連絡先に音声電話を掛ける。戸笈と憶はディスプレイに互いの顔が映るテレビ電話で話すらしいが、俺はテレビ電話は苦手だ。

『はい』

「戸笈か、今学校か?」

『いえ、今日はお休みしたわ』

「そうか、今から憶と二人で戸笈の家に行っていいか?」

『えっ? ええ、構わないけど』

「じゃあ、今から行く。場所は俺か憶に送ってくれ」

『分かったわ』

 電話を切ってしばらくすると、スマートフォンに戸笈の家周辺の地図が送られて来た。

「憶、勝手に行くって行っちゃったけど良かったか?」

「大丈夫。私の方はもう大丈夫だから、次は戸笈さんの事をなんとかしないと。でも、記ってそんなに行動力あったっけ?」

「自分でも驚いてる。人は変われるものらしいな」

 立ち上がると、スッと憶が俺の手を取った。小さな憶の両手が俺の右手を包み込み、下から見上げる憶の瞳は潤い、澄んでいる。

「記は好きな人、居ないの?」

「居ないな」

「好きな人、作りなよ」

「なんで強制なんだよ。恋愛はしろって言われて出来るようなものじゃないだろ」

「そうだけど、好きな人が出来たら世界が変わるよ。今まで普通に通り過ぎてた道も新鮮になって、今までちゃんと見もしなかった空を見上げてみたりして。流行りのラブソングが凄く心に滲みて、ラブストーリーのドラマを見て胸が締め付けられたりして」

 憶は笑う。底抜けに明るく、彼女の笑顔を見た太陽が恥ずかしさで陰ってしまうかのように、綺麗に輝く。

「恋はきっと、記に大切なものを教えてくれるよ」

 優しくそう言う憶は、握った手を放して右手の人差し指を俺に突き付ける。

「いのち短し、少年よ恋しろって言うし!」

「憶、なんか色々混ぜた挙句にオリジナリティが入ってわけ分かんなくなってるぞ」

「え? 違った」

「全然違う」

 クラーク博士は人差し指を指していないし、そもそも有名な言葉は少年よ大志を抱けだ。それに、混ぜたであろう歌の歌詞の冒頭はいのち短し、恋せよ乙女だ。

 憶にかっこよく決めるなんて事は似合わない。憶はとりあえず何にでも全力なのが似合う。何にでも真剣に真摯に向き合えるのが、憶のいい所だ。でも、俺に何かを伝えたいという気持ちは十分伝わった。

「心のほのお消えぬ間に、今日はふたたび来ぬものを、か……」

「え? 何それ?」

「ちゃんと自分で調べてみろよ。てか、そもそも憶が言ったんだろう」

「私そんな難しい言葉言ってないし!」

 憶の家を出ると、空に浮かぶ太陽が真上から少し傾いていた。着替えを済ませた憶は、家のロックを確認し、待っていた俺の隣に並ぶ。

「戸笈さんの事、上手く解決出来るといいね」

「ああ」

 過ぎた時間は戻らない。使った時間は再利用出来ない。だから後で悔やまないように、今動く。

 期裄のように上手く立ち回れなくても、憶のように底抜けに明るくなれなくても、何もしないよりなにかしようと足掻いた方がいいに決まってる。

 俺は大志は抱けない。でも、戸笈のために何かしてやりたいとは強く思えた。


 戸笈の家は、大きなマンションの一室だった。マンションの玄関ではセキュリティチェックをされて、全身をスキャンされた。この手のマンションには、これに加えて住人の許可がなければ入れないシステムもあるのだが、予め戸笈が俺と憶を来客として設定してくれていたのか、わざわざ戸笈の許可を得る必要はなかった。

 戸笈が住む部屋までは階段かエレベーターで上がる必要があるようで、出来るだけ運動というものをしたくなかった俺は迷わずエレベーターを選んだ。

 バスとかに乗っても停車ボタンを押したがる憶は、ここでもエレベーターのボタンを押したがったので好きにさせた。

 エレベーターが目的の階に着くと、ゆっくりとエレベーターの扉が開いた。

「とにかく帰ってッ!」

 扉が開いた瞬間、その怒鳴り声が聞こえた。聞き覚えのある声、戸笈の声だった。でも、それは聞きなれない感情剥き出しの口調だった。

「限、貴女はもっと良い環境で勉強するべきなの。普通の学校でも良い大学に行けるかもしれない。でも、良い環境で勉強した方がもっと良いのは分かるでしょう?」

「あの学校が私にとって良い環境なの! 少ないけど友達が出来たし、やっと学校が楽しい場所だって思えて来たのに!」

「貴女のお友達にセシリアから記憶喪失の宣告を受けた子が居るそうね。昨日、お世話になった御家庭の子ね」

 エレベーターの扉が閉まる前に廊下へ出て、その声が聞こえて思わず壁の陰に隠れた。

「貴女は優しい子だから、その子の事が気掛かりなんでしょう? でも、貴女がその子のために何か出来ることは無いわ。それに何かをしてあげたとしても、一ヶ月後には貴女の事を全部忘れてしまうのよ。そうなったら貴女はきっと傷付く。それなら、その子と同じように貴女もその子の事を忘れるべきよ」

 俺は右手で飛び出そうとした憶の腕を掴んだ。憶は「なんで止めるのか」と言いたげに俺を睨み付けてくる。でも、ここで憶が飛び出して行ったってもっと二人を揉めさせるだけだ。

「母さんに何がわかるのよ! 彼の事を何も知らないくせに!」

「貴女は何を知っているの? 貴女が学校にまともに行き始めたのは一週間前からでしょう? それだけの期間でその子の何を知ったと言うの?」

「それは、彼は私が友達になりたいって言ったら拒絶せずに受け入れてくれて、なんの壁もなく私と話してくれて。彼のおかげで女の子の友達も出来たわ」

「可愛い女の子から友達になりたいと言われて、断る男性は居ないのよ。限、貴女でなくても、可愛い女の子でさえあれば男性は誰でも受け入れるの」

「――ッ!」

 憶が俺の手を振り解こうとして暴れる。それを制するついでに、俺は憶の口を左手で塞ぐ。何か言いたい事があるようだが、まだ出ていくにはタイミングが不味い。

 どうしてだろう、これが憶や期裄、戸笈の事を言われていたら、俺は間違いなく飛び出して文句の一つでも言っていたかもしれない。でも、自分の事だと驚くほど冷静に物事を考えられた。

 戸笈の母親は俺を一度見ただけだ。だから、俺という人間を判断する材料を持っていない。だから、最悪のケースを想定して行動したのだろう。戸笈の事が大切だからこそ、戸笈が傷付かないようにしたいのだろう。

 それが分かるからこそ、文句を言う気にならなかったのかもしれない。

「彼は違う! 彼は私が友達になってほしいって言ったら困った表情をしたもの!」

 まあ、いきなり何の前触れもなく「友達になってほしい」なんて言われたら誰だって困惑するだろう。それは当然の事だ。

「彼は母さんが思っているような人じゃないわ」

「限、貴女は男性を知らな過ぎるの。それに彼じゃなくてもいいじゃない。記憶を失わない正常で素敵な男――」

 廊下に、弾けるような音が響いた。それは戸笈の母親が戸笈に平手打ちをした時に聞いた音に似ていた。でも、あの時よりも激しく耳と心を震わせた。

「彼は、彼は普通に素敵な男性よっ!」

 廊下を駆ける音が聞こえて、戸笈がエレベーターの前まで走ってきた。そこで、壁の陰に隠れていた俺と目が合う。

「戸笈さん!」

 俺から視線を逸らして階段の方に走って行った戸笈を、憶が俺の腕を振り解いて追いかけていく。俺はその二人を追い掛けはしなかった。俺の視界に、戸笈の母親が入ってきたからだ。

 戸笈の母親は、俺の姿を見ても一切表情を変えることなくゆっくりと俺に近付いてくる。

「少しお話をさせてもらえないかしら」

 その声は、廊下の空気を冷たく張り詰めさせた。

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