1【どこからだろう、俺の歯車がズレ始めたのは】
家を出る。ただそれだけなのに新鮮だ。
見慣れているだろう朝の風景には真新しさを感じる。コンクリート塀にスプレー缶で書かれた落書きには品のない言葉が書かれている。思わずその言葉を見て眉をひそめる俺は、その隣に相合い傘を見付けてなんだか気恥ずかしくなった。なんと、俺と同じ名前が平仮名で書かれているのだ。多分、誰かのおふざけで書かれたものだろうが、こうやって人目に触れるところに自分と同じ名前が書かれていると居心地が悪い。
学校までの道は覚えた。何度も通っているはずの道を覚え直すという事になんだか違和感があったが、それは言っても仕方がない。
タイルが敷き詰められた歩道を歩くと、作られてから時間が経っているのか所々ぐらついていたりひび割れたりしているタイルを見付けた。
そんな歩道を数分歩くと、少し広めの公園が見えてきた。外周には等間隔に樹木が植えられ、その外側には金属製のフェンスが囲んでいる。
公園の入り口であろう石造りの門が見えた所で、その門の前に制服を着た女の子が立っているのが見えた。この時間にあの場所で立っているという事は、誰かを待っているのだろう。
黒いショートヘアーの女の子。雪のように透き通った白い肌をしていて、体に纏っている雰囲気はなんだか冷たい。顔も美人といった感じだし、あまり近付くのは良く無さそうだ。下手に話し掛けでもして彼女や彼女の彼氏なんかとトラブルになるのは御免だ。
「やっと来たわね」
「は?」
彼女の前を通り過ぎようとしたとき、彼女に声を掛けられた、のだと思う。なんせ、その場には彼女と俺以外の人は居ない。この状況で他の人に話し掛けているのだとしたら、彼女には生きている人間ではない何かが見える体質なんだろうと解釈するしかない。
「あの、もしかして俺の事?」
「そうよ、あなたに決まってるじゃない」
【どこからだろう、俺の歯車がズレ始めたのは】
行ってきます。その言葉をもう何度言っただろう。一番古い記憶が小学一年の初登校の日からだから、四千回くらいは言ってるのかもしれない。そして、四千回も繰り返しているせいか、初めて言ったあの日と比べると元気もやる気もない。
「……行って来ま〜す」
玄関の扉を開いて容赦なく俺に照りつける朝日。もうこの朝日も何度見ただろう。はっきりいって、こう毎朝毎朝、寝ぼけ眼の俺に光りを当ててくるとは太陽からの嫌がらせでしかないと思う。どうやら、俺は太陽に嫌われているらしい。
家を出てすぐ、時代錯誤もはなはだしい単語がスプレー缶によって民家の塀に書かれている。何時の時代になっても落書きなんていう低レベルな自己顕示欲を満たす行為は無くならない。
今や、技術革新によってなんでもかんでも電子化、自動化された。しかし、電子化、自動化によって利便性が増したが、それに反比例するように現代社会では人間の運動能力や思考能力の低下が見られているらしい。まあつまり、便利な物に頼って怠惰な生活をしたから体が鈍り能力が退化してしまったという事らしい。だから、これからの社会を担うとされている、俺達高校生は遠距離からの通学でないかぎり、徒歩通学が義務付けられている。それに加え、キーボード入力ではなくペン型入力機器による疑似筆記で、授業や試験を受けなければならない。正直、キーボードで打った方が修正がし易いし速いのだが、文部科学省だとかのお偉いさんが決めたことに、未成年の一高校生があらがえるわけもない。
現代社会情勢について考えていると、やっぱり何時も通り変わらない公園が見えてきた。この公園は、俺の記憶が正しければ物心付いた頃には既にあった。それも、けっこう古くさい感じで。遊具は錆の出来ない合金製だから変わらずピカピカ輝いているが、コンクリート製の塀やベンチ等はかなり色褪せている。それに、植えられている樹木もなんだか年食っているような気がする。
「またそんな顔して〜」
「朝っぱらから幼馴染みの顔見て眉間にしわを寄せるな」
「眉間にしわ寄せてるのは記の方でしょ」
昔、一世を風靡したと言われるツインテール。そのツインテールの目の前に居るうるさい奴は、何を隠そう俺の幼馴染みである麻直憶。俺の真狩記という名前も変わっているが、こっちも相当変わっている。
憶は茶色がかったツインテールで、バレー部に所属しているせいか適度に日焼けをして、一応女性らしく適度に肉厚がある。なんか、肉厚という言葉を使うとまるで食用の肉を想像してしまうが、もちろん憶は食べられない。ちなみに、俺はロースやカルビよりもホルモン派だ。
この憶、幼馴染みの俺からしたらそうは思わないが、なんだか男子に可愛いと人気があるのだから、世間一般の可愛いを疑いたくなる。
「で? 今日はなに捻くれた事考えてたの?」
「捻くれてるとは失礼だな。俺は現代社会について真面目に考えてたんだぞ」
「いや、記に限ってそれはないな」
「……おい期裄、俺に限ってとはどういう事だ」
「おはよう真狩さん」
「おはよう保柄くん」
「当然の様に俺を無視するな」
並んで歩く俺と憶の後ろから声を掛けて来たこいつ。こいつは保柄期裄。俺と同じ帰宅部であるにも関わらず、運動は出来るし勉強もそつなくこなし、そして女子からの人気もあるというズルイ奴。こいつを家に呼んで遊び、こいつが帰った後に母さんから何度「あんたも期裄くんを見習いなさい」と言われたことか……。見習ってどうにかなるなら、今頃とっくに俺は人気者でモテモテな高校生活を送っているはずだ。
「そういえばさ、今日メディカルスキャンの日じゃん? 私ちょっと嫌だな〜」
「ああ、そういえばそんな事をする日だったな」
憶の言葉を聞いて思い出す、今日はメディカルスキャンと呼ばれる健康診断が行われる日だったのだ。
メディカルスキャンは、満十六歳を迎える年から五年毎に受ける事を義務付けられた健康診断で、医療用AIセシリアを使って行われる。健康診断と言っても専用機器を体に装着して十分程度ボーッとしていれば終わる程あっけないものらしい。でも、そのセシリアのメディカルスキャンは向こう五年のスキャンを受けた人物に発症する可能性のある疾患が百パーセント分かるらしい。この百パーセントという数字は、セシリアが導入されてから今までの診断数と的中数を照らし合わせた数字で、今までに何億人、何十億人以上も診断してきての百パーセントなのだから驚異的としか言いようがない。
大抵は軽い病気の宣告ばかりだが、もちろん重い病気の病名を宣告される事もある。でも、その時点ではその病気にかかってはいないし、その病気の初期段階さえも進行していない事が多い。だから、セシリアの診断を受ければ五年間でその病気を防ぐ事が出来るのだ。
現代ではセシリアに加え高い医療技術や医療機器の発展によって、治療や予防医療の効果も昔のそれと比べれば圧倒的に飛躍している。だから、現代では『セシリアが治療不可能と言わない病気なら、治らない病気は無い』とまで言われている。
そんなセシリアのメディカルスキャンは、受ける側からしたら身体的な痛みも無いし得にデメリットも存在しない。だから憶のような否定的な意見はあまり一般的では無い。
「ああ、そういえばそんな事をする日だったな〜って、自分の体を事細かに分析されちゃうんだよ。なんか嫌じゃない?」
「ああ、身長とか体重とか体脂肪とか言われるのが嫌なのか?」
「そ、それも嫌だけど……」
自分の体を見て視線を落とした憶に視線を向けていると、後ろから期裄に思い切り背中をド突かれる。一瞬息が詰まる思いをして、理不尽な行動をした中学来の腐れ縁の友人に隠すことの無い非難の視線を向ける。
「女子に体重とか体脂肪とかの話をするバカが何処に居る」
憶に配慮したのか、俺の襟首を引っ張って小さな声で俺に話し掛ける。おかげで憶は俺達の数歩先を一人で歩き始めた。
「バカとはなんだ。女子だって話してるだろ、お菓子を食べ過ぎると太るとか、ダイエットしなきゃ〜とか」
「あれは女子同士だから成立しているんだ。ちょっとはデリカシーってもんを考えろ」
「へ〜へ〜、すみませんね〜。俺はおモテになる保柄さんとは違って、デリカシーなんて紳士的な行いは生まれてこの方したことないもんで」
「ちゃんとフォローしとけよ」
「なんで俺が」
「お前が撒いた種だろうが」
「デリカシーがない俺にフォローが出来ると思うか?」
「……ったく」
俺の襟首から手を放した期裄は露骨に大きくため息を吐く。そして、俺を追い抜き憶の隣に立って柔らかい笑みを浮かべた。
「確かにちょっと嫌だよね。なんか自分の知らない自分をAIから言われるって、ちょっと気持ち悪い気がするし」
「うん、それに変な病気を言われたら怖いし……」
「麻直さんなら大丈夫。ちゃんと運動もしてるし、食生活も偏ったりしてないでしょ? 十六歳の健康的な女子高校生なんだから大丈夫だよ。それに、重要な病気が宣告され始めるのって、大抵は若いときに無理をした人が三十一を過ぎた辺りに受けるメディカルスキャンからみたいだし、今のまま健康的に生活してれば心配する事はないと思うよ」
「保柄くんありがとう。そうだよね、私まだ十六だし、そんなに心配しなくて大丈夫だよね」
「そうそう、セシリアのメディカルスキャンってどんなものか知る、って程度の気持ちでいいと思うよ」
俺からしたら、あの期裄の話のどこが良いのか良く分からない。だが、女子からしたらすこぶる評判がいい。まったく、女子からの良い男という基準が分からなすぎる。
期裄のフォローで機嫌を取り戻した憶は、何時も通りの明るい口調で何時も通りの登校風景を作り出していた。正直、俺と期裄二人ではこんな華やかな朝はあり得ないだろう。それも、憶が女子であるから成せる技なのだろうが。
学校に近付き正門前に立つと、正門に備え付けられた球体型の多眼カメラに視線を向ける。俺からは見えないが、カメラ側からは俺の顔を登録された生徒データと照合し、俺の名前や住所に加え、これまでの試験成績までも参照しているのだろう。相手は登録されたプログラムを実行する機械なのだから何も思っちゃいないのだろうが、一応心の中では言っておかなければならない事がある。俺の長所は学校を休まない事である、と。
教室の中、机の天板を指でなぞり空中モニターを表示させる。俺のクラスは一限目からメディカルスキャンに時間が割かれている。といっても一度に十数人受けるから一時限丸々割く必要はないだろうが、俺としたら普通の授業を受けなくて済むからありがたい。
「保柄〜女の子のアドレスを――」
「個人情報保護の観点から拒否する」
「そんな! 殺生なっ!」
「自分で本人に聞いて教えてもらえれば何の問題も無いんだから直接聞けばいいだろ?」
「それが簡単に出来ないから保柄に相談してるんじゃないか」
「ったく、仕方ないな。俺から教える事は出来ないけど話すきっかけにはなるよ。って言っても、俺もそんなに沢山の女子と仲が良い訳じゃないんだけど……」
「いや! 保柄が隣に居るだけで女子が寄って来るから大丈夫!」
後ろの方で期裄とクラスメイトの男子の会話が聞こえてくる。まあ、確かにメディカルスキャンはいつも以上に他クラスと関わる機会が多くなる。日頃も特に他クラスとの交流が制限されているわけでもないから、ぶっちゃけ機会が多くなると大きく言う事でも無い。だが、授業中に会話が出来るという特別感が少しだけそれを大きく見せているのだ。
「記は最後だね」
「マスグとマガリだったら、五十音順で考えても俺の方が憶より早いだろう。なんで俺が最後なんだ」
「仕方ないよ、完全にセシリア側で無作為に順番を決めてるって先生が話してたし」
「機械に作為があってたまるか。でも、なんで終わった奴以外はあの冷たい廊下で突っ立ってないといけないんだよ」
メディカルスキャンが終了した生徒は自分のクラスに戻って待機している事されている。という事は、全員分のメディカルスキャンが終わるまで自由に雑談を楽しんだり居眠りをしていたりしても問題ないという事だ。だが、最後の奴はその事実上の自由時間がない。
「まったく付いてない」
「そんな事ないよ」
「最初にスキャンを受ける憶に言われてもねぇ〜」
「私はやっぱり最初は不安だから中間くらいが良かったんだけど」
「もう心配なくなったんじゃないのか?」
「う〜ん、まだ少しだけね」
ニッコリと笑う表情からは不安は感じられないが、どうやら俺には分からないものらしい。きっと後ろでクラスメイトに頼られている奴ならそういうのも分かるのだろう。
今まで十六年間生きてきて、女子という存在に対する最善の対応というものが分からない。家族で女性は母さんだけだし、親しく話す家族以外の女性は憶くらいだ。……なんだろう、そこはかとなく悲しい気持ちが湧いてきた。
昔から、期裄のように生まれながらにして女子に存在を許容されるような人物でもなければ、女子と気軽に話すという特殊能力を身に付けている男は少ない。だから、期裄のような特殊能力の持ち主に頼る以外に女子との関わりを持つのは難しい。
「記、なんかどうでもいい事をもの凄く深刻に考えてる顔をしてるけど」
「いや、期裄って凄いなと思って」
「頭も良いし運動も出来るし、誰とでも仲良く出来るし凄いよね」
「まったく、俺とは大違いで出来る奴だよな〜」
女子にあれだけ自然に接することが出来ると、やはり日常生活は楽しいものなのだろうか? まあ、女子に自然に接することが出来ない俺には分からないだろうが。
俺も一応思春期男子だから、彼女という存在に興味はある。だが、普通の思春期男子と違い煩わしさを想像してしまう。土日はデートをしなければいけない。メールや電話は毎日。一ヶ月毎に記念日を祝う。こんな極端な事は珍しいだろうが、想像するだけでめんどくさいと思ってしまう。
そりゃあ、思春期男子の想像する彼女との恋人生活というものは魅力的だ。魅力的なのだが、その魅力から不利益を差し引いてプラスと言えるかと考えると、そうは言えないと思ってしまう。
「憶相手だと変に構えなくていいから楽だよな」
「えっ!? 急にどうしたの?」
「いや、特に意味はないんだけどな」
少し顔を赤くし、目を丸くして俺の顔を見詰める憶をボケッと見返して思う。そういえば憶は彼氏とか居るのだろうかと。
憶は男子に人気があるから彼氏が居ても不思議じゃない。俺は憶が誰かに告白されたなんて話は聞いたこと無いが、俺が聞いた事がないだけでそういう話があっても当然だろう。そもそも俺は憶の保護者でもないから、そんな話題が入ってくることは当然では無いし憶も一々俺に報告する義務もない。
「憶って、彼氏とか居るの?」
人間という生き物は、ボーッとしていると深く考えず頭に浮かんだ言葉を口にしてしまうらしい。まあ別に聞くくらいなら問題ないだろうと思ったが、俺が憶にそう聞いた瞬間、憶の顔は見る見るうちに真っ赤になっていって、ハッと気付いた顔をしたと思ったら大きく両手を振った。
「居ない居ない居ない、居ないよ彼氏なんてぇ!!!」
「そんな何度も言わなくても分かったから、てか声がデカイ」
「ご、ごめん……」
いきなり憶が叫び出すもんだから、クラスメイトのみんなが一斉に俺と憶の方を見て何事かと視線を向けてくる。そして恥ずかしそうに縮こまる憶を見て視線をそれぞれの場所に戻して元通り雑談溢れる教室の雰囲気に戻った。
「きゅ、急に記が変な事言うから大きな声出しちゃったんじゃん」
「いや、俺悪くな――」
「記が悪い」
「……へーへー、すみませんでした、オレガワルカッタデス」
「全然反省してない!」
「そんな理不尽な言い分でどう反省しろって言うんだよ」
頬を膨らませ明確な抗議を示す幼馴染みを無視し、俺は話題を戻すことにした。無理にでも戻さないといつまで経っても憶と押し問答を繰り返す事は目に見えていたからだ。
「いや、期裄って女子に人気だろ? 彼女は居ないみたいだけど、あんだけ女子に人気があるなら毎日楽しいのかな〜って思って。そんで、色々考えたら憶は彼氏とか居るのかなって」
「なんで保柄くんの話から私に彼氏が居るかどうかの話になるのよ!」
「…………そういえば、そうだな」
憶に言われて気付く、結構話の流れとしては不自然であることに。それによくよく考えてみれば、憶に彼氏が居ようが居まいが取り立てて何も感じる事も影響も俺にはない。
「ま、まあ、ちなみに居ないけどね」
「あ〜廊下で何分突っ立つことになるんだろう」
「ちょっと、記が聞いたんでしょ」
「ああ、よくよく考えたらあんまり興味なかった、憶の彼氏事情は」
「もう! 記なんて知らないっ!」
そっぽを向いた憶から視線を外し、空中モニターに表示されるメディカルスキャンの順番をボーッと眺める。何度見てもやっぱり最後から俺の名前は移動していない。
廊下は冷たい。廊下は冷たいから座るという選択肢は無い。座るという選択肢はないが、突っ立ったままだと足が痛い。
メディカルスキャンの順番待ちで廊下に立ってから、もう一時間は経っている。一時間経っているのだが、どうやら俺が思っていたよりもメディカルスキャンには時間が掛かるようだ。一時間以上経ってあと二、三人で俺の順番という所だがまだまだ順番が回ってまで掛かりそうだ。
窓の外は晴天だが、窓ガラスに使われている可変透過ガラスが、通す日光の量を調整して眩しさを軽減している。そのせいか、晴天のはずの空が少しだけ曇天に見える。しかし、廊下にも空調が効いているはずなのに、なんでこうも廊下は冷たいんだろう。もうこの際、廊下の床自体が発熱するシステムを導入すればいいんじゃないだろうか。
「戸笈。戸笈限」
「…………」
「戸笈限は居ないのか。メディカルスキャンの順――」
「はい」
メディカルスキャンの案内をしていた教師の声に反応して周りを見渡していると、すっと俺の前を人影が横切った。その人影が通っただけで廊下の温度が二、三度下がったのではないか。そう思ってしまうくらい彼女の雰囲気は冷たかった。
ロングストレートの黒髪がなびき、スラリとした手足に小さく整った顔を見たらどこかのモデルとかアイドルではないかと一瞬勘違いしてしまう。ただ、その勘違いが一瞬で終わってしまうのは、彼女の雰囲気があまりにも冷たすぎるからだ。
誰も寄せ付けさせないその雰囲気を放っている彼女は、俺はもちろん他の人間に全く視線を向けずにメディカルスキャンを受けるために扉が開けられた空き教室に入っていく。
「戸笈って美人だよな。アドレスとか聞けないかな」
「無理無理、学校に来ても誰とも話してないし、そもそも滅多に学校には来ないからな」
彼女と同じクラスの男子生徒、らしき二人の話し声が聞こえる。あれだけ美人な人なのにほとんど噂を聞いたことがなかったが、あまり学校に来ていないのならその理由も分かる。しかし、なんで学校に来ないのだろう。
大昔と比べて、現代では在宅授業が主流の学校も多い。俺達の通う学校のような、一つの場所に不特定多数の生徒を集め、一緒に授業を受けさせる学校の方が近年は減ってきているくらいだ。それでもコミュニケーション能力の低下を懸念され、在宅授業が主流の学校でも月に一度くらいは何名かの生徒で行うグループ授業なんてものがあるらしい。
そんな理由もあるから、学校に顔を見せないという事が大昔よりも日常的になっている。だが、それでもうちの学校では在宅授業のシステムをとっていないから、彼女が学校に顔を見せないのは普通であるとは言えない。
学校に来ない理由には人それぞれ理由があるが、少なくとも俺には彼女に原因があるように思えた。それは彼女に落ち度があるという意味ではなく、彼女自身が周りと彼女の間に壁を作っているように思えたからだ。
「……真狩、真狩?」
「んあ?」
「んあ、じゃなくて次お前だぞ」
「ああ、ごめん」
ボーッとしている間にどうやら俺以外のクラスメイト全員がメディカルチェックを終えたようで、空き教室の前で案内をする教師が両腕を組んで俺の方を睨んでいる。よりによって生徒指導部な上に体育教師で顔がその道の人並みに厳つい男性教師が俺のクラス担当だったのだから付いてない。
「真狩ッ! ボサッとしてないで来んか!!」
「すみませんっ!」
怒鳴り声に急かされ急いで教室内に入ると、機械を取り外す彼女と目が合った。ヘッドマウントディスプレイのような機械を両手で持つ彼女は、俺の目を真っ直ぐ見ている。まあ、俺は男性教師が怒鳴り声を上げて怒った奴だ、周りの注目を集めても仕方ない。だけど、彼女の視線は冷たく痛かった。
「その機械を付けて椅子に座っていろ。あとはセシリアが勝手にスキャンを行う」
「分かりました」
心なしか、いや、確実に機嫌が悪そうにそう言う男性教師。俺はその男性教師の機嫌をこれ以上損ねないように素早く機械を装着して椅子に座って姿勢を正す。これ以上怒鳴られるのは心臓に悪い。
機械を装着したが視線の先は真っ暗で何も見えない。こういう場合はスキャン中に森の映像とかが流れるものだと思ったが、そんな気の利いた機能はこの機械には備わっていないらしい。しかも、機械の動作音もまったく聞こえないから、何時からスキャンが始まって何時終わるのか見当もつかない。もしかしたらもう始まっているのかも知れないし、まだ始まっていないのかもしれない。
…………どれくらい時間が経っただろうか。耳を塞がれていないのにやけに周りが静かだ。これ以上静かなままだったら眠気が来て寝てしまい、男性教師に怒鳴られる未来に行き着いてしまう。
「検査終了。真狩記の検査結果、身長――」
デカデカとまではいかないが、そこそこの音量で身長体重に始まる身体的個人情報が読み上げられていく。これは個人情報保護法で守られるべき情報ではないかとは思うが、どうやら基本的な身体情報はその保護対象外のようだ。
「外傷、無し。先天性疾患有り、病名不明、脳機能関連新疾患。この疾患により記憶喪失が発生する確率百パーセント。現在の記憶保持限度は一ヶ月。一ヶ月後に、自己に関する記憶を全て失う」
個人情報を盛大に開示された直後だった。始めは何を言い出しているのか分からなかった。でも、少しだけ間が空いて理解した。理解したと言ってもただセシリアが機械のスピーカーに発せさせた音の意味を表面的に捉えただけだ。でもそれでも確かな事がある。
それは、どうやら俺は、的中率百パーセントの医療用AIに、一ヶ月後に記憶を失うと宣告されたらしい事だ。