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君を忘れる  作者: 焦げたナポリタン
6/10

6【動き出す】

  【動き出す】


 家の玄関先で、俺は壁に背を付けて突っ立っていた。

 住宅街に吹き抜ける夜風は冷たく。夕涼みを楽しめる風ではない。

「戸笈さんは?」

「俺の部屋に居る」

「戸笈さんのお家には?」

「ダメだ、戸笈が断固として連絡先を教えない」

 待っていた憶が息を切らしながら走ってくると、そんな会話を交わした。

 帰り道で出会った戸笈は、俺がよく知る凜とした、そして常に余裕を見せている戸笈とは違った。余裕や冷静さなんて感じられず、俺に「泊めてほしい」と頼んだのだ。

 どこからどう見ても普通の状況ではあり得ない。で、事情を聞こうとしても、これまた頑固で何があったのかは言おうとしない。しかし、年頃の女の子を年頃の男子が居る家に泊めるわけにもいかず、憶を呼んだところだった。

「とりあえず、私が入って話してみるね」

「ああ、すまんが頼む」

 本当は、期裄の願いを叶えなければいけないのだが、それよりも今は目の前で起こった戸笈の方を優先させるしかない。

 家の中に憶を入れると、憶少し両親と話しを始めた。その話が終わると、すぐに上へ上がっていった。俺は上へ上がっても特に出来ることもないし、今は憶に任せることにした。

 ダイニングのソファに腰掛けると、母さんがニコニコ笑顔を浮かべながら俺の隣に座る。

「あの子は誰?」

「戸笈? あー、学校の友達だよ」

「へえー、記にも憶ちゃん以外の女の子の友達が居たのね。保柄くんは女の子にモテそうだけど、記はお父さんに似て無愛想だから心配してたのよ」

「言っておくけど、母さんが期待してるような事は一つもないからな」

 確かに俺は憶や期裄以外の奴を家に連れてきた事はない。だから戸笈を連れて来て興味津々なのは分かる。が、今はそんな呑気な話をしている場合じゃないのだ。

 薄暗い公園に一人で座っていた事から判断すると、戸笈は家出をしてきたのだろう。しかし、戸笈は一人暮らしをしていると言っていたし、家出をする必要はないように思える。

 まあ、どっちにしても男の俺より女の憶の方が話しやすいだろうし、憶が聞き出してから考えるしかないだろう。


「転校、か」

「うん、前まで学校を休みがちだったけど、家庭教師とか塾に行って勉強してたんだって。でも、最近学校によく行くようになって、家庭教師も塾も辞めたらしいの。だけど、それは戸笈さんのお父さんにお母さんに相談しなかったらしくて」

 戸笈と話をしていた憶が下りてきて、母さんが用意した冷茶を飲みながら説明をする。

「確かに親に相談せずに辞めたのはまずいけど、それと転校の何が関係あるんだ?」

「それが、戸笈さん、元々うちとは別の進学校に入学するつもりだったらしいんだけど、戸笈さん、入試すっぽかしたらしくて」

「入試をすっぽかした?」

「うん、そっちは有名な私立だったらしいんだけど、お父さんもお母さんもカンカンだったみたいで、それでもめて一人暮らしをしていたみたい。で、うちの高校に通う条件が、家庭教師と塾だったらしいの」

 何となく、本人以外から聞いてはいけないような話だが、状況を把握するためには仕方がない。

「で? 戸笈はなんで一人暮らししてる家から家出してきたんだよ」

「住んでる所にお母さんが居て、家庭教師も塾も辞めたなら、編入試験を受けて進学するはずだった私立に編入しなさいって言われたみたい。それで喧嘩になって」

「それで一人暮らしをしている家を飛び出してきたって事か……」

 話を聞く限りでは、戸笈はあまり両親と上手くいっていないようだ。それに薄々感じてはいたが、いいところのお嬢様でもあるらしい。

 しかし、このまま放置するわけにはいかない。何よりこのまま俺の家に置いておく事は出来ない。

「とりあえず、うちに来てもらおうか?」

「憶の家に?」

「そう、いくら記が根性なしだとしても、戸笈さんみたいな可愛い女の子とひとつ屋根の下に置いておけないし」

「酷い言われようだが、それは助かる」

 今の話を聞いたら、このまま親に突き出すのは酷な気がした。だったら、憶が良いというならそれに頼るのが良いかもしれない。

「でも、その前に戸笈と少し話がある」

 俺は憶と一緒に上に上がり、部屋の扉をノックする。

「戸笈、入るぞ」

「ええ」

 返事を聞いて中に入ると、相変わらず弱々しい姿の戸笈が目に映る。

 いつもは若干偉そうにしている戸笈だが、こういう弱々しい面を見ると何だかより女の子らしく見える。

「麻直さんにも貴方にも迷惑を掛けてしまったわ。本当にごめんなさい」

「全く、親子喧嘩して家出って、頭良いのに結構考えなしなんだな。俺がたまたま見つけなけりゃどうする気だったんだよ」

「…………あの場所にいれば、きっと貴方に会えると思ったから。キャンプの時、麻直さんに子供の頃、あの公園でよく貴方と遊んだと聞いていたから。だからあそこに居れば貴方に会えると……」

「そうか、なら電話でもすれば――」

「貴方の連絡先、知らないわ」

「あー、そうか、それはすまん」

 俺に謝るような落ち度はないが、目の前でこんなに落ち込んでいる女の子が居たら、とりあえずなんでも自分のせいにしてしまおう。と、するのは男として仕方がない。

「とりあえず、戸笈をこのまま俺の家に置いておくわけにいかない」

「えっ……そんな……」

 まるで信頼していた人に、絶望の暗闇の中に突き落とされた、そんな悲しい表情を俺に向ける。日頃強気な表情しか見たことないだけに、その表情が不思議と愛おしく見えた。

「絶望するなら、最後まで話を聞いてから絶望しろ。女子の戸笈を男子の俺の家に置いておけるわけないだろう。でも、憶が今日は泊めてもいいって言ってるから、今晩は憶の優しさに感謝しろよ」

「ありがとう、麻直さん」

「ただし、親に電話の一本くらいはしろ。警察に捜索願とか出されたら問題が大きくなるからな。それに、心配してるはずだ」

「分かったわ」

 戸笈を部屋に残し、廊下に出ると憶がジーッと俺の顔を覗き込む。

「なんだよ」

「戸笈さんには随分優しいな~って思って」

「別に戸笈に優しくしたつもりは全くないんだが」

「そうかな~」

 そう言いながら、憶は両手を体の前で握り、俺の顔を見上げる。

「記はさ、私が保柄くんに告白されてどう思った?」

 憶の疑問に俺は素直に思った事を返す。

「もったいないな、と思ったな」

「何それ」

「期裄はいい奴だ。あんないい奴は俺が生きてきた中で期裄だけだ。だから、期裄と付き合ってたらきっと憶も幸せだったのにな。とは思ったな。そういえば、なんで期裄の告白を断ったんだ?」

「私、好きな人、居るし」

「ちなみに、誰だ?」

「言わない」

「そうか」

 憶に好きな奴が居るのは、期裄の話を聞いて知っていた。そして、興味本位で聞いてはみたが、サラリとかわされてしまう。

 だが、憶の好きな奴が誰だろうと関係ない。もし、憶の好きな奴がいけ好かないクソ野郎だったら断固反対する。でも、憶はあれでいて人を見る目はある。だから、憶が選んだ相手なら憶もきっと幸せになれるだろう。

 そもそも憶が好きな奴とか付き合う相手について、俺が何かを考える必要なんてない。憶の人生なんだから憶が決める。逆に付き合う相手について俺に聞いてきたら「自分で真剣に考えろ」と追い返してやる。

「記はさ、私が家出したら泊めてくれる?」

「まず、憶の家がもめる事態を想像出来ないが、いくらでも泊めてやる。それに、憶のお父さんお母さんに俺が話してやる。憶はくだらない事で人に迷惑を掛けるような奴じゃないからな。だったら、家出するようなことがあるなら問題は親にあるはずだ」

「記……」

「ん? どうした?」

「好き」

「…………」

 視線の先には、俯いて表情の見えない憶が、俺の右手を両手で包み込んでいるのが見える。右手に伝わる振動で、憶の手が震えているのが分かる。

 でも、憶の言葉を理解出来ない。

 いきなり、好きだと言われた。という事は、憶は俺が好き? 憶の言っていた好きな人は俺? いや、でも今までずっと一緒に居て、そんな素振りなんて一切見せていなかったじゃないか。今まで一度も、俺の事が好きなんて分かるような事を一つも……。

「好き、記の事が好きなの……」

「憶? ちょっと待てって、とりあえず今は――」

「待てないよ、待ったら、待ってたら、記は私の事忘れちゃうじゃん」

 憶の言葉が、涙する憶の表情が、俺の心を砕いた。スッと血の気が引く感覚を味わう。

「ずっと記の事が好きだった。でも、好きだって言ったら幼馴染みの関係も崩れちゃう気がして、凄く怖かったの。でも、保柄くんに告白されて分かったの。このままじゃダメだって」

 涙声で言う憶の顔から視線を逸らしたかった。でも、真っ直ぐ向けられた瞳からは、どうしても目を背けられなかった。

「記憶を失う前に伝えて、記の気持ちを聞きたかったの」

「…………憶、今すぐに答えを出さないといけないなら、ごめん。今はっきり憶の事が好きだと言い切れないから、受け入れる事は出来ない」

「そっか……」

 俺にとって憶は、普通の女友達という括りではない。特別な存在出だし、憶には幸せになってほしいと思う。そして、憶を傷付ける奴がいたら絶対に許さない。でも、それが憶の事を好きだから生まれる感情なのかと言われれば、そうだと言い切れない。

「記の記憶が無くなるって聞いて、凄く怖かった。私の事を忘れるって思ったら、堪えられなくて……。ねえ記、どうして、記なの? 記は何にも悪い事してないじゃん。記は、記は……いつだって誰か大切にしてくれる優しい人じゃん。それなのに、なんで……なんで記が記憶を無くさないといけないのよ! どうして! 記が忘れないといけないのよ! 医療用AIなんて役に立たないじゃない! 凄いコンピューターなら、記が記憶を無くさないでいい方法も分かるはずじゃない! なのになんで! なんで記憶を無くすって言ったっきり何も言わないのよ! 私の大好きな人が、私の大切な人が居なくなっちゃうのに――」

 胸を打つ憶の拳がどんどん重くなる。

 俺は期裄と憶の心配を軽くする約束をしたはずだった。でも実際はどうだ? 目の前にいるのは体を震わせながらむせび泣く憶じゃないか。

 俺は憶に何を言えばいい? 憶に何が出来る? 俺も好きだと言えば良かったのか? 憶の気持ちを受け入れれば良かったのか? いや、そんな事を中途半端な気持ちで出来る訳がない。そんな事はその場しのぎでしかない。それに、そんな不誠実な事を憶に出来る訳がない。

「嫌だよ……忘れないで……記、私の事、忘れないでよ……」

 言葉の一つ一つが心を凍えさせる。体も動かない、言葉も出ない。どうにかしないと、と頭には浮かぶ。でもそこから先の答えは出てこない。

「憶ちゃん、温かいココアを入れたから、おばさんに付いて来て」

 憶の両肩を母さんが優しく抱いて、優しい声色でそう声を掛けた。憶は無言のまま頷き、母さんに支えられて階段を下りていく。その姿を見送った後、俺は全身から力が抜けた。でも、床に座り込む前に、俺は胸ぐらを掴まれてそれを阻止された。

「父、さん?」

 俺の胸ぐらを掴んでいたのは父さんだった。ジッと俺を見詰める父さんは、俺の胸ぐらを掴んだまま、勢い良く俺を右に引き倒した。

 完全に体の力が抜けていた俺は、その勢いに逆らうことが出来ず、右半身をフローリングに打ち付ける。

「いってぇな! 何すんだよ!」

「女の子を泣かせて何も出来ないのを恥ずかしいとは思わないのかっ!」

 起き上がろうとした俺の左腕に、父さんの振り抜いた右足が命中する。

 俺が左腕の激痛に悲鳴を上げたり、蹴りをしてきたりした父さんに文句を言ったりする前に、父さんは俺の上に馬乗りになって両手で胸ぐらを掴み上げた。

「お前は自分のために涙を流してくれる人間がこの世に何人居ると思ってる! 憶ちゃんはお前のために泣いてくれたんだぞ! そんな憶ちゃんの気持ちを軽く出来ないほどお前は情けないのかっ!」

 父さんが怒鳴るのは何時ぶりだろう。小学校の頃に門限を破って酷く心配させた時が最後だったかもしれない。そして、父さんが涙しているのを見るのは初めてだ。

「俺や母さんは大人だ。お前の親だ。心配を掛けられるのは親の勤めだ。でもな、憶ちゃんは違うだろ!」

「だったら、どうしろってんだよ! 適当な事言って安心させろってか? そんな事しても何の意味もないだろうが! それでまた憶が傷付く事になるんだぞ!」

「意味が無いと何もしなかったら、それこそ無意味だろうがっ!」

 父さんは荒々しく俺の胸ぐらから手を放し、俺に背中を向ける。そして、俺の部屋の扉をノックして中に入って行った。

 しばらくして、部屋から出てきた父さんは俺に視線を向けること無く用件だけ口にした。

「戸笈さんは今日はうちに泊まってもらう。お前はリビングのソファで寝ろ」

 そう言って、父さんは一階に下りていった。

 確かに、今の憶に戸笈の面倒を見る余裕はないだろう。だから、俺の部屋に入ったのも、戸笈に事情を説明して、戸笈の親とも電話で話をして了解を得たのかもしれない。

 体を起こして壁にもたれ掛かる。体も心もズキズキと痛む。

 ”意味が無いと何もしなかったら、それこそ無意味” 確かに父さんの言う通りかもしれない。俺は、色々と考えて行動しているつもりだった。でも、結局は何も出来ていない。何も意味を成していない。

 憶の告白に、憶の溢れ出した言葉に、俺は為す術がなかった。ただ、それらを聞く事しか出来なかった。辛うじて答えた告白への返事も何も考えてなかった。思いやりも配慮もない、ただ思った事を口にしただけの言葉だった。

 ズキズキと痛んでいた体の痛みが、少し時間が経ったせいか引いていく。しかし、心の痛みは消えることはなく、体の痛みが引いたせいで却って痛みが強くなった気がする。

 Tシャツの痛む胸の部分を乱暴に握り締めても痛みは消えない。でもこの痛みは結局、俺が無意味だったツケなのだと思うと、更に痛みが強くなった。


 いつの間にか外から差し込んだ薄明かりがリビングの床を照らしていた。

 今日も学校があるっていうのに、昨晩は一睡も出来なかった。いや、もしあれだけの事があって寝る事が出来ていたら、俺は俺自身の人間性を疑う。

 一晩考えても、出て来るのはどれだけ俺が酷い人間であるかくらいで、憶の気持ちを軽くする方法や、戸笈の問題を解決出来るような事は思い浮かばない。

 ソファの上で体を起こし、まだ薄暗い部屋を見渡す。早朝だからか少し肌寒い。

「おはよう」

「戸笈、寝られたか?」

「いえ」

「俺も同じだ」

 リビングの入り口で、右手で自分の体を抱く戸笈が、細い声で言った。目元に隈は無いが目に元気は感じられない。

「隣、いいかしら?」

「ああ」

 ソファに座って戸笈にスペースを空けると、戸笈は空いたスペースにゆっくりと腰を下ろした。

「迷惑を掛けてごめんなさい」

「こっちこそ、男の部屋に寝かせて済まなかった」

「元はと言えば、私が家を飛び出してきたのが悪いの。貴方が謝る必要は無いわ」

「転校、するのか?」

「嫌よ、絶対転校なんてしないわ」

 その声だけには断固とした意思が感じられた。まあ、家を飛び出してくるくらいだから相当嫌なのは分かっていた。だから驚きはしない、それに戸笈が結構頑固な性格であることはなんとなく分かってきていた。

「で? 具体的にどうするんだ? 説得するのか?」

「話し合いで解決出来れば家出なんてしていないわ」

「まあ、そりゃそうだよな」

 もし、戸笈の両親も戸笈と同じように頑固な性格だったら、話し合いをしたとしても互いの意見がぶつかっていつまでも平行線のままになりそうだ。誰かが間に入って仲介役をやらないといけないのだろうが、それが出来る人が居なかったから今回みたいな事態に陥ったのだろう。

「貴方は、私が転校した方が良いと思う?」

「それは、俺からは何も言えないな。例えば俺が転校しろって言ったら転校するってものでもないだろ? それに転校先の学校がどんな所かも分からないしな。そもそも、他人の人生を左右する事を他人が決めていいわけないからな」

「貴方は、もう既に他人の人生を何人も左右させてるわ」

「はあ? 何時俺がそんな大それた事したんだよ」

「自分の自覚あることだけが他人に影響を与えているわけではないわ。貴方がこうして座っているだけでも、他人に影響を与えているのよ」

 ほのかに笑った戸笈はその綺麗な顔を俺に向ける。

 薄明かりに照らされる透き通った肌は色が抜けるほど白い。しかし、光りに照らされた戸笈の肌は目映く輝いていた。元気のない瞳は愁いを帯びて、彼女の色気が格段に増していた。艶やかに潤う薄紅色の唇の間から、フッと甘いと息が咲いた。

 戸笈以外の全てが色彩を無くし、彼女の美しさに身を隠す。それくらい、目の前に居る彼女は美しかった。日頃の凜とした彼女ではなく、弱々しく可憐な彼女、それが今、俺の瞳だけに映っている。

「おはよう」

 母さんの声が聞こえたおかげで、音まで消し去ろうとしていた戸笈の美しさをギリギリの所で振り払えた。彼女の美しさに飲み込まれ掛けた自分を恥じ、鼓動が跳ね上がって胸を激しく打つ。

「おはようございます。昨晩はご迷惑をおかけしました」

 戸笈は立ち上がり、深々と母さんに頭を下げる。母さんはニッコリ笑って戸笈に両手を振った。

「いいのよ、戸笈さんくらいの年だったら色々悩む時期だものね。朝ご飯はトーストで良いかしら?」

「あ、お気遣いなく。すぐに家へ――」

「朝ご飯を食べてから帰った方が準備もし易いと思うわよ? それに、娘が出来たみたいで嬉しいの」

「すみません。では、お言葉に甘えさせていただきます」

 母さんはニコニコ笑って台所に消えていった。俺は立ち上がったままの戸笈を見詰め、胸に手を置く。

 母さんが朝食の準備を始めてすぐ、父さんも起きてきて、戸笈は父さんにも深々と頭を下げた。父さんは戸笈に気にしないでほしいという事を伝えた後、俺を一瞥して何も言わずにテーブルに着いた。

 朝食は簡単なサラダと目玉焼き、トースト、あとはインスタントのコーンスープだった。それぞれ席に着いて、母さんと戸笈は楽しそうに会話をしている。その会話に時々俺も参加させられるが、父さんは無言を突き通し早々と食事を終えた。

 朝食を終えて戸笈が帰り支度をしようとして居たとき、家のインターホンが鳴った。

「はい、真狩です」

 モニターに駆け寄った母さんが応対する。そして直ぐに戸笈の方に視線を向けた。

「戸笈さん、お母様がお迎えに来られたわ」

「……はい」

 朝食を経ていくらか明るくなった戸笈の表情が曇った。荷物を持って玄関に歩いて行く戸笈に母さん父さんがついていく。俺はその数歩後ろを付いて行き、離れた所から戸笈の様子を眺めていた。

 玄関に下りて母さんが玄関の扉を開いた瞬間、視界が白銀の雪景色に染まった。

 圧倒的な冷淡さを体全身に叩き付けられる。玄関の向こうに居る人は、体全体からそんなプレッシャーを放っていた。しかし、冷たさと静けさを持ち合わせながらも、息が詰まる綺麗さを持っていた。その人が戸笈の母親であることは理解出来た。

「朝早くにお伺いして申し訳ありません。限の母です」

「いえいえ、真狩記の母でございます」

 母親同士が深々と頭を下げ合う、そして、戸笈が玄関から踏み出して自分の母親に近付いた瞬間、住宅街に耳を刺す衝撃音が響いた。戸笈は、頬を赤くして自分を平手打ちした自分の母親に冷たい視線を向ける。

「限、真狩さんに謝りなさい」

「ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」

 白い頬の片側だけ朱に染めた戸笈は、スッと頭を下げた。その時、目尻からキラリと煌めく雫が散る。それを見て、俺は胸を抉られるような締め付けられるような、そんな苦痛を感じた。

「本当に娘のわがままでご迷惑をお掛けしました。今後はこのようなことが無いように、言い聞かせます。本当に申し訳ありませんでした」

 戸笈は、母親に連れられて黒塗りの高級車の中に消えていく。何か言葉を掛けてあげないといけないような気がした。でも、ここからでは声は届かない。窓越しに彼女と目が合った。赤くなった戸笈の目を直視出来ず、俺は視線を口元に下げる。俺が視線を下げた瞬間、戸笈の口元が動いた。

「ありがとう」

 そう動いた気がした。でも、それを確かめる間もなく黒塗りの高級車は走り去った。

「記、戸笈さんは良い子ね」

「まあ、多少頑固だけど悪い奴ではないかな」

「記」

「ん?」

「憶ちゃんも戸笈ちゃんも、どっちも悲しませたら許さないわよ。女として」

 母さんの言葉は真っ直ぐ俺の瞳に向けられていた。それが何を意味するのかは分からない。でも、とりあえず、母さんが珍しく真剣に俺に何かを伝えようとしているのは分かった。

 家の中に戻って俺も学校へ行く準備を始めようとしていた時、家の電話が鳴った。その電話に慌ただしく廊下を走って出た母さんの声を聞きながら、俺は階段の一段目に足を掛けた。その時……。

 母さんが受話器を床に落とす鈍い音が聞こえた。


 この地域でもかなり大きな国立病院の一室に、俺は座らされていた。父さんは仕事を休み、倒れた母さんを見ている。だから、この場には俺と目の前に座る医者と背広を着た男性達しかいない。

「真狩記さん、こちらで経歴を調べた限りでは、あなたには事故の経験等はありません。頭に強い衝撃を与えた経験はありますか?」

「ありません」

「では、何か学校で悩み事はありますか? 虐めを受けていたり、耐えがたいショックを受けたり、そう言った精神的な負担を感じたことは?」

「ありません」

「脳の病気を患った方もご親族にはいらっしゃらないようですし、もう一度検査をしてみましょう」

 朝、戸笈を見送った後に家へ電話が掛かってきた。それは、厚生労働省管轄の難病研究を行う機関の人で「本日、真狩記さんの病気について検査を行わせて頂きます。今後の同疾患患者のためにもご協力をお願いします」そう言われた。それは、母さんの落とした受話器を拾い上げた俺が聞いた言葉だった。

 検査は、前に大げさに運び込まれた時にやったものと全く同じものだった。同じ事を二回もやる意味は分からないが、“同じような人が出たときのために”なんて言われたら断れるわけがない。

 こんな所で体を調べられることよりも、遥かに憶と戸笈の事の方が大事だ。

 期裄と約束した憶の気持ちを軽くしてやることもまだ出来ていない。それどころか更に重いものを背負わせている。それに、戸笈の事も何も解決してはいない。

 俺に出来る事はないのかもしれない。でも、何も出来ないと諦めてただ見ているだけで、もう居るつもりは無い。だけど、どっちもどうすることが最善なのか全く分からない。

 一ヶ月もあると思っていた時間は、今になってもう三週間を切っている事に焦りを感じるほど少ないと思えた。このただ次の検査を待つ時間が恐ろしく長く思えて、一日の残り時間が目眩を起こすほど早く浪費されているようにも思えた。

「やはりセシリアの診断通り先天的なものであるようですね」

「しかし、どんな検査をしても異常は見付かりません。脳関連の検査はやり尽くしましたよ」

「もっと設備の良い病院に移しましょうか?」

 険しい顔をする医者達をよそに、背広を着た男性は時計を頻りに気にしている。彼の目の前に置かれた資料は、一度も手を付けられていないのか綺麗なまま。

「時間、気になりますか?」

「次に重要な会議があるのでね。少し――」

「じゃあ帰れよ」

「はっ?」

「こっちはあんた達に呼ばれてきたんだ。学校も休んで前にやった検査と同じ検査して、前に聞かれた事と全く同じ事を聞かれて、ただ時間だけ使わされたんだ」

 いつもならただ過ぎ去るのを待っていれたはずだった。でも、もう、俺には時間がない。それを気付いてしまった。だから、焦らないなんて出来なかった。

「こっちは真剣に時間を使ってるんだ。あんた達みたいにただ過ぎ去るのを待ってるんじゃないんだ」

 何を偉そうに言っているんだろう。俺だってただただ毎日が過ぎるのをただただ淡々と待っていたのに。彼等と同じように、時間を腐らせて捨てていたのに。でも、俺は気付いたから、時間に限りがあるのだと。時間は俺を待ってくれない、こうしている間にも段々俺と時間の間には隙間が空いていく。その隙間が広くなればなるほど、俺はその分の時間を無駄にしている。だったら、走り出すしかない。

「もうここには呼ばれても来ません。難病研究? 知った事か」

 目の前に置かれていた資料を、床に叩き付けた。

 紙が引き千切れる音。紙が散らばり空中を舞う音。その音は爽やかだった。

「俺の時間は俺のものだ」

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