5【日陰から見詰める日向は、酷く眩しく輝いて見える】
【日陰から見詰める日向は、酷く眩しく輝いて見える】
放課後、俺は俺を呼びつけた期裄と一緒にファーストフード店の窓際の席に座り、目の前に居る期裄を見据えた。
「で? いつするんだよ、告白」
「明日しようと思う」
「そうか、それともう一回確認するけど、何で俺の目の前なんだよ。告白ってのはムードの良い場所で、それも二人きりでやるもんじゃないのか?」
「いや、記に居てほしい。いいや、記に居てもらわないと意味がないんだ」
「言っておくけど、俺は持ってると恋愛運が上がるお守りじゃないからな?」
「そんなつもりで居てほしいわけじゃない。ただ、記は俺の友達で麻直さんの幼馴染みだろ。それに、俺は記と出会って一緒に居なかったら麻直さんに出会うことも出来なかった。だから、記に居てほしい」
なんだか、面と向かって友達と言われると照れくささを感じる。しかし、なんでまた俺が居ないといけないんだろう?
期裄は社交的だし度胸もあるから「一人で告白するの心細いから付いてきて!」なんて言うようななよなよした性格ではない。だから、俺が呼ばれているのも何か意味があるのだろう。
「で? どうやって告白する気なんだ?」
「普通に放課後少し時間をもらって、その時に告白しようと思う。放課後だから、もちろん学校の何処かでだけど」
「学校の中で告白に適した場所なぁ~」
告白する場所と言えば、教室、公園、屋上、体育館、非常階段だろうか? しかし、うちのクラスは放課後にもダラダラと残ってる連中が居るし、屋上は立ち入り禁止で、体育館は部活動生が出入りしている。という事は、選択肢として公園と非常階段が残っているが、雰囲気と人目を気にするなら公園だろう。しかし、放課後に公園まで連れ出すのは難しいかもしれない。この辺の近くに公園はないし……。
「場所は管理棟に続く三階の渡り廊下にしようと思う」
「なるほど、あっちは確かに放課後なら人通りは少ないかもな」
管理棟には専門教科の教室や職員室等が集まっていて、放課後はあまり一般生徒の出入りはない。それに最上階の三階ともなれば、更に人通りは少ないだろう。
「で? 俺は何をすればいいんだ?」
「ただ居てくれるだけでいい」
「そうか、まあ告白に関して手伝える事は何もないしな」
Lサイズのアイスコーヒーをストローでちびちび飲み始めると、目の前でコーラを一口飲んだ期裄が俺に視線を向ける。
「記はどうなんだ?」
「俺? いや、そもそも何がどうなんだよ」
「好きな人とか居ないのかな? と思って」
「俺は居ないな~なんだろう、ピンッて来る人が居ないっていうか」
「贅沢な奴だな」
「贅沢な奴って、そんなこと言ったら期裄の方が贅沢だろうが。今まで何人に告白されて断って来たよ。ほら、数えてみろ」
「俺の話になんでするんだよ。今まで告白してきた子は、俺とは多分合わない」
「モテる男はやっぱり言う事は違うな。俺も一度くらい告白されてみたいな~」
アイスコーヒーが入ったLサイズのカップも軽くなって来て、何か追加するかそれともこの辺で切り上げるか頭の中で考えていると、期裄が口を開いた。
「麻直さん、記の事を心配してる」
「…………分かってる。一応、幼馴染みだしな」
期裄が俺の事、いや、俺がセシリアに宣告された事に触れるのはこれが初めてかもしれない。
「記は知らないだろうけど、バンガローで夜、麻直さん、泣いてたんだぞ」
「そうか……」
「俺が知ってるのも知らないはずだ。戸笈さんと夜中に縁側に出て話してたから」
「ああ……」
「記、どうにか――」
「どうしろって言うんだよ」
俺の言葉は、酷く冷たかった。
「どうしようもないだろ。医者はさじを投げてるし、俺以外の人間はみんな俺を病人扱いする。しかも、もうすぐ死ぬ人間みたいな、腫れ物に触るような、そんな扱いだ」
「ごめん、一番辛いのは記だよな……」
「俺がきっと大丈夫だって言っても意味ないんだよ。そんな軽率な嘘を吐いたって意味ない。それに、一ヶ月後の俺はその嘘さえも忘れてるかもしれない。残されるのは、変な希望を持たされて突き落とされた憶だけだ」
これからが無い今の俺は、何を言っても忘れてしまえるからいい。でも、これからがある憶は、俺が言ったことを忘れる事が出来るまで覚えているだろう。覚えていられるから、覚えていてもいい事しか覚えさせてやりたくない。いっその事、俺の事を忘れされられるなら忘れさせてやりたい。
もし俺が、憶の立場だったら凹む。幼い頃から仲の良かったやつが、すっぱり自分の事を忘れてしまうのだ。ショックを感じるのは当然だ。覚めてる俺でもそう思うのだから、特に憶みたいな優しい奴はそうだろう。
俺だって、自分が記憶を失うなんて、的中率百パーセントのAIに言われたからと言っても信じられない。でも、それを否定する事も出来ないのも事実だ。俺は、根拠のない宣告を根拠なく否定する事しか出来ない。
だったら、記憶を失っても失わなくても差し支えなく動くしかないのだ。
「記自身はセシリアの宣告を信じてるのか?」
「信じてない。でも、可能性がゼロだとも否定出来ない」
「初めて、記の宣告の事を聞いたとき、俺はどうすればいいか分からなかった」
期裄は俺の視線を合わせない。手に握っている、コーラの入ったカップに書かれたファーストフード店のロゴをジッと見つめている。
「どう声を掛けたらいいか分からなかった。どう振る舞えばいいのか分からなかった。どう足掻いたらいいのか分からなかった。どう割り切ればいいのか分からなかった。でも、麻直さんは気丈に振る舞っていて、記本人も周りに心配を掛けないように振る舞っていた。だから、俺一人が弱気な考えになってるのが酷く恥ずかしくなった。でも、そんな二人のおかげで変わるきっかけをもらえた」
「俺の方は心配掛けないようにとか、他人の事を考えてたわけじゃないぞ。全部自分が嫌だったからしてたことだ」
「まあ、どっちにしても俺は麻直さんにも記にも感謝してるよ。記の目の前で言うのは不謹慎だけど、後悔したくない、そう思ったんだ」
後悔したくない。その言葉は期裄自身に向けられた言葉だ。俺のように記憶というものを失うという宣告を期裄が受けないとも限らない。だから、そうなって仕舞う前に、そう分かってしまう前に言いたい事、やりたい事を済ませておきたい。分かったときに焦ったり後悔したりしないようにしておきたい。そう思ったのだろう。
だけど、俺はそれを期裄だけに向けられた言葉に聞こえなかった。
一ヶ月後、いや、もう三週間を切っている。その残された時間を俺は本当にこのままただただ淡々と、日常を重ねていくだけで良いのだろうか? 何かやるべき事、やり残した事はないだろうか? そう、考えてしまった。
店内を流れる流行りのアイドルグループが歌う、明るい曲調の音楽を聴きながら、俺はしばらく考えた。でも、曲が終わり別の曲に切り替わっても、俺の中に答えは出ない。そして音楽は続く、ただただ淡々と単調に。
朝から雨が降っていた。あのキャンプの時と同じように、何かをやろうとすると雨が降る。あのときは俺が雨男だと憶に糾弾されたが、実際は期裄が雨男なのかもしれない。
大粒の雨が打ち付けるアスファルトの上を、川のように雨水が流れ、道路脇の排水溝に吸い込まれていく。小学一年の頃はこんな何の変哲も無い、雨の日の光景にもはしゃいでいたものだ。それを思い出して、酷くしょうもなく思い、そして溜まらなく恥ずかしくなった。
「今日の体育は男女混合になりそうだね」
「ああ、グラウンドが使えないだろうからな。まあ俺はどっちにしても適当に見とくよ」
「え~久しぶりにバレーしようよ! 中学の時は授業でも楽しそうにやってたじゃん」
「中学の時は中学の時だろ? 今は高校性だ」
「記ってトス上げるの上手いし、あのトスでスパイク打つとスカッとするんだけどな~」
「憶は中学の体育の授業なのに本気でスパイク叩き込んだり、変な回転のサーブ打ったりして男子も怯えてたしな」
「だって、加減したら面白くないじゃん! それに変な回転のサーブじゃなくて、あれはドライブサーブって言って――」
なにやらサーブについての説明を始めたがサーブの仕組みなんて聞いたってよく分からんし、実践もしないし出来ない。
実際、憶がバレーの実力をどの程度持っているか俺は知らない。憶が試合をしている所なんて見たこと無いし、部活の練習風景も見たことがない。せいぜい体育の授業でバレーが行われたときにやっている所を見たくらいだ。その時はやはり日常的にバレーをやっているから当然なのだが、一つ一つの動作にこなれた感があった。バレーの経験が体育の授業しかない俺とは比べるまでもなく上手くはあった。
でも、体育の授業なんてめんどくさいと思う俺とは違い、憶はバレーを楽しそうにやっていた。そこが、こなれてる以前に大きく違うところだった。
身振り手振りで説明する憶は本当に楽しそうで、いつもの口うるさい幼馴染みよりも少しだけ大きく輝いて見えた。
「ちょっと、ちゃんと聞いてる?」
「ああ、ドライブサーブだろ? でも説明を聞いたって俺にはそんなの出来ないからな」
「まあ、記は全く運動してないって言っても男子だしフローターサーブの方が格好いいかもね……」
「ん?」
バレー知識皆無の俺には全く分からない専門用語がまた出てきたと思ったら、憶は急に頬を赤く染めて俺の顔を見て固まる。
「ご、ごめん、ちょっと記がフローターサーブ打つところ想像しちゃって。……ぜ、全然似合わないから思わず固まっちゃった!」
「んだよ、どうせ俺はそのサーブも打てないくらい運動音痴だよ。第一、運動が誰にでも等しく出来るものだって考えがおかしいんだ。人には得手不得手ってものがあってだな――」
「はいはい、記の理屈っぽい言い訳はいいから」
「理屈っぽいって……。まあとにかく、そんなのは俺じゃなくて期裄に期待しろ」
「あ、確かに保柄くんなら! でも保柄くんはフローターサーブよりもジャンプサーブの方が似合いそうだよね!」
ニコニコと笑って話す憶。その憶の顔を見て、やはり憶の隣に立つ人間が期裄であったらいいと思えた。
俺は憶の幼馴染みだ。だが、幼馴染みであって保護者じゃない。だから憶の隣に立つ人間は憶自身が選ぶ存在だ。だけど、俺が知る男子の中で、いや俺が今まで出会ってきた男子の中で、期裄ほど憶に合った奴は期裄以外居ない。
俺は期裄の告白が上手くいけばいいと思う。そう心から思うし、俺にはそう心から思う事しか出来ない。
コートの数メートル後方に立ち、ゆっくり深呼吸をしてからバレーボールを前方の斜め上へ放る。そのバレーボールを追従するように助走を開始。斜め上へ上がるボールが自重による落下を開始し始めた時に体育館の床を蹴って跳躍した。スローモーションをリアルで見たかのような感覚に陥り、ジャンプの最高到達点で大きく体を反らし、勢いよく振り下ろされた右腕がバレーボールを捉える瞬間が見えた。
「キャー! 保柄くんカッコイイッ!!」
期裄の放ったなんかプロっぽいサーブは勢いよく俺達のコート内に叩き付けられて乾いた衝撃音を響かせる。
「あいつ、容赦ないな」
運動神経の良い期裄が味方の時は楽できる。しかし、相手に回るとめんどくさい。何がめんどくさいって再三俺を狙ってくるのだ。期裄は期裄で面白がっているみたいだが、めんどくさい。運動神経の良い期裄が打ったサーブを俺が処理出来るわけがない。
「記! よくボール見て!」
ほぼ女子全員が期裄に声援を送る中、ただコートに落ちるボールを眺めるしかないという醜態を晒した俺に憶の声援が飛ぶ。幼馴染みのその優しさが何故か今は優しさには思えない。余計に俺と期裄の差を表されたような、そんな気がする。
別に俺は期裄と張り合うつもりはない。期裄と俺を比べて優劣を判断しようとしてもそれは不毛な事だ。なんせ、俺と期裄は人間ではあるが同じ人間ではないからだ。
これが同じ物、例えば別々の店が作ったハンバーグに対してなら比べるというのは間違ってはいない。同じハンバーグだとしても使っている材料、味付け、見た目、そんなものが違ってくるからだ。でも、人間はものじゃない。だからそもそも人間に対して優劣を決定する事自体が間違っているのだ。
でも、人は等しく劣等感を持っている。だから、自分より才能のある者と自分を、そして他人を比較してしまうのは仕方ない。
本来なら男子は外でサッカーをやる予定だったが、土砂降りの大雨になってしまった為に、女子と一緒にバレーをやることになった。もちろん男子と女子では力の差もあるから混合でやるというわけにもいかない。それで交代でコートを使い試合をやっている。
チーム分けは適当だ。適当なのだが、期裄の所属するチームに運動部の生徒が固まってしまい、こっちに現役バレー部員が居ると言ってもやはり力量の差は如実に表れている。
「真狩、お前ってバレーやったことあるのか?」
「体育でやるくらいだけど、どうした?」
「いや、レシーブの構えとか様になってるなと思ってさ」
「ああ、よくバレーやってる奴がこうやってるからってだけの見よう見まねだ」
「そうか? 見ただけじゃそんなに簡単にやれないと思うけど」
身長が一八〇を超えるバレー部員が爽やかに笑って俺の肩を叩く。
「やられっぱなしは悔しいからな。なんとか一本は入れた――」
「ああ! もう見てらんない!!」
バレー部員の言葉を遮るように、聞き慣れた大きな声が聞こえた。その声の方に視線を向けると、腰に両手を置いて仁王立ちする憶が居た。
「私も入る!」
「おい、私も入るって今は男子の番だろう」
「ジッとしててもつまんないもん!」
「随分個人的な理由だな」
「記が情けないし!」
「随分個人的な攻撃だな」
「記はコテンパンにやられて悔しくないの!?」
「まあ、体育の授業だし楽しければそれで――」
「私は楽しくないしっ!」
そう言って、憶はネット前に立って相手チームに視線を向ける。どうやら本気で男子の中に混ざるらしい。
「確かに大差が付いてるから女子と言ってもバレー部員が入れば丁度良いだろう。再開するぞ~」
体育教師は憶の参加を軽く認めてしまいもはや憶を止められるものは何も無くなった。
「いい? あっちで注意するのは保柄くんと、前のサッカー部二人。それ以外は問題なし」
「注意ってネットでコート分かれてんのにどう対処するんだよ」
「普通なら男子の試合ならもっとネットは高いものなの。でも、これは体育の授業だから高さは一番低くなってる。それであの身長の高いサッカー部二人に打ち下ろされたら、こっちのチームで拾えるのはバレー部の佐藤くんくらいよ」
「憶は無理なのか?」
「バレー部じゃないにしても運動部男子のスパイクは難しいわね。拾えない事はないかもしれないけど」
確かに、試合が始まってからこっちのコートに打ち付けられるボールの発生源はサッカー部の二人か期裄だ。でも、注意すると言っても具体的にどうすればいいか分からない。
「とりあえず打たれるのは仕方ないわ。でもこっちのコートに打ち落とされる前にブロックするの」
「ブロックって簡単に言うけどな」
「大丈夫。私がネットのどこから打たれるか指示するから、そこに行って手を伸ばして思いっきりジャンプして。ちゃんと腕は前にちょっと倒すのよ。あとネットには触っちゃダメ」
「指示が多いな……」
「佐藤くんもよろしく」
「分かった。麻直が居るならかなり楽だな」
憶が後方に下がり、俺は右隣に居るバレー部佐藤に顔を向ける。
「なあ、憶が居たら楽って、あいつそんなに凄いのか?」
「麻直って女子バレー部のセッターだぞ?」
「せったー? なんだよそれ」
「作戦の指示をしたりするチームの司令塔だよ。それに麻直はめちゃくちゃ上手いぞ」
「そ、そうなのか」
いつも見ている憶はただ騒がしくてよく食べる印象しかない。でも、俺の知らない憶は周りから認められる凄い奴だったらしい。
「来るわよ!」
コートに響いた憶の言葉を聞いて、俺は正面に目を向ける。ボールを持っている期裄は俺の方を向いて、困った表情を浮かべた。どうやら憶が入って来たことによってやりにくさを感じているらしい。それに、あの強烈なサーブを打っていいのかも迷っているのだろう。だが、もし手を抜いたサーブを打てば憶は手加減したと言って怒るだろう。でも、期裄としては今日告白する相手にあんなえげつないサーブを打つのは気が引ける。
……なんでこんな何の変哲も無い、ただの体育の授業なのに心理戦が繰り広げられているのだろう?
意を決した期裄はジャンプサーブを放った。そのボールはものすごい速度で迫ってくる。俺に……。
「クッソ! 容赦ないな! ッ!」
腕に力を入れて上に向かってボールが弾かれるように腕の角度を調整する。そして、腕に当たった瞬間に激しい音が響き、ボールが当たった場所にしびれるような感覚が走った。全く相手が俺だからって手加減無しで打って来やがって。
「佐藤くん!」
俺が弾いたボールを憶がバレー部佐藤に向かってトスする。そのやや鋭角に放たれたボールに、バレー部佐藤の振り下ろした右腕がジャストミートする。
「うわー」
目でボールを追うことすら出来ず、衝撃音を聞いたと思ったら既にボールは相手コートに叩き込まれた後だった。思わず、バレー部二人の大人げなさに俺は乾いた声を漏らした。
「バレー部二人とかズルイぞ!」
「運動部二人と保柄くんで容赦ないボール打ってたんだからお相子よ!」
バレーでも口でも、憶は男子相手に臆する事無かった。いや、口の方はいつものことか。
その後、バレー部二人の大活躍により、一方的な展開だった男子の試合はそこそこの盛り上がりを見せた。そして、ラスト一本でこちらのチームが勝つというところまで来た。
「それにしても、憶って凄かったんだな。言うとおりの場所で飛んだら面白いようにブロック出来たぞ」
「そりゃそうでしょ。フェイントもやらないしバックトスで裏をかこうともしないんだから。レシーバーの動きと目線見てれば次にどっちに上げるかなんて誰でも分かるわよ」
「男子と女子の違いはあるけど、ゲーム中の視野と観察眼はうちのセッターよりも絶対にレベル高いよ」
「そ、そう? ありがとう」
素直に褒められて照れているのか、憶はそう短くお礼を言って視線を相手コートに向ける。
「記、ちゃんと拾いなさいよ」
「へいへい」
顔をこっちに向けずぼそっと憶が言う。これまでの得点の流れで多くは、俺が痛い思いをしてレシーブし、そのボールを憶が佐藤にトスする。そして、そのボールを佐藤が強烈なスパイクで打ち込むという流れだった。だから、今回もそれで行くという事だろう。体育の授業だという事を忘れていないか心配になってくる。
相手コートの端ではサッカー部の一人がサーブを打とうとこちらを見ている。そして、その手に持ったボールを空中に放り、ジャンプサーブを放った。
「マズイ!」
ボールの向かっている先は、明らかに俺の方向ではない。俺の後ろに居る憶の方向だった。
咄嗟に後ろに下がろうとしたが間に合わず、勢いよく放たれたボールは憶に当たった。
「イッタァッ!」
憶は弾かれて後ろに尻餅を突きながらも、ボールを天井に届くかというくらい高く打ち上げた。そのボールは俺の真上に落ちてくる。弾かれながらもボールを拾った憶の代わりに、このボールを斜め前に居る佐藤にトスしなければいけない。
上から落ちてくるボールに合わせて手を伸ばした時、体育館の床をダダダッと走る音が後ろから聞こえた。そしてその音を聞いてすぐ、体全身が震えるような怒鳴り声に限りなく近い激しい声が響いた。
「記ッ!」
俺はその声を聞いて、佐藤にトスしようとした手を後ろに向かって跳ね上げた。跳ね上げた反動で後ろを見上げると、スローモーションのように目の前の光景が映った。
俺の後ろを駆け抜けた憶が、俺の上げたボールに向かって跳躍している。そして、綺麗な体勢の憶は、その右腕をボールに向かって振り下ろした。
「…………」
体育館の音が消える。ただ一つ、体育館の床を跳ねるボールの以外。
「ったく! なんてボール打つのよ!」
自分の腕を擦ってサーブを放った男子を睨み付ける憶。
「憶、なんてボール打ってんだよ」
佐藤の放った一発目こそ本気の一撃だったが、あの後はちゃんと加減をして打っていた。しかし、憶の今の一発は手加減もなにもない本気のスパイクだった。バレーの事はよく分からないが、憶の表情を見れば本気で打ったことくらい分かる。
「だって、あんなボール打たれたらやり返したくなるじゃん!」
「そういう闘争心は部活には良いことかも知れないけど、今は体育の授業だからな」
「あっ……」
憶の気の抜けた声に俺は頭を抱える。どうやら本当に体育の授業だという事を忘れていたらしい。しかし、サーブを打たれた相手チームも楽しそうに笑っているし、まあ良かったのかもしれない。でも、相手チームでただ一人、期裄だけが険しい表情でこっちを見ていた。
あれだけ降っていた雨は、昼を過ぎた頃から弱くなり、放課後となった今では雲間から太陽の光が差している。そして、管理棟へ続くこの三階の渡り廊下で、俺は視線の先に居る憶と、その正面に立つ期裄に向けられていた。
吹き抜ける風は冷たい。その風を受ける二人の間には、なんとなく距離を感じた。いつも話している和やかな雰囲気ではない、緊張という違和感をひしひしと受ける。
「麻直さん」
「どうしたの? そんなに改まっちゃって」
いつも通りを装って笑顔を浮かべる憶。でも、その笑顔はぎこちなく、緊張を和らげるどころかより緊張を強くしている。
「俺は、麻直さんの事が好きです」
回り道のない、真っ直ぐな言葉。その期裄の言葉は、いつもの期裄らしくなく僅かに震えている。
期裄の言葉を受けた憶は期裄から視線を逸らすことなく、ゆっくりと頭を下げた。
「ごめんなさい」
たった六文字の言葉、それだけなのに重く感じた。自分の事ではないのに、感じたくない二人の感情まで伝わったように思えた。告白を断られた期裄、告白を断った憶、二人の重い思いが心にのしかかる。胃を思い切り下に向かって引っ張られているような錯覚を感じ、俺は渡り廊下の手すりに体を寄りかからせた。
「そっか、ありがとう」
「本当にごめんなさい。保柄くんの気持ちは嬉しいけど、私じゃその気持ちには答えられないから。本当にごめ――」
「謝らないで。こっちこそ変に気を遣わせてしまってごめん」
「うん」
傾いた陽の光りが雲間から二人に降り注ぐ。その光景はまるで映画のワンシーンを切り取ったかのように、ロマンチックだった。告白は失敗したのに二人の間にさっきの緊張や微妙な距離は無く、今まで通り、いや今まで以上に近い存在のように見えた。それが、羨ましく思えた。
陽の降り注ぐ二人に対して、俺は校舎の影でただ遠くから二人を見る事しか出来ない。この距離は物理的には大した距離じゃない。でも、心の距離というか、目に見えない俺と二人の距離は明らかに離れた気がした。
「じゃあ、私は部活があるから」
「ああ、時間を作ってもらってありがとう」
「ううん、全然! じゃあ、また明日ね。記もちゃんと真っ直ぐ帰るのよ!」
「お前は俺の保護者か! 心配しなくても真っ直ぐ帰るよ。憶の方こそはしゃぎすぎて怪我するなよ」
「分かってるわよ! じゃあね」
大きく手を振って去って行く憶を見送ると、期裄が俺の方に歩いてきてニッコリ笑った。
「振られた」
こんな時、どう声を掛ければいいのか分からない。それに、日陰に居る俺と日向に居る期裄との間にある影と光の境界線が、言葉まで遮ろうとしているように思えた。
「頑張った」
絞り出た言葉はそれだけだった。それしか思い付かなかったし、それを言うだけで精一杯だった。
期裄は失恋はしたが、その傷が癒えた頃にまた新しい恋をするだろう。憶だっていつかは誰かを好きになり恋をするだろう。それはやっぱりこれからがあるからこそ、未来があり、未来には希望を抱く事が出来る。でも、俺にはこれからがなくて未来が無い。それを考えた途端に言葉が上手く出なかった。無い未来に希望を抱く事は出来ない。だから……。
俺には希望がないのだと、その時初めて思い知った。
濡れたアスファルトの上を歩く二人。俺と期裄は終始無言でただ足を進めている。雲はすっかり消え去り、沈み欠けた太陽が必死に力を振り絞って光りを降り注がしている。そして、その陽の光りに照らされた期裄が爽やかな表情で口を開いた。
「なあ、麻直さんって好きな人とか居るのかな?」
「全く分からん。俺は憶はうるさくてよく食べるくらいしか知らんからな」
「幼馴染みの記が分からないんじゃ、俺が分かるわけないよな」
クスリと笑った期裄は何時も通りの口調でそう言った。
違う、俺は知らない事だらけだ。
憶がバレー部で頼りにされている事も佐藤から聞かなければ知らなかった。憶が告白に対してあんなに真摯に答えられる大人っぽさがあるなんて知らなかった。
「幼馴染みだからって、なんでも知っているわけじゃないからな」
「でも、正直言うと体育の授業を見て俺は告白ダメだと思ったよ」
「なんで体育の授業なんだよ」
「あのバックトス、記以外じゃ出来ないんじゃないか?」
「は? あんな怒鳴り声なんて聞いたら誰だって出来るだろ」
「記、気付いてないかも知れないけど、お前“麻直さんの声が聞こえる前に”バックトスの体勢に入ってたぞ」
「え?」
「それにさ、麻直さんは記の方一切見てなかったんだよ。レシーブして後ろの倒れた後すぐに立ち上がって、ネット際に走ってた。それで、出た言葉が記の名前だったんだよ。記も、麻直さんがやられたままで終わるような子じゃないと思ってただろうし、麻直さんも記が拾いに入るって思ってたんだ。そんなのよく知ってる幼馴染みってだけじゃ出来ないだろ?」
「いや、それはないな」
期裄の言葉にそう言い切った。打ち上げた方向は俺の方だったからおそらく俺が入るだろうと思っただろうし。動作が先だったか名前を呼ばれるのが先だったのかも、期裄にそう見えただけだった。だから、俺と憶が言葉を交わさず行動の目的を一致させるなんていう、一卵性双生児のテレパシーみたいな事は出来ない。
「記、さっき麻直さんに好きな人が居るのかって聞いただろ? それで俺には分からないって言ったけど、あれは嘘だ」
「嘘って、じゃあ憶に好きな奴が居るの知ってて告白したってのか」
「そう。だけど記には誰か言わないでおこうと思う。麻直さんが言ってないって事は、麻直さんがまだ言いたくないって事だからな」
「ああ、まあ俺に言っても仕方がないからな。俺は人の恋に協力出来るような能力も人脈もないからな。相談するならどっちかといえば期裄にするだろ」
「そっか、まあ記がそう思うんだったらそうなんだろうな」
陽が陰り、街灯が点いた住宅街の一本道。空は僅かに残った陽の光りで明るい。陽が沈んだと思った瞬間に、急に肌寒く感じる。
「記、ごめん」
「どうした?」
「これで記の記憶に関する話をするのは最後にする。だから許してくれ。……記憶を失う前に、もう一度、もう一度しっかり麻直さんを見てほしい」
「どうして、そこで憶なんだよ」
「記の記憶の事で一番心配してるのは麻直さんだ。だから、もう一度しっかり麻直さんを見て、出来るだけ麻直さんの気持ちを軽くしてあげてほしいんだ。出来る事なら俺がそうしたい。麻直さんの気持ちを軽く出来るならやりたい。でも、それだけは俺には出来ないんだ。記にしか出来ないんだ」
俺はどんな顔をしていただろう? 少なくとも驚いてはいたと思う。
期裄は何でもそつなくこなせる人間だ。勉強も運動も人間関係も、全部無難にこなしてしまう。だから期裄が何かに失敗したり何かを間違ったりした所を見たことが無い。だから、告白を失敗した時も驚いた。でも、俺は目の前の期裄を見て驚いた。
期裄が、涙を流しているのだ。
「辛そうにしてる麻直さんを見るのは俺も辛いんだ」
「いや、俺には全然普通に――」
「記に見せる訳ないだろ。一番記の事を心配してるんだぞ、その記に心配を掛けるような事をするわけない」
憶が俺の記憶喪失宣告について動揺しているのは、期裄がバンガローに泊まった夜に見た事を聞いて分かっていた。だから、俺に見せている憶の表情は、普段の憶を装っている憶の表情なのだ。
あいつが表情を装うなんて似合わない。あいつは、もっと感情を露骨に恥ずかしげもなく表現するのが似合う。それに、あいつが俺に気を遣っていた事、俺の顔色を窺って笑っていた事、それがもの凄くムカついた。
「俺は期裄みたいに上手くはないぞ」
「俺は上手いわけじゃない、無難なだけだ」
「無難も出来ない俺に対する嫌みにしか聞こえないな」
「記は無難が出来ないけど、真面目だろ。いつも真剣に物事を考えてる。普通の奴が行き当たりばったりで済ませることも、記は先の先まで考えてる。だから、記は今を生きるのが苦手なんだ」
褒められているのか貶されているのかよく分からない。だけど、期裄は求めている。あのなんでもこなす期裄が、自分に出来ない事を俺に求めている。
具体的に何をすればいいのか分からない。でも、何かやらなければいけない。
俺はもう、一ヶ月もせずに今日の期裄の告白を忘れるだろう。今の期裄との会話も、期裄の願いも忘れる。
期裄の言葉を借りれば、俺は先の先を考える人間らしい。そして、今を生きるのが苦手な人間なんだそうだ。だったら俺は。
今、精一杯期裄の願いを叶える努力をしよう。期裄に今を生きるのが苦手な人間なんてもう言われないように。それに、初めて涙した期裄のために。
期裄と分かれ、すっかり暗くなった歩道を歩く。空を見上げると、綺麗な空気の場所と同じにはいかないが、チラチラと弱々しく瞬く星が見える。俺はロマンチストではない。でも、空を見上げて星が見えれば立ち止まるくらいの感情はある。
「俺は、どうすればいいんだろうな」
空に向かってそう呟いても、誰も答えてはくれない。
期裄の願いを叶えよう、そう思ったものの、具体的に何をすればいいのか分からない。憶の気持ちを軽くしてやれる力なんて、俺にあるとは思えない。でも、期裄のためにもそうすると決めたのだから、俺は残された時の中でその答えを見付けなければいけない。
一ヶ月なんてものは淡々と過ぎ去るものだと思っていた。
何時も通り期裄や憶と学校に行って、何時も通り期裄や憶と学校でそれなりに楽しい時間を過ごして、何時も通り家で父さんや母さんと過ごす。それの繰り返して、一月を終えるのだと思っていた。
でも、実際は、まだ一ヶ月も経っていない一週間の間に様々な事が起こった。
「出来れば、トラブルに巻き込まれないってのが理想だな」
顔を空から正面に向け歩き出すと、いつもの登下校路にある古びた公園が見えてきた。俺はなんとなくその公園の前で立ち止まり、そっと中に足を踏み入れる。
もう陽が落ちて暗くなっているせいか、公園で遊ぶ子ども達の声は聞こえず、シーンと静まり返っている。
足を踏み出して公園の奥に足を進めると、公園の端にあるベンチに人影があるのを見た。そして、その人影は遠くからでも誰だか分かる独特の雰囲気を放っていた。
「戸笈?」
俺が彼女の名前を呼ぶと、彼女は顔を上げ、真っ直ぐ俺を見詰める。そして、ハッと駆けだしたと思ったら、胸にドスッと衝撃を受けた。
「お願いがあるの」
俺の胸に飛び込んで来た戸笈は、何時もの凜とした声色より少し弱さを感じる細い声で言った。
「今日、私を泊めてほしいの」