表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君を忘れる  作者: 焦げたナポリタン
4/10

4【燃え上がる者達と燃え尽きる誰か】

  【燃え上がる者達と燃え尽きる誰か】


 この数日かで気温は急に高くなってきた気がする。今までは肌寒いと感じていた窓から吹き込む朝の風も、今は涼しいと感じる。

 ベッドから起き上がり時計を確認する。今は午前六時を回ってすぐ、集合時間は八時だからまだまだ余裕がある。でも、二度寝をする時間はなさそうだ。

「記、憶ちゃん達とキャンプに行くんでしょ? 準備しなくていいの?」

 母さんが部屋の扉を開けて開口一番そう言う。まったく、ノックをするという習慣が身に付いていない。昔から母さんが部屋に入ってくる事をなんとも思っていなかったから、俺と同い年の奴らみたいに「プライバシーの侵害だ!」って言っていなかった。今更だが、少しくらいは口うるさく言っておくべきだったのかもしれない。まあ、今更言っても仕方のないことだが。

「まだ二時間もあるから余裕だって。朝ご飯を食べてからでも」

「そうそう、お弁当用意したから途中で食べて」

「あ~いいって言ったのに……」

 母さんがニコニコと笑いながら言う。が、俺はニコニコとしてはいられない。

 母さんの弁当の味は全く問題ない。寧ろメチャクチャ美味い。だが、問題なのは量なのだ。母さんは友達と遊びに行くとか、体育祭の昼休憩でクラスメイトと弁当を食べる、なんて言うと毎回えげつない量の弁当を作る。端的に言えば、よく三段の重箱型弁当箱一杯におかずやおにぎりを詰め込んでくるのだ。

「ダメよ、保柄くんのお知り合いのキャンプ場を貸してもらうんでしょ? うちはお弁当くらい出さないと」

 律儀というかなんというか、とにかく何かしなければ母さんの気が治まらないのだろう。まあ、昼飯の弁当くらいなら四人で手分けすれば処理出来ない量では無いはずだ。それに憶は食欲旺盛だし、何よりうちの母さんが作った弁当の処理をよく頼んでいるから慣れているだろう。

 ベッドから下りて、着替えをすませると直ぐにダイニングに降りる。テーブルの上には焼きたてのトーストとハムエッグ、そして簡単なサラダが置かれている。

「いただきます」

 焼きたてトーストを囓り、視線をテレビに向けて映し出されている朝の情報番組に意識を向ける。どうやら、与党が政策に関する決議を取ろうとして野党がそれに反対しているようだ。画面には怒号が飛び交う国会の映像が映し出されている。子どもの喧嘩かと思うくらいの幼稚な言い合いが全国ネットで報道されている。だが、結局はなんだかんだ言っても与党の意見が通るのだろう。世の中、そうやって今まで回ってきた。

 人一人の力は小さい。人一人の力で世界を変える事は出来ない。だから、人は集団を作って集団同士で争う。それが絶対的に悪い事だとは言えないが、少なくともテレビに映っている集団は幼稚であるとしか言えない。

「あら、今日の午後から雨が降るみたいね」

「んあ? あっ……ホントだ」

 相変わらず、大激怒しながらヤジを言った野党議員に掴み掛かかりそうな勢いで叫ぶ与党議員の姿が映っているが、画面の端に申し訳程度の天気予報が表示されている。その予報が正しければ、午前中は保つようだが午後から雨が降るようだ。パーセンテージが高いから大降りになるのかもしれない。

「せっかくのキャンプなのに残念ね」

「キャンプって言っても外にテント張る訳じゃないから問題ないよ」

「でも、花火やるんでしょ?」

「屋根があるところでやればいいよ。どうせ手持花火だし」

 お泊まり会の決行が即日決定された日の放課後、俺と期裄と戸笈はちょっと大きめのホームセンターに行って花火が置いてあるか見に行った。結果は少し時期が早いと思っていたが沢山の種類が置いてあって、とりあえず俺と期裄でお金を出し合って適当に買った。憶からどのくらいの量が必要だとは聞いていなかったし、多めに買っても憶のことだから全部消費してしまうだろう。という俺の判断だ。その買った花火は全部手で持って楽しむタイプで、打ち上げタイプの花火は買っていない。

「楽しんできなさい」

「まあ、かなり早い夏の思い出にしてくるよ」

 母さんは笑っていた。でも、やっぱり家族だからか、その笑いに影があるのが分かる。だけど、それは当然であり仕方のないことだ。俺だって、もし母さんが一ヶ月後に記憶を失うと宣告されて、母さんがどこかへ思い出作りに行くとしたら、素直に心から笑える自信はない。俺が平然としていられるのも、きっと俺が張本人であるからでしかない。深刻視するのは自分より周りなのは何事にでも言える事だ。だから母さんが無理に笑っていても仕方がない。

 朝飯を食べ終えさっそく準備に移る。まあ準備と言っても着替えを用意するくらい。多分トランプとか遊び道具の類いは憶が鞄一杯に持ってくるだろうから、俺が持っていったって本来の意味とは別の荷物になってしまう。

 キャンプ場までは最寄りの駅まで電車で行って、そこから期裄の知り合いであるキャンプ場の経営者の人が迎えに来てくれる事になっている。本当は近くまで迎えに来てくれると言ってくれたようだが、憶の希望で駅まで電車で移動する事になった。理由は、その方が旅行っぽいという事だそうだ。まあ、気持ちは分からなくも無い。

 きっと、憶はキャンプ場に泊まるという事だけではなく、キャンプ場へ向かう道中も楽しみたいのだろう。もちろん車移動でも楽しめるだろうが、電車に長時間乗る機会は多くない。日頃やらない事、出来ない事だからこそ、より一層楽しむ事が出来るだろう。

 鞄に着替えを詰め込みながら、俺は窓の外を眺めた。清々しいくらいの曇天だ。せっかくのお泊まり会なのに、なんていうと少し女々しく思われるかもしれない。でも、俺だってせっかく行くのだったら爽やかな晴れが良かった。

「でもまあ、曇天の日にキャンプ場に泊まるってのも思い出深いかもな」

 思わず笑ってしまう。きっと、憶に会った瞬間に「記が雨男なのが悪い」なんて言われるだろう。それに俺は「なんで俺のせいなんだよ」と言い返す。大体、こんな感じで間違いない。そんな俺と憶を遠目から期裄が見てニッコリ笑っているのだ。戸笈は……どんな顔をするだろう? 俺と憶のやりとりにため息を吐いて呆れるかもしれない。

 でも、俺はこの記憶も一ヶ月後には忘れるのだろう。


「記が雨男なのが悪い!」

「なんで俺のせいなんだ。天気に関係する事は天気の神様に文句を言えよ」

「まあまあ、別に雨が降ってもバンガローだから影響ないし」

 七時過ぎに早々と家までわざわざ来た憶に連れ出され、俺は早めに家を出た。途中で期裄と合流して三人で駅まで向かう。その道中でのやりとりだ。俺達のやりとりは、ほぼ俺が予想した通りの展開になっている。これは、俺の勘が良い訳では無く、単にみんなが単純なだけだ。

 空を覆う雲は真っ黒で分厚く、日の光りは見えない。今にも大粒の雨が降り出しそうで、周囲の空気は湿気が含まれているのが、肌に触れる風と鼻孔を通る空気で分かる。これは何時降り出してもおかしくない。

「せっかくのキャンプなのに~。遊べる川もあって夜には星も見えるんだよ! でも、こんな天気じゃ川で遊ぶのも寒いし、星も見えないし~」

「川は晴れててもまだ早いだろう、流石に……」

「それに花火だって~」

「大丈夫、屋根があるちょっとした広場があるし、そこでやれば雨でも花火は出来るよ」

「ほら、期裄がそう言ってるんだから大丈夫だ」

「ああ~せっかくのキャンプが~」

 視線を天高く向けた憶が頬を膨らませ、俺に視線を向けてまたそう言う。こうなったらもうどうしようもない。

「はいはい、もう俺のせいでいいよ。悪かったな雨男で」

 結構理不尽な責任の押し付けられようだったが、内心俺は嬉しかった。いや、責任を押し付けられたことが嬉しかった訳じゃ無い。こうやってぶつくさ文句を言う憶と、仕方なく折れる俺を、期裄が笑いながら見ている。それが、何時も通りで嬉しかったのだ。慣れ親しんだ三人の普通だったから、安心できて嬉しかった。

「ほら、戸笈さんを待たせるのも悪いし行こう」

「行こうって、まだ七時半にもなってないぞ。まだ来てないだろ」

「いや、俺は来てると思うな」

 期裄が先を急かし、立ち止まっていた俺を憶は再び歩き出す。

 駅まではもう五分と掛からない距離まで来ている。このまま行けば集合の時間まで約三十分早く着いてしまうという事だ。戸笈が十分前に来たとしても二十分は待たなくてはならない。だから家まで来た憶にまだ出るのは早いと言ったのに、憶が聞かないからこういう事になる。

 俺達の家がある住宅街から駅周辺までくると店も多いし人通りも増えてくる。土曜の朝だがスーツを着て会社へ向かう人もちらほら見掛けるし、俺達のようにどこかへ遊びに向かう様子の人も見掛ける。

 視線の先に駅舎が見えてきたとき、駅の目の前にある広場の中央、そこにある植木の側に佇む人影が見えた。

「ほら、俺の言ったとおりだっただろ?」

 勝ち誇ったように言う期裄と俺の視線の先に居るのは、戸笈だった。

 長い髪に白い肌と整った顔、そしてあの涼しげな雰囲気は確かに戸笈のものだ。だけど、いつもとは戸笈を見た時の印象が違った。足元はハイカットのスニーカーでピッタリとしたレギンス、それに首元が大きく空いたチュニックにデニムジャケットを羽織っている。頭には日差しは強くないがお洒落なのかキャスケット帽を被っている。制服姿しか見たことがないからか、いつもより少しだけ雰囲気が柔らかく感じた。それに、恐ろしく似合っている。

「戸笈さんおはよう! ごめんね、記のせいでこんな天気になっちゃって」

「おはよう戸笈さん」

「おはよう」

 挨拶する二人に戸笈はニコリと笑みを浮かべ挨拶を返す。そして、俺に視線を向けて首を傾げる。

「どうかしたかしら?」

「いや、なんか雰囲気がちょっといつもと違うなと思って」

「私を休日にも制服を着るような人だと思ったの? 一応、人並みにはお洒落に気を遣っているつもりよ」

「いや、変な意味じゃなくてだな」

 適切な言葉が思い浮かばない。いや、単に似合っているとかそういう褒める言葉を言えばいいのだろうが、そんなの恥ずかしくて言える訳が無い。

「カジュアルな服装も戸笈さんに似合ってるね」

「ありがとう、保柄くん」

「ホントホント、モデルさんみたい!」

 ああやって期裄みたいにサラリと褒められる人間の方が希有なのだ。だから、何も言えなかった俺は、男として普通であって悪い訳では無い。

 しかし、期裄と憶の言うとおり、似合っている。戸笈のイメージ的にはもう少しお嬢様系のファッションを好むのかと思ったのだが、カジュアルな服装が好きなのかも知れない。

「キャンプ場と聞いていたから動きやすい服装がいいと思って、いつも着る服とは少し違うから違和感はあるかもしれないわね」

 俺の視線を追って自分を見詰めた戸笈がそう言う。いや、違和感があるのは否定しないが、それは悪い意味の違和感ではなくて、単に想定外だっただけだ。

「それにしても、二人とも俺の知らないうちに仲良くなってたんだな」

 戸笈と憶が二人して楽しそうに会話しているのを見て呟く。

「うん、戸笈さんとは連絡先も交換してるし、昨日もテレビ電話で話したんだよ!」

「麻直さん遅くまで話すものだから、準備を終わらせるのが大変だったわ」

「ごめんごめん」

「でも、楽しかったから迷惑ではなかったのだけれど」

 二人が仲良くなった事は良いことだが、こんなにも簡単に仲良くなってしまうものだろうか? まあ男と女じゃそんなに簡単に打ち解ける事は出来ないが、女同士ならそうでもないようだ。そこが分からないと同時に、単純に羨ましいと思う。

「それにしても早かったな。まだ集合時間まで結構時間あったのに」

 俺はふと頭に浮かんだ疑問を口にした。そして、その疑問を向けた戸笈は俺と視線が合った瞬間、その視線を戸笈は逸らした。

「それは、道中に何かトラブルに遭って、待ち合わせに遅れるのは良くないと思ったから早目に出てきたのよ」

 何となく怒っている様に見える。でも、何に対して怒っているのかはよく分からない。期裄に視線を向けると、俺の方を見て何時も通りのニッコリ笑顔を向けている。すると、隣から憶が俺の脇腹に肘鉄を入れて耳元で小さく囁く。

「戸笈さん、楽しみだったんじゃないの?」

「ああ、なるほど」

 戸笈は今日のお泊まり会が楽しみで待ちきれなかったらしい。それを素直に言うのが恥ずかしかったから、さっきの怒ったような態度をとったのだろう。……まあ、俺も戸笈の立場だったら確かに言い辛いだろうから、怒りはしないが。それにしても、憶がすぐに戸笈の気持ちに気付いたのは、やっぱり憶も同じような性格だからだろう。そのせいでかなり早く家を出ることになったのだし。

「まあ、少し予定より早くなったけど、とりあえず切符だけでも買いに行こうか」

「そうだな、それ以外はやることもなさそうだし」

 まだ時間を潰せる店が開店する時間では無い。開いているとすれば、コンビニくらいだろう。

 駅舎の中に入り、切符売り場に向かう。流石に、高校生にもなって切符の買い方を知らないという訳でもないから大した手間は掛からなかった。それぞれ切符を仕舞って再び駅舎の前に出てくると、憶が背伸びをして俺達の方を振り返った。

「時間までなにしよう?」

「あと十五分程度くらいね」

 電車が来るまであと十五分。長いのか短いのか微妙な時間だ。どこか歩き回るにしていも足りないし、立ち話をするにしても少し長いような気もする。

「そういえば、泊まるバンガローの設備ってどんなものなのかしら?」

「そうだね、水道、ガス、電気とか最低限の物はあるよ。お風呂も沸かせるし簡単な料理くらいなら出来るはず」

「そう、では夕食は自炊が出来るわね」

「戸笈さんって料理出来るんだ! すごい!」

「ええ、一人暮らしをしているから多少は心得があるわ」

 見た目だけで判断するなら、戸笈は料理なんて出来そうもない。家事の全てを行う家政婦が最低二人は居るような、そんなお金持ちの家庭に生まれた一人娘、そんな印象だ。しかし、一人暮らしをしていて料理をしているというのだから、普通の女子高生よりは料理が出来るのだろう。

 技術革新で主婦が行う家事は格段に楽になっているようだ。一昔前は掃除機を人間の手で動かしていたが今は室内を動き回る掃除ロボットが主流だ。掃除ロボット自体は昔にもあったようだが、ゴミの回収能力は段違いである。料理も自動で作るとまではいかないが、料理に必要な洗浄、選別と成型、加熱、調味、盛り付けの内、洗浄、選別と識別、加熱、そして盛り付けはほぼ自動化出来ている。調味に関しては個人の好みもあるし、自動化は多分難しいだろう。

 しかし、ほぼ自動化されているとしても、その全てを行えるのはやっぱりそれなりの設備を導入できるお金持ちで、だから山奥にあるバンガローにあるとは思えない。

「貴方、本当に私に料理が出来るのか、そう思っている顔をしているわね」

 視線を俺に向けた戸笈が言う。何故俺の考えている事が分かったのかは分からないが、分かっているなら逆に尋ねるのに好都合だ。

「いや、山奥のバンガローに調理機械とかあるのかと思って」

「安心して、私は料理に機械はほとんど使わないわ。食材も自分で選んで洗って切るし、火に掛けるのも味付けも自分でやるの。だから最低限の調理器具さえあれば人並みには出来るわ」

 あまりにも戸笈が満面の笑みを浮かべるものだから背筋がぞっとする。絶対に怒っているのが分かった。憶相手なら移動時間でコロッと忘れてくれるだろうが、戸笈はそんな簡単に忘れるような人間には見えない。

「みんなそろそろホームに行っておこう。話している間にもうすぐ電車が来る時間になってる」

「よし! 行こう!」

「麻直さん、あまり走ると転んで怪我をするわよ」

「私はそこまで子供じゃないよ~」

「いや、間抜けだから危な――」

「ふ~み~?」

「なんでもない」

 空には厚い雲が覆っている。でも、前を歩く三人は明るい雰囲気に溢れていた。数歩後ろを歩く俺は、その雰囲気に強い安心を感じる。

 今日は、楽しい一日になりそうだと。


 電車に乗って目的の駅まで行き、そこから期裄の知り合いの車に乗って揺られ二時間くらい経っただろうか、そこで俺は背筋を伸ばす。最近の自家用車の乗り心地が良いと言っても、長時間車に乗っていれば背中も痛くなる。

「で? 期裄の彼女はどっちだ?」

「二人共学校の友達だよ」

 前から運転手である期裄の知り合いというか親戚のおじさんの質問が聞こえ、それに困った声で答える。まあ、親戚の高校性が女の子二人を引き連れてバンガローに泊まらせてほしいなんて言ったら、そういう想像に至るのは仕方ないだろう。

「そうなのか? 俺は後ろの賑やかなお嬢ちゃんはそこの兄ちゃんの彼女で、その隣の上品そうなお嬢さんはお前の彼女なのかと思ったぞ」

「違う違う、二人とも友達だって」

 ガハハッと笑いながら話すおじさんと困る期裄の会話を聞きながら、俺はふと窓の外に視線を向ける。いつも俺が過ごしているビル群とは違い、そんな建物は見えない。緑に囲まれた山々の曲線が遠くまで繋がり、民家よりも畑の方が多い。

 窓の外に向けた視線をずらすと、俺を見ていた憶と視線がぶつかる。すると、憶がはにかんだ。

「わ、私達、そ、その……恋人に見えるのかな?」

「期裄と憶よりも期裄と戸笈の方がお似合いに見えるからな。だから俺と憶が組まされたのは消去法による結果、つまりは余り者同士って事だ」

「ちょ、なんか私を売れ残りみたいに言わないでよ!」

「売れ残ってるのは事実だろうが、まあ俺も同じだけど」

 はにかんでいた憶はプイッと視線を向けて窓の外に向けてしまう。どうやら、余り者という言葉が良くなかったらしい。

「怒るなって、余り者って言ったのは悪かった」

「フンッ!」

 一瞬だけ、キッ! っと睨み付けてきた憶は再び窓の外に顔を戻す。これはどうやっても機嫌が直らないパターンだ。まあ、目的地に着いたらコロッと忘れてはしゃぎ始めるからいいが。

「よかったわね、幼馴染みの麻直さんと晴れて恋人同士になれて」

「人をいじってる戸笈も期裄と恋人同士になれてよかったな」

「あら? 妬いているの?」

「何に妬くんだよ」

「私が保柄くんと恋人同士に思われたことを」

「いいんじゃないか? 期裄は良い奴だぞ。気配りも出来て優しくて空気も読めるからな」

「そうね、貴方とは大違い」

「気配り出気ない上に優しくなくて空気も読めずすみませんね」

 涼しい笑顔を浮かべている戸笈は長時間車に揺られていても疲れを見せていない。日頃運動をしている憶と、ずっとおじさんの相手をしている期裄は置いておくとしても、戸笈はそこまで体が強そうには思えない。

「戸笈は車に長時間乗ってても平気なのか?」

「ええ、家庭の事情で幼い頃からよく車に乗せられていたから。一日車に乗っていろんな場所に移動するという事は多々あったし」

「そうか、俺はあんまり車に長時間乗るの慣れてないから背中が痛くて」

「そう? 大丈夫?」

 戸笈が首を傾げてシートから浮かせて伸びをした背中に触れる。細く綺麗な指先が俺の背中を撫でてなんだかくすぐったい。

「すまないな兄ちゃん、あともう少しだから辛抱してくれ」

「あ、大丈夫です!」

 どうやら前まで俺の声が届いて仕舞ったようで、おじさんが振り返らずに謝る。それに俺は体を前に乗り出して慌てながら謝る。バックミラー越しにおじさんの笑顔が見えてホッとしながら背中をシートに付けると、隣でクスリと笑う戸笈と目が合った。

「なんだよ」

「何にも無いわ。ただ、あなたが焦る所を初めて見た気がしたから」

「俺は逆に、戸笈が焦る所が想像出来ないな」

「それは当然よ。私、人前で取り乱すような失態は犯さないわ」

 微笑む戸笈になんだか途方もない敗北を感じて、それが途方もなさ過ぎて張り合う気さえ起きずに窓の外へ再び視線を戻す。

 いつの間にか、拓けていた田園風景から周りを木々に囲まれた山道に入っていた。空が生憎の曇り空だからか、山道は周りを木々に囲まれている事もあって薄暗い。そして、先は薄暗いせいで奥まで見通す事は出来ない。

 先の見えない道。そういう言葉が頭に浮かんだとき、少しだけ、ほんの少しだけ心に影が掛かった気がした。でも、その考えを振り払う。すると、周りの木々が途切れ、目的地のキャンプ場が見えた。


 外観はいわゆるログハウスに見える。丸太を組み合わせた外壁と、屋根は最近の家で使われているようなスレート屋根。森の中にある建物としては雰囲気に合っている。木製の扉を開けて中に入ると、普通の家よりも屋根が高く開放感がある。それに、内側は木の板が張り合わされた壁にフローリングと、壁が丸太剥き出し! なんて事を想像していた俺は拍子抜けした。案外、普通の家とは変わらない構造だ。

「わ~広いー!」

 憶が俺の脇からバンガロー内に突撃し、正面に見えていたソファーに腰掛けて高い天井を見上げる。天井の一部がガラス張りになっていて、そこから曇った空が見える。

「よし! さっそく遊ぼう!」

「遊ぶって言っても川はダメだぞ。雨で増水してるみたいだし、なにより寒い」

「分かってるわよ! 流石にこんな時期に水遊びはしないって」

「にしても、何して遊ぶんだよ。この天気で」

 空は厚い雲が覆い、いつ雨が降り始めてもおかしくない天気。そんな天気で川遊びはもちろん、近くの山へハイキングなんて事も、途中で雨が降ることを懸念したら実行に移すのは無理だろう。

「遠くまで行くのはちょっと難しいけど、キャンプ場内を散歩するくらいならそんなに遠くまで行かないから大丈夫じゃないかな?」

「よし! 散歩をしよう!」

「とりあえず荷物を置いてからな」

 中に入って、ガラス戸付近の邪魔にならなそうな場所に荷物を下ろす。空は曇っているもものの、森の中にぽっかり空いた空洞のようなこのキャンプ場から見える景色は綺麗だった。

 このバンガロー以外にも何棟か見える。そして、キャンプ場全体は綺麗に刈り揃えられた芝生の緑が広がり、その芝生の真ん中を人工の小川が流れている。技術が進歩しても、こういう景色は無くならない。いや、技術が進歩したからこそ無くならずに済んでいるのかもしれない。

「記、寝る場所だが女性組は二段ベッドをそれぞれ使ってもらって、俺達は床に布団を敷いて寝る、でいいよな?」

「ああ、女子を床に寝せるわけにもいかないし、それで大丈夫だ」

 期裄が軽く耳打ちしてそう言う。女子にベッドを使わせるというのは当然の判断だろう。気の利かない俺だってそうする。

「ほらほら! 二人共行くよ!」

「遊ぶことに関しては相変わらず行動が早い……」

 既に玄関に立って俺と期裄を急かす憶の声が聞こえる。憶の方に目を向けると、憶にガッチリ手を握られた戸笈が困り顔を俺に向けている。気の毒だが、俺は助けてやる事は出来ないぞ。


 玄関から外に出ると、都会とは違う澄んだ空気を感じた。曇っているのに嫌なジメジメとした湿気は感じない。もしかしたら、適度に風が吹いているからかもしれない。

 宿泊先のバンガローから出た俺達は、期裄の先導でキャンプ場の散歩を始める。小川沿いの歩道を歩いて、期裄の後ろを歩く憶が、隣にいる戸笈に、魚が居た、あの魚は美味しいのか? 水が綺麗。と、目に映って感じたままの感想を素直に告げる。戸笈は、多少憶の勢いに気圧されながらも、時折笑顔を浮かべて憶の言葉に応えている。

「ねえ、記はどう思う?」

「ん?」

「あの魚、煮付けにしたら美味しいと思う?」

「いや、川魚って塩焼きにして食べるものじゃないのか?」

 川魚は臭みがあると聞いたことがある。だから煮込むのはどうなんだろう? それに川魚の食べ方と言ったら、焚き火の周りに串を刺した川魚を並べて焼くくらいしか思い浮かばない。

「川魚も煮付けにする事は出来るけど、臭みがない冬の時期の物や清水で一ヶ月くらい飼育して臭みを抜いた物を使った方が良いらしいわ」

「そうらしいぞ」

 俺の代わりに詳しく答えてくれた戸笈から視線を憶に戻すと、憶は小川の中を泳ぐ魚を見詰めて言う。

「こんなに綺麗な水に棲んでるんだから、きっと大丈夫だよね」

「おい、食うなよ」

「あ、そう言えば今日の晩御飯は戸笈さんが作ってくれるんだよね?」

「違うぞ、憶。戸笈が主導だが皆で作る、だからな?」

「え~、だって私が作ったらハンバーグが炭になっちゃうし……」

「どうやったらハンバーグが炭になるんだよ。しかもそこまで行くんだったら、炭の前に火事になってるわッ!」

 俺も常日頃から家の手伝いをするようなタイプじゃないが、流石にハンバーグを炭にするようなことはない。だが、憶の話が事実なら憶を料理に関わらせるのはよくない。

「保柄くん、この辺りにスーパーはあるかしら?」

「少し山を下りたところに一軒だけあるね」

「では、食材はそこで購入しましょう

。貴方は荷物持ちね」

「いや、記は道を知らないから俺が行くよ」

「いいえ、地図をもらえれば問題ないわ。それに保柄くんは宿泊場所を提供してくれたのだから、ゆっくりしている権利があると思うの」

「まあ確かに、期裄が居なかったら実現しなかった訳だしな~」

「それに計画の発案者である麻直さんと宿泊場所提供者の保柄くんを覗いたら、貴方は何もせずに付いてきているだけよ」

「いや、昼飯の弁当を――」

「それは貴方のお母様が作られたもので、貴方の功績は一ミリもないわ。これから先、他に役に立てそうな場面があると思う?」

 確かに、戸笈の言う通り俺は現時点で何も役に立ってはいない。そして今後役に立てそうな場面があるとも限らない。それに荷物持ち程度なら断る理由はない。

「どうせ暇なんだったら皆で行けば行けばいいんじゃないのか?」

「そうだよ! みんなで行った方が絶対に楽しい!」

 日頃は買い物なんて特に楽しさを感じる事ではない。特に、晩飯の材料の買い物なんて尚更だ。しかし、住み慣れない土地に友達と一緒に訪れている今の状況なら、多少の楽しさを感じる事が出来る。特に、憶みたいな奴だとそれは大きいだろう。

「じゃあ、キャンプ場の散策が終わったら少し休憩して行こうか」

 期裄はそう言って、憶と戸笈に周りに見える景色について話を続ける。

 こうしてみると、戸笈はもちろん期裄は顔もいいし、憶も人気があるだけのことはあって愛嬌がある。そんな三人に加わっているのが俺だという事に違和感を覚える。憶とは幼馴染みだから、期裄とは中学時代になんとなく馬が合ったから。そんな理由でこんな関係を続けてきた、続いてきた。でも、はたして、その関係の根拠に俺は居たのだろうか? 俺がなにかこの二人との繋がりを強める要因になれていたのか? そう考えると答えは出ない。

 記憶が無くなるという宣告をセシリアから受けた以上、世間一般的に見れば俺は普通の人間ではない。でも、それ以外は普通で特技もない人間なのだ。欠点ばかりであるとまでネガティブであるつもりはないが、良いところがないくらいまでのネガティブさは自分に感じる。

 彼ら彼女らはこれからがある。でも、俺にはこれからはない。少なくとも、一ヶ月後の俺にはこれからが、未来がないのだ。そこから新しい俺が始まると言えば聞こえはいい。しかし、“そこから”先には今の俺は居ない。

 直視しては居なかった。いや、直視しないようにしていた。でも、それを見ることは避けられることではないし、目を背ける事は許されない。

「記~ボーッとしてないで行くよ!」

「あ、ああ、あまりはしゃぐと怪我するぞ」

 いつの間にか距離が空いて遠く離れて行ってしまった三人の輪から、憶がブンブンと手を振って俺の名前を呼ぶ。それを聞いて、俺は止まっていた足を前に進めた。


 キャンプ場の散策を終えてから夕飯の買い出しの溜めにキャンプ場を出た。目的地のスーパーは、ぐねぐねと蛇行した山道を一番下まで降り、そこから十数分田んぼの中を歩いた先にあった。見た目は普通の街にあるスーパーと変わらない。ただ、スーパー以外の店が周りに見当たらない事に違和感を抱くくらいだろう。

 スーパーの中に入った途端、戸笈は買い物かごを手にとって食材を選び始め、ジャガイモにタマネギ、にんじん、牛肉、そしてカレールーを次々と入れていく。メニューは間違いなくカレーライスだろう。確かに、カレーライスなら次の日の朝でも食べられるから次の日の朝飯用の材料を買わなくてもいい。それに、なにより重要な料理の味を左右する部分がカレールーであることもポイントだ。砂糖や塩、醤油等の調味料を入れて味付けをする料理と違って、既に味として完成しているカレールーを使うカレーライスは失敗がほぼない。カレールーの好みの問題はあるだろうが、隠し味だ! なんて言って変な物を入れない限り最低限の味の保証はされる。それに、料理が上手いのと誰にでも好まれる料理が作れるというのは違う。人それぞれ好みは違う物だからだ。しかし、カレーが大抵の人が作っても問題ないというのはある一定の料理スキルがある人に向けられる物で、料理なんてしたこともない人間が作れば酷い味になるのは間違いない。

「カレーの他にはやっぱり栄養のバランスを考えるとサラダかしら?」

「いや、カレーだけでいいんじゃないか?」

「そう? カレーにも野菜は入っているけれど、それでは足りないと思うのだけれど」

「まあ、野菜洗って盛り付けるだけだけなら憶にも出来るし、多少は活躍する場も作っておくか」

「ちょっと! 私のその低評価はどういう事よ!」

「自分で言ったんだろ。料理が苦手だって」

「そんなに上手くないけど、最低限の料理スキルくらいあるわよ!」

 最低限の料理スキルがあればハンバーグが炭になる事はないのだが……。そもそもハンバーグを炭にするってどういう調理の仕方をしたら出来るのだろうか? 直接コンロで火に掛けたりしない限り方法がないように思える。

「カレーとサラダだったら何かスープ系もほしいな。あ、このインスタントのコーンスープも買っていこう」

 ムキーッと猫のように俺を威嚇する憶と、その憶に呆れる俺の間にひょこっと顔を出して、期裄が言う。それで納得しない表情はしていて両腕を組んで頬を膨らませてはいたが、憶は引き下がった。

「なあ、あの子めちゃくちゃ可愛くね?」

「だよな、この辺の子じゃないから旅行で来たのかな?」

「声かけてみようぜ」

「いや、ムリムリ! 俺達なんて相手にしてくれないって」

 少し離れた所で俺達と同じくらいの年齢に見える男二人が、戸笈を遠巻きに見ながら言う。確かに戸笈は見た目通り美人だから男の視線を集めてしまうのは仕方が無いかもしれない。

「あの子の隣の子も可愛いよな。あっちの子なら俺でも」

 更に、戸笈の側に行った憶を見て感想を述べる。まあ確かに、戸笈よりも親しみやすさがある分、戸笈に話し掛けるよりも憶に話し掛ける方がハードルは低く感じるかもしれない。

「うわ~でも、あの子達の隣にイケメン居るじゃん! こりゃ勝ち目無いわ~」

 そして、二人の輪に自然に入って食材を選ぶ期裄を見て、男二人が心底ガッカリした表情を浮かべる。男連れの女子に声を掛けられる奴が世の中に何人も居るか分からないが、少なくともあの二人はそこまでの勇気と根性と、そして常識外れの図々しさは持ち合わせていなかったようだ。

「記~記もちゃんと働きなさいよ!」

「働けって、別にサボってるわけじゃないんだが」

 三人の輪から憶が俺の元に走ってきて、手を取って引っ張る。そこで、後ろから声が聞こえた。

「え? あの冴えない奴もあの子達の連れなの? マジかよ」

 まあ確かに、戸笈、憶、期裄と来て最後に俺が来たらその反応も仕方が無い。言うなれば美人、美少女、イケメン、男子Aというような異色の組み合わせなのだ。俺一人が浮いて見えるだろう。

「憶?」

 ふと気付くと、憶は俺の手を握ったまま立ち止まっていた。俺は宙ぶらりんになった手を見つめ、それから憶の顔に視線を移して首を傾げる。そして、疑問が頭に浮かんだ。

 憶が怒っているのだ。

 多分、大抵の人は気付かないかもしれない。でも、長い付き合いの俺には分かった。表情や態度に出していなくても、今の憶は何かに対して怒っている。そして、俺には憶が何に対して怒っているのか分からない。

 しばらく固まっていた憶は、俺の手を引っ張りながら腕を巻き付け、俺の腕を自分の胸に抱いて隣に立った。

「ほ、ほら、早く行くわよ!」

「あ、ああ……」

 数秒前まで怒っていたのに、今度は焦っている。今度は多分誰から見ても憶が焦っているのは分かるだろう。言動も態度も落ち着きがない。

 憶とは随分長い付き合いだが、こういう所がイマイチ理解出来ていない。焦って何故か俺に八つ当たりしてきたり、急によそよそしくなったり、そんな事が時々ある。そういう時の憶はまったく分からない。

「あら? 随分仲が良いのね?」

 腕を組む俺と憶を一瞥し、戸笈が無表情で言う。まあ、幼馴染みだから仲が悪いとは言わない。しかし、腕を日常的に組むような仲ではない。

「あいつらが記の事バカにしたから見返してやろうと思って!」

 憶がさっきの男二人の方をチラリと見ながら言った。なるほど、どうやら憶は俺に気を遣ってくれたらしい。しかし、気を遣ってくれたのは嬉しいが、なんとも惨めな話だ。冴えない男だと言われ、それを哀れんだ幼馴染みに気を遣って親密感を装わせる。……なんだろう、誰かに勝負で負けたわけではないのに、形のない何かに、実態のない誰かに負けたような、そんな圧倒的な敗北感がのしかかってきた。

「とにかく材料はこれで全部よ。そろそろ帰って夕食の準備を始めないといけないわ」

「まあ、カレーだし煮込まないといけないしな」

 会計を済ませ、荷物持ちを引き受けてスーパーを出ると、空を覆う雲は更に濃く厚く真っ暗になっていた。

 元来た山道は、来た時は下りだったが帰りは当然上りである。視線の先では、体力だけは有り余っている憶が遥か上からこちらを見下ろしている。世の中には女性が下から見上げる仕草、いわゆる上目遣いが可愛くて良い。と、言われている。しかし、上から見下ろされるというのは、まるで人間として見下されているという錯覚を感じて良い気はしない。いや……そっちもある一定の需要はあるか。

「麻直さんってなんであんなに元気なのかしら?」

「部活をやってるから体力が有り余ってるんだろ。知らんけど」

「でも、部活をしていない保柄くんも平気みたいよ?」

「期裄は活動的な人間だからな。いつも休みの日とかはクラスの連中に限らず色んな連中と遊んでるし」

「という事は、貴方は非活動的な人間でいつも休みは誰とも遊ばず家に閉じこもっている寂しい人間という事ね?」

「寂しい人間って所は否定させてもらうが、非活動的で基本的に家に居るという事は認める」

「だから、坂道程度で大の男が音を上げるのよ」

「俺はあいつ等と違って荷物を持ってるんだ。身軽な連中と同じにするな。それに、戸笈だってへばってるじゃないか」

「私はか弱い女性よ?」

「自分でか弱いって言う奴に本当にか弱い奴は居ないんだけどな」

 俺と戸笈は帰り道の半分を過ぎた辺りから、明らかに歩くペースが落ちていた。地面が舗装されていると行っても、現代社会を生きる男子高校生の中でも怠惰の部類に入る俺にはキツイ。第一、現代社会で人が汗水を流して必死に走らなければいけない状況なんてない。プロスポーツ選手はそれの例外に入るが、俺はプロスポーツ選手ではないし、それを目指す気も全くない。だから、へばっている状況は必然であって正しい状態なのだ。

「も~、記! 遅い!」

「遅れてたのは俺だけじゃないだろ」

「戸笈さんは女の子だからいいの!」

「差別良くない……」

 憶と合流した途端に酷い仕打ちを受ける。憶は清々しい笑顔で疲れは一切表情に出ていない。本当にこの坂道を俺達より速いペースで上っていたのに疲れていないらしい。

「早く帰らないと雨が降り始めちゃうかもしれないでしょ~」

「確かにそうだが、そんなに早く……ん?」

 頭のてっぺんに何かがぽつりと落ちるのを感じた。何かが落ちた頭のてっぺんに指を触れると、指先に湿った感触が伝わる。そして、そのぽつりと落ちた何かはまたぽつりと落ちてきて、今度は手の甲を湿らせた。

「ヤバッ! 雨降ってきた!」

 ぽつりぽつりと落ちていた雨粒は、気付いたら視界を覆う程の大粒の雨に姿を変えた。

「とりあえず急いで帰ろう!」

 憶が俺の手から食材の入ったビニール袋をひったくり、瞬く間に雨のカーテンの奥に消えていった。このままでは自分達を含め、買ってきた食材もずぶ濡れになってしまう。しかし、体力のある憶が走って出来るだけ早く持って帰れば、体力が無くバンガローまで早く持って帰れない俺に持たせておくより食材の被害は少ないだろう。それをこの一瞬で判断した、憶の食に対する野性的な直感には脱帽するしかない。

「戸笈、走れるか?」

「…………無理ね」

「だよな」

 期裄はバンガローの鍵を持っているため、走り去った憶を追いかけていって既にこの場に居ない。俺も体力はない方だが、多少は走る事は出来るだろう。ただ、戸笈は俺よりも体力がないようで、ずぶ濡れの状態でも歩く足をそれより早くすすめようとしない。いや、進める事が出来ないのだろう。

「先に行ってもらっても大丈夫よ」

「バカ野郎、ずぶ濡れの女子を置いてったら、俺は更に学校で白い目で見られる。俺は平和に日常を過ごしたいんだ。それに、今更必死になって走ってもずぶ濡れなのは変わらないからな」

「そういうところ……」

 隣で戸笈が何かを口にした。でも、その声は地面を打つ雨音にかき消されて、俺の耳には届かなかった。


 バンガローまでたどり着いた俺は振り返って戸笈の方を見る。頭の先から足の先まで見事にずぶ濡れの戸笈。しかし、長い黒髪が張り付いた頬は妙に艶やかで色気を感じる。それに、濡れた服は彼女の体にピッタリと張り付き彼女の体のラインを強調して見せる。

「コラ変態!」

「ずぶ濡れで帰ってきた幼馴染みに変態はないだろ」

「戸笈さんの事をいやらしい目で見てたじゃん!」

 バンガローの中から、Tシャツと短パンに着替えた憶が出てきた。トレードマークのツインテールは雨に濡れて元気を無くして項垂れている。しかし、憶の方は至っていつも通り元気すぎるようだ。

「とりあえず戸笈さんお風呂に入ろう! このままだと風邪引いちゃうし! 今、保柄くんが準備してくれてるから、準備が出来たらすぐに入らないと!」

「え、ええ、そうさせてもらうわ」

「大丈夫! その間、この変態は保柄くんに見張ってもらうからっ!」

「人を指差すな、それに勝手に変態のレッテルを俺に貼るな」

 憶は部屋の奥から戸笈にハンドタオルを持ってきて手渡す。そして、そのついでに俺の方に別のハンドタオルを放り投げた。そのハンドタオルは空中で広がり、俺の頭の上にひらりと落ちた。

「記もちゃんと拭いときなさいよ。風邪引かれても困るし」

「麻直さん、戸笈さん。お風呂沸いたからすぐに入って来た方がいいよ」

「ありがとう保柄くん! さっ、行こう戸笈さん」

 期裄と入れ違いに中へ憶と戸笈が消えていき、ずぶ濡れの俺を見て期裄が笑う。

「記はやっぱり優しいな」

「なんだよその笑いは」

「いや、別に深い意味はないけど」

「深い意味が無いのにニタニタとしながら人を見るなんて良い趣味してるよな」

 憶から貰ったタオルでとりあえず髪にしみこんだ水分を拭き取る。服の方は拭いても仕方ないし、さっさと着替えてしまう方が良さそうだ。

「今日で麻直さんのやりたい事は叶えられるな」

「ああ、憶のやりたいことは泊まりがけでワイワイ騒ぐ事だからな」

「で、次は俺だよな?」

 玄関でフローリングの上に腰を下ろした期裄は、壁に背を付けて顔だけ俺の方に向ける。

「期裄のやりたいことってなんだよ。言っておくけど、体力的な事なら俺は勘弁だからな。多分、戸笈もついて行けないぞ。あと頭を使うこともダメだ。今度は俺と憶がついて行けない」

「記はどっちもダメなのか」

 期裄が微かに口元をほころばせる。そして、真っ直ぐ俺の方を見た。

「記、俺のやりたいことに協力してくれるか?」

「いいぞ」

「内容を聞く前に答えて良いのか?」

「聞かなくても、俺が否定するような事はしないからな。期裄は」

「そうか……」

 期裄は視線を外し、天井を見上げ、そして顔を正面の壁に向けて大きく息を吸った。

「麻直さんに告白したい」

「やっと覚悟決めたか」

「ああ、でもそれには条件がある」

「条件?」

「俺は、記が見てるところで麻直さんに告白したいんだ」


 率直に言おう、戸笈の作ったカレーは旨かった。そして、憶が切った野菜で出来たサラダは無事に野菜の味がした。期裄は持ち前の器用さで無難に調理をこなしていて、俺はというと、戸笈に若干見下し混じりの指示を受けて手伝った。少なくとも足手まといにはなっていないと思う。

 そして、今は雨がすっかり上がって星空が見えるバンガローの軒先で、憶の希望通り花火をしている。

 手持ち花火から噴射される色鮮やかな火花に憶が歓声を上げ、花火を振り回す憶から一定の距離を取って安全を確保しているものの、期裄も柔らかい笑顔を花火に向けていた。そんな二人を、縁側に座ってボーッと俺は見つめている。

 期裄と戸笈の組み合わせは多分、俺達以外の人から見たらお似合いだと映るだろう。でも、俺からしたら期裄と憶の組み合わせも十分しっくりくる。むちゃくちゃな事をする憶を一歩下がった所から期裄が見守り、憶が躓きそうになったら期裄が手を差し伸べて手助けする。そんな恋人関係もいいのではないか? いや、かなり良い感じではないか、そう思う。

「麻直さんは元気ね」

「それが憶の取り柄だからな」

 俺は、地面に立てた蝋燭に、線香花火の先端を近づけて火を付ける。火が移った線香花火は先端からパチパチと小さな音を立てて、控えめな火花を散らす。憶の持っている色鮮やかな火花が出る派手な花火ではないが、俺は線香花火の方が好きだ。

 パチパチと控えめに燃えるその姿を誰かと重ねる。その誰かも、こうやって人知れずパチパチと控えめに燃えて、そしてスッと灯りを消すのだろう。しかし、その誰かは、こうやって誰かに風流だとか綺麗だとか、何かを残すことは出来るのだろうか?

「ありがとう」

「なんだよいきなり」

「私、こうやって友達と泊まりがけで遊んだこと無かったから。本当に楽しかったわ」

「なんだか、戸笈が素直だとそこはかとない恐怖を感じるな」

「貴方って失礼ね」

「生憎、どっかのイケメンみたいに誰にでも好かれる性格じゃないもんで」

 線香花火の先端に付いていた火の玉が地面に落ち、スッと光りを失う。それを見届けて、近くに置いてあるバケツに張った水の中に燃え尽きた線香花火を落とす。

「私も一本やってみても良いかしら?」

「ああ」

 袋から線香花火を引き抜いて戸笈に手渡し、俺ももう一本引き抜いて蝋燭の火に近づける。火が移った二本の線香花火は、パチパチと音を立てて燃え始め、控えめだが綺麗な火花を散らす。さっきと違って二本あるからか、さっきよりも光りも音も賑やかに感じる。

 そう、花火は二本目がある。いや、袋の中にはまだ沢山の花火が入っている。でも、誰かの花火に二本目はない。

「記! 戸笈さん! これやるよ!」

 憶が手に噴射花火を持ってブンブンと振る。手に持っている花火に火が付いていないからいいものの、さっきはあの勢いで手持ち花火を振り回していたのだから背筋が凍りそうだ。絶対によい子である俺は真似しない。

「いくよ!」

 憶が噴射花火を地面に置き、導火線に火を付ける。導火線に燃え移った火が花火本体に吸い込まれた瞬間、華が咲いた。

 吹き上がる眩い火柱は、色とりどりの火の粉を散らす。花火で華やかさを感じるものと言えば、花火大会で見る打ち上げ花火だが、これも十分華やかだ。

「わー!! 凄ーい!」

「綺麗ね」

 憶と戸笈がそれぞれ目の前の花火を見つめて言う。期裄は、その花火を見つめる憶に視線を向けていた。

 彼ら彼女らは燃え始めた花火のように華やかに見えた。そして、彼ら彼女らではない誰かは、今にも燃え尽きそうな線香花火と重なった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ