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君を忘れる  作者: 焦げたナポリタン
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2【ただ普通にする事が、一番難しい事を知った】

  【ただ普通にする事が、一番難しい事を知った】


 気が付いたら、俺は街の大きな病院のベッドに寝かされていた。いや、メディカルチェックに緊張しすぎて、気を失ったなんて情けない失態を犯したわけではない。ちゃんと教師に促されて駆けつけた救急隊員に救急車で搬送されたのは覚えている。なんせ、俺は救急車で搬送されるような怪我や体調不良に陥っていなかったのだ。それなのに担架に寝かされて搬送されたのだから忘れるはずがない。

 気が付いたらというのは、ここまで連れて来られるのがあっという間だったという事だ。

 この病院に来てから、学校で受けたメディカルチェックに合わせて更に精密な検査をした。そして、分かったのだ。原因不明だと。

 まったくもって意味が分からない。医者から「どんな検査をしても異常は見られないが、セシリアが記憶を失うと言っているから記憶を失う」と言われても「なるほど、はいそうですか」と納得できる訳が無い。

 医療用AIセシリアは、俺の記憶があと一ヶ月で失われてしまうという診断を出した。でもその診断に至る根拠は何一つ出していない。良く原因は分からないけど一ヶ月後に記憶を失う事は分かる、それだけしか言わない。

 メディカルチェックは予防医療として行われるはずなのに、俺の場合は予防する事が出来ない。原因が分からないし、そもそも脳機能関連新疾患なんて言われたが病気なのかさえも定かではない。

 身体的には至って元気で、寒気や気だるさ熱っぽさといった体調不良のようなものは全く無い。自分自身で異常がないと分かっている以上、セシリアの診断の現実味は薄すぎる。

でも、周りの反応は俺とは対照的だった。

 真っ先に駆けつけた母さんは、ベッドに座る俺の姿を視界に入れた途端、その場で崩れ落ち人目を気にする余裕も無かったのか大きな声を上げて泣いた。ずっと、病院の堅いタイルの床を見詰めて「なんで、なんで、なんで記が……」と、ずっと言い続けていた。それからしばらくして、仕事を早退してきた父さんが俺に視線を向けた後、泣き崩れる母さんの両肩を抱いて病室の外に連れ出した。まあ、あの役割は今の俺には出来ないから、早めに父さんが来てくれて良かったと思う。

 今、病室には俺以外の人間は居ない。正直、意味の分からない記憶喪失の宣告をされた張本人である俺が放置されているこの状況には納得がいかない。本来なら泣きたいのは俺の方のはずだ。しかし、不思議と涙が出ないから、俺に慰める必要なんてないのかもしれない。

「真狩さん、お加減はどうですか?」

「え~っと、至って元気です」

「そうですか」

 若い男性医師が柔らかに見せたぎこちない笑顔を浮かべている。まあ、そりゃ笑顔がぎこちなくなるのは当然だろう。なんていったって、良く分かんないけど一ヶ月後に記憶を失う患者と対面しているのだ。俺が医者の立場ならどんな顔をして話せばいいか分からない。

「ご両親には今、担当医師が真狩さんの病状についてご説明しています」

「父と母は?」

「……お母様は酷く取り乱されていらっしゃいますが、お父様は気丈に医師の説明を聞いておられました」

「そうですか」

 まあ、父さんが居れば心配はないのは確かだ。口下手であまり自分の気持ちとかを表に出さない、父はそういう人間だが薄情では決してない。だから、母さんの事は俺が心配する必要はないだろう。

「ご両親と相談の上で決めますが、やはり真狩さん本人の意思を尊重するのが良いかと思い、今後の治療について――」

「治療、出来ないでしょ」

 全く、俺という人間はなんて人の気持ちを考えられないアホなんだろう。こんな事を言われたら、男性医師がどう返していいか分からない事くらい簡単に分かる。でも、なんとなくイライラしてそう言ってしまった。

 みんな、俺を病人扱いするのだ。俺自身は全く体に異常を覚えていないのに。

 ただ、的中率百パーセントなんて言われてる医療用AIが良く分かんない宣告をしただけなのに。様々な検査を行っても異常が見付からなかったのに。プログラムで作られた、数字の羅列で物事を判断する機械の方を信じているのだ。それが、何となくムカついた。

 学校の教師も、救急隊員も、医者も、親も、俺以外の全ての人間が俺を今にも死んでしまいそうな危篤患者のような扱いをする。そして、この男性医師に限って言えば、まるで末期がんの宣告を託されたような、そんな重々しい表情をする。

 ふざけるな。俺は病人じゃ無い。

「確かに、私どもの病院では真狩さんの最適な治療は――」

「俺、特に体調悪い訳じゃないんで帰ります。両親のところまで案内して頂けますか? これ以上ここに居ても時間の無駄ですし」

「は、はい」

 ベッドから降りて靴を履いた俺が早口でそう捲し立てると、男性医師は俺から視線を逸らして歩き出した。

 男性医師の後ろを歩いて数分、両親が医者から説明を受けている場所に着いた。男性医師がノックをして扉を開けたのを確認すると、俺は扉の隙間から体を中に滑り込ませた。視線の先には俺を泣き腫らした真っ赤な目で見詰める母さんと、ジッと俺の目を見据える父さんが居た。

「二人とも帰るよ」

「記、でもっ――」

「俺は病人じゃ無い。体もピンピンしてるし、熱も寒気も何にもないんだ。こんな所にずっと居た方が本当に病気になるだろ」

 母さんの言葉遮って言う。すると、父さんがゆっくり立ち上がって二人に説明をしていたらしい中年の男性医師に深々と頭を下げた。

「息子もああ言っていますし、今日の所は帰らせていただきます」

「分かりました。ですが、真狩さんの病例は今後の医学界でも貴重なケースです。政府から何かしらの通達があるかもしれません」

「それも、家族で相談して決めさせて頂きます」

 そう言って父さんは母さんを支えて扉に向かって歩き出した。俺は、一応中年の医者に頭を下げてから、父さんと母さんの後を追うように部屋の外へ出た。


 帰りの車の中は空気が若干重かった。口下手な父さんが変に話題を作ろうとしているし、母さんはそんな父さんの気遣いが分かっているのだろうが、ただ力ない相づちを打つ事しか出来ないでいた。そんな二人の姿を後部座席から見ている俺は、正直この空気にうんざりしていた。

 俺は普通なのに、周りが異常になっている。しかも、どう考えてもその原因は俺。いや、俺がセシリアから宣告された記憶喪失が原因だ。俺自身の認識と周りの認識にギャップがありすぎてなんでこんな重い空気になっているのか理解出来ない。

 窓から見える外の景色は、すっかり日が落ちて街灯と建物の窓や看板から発せられる光しか見えない。こんな真っ暗で見るだけで気が落ち込みそうな景色なのに、なんだか今だけは心がすっと軽くなるような気がした。車は幹線道路から脇道に入り、俺の自宅前にゆっくりと停止した。

「車を停めてくる。二人は家に入ってなさい」

「…………」

「分かった」

 父さんが後ろを向いてそう言うのを聞いて、母さんは黙って助手席の扉を開けて下車した。俺は短い返事を父さんに返して、母さんの後を追うように車を降りる。

 玄関のロックを解除する母さんの数歩後ろで突っ立ちながら、母さんにどう声を掛ければいいのか考えた。ここで「気にしないでくれ」と言って気にしなくなる性格ではないし「まったく異常がないし元気だ」なんて言っても、きっと無理に笑顔を作って俺に向けてくるだけだろう。こんな時に、何も出来ない俺は本当に情けない。

 母さんは昔から優しかった。優しすぎるぐらいで、父さんからは時々あまり甘やかすな、みたいな事を言われてムッとしている事もあった。他の家の事情は知らないが、母さんの優しさは他と比べたら度が過ぎていて甘やかしなのかもしれない。でも。家族である俺と父さんはそれが全て母さんの優しさだと分かっている。だから、母さんに今まで優しくしてもらっているからこそ、肝心な時に母さんに優しくする事が出来ない自分が、酷く情けなかった。

「……今日の晩ご飯何?」

 バカ野郎としか言いようがない。必死に、母さんが傷付かない言葉を、母さんが気に病まなくなる言葉を、母さんが心に抱えてしまった荷物が消え失せるような言葉を、そんな便利な言葉を長い時間を掛けて考えていたはずなのに。考えた末に出てきたのは酷く素っ気ない言葉でしかなかった。何なんだ、今日の晩ご飯何? って……。

「アジの塩焼き」

「あ、アジの塩焼きか~おかずにならないんだよな~魚って……」

「毎日メニューを考えるのは大変なの。文句言うなら食べなくていいわよ」

 優しい母さんでもムッとする時はある。それは、晩ご飯のメニューについて俺が苦々しい表情と口調でコメントを返した時だ。そういう時は決まって、母さんはああ言う。

「いや、魚は嫌いじゃ無いんだけど、なんとなくおかずとして弱いというか」

 魚好きや魚自身には到底分かってもらえないだろうが、俺にとって魚はそんな存在なのだ。まあ、薄口よりも濃い口の食べ物が好きな俺の味覚上、塩味と魚の旨みというシンプルな味付けをしたアジの塩焼きはおかずとして弱い。まあ。何時もめんつゆを掛けて食べるから結局無理矢理濃い口にしてしまうのだが。めんつゆを掛けると、鰹や昆布の出汁も加わって味の濃さが増すからおかずとして強くなる。というか、めんつゆという調味料が万能過ぎるのだ。

「まあ。めんつゆさえあれば大丈夫だから」

「ほんと、記はめんつゆ好きね」

 母さんがクスリと笑った。何時も俺がめんつゆという言葉を出すと、母さんは笑う。少し呆れ混じりの小さな笑い、いつも通りのその笑いだ。でも、今日はその笑いを見れて嬉しかった。いつもはちょっとだけバカにしてるなと、少しムッとしていた笑いなのに。

「すぐ、ご飯にするわね」

「ありがとう。腹減ってもう限界」

 まだ鼻水を啜る音が混じっているが、口調はさっきよりも明るくなったように思える。完全に失敗したと思ったが、どうやらなんとか母さんの気持ちを軽くする事が出来たらしい。

 それから、晩飯を食べて風呂に入った後、俺と父さんと母さんの三人はダイニングテーブルに座って少しだけ話をした。少しだけだったのは、俺の意思がもう決まってたからだ。

 明日から今まで通り変わらず生活する事。それが、俺が話の中で譲らなかった事。

 病院に入院なんてしない、最後の思い出作りとかそんな辛気くさい理由の旅行だってしない。何時も通り寝て起きて学校に行って、学校から帰ってきたらゲームして晩飯食べて、母さんに部屋の片付けをしろと小言を言われて、そして父さんにも釘を刺される。でも、結局片付けせずに寝てしまう。そんな、普通の生活をする事を俺は望んだ。

 実際、的中率百パーセントであるセシリアの診断を信じるべきなのかもしれない。数字の羅列からしか物事を判断できないからこそ、その診断結果には数式の解のように、たった一つの確かな答えでしかないのかもしれない。だから、多分俺は一ヶ月後に記憶を失うのだろう。でも、今まで間違っていなかったからといって、俺の時も正しいとは限らない。

今まで何億人、何十億人の診断を的中させてきたからと言って、俺の時に間違わないとは言い切れない。そんな期待も可能性もあるから、そう俺は言った。

 宣告された当の本人である俺がそんな楽観的な事を言った事で、母さんは決心したように黙って頷いて、そして心の底から笑ってくれた。父さんは、なんだか俺の方を見て驚いた表情をして「知らないうちに、お前も大人になったな」そう言って、頭をクシャクシャに撫でた。頭を撫でられたのなんて何時ぶりだろう。なんだか照れくさくて、そして嬉しかった。

「おやすみ」

 話が終わって眠気が来た俺は、二人にそう何時も通りに言って自分の部屋まで階段を上った。そして何時も通り窓際にあるベッドの上に仰向けに寝っ転がって目蓋を閉じる。

 どうしてだろう、何時もと変わらない平日の夜なのに、いつもと違って清々しく感じた。清々しく感じたし、いつもよりずっと、生きてる気がした。


「記、おはよう!」

「…………なにしてんだ?」

 朝起きて顔を洗ってから朝食を食べた。朝食はベーコンエッグで、半熟ベーコンエッグの黄身の部分に箸を刺し、その刺した穴から醤油差しで醤油を流し込む。そこで始めて黄身の表面に出来た薄い膜を箸で破り醤油と黄身を混ぜ、その醤油と黄身で出来たタレに白身とベーコンを絡めながら白飯を掻っ込む。そんな何時も通りのベーコンエッグの食べ方をしてから家を出たのだが、玄関を出て直ぐ、何時も通りじゃない状況に遭遇する。幼馴染みが満面の笑みで立っていたのだ。

 今まで憶が俺の家で待ってたことは、俺の記憶上で数回はある。でもその数回は学校の遠足とか修学旅行とか、休みの日にどこかへ遊びに行く約束をしていた日とか、そんな何時も通りではない日くらいだ。こんな何の変哲も無い、ただの平日の朝に待っていた事なんて初めてだ。

「なにしてるって記が出てくるの待ってたの!」

「なんで待つ必要があるんだよ。どうせ途中で会うだろ」

「いいじゃん! た・ま・に・はっ! ほら、もう行かないと遅刻するよ!」

 腕を掴まれて引っ張られる俺は、仕方なくすぐ目の前を歩いて居る憶に従うしかなかった。

「今日のお昼、私お弁当作ってきたから!」

「とりあえず、俺は脈絡という言葉を高校一年である憶に教えないといけないのか?」

「それで、放課後は遊びに行こう」

「おいおい、部活はどうした部活は。大会が近いんだろうが、大会が。そんなサボり魔みたいな事してたらレギュラーに成れないぞ」

「大丈夫だって! たまには息抜きしないとだし!」

 三十九度の熱が出たときに練習試合に行こうとした奴の言葉とは思えない。それに、俺は母さんの作ってくれた弁当がある。それに加えて憶の弁当を食う余裕なんてあるはずもない。それに、俺が毎日弁当を持ってきている事くらい憶は当然知っている。

 明らかに、いつもとは違う憶の行動。それを見て、納得する。どうやら、セシリアの診断はもう学校中に広まっているらしい。まああれだけ他の生徒が居る中で大々的に宣告されて広まらない訳が無い。それに救急車まで来て運ばれたのだから、噂が広まる速度も速かったはずだ。

 という事は、憶の行動の全てに合点が行く。

「憶、あのな――」

「あいつだろ、記憶喪失するって奴。可哀想だよな」

 大きくため息を吐いてから憶に言ってやるつもりだった……何かを。その何かは、耳に飛び込んで来た言葉で、分からなくなった。

「……ふ……み?」

 急に足を止めた俺を憶が振り返る。立ち止まった理由は分かっているらしい、そして憶が俺に向ける目は気遣いの目だ。「大丈夫?」その憶の心配そうな声が聞こえてもいないのに脳内で再生される。

 視線を動かして周りを見れば、ヒソヒソと話す生徒がいつもより多い。そして、いつもは俺なんかに興味関心もないはずなのに、みんな俺の方をチラチラと見てくる。そして、全員が俺を哀れんでいた。

「記、どうした?」

 静かになった通学路に明るい声が響く。いつもどおりの女子受けする爽やかな声と顔で俺に話し掛けてきたのは期裄だった。

「いや、なんでもない」

「そうか。あれ? 麻直さんもう記と一緒だったんだ」

「う、うん、今日は記の家の前で待ってたの」

「そうか、まあたまにはそうやって迎えに行ってやらないと、遅刻しそうだしな」

「おい期裄、俺は出席率だけは良いんだぞ。遅刻なんてする訳ないだろ」

「まあな、記の取り柄って言ったら出席率くらいだしな」

 何時も通りの軽口を叩く期裄に若干ムッとして、言葉を返す事無く歩き出す。なんだか、俺の隣を何時も通り歩き出した憶がニコニコと笑っている事も妙にイラッとする。

「記、今日私やっぱり部活、行こうかな」

「おう、そうしろそうしろ」

「でも、お弁当は食べてね?」

「分かった分かった、食べる食べる。だから俺を見てニヤニヤ笑うな」

「笑ってないよ」

「笑ってるだろうが、どう見ても」

 なるほど、今更だが期裄がモテるという理由が分かった気がする。理由が分かったところで俺には出来ないし、やる気もないが、それでも俺は期裄に助けられた。

 期裄は気が遣える奴なのだ。それに気を遣った結果の行動も適切すぎるくらい適切だ。だからきっと、期裄は女子、いや他人から好かれるのだろう。でもきっと、俺の気持ちを読み取ったのはただ期裄が気を遣える人間だからというだけではないだろう。多分、なんとなく馬の合う男同士だから分かってくれたんだと思う。俺がただ普通にしてほしいと思っている事を期裄は男の立場として、分かってくれたのだ。結構長い付き合いの憶でも分からなかったのだ、それはやっぱり男と女の違いだと思う。まあ、憶自身の性格がよく言えば真っ直ぐ、そこそこ悪く言って猪突猛進、もっと酷く言えば直情径行な感じだからかもしれない。でも、憶の思ったことに素直に動く性格を決して悪いとは思わない。変に他人の顔色を窺ったり空気を必要以上に読もうとしたりしないのが憶の良いところだ。

 三人で校舎の正面玄関から中に入って、いつも通り階段を上る。すれ違うほとんどの生徒達が俺に好奇の目を向けてくる。それは登校時には既に感じていたし、仕方ないことで簡単に予想できる事だった。でも、実際にそういう目に遭うとそうもいかない。やっぱり気持ちの良い視線ではないからだ。

 人という生き物は、普通が大好きだ。もちろん俺も普通が大好きな人間の一人。人はそれぞれ“普通”を持っている。でも、その普通は個人個人の考えから判断されたもので、厳密に普通と言えないのではないかと思う。たとえば、ベーコンエッグにめんつゆを掛けて食べる事は俺にとっては普通の事だ。でも、他人からすればそれは普通ではないらしい。結局の所、普通を決定するのは数の多い方なのだ。だから、今、周りの生徒達の持っている“普通”から外れてしまった俺には、変だとか奇妙だとかそんな印象が付けられているのだろう。セシリアから記憶喪失宣告を受けた人間は、この学校にも、今までかつて世界中のどこにも居ない。俺を除いては。

 この学校に居る全ての人間に普通にしてほしいと言っても、それは無理な話だ。もう、多数の生徒達が俺を好奇の目で見ている時点で、その状態が普通になったのだ。俺の事を気にせず生活するという事が彼ら彼女らにとっては異常なのだから。

「おはよー!」

 憶がいつも通りの元気の良い挨拶で教室の扉を開ける。教室内に居たクラスメイト達は憶と期裄の姿を見て笑顔で挨拶を返す。そして、俺の顔を見て困った表情を浮かべた。どう接すればいいのか分からない、その戸惑いを隠すことなく俺にぶつけてくる。分かっていた、何度もここに来るまで受けた事だ。でも、やっぱりそう簡単には割り切れない。

「真狩、ちょっと来なさい」

「はい」

 教室に足を踏み入れようとした寸前、後ろから担任の男性教師に呼び止められた。振り返って見た男性教師の表情は険しいものだった。


「真狩、休学する気はないか? 休学すれば時間に余裕が出来る。ご家族と一緒に――」

 校長室に連れてこられて、校長、教頭、生徒指導部、学年主任、担任という対面したくないメンバー勢揃いの空間に連れ込まれてから開口一番だった。その話を切り出したのは生徒指導部の教師で、表情だけはいつも通りとんでもなく威圧感がある。

「両親とも話し合いました。その結果で、今まで通り生活する事にしました」

「しかし、記憶喪失というものは真狩が思っているほど――」

「……自分の意見が正しいと思ってる大人って居るのよね、どこにでも」

 校長室の扉が開く音が聞こえ、透き通った女性の声が室内に響く。しかし、言葉の内容はその声色とは不釣り合いなものだ。

「戸笈、勝手に――」

「今日学校に来たらすぐに自分の所に来いって昨日言ったのは先生ですよね? 生徒指導部に行ったら誰も居ないし、他の先生に聞いたらここだって言うから来たのですが」

「今は真狩と話を――」

「PTAの会長が県議会議員の奥さんだそうですね。本当に大人って汚い」

 振り返った先に居たのは、あの冷たい雰囲気を持った美少女だった。その冷ややかな視線は真っ直ぐ生徒指導部の教師へ向けられている。そして、その視線を向けられている教師の表情は少し険しい。

「記憶喪失宣告を受けた生徒が居ると他の生徒に動揺が伝播して良い事じゃないから、休学してもらう方がいいんじゃないか。PTAの会長がそう言ったって言ってましたよ。その会長の子供が」

 表情を変えず言う彼女の言葉で理解した。どうやら、俺は厄介払いされようとしているらしい。

 うちの高校は超進学校とはいかないが、そこそこ進学校としてこの近辺では有名だ。そして、PTA会長の子供と言えばかなりの秀才で、超有名大学合格確実とか、将来は医者か国会議員みたいに言われている生徒。そんな生徒だから親が過保護な人間である事は予測出来る。自分の子供の平穏な学校生活と勉強環境を乱している不純物を取り除いておきたかったのだろう。それに、うちの高校は県立高校だ。実際に県議会議員がどんな権限を持っているかは分からないが、県議会議員の心証を悪くしたくないという思いも理解出来ないわけじゃない。汚いとは思うが、大人の世界は汚いし、子供の世界でもヒエラルキーの高い人間に低い人間は逆らえないし、逆らえば更に肩身の狭い思いを強いられる事は多々あるから仕方のない事だと思う。

「しかし、一ヶ月という時間を無駄に――」

「とっくに気を遣うって体裁に隠した身勝手だってバレているのにまだ続そんな事を続けるのですか? 馬鹿らしい?」

「戸笈、大人に向かってその口の利き方はっ!」

「何十年か先に生まれたくらいでそんなに偉いんですか? 言っておきますが、私は尊敬できる人間にしか敬意は払いません。力のある人のために力の無い人を犠牲にするなんて、大人以前に人間として尊敬できない。彼の生き方は彼にしか決められないし、彼以外が決めてはダメ」

 彼女の言っている事は清々しいくらいの正論だった。そして分かる、だから彼女は学校に馴染めていないのだと。集団で行動するという事は他人にある程度同調しなければいけない、たとえそれが間違っている事でも。それなのに、こうも正論をきっぱりと言っていれば馴染むのは難しいだろう。特に、女子という生き物は男より団結心が強く排他的な生き物だと聞く。明らかに彼女はその女子特有の社会システムというか傾向に合わない性格だ。でも、聞いている俺の立場からすれば気持ちが良い。

「真狩くん、気分を悪くしてしまうようなお話をしてすみませんでした。真狩くんの意向は了承しました。今後も今まで通り楽しい学校生活を送って下さい。しかし、困ったことがあればいつでも相談して下さい。戸笈さんのおっしゃった通りです。私達が間違っていました」

 校長が立ち上がり深々と頭を下げる。その行動に思うところは何もない。校長が頭を下げようが、休学を勧めてきても、俺の考えを変えるつもりは微塵も無かったからだ。でも、それを見て校長以外の教師達は視線を下に落とした。多分、今からPTA会長殿の機嫌をどう保たせるか考えているのだろう。とりあえず菓子折りの用意をするというアドバイスくらいしか俺には思いつかないが。

「失礼しました」

 とりあえず、隣で涼しげな表情で佇む彼女よりは世渡りのノウハウがある俺は最低限の礼を示す。が、彼女は頭を下げる事もなく振り返り、後足で砂を掛けて扉の外へ出て行く。まあ、彼女からしたらこの部屋の中に居る全員に恩を受けた覚えもないし、迷惑を掛けたと思っていないのかもしれない。まったく、見た目は大人なのに性格は子供のようだ。


 校長室を出ると、少し離れたところで壁に寄りかかりこちらを見ている彼女と目が合った。なんだろう、ものすごく居心地が悪い。

「貴方、なんで学校に来ているの?」

「来たいから来てるんだ」

「でも、来てもなんも楽しい事ないでしょう? 変な目で見られて、変な噂が広まって」

「確かにな、今の俺はさながら檻の中のパンダだ」

「パンダって言うほど愛嬌を感じられないのだけれど?」

「うるさいな、たとえ話だ、たとえ話。俺個人の印象は関係ないだろう」

「……貴方って他の生徒と違うわね」

「それって褒めてるのか? それとも貶してるのか?」

「どっちも」

 ……俺は頑張っている。世渡りしない彼女と、俺が持てる全てのコミュニケーション能力を尽くして彼女と会話を成立させようとしている。会話はなんとか成立している。だがなんでだろう? どんどん俺の精神が削られている気がする。

「私、学校で浮いてるの」

 見れば分かります。

「だから、友達が居ないのよ」

 でしょうね……。

「だから、友達にならない?」

 ……は?

「貴方なら、一緒に居て面白そうだから」

 友達という存在は作ろうと宣言して作る存在ではないと俺は思う。確かに、友達になろうと宣言して友達になる事はあるだろうが、それは関わりのきっかけであってその時点では友達ではない。せいぜい、顔見知り程度の関係だろうか。

 しかし、彼女は本気で思っているようだ。俺の困った表情を見て小首を傾げている所から、それは明らかだ。

 これで、俺と彼女が友達になったのだと。そう、本気で思っているらしい。どうやら、俺の高校生活はいつも通りとはいかなくなったらしい。

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