PTSD患者における認知的制約条件
人類文明を救済するための学術的なモデルが人間によって形成されるためには、PTSDが前提条件となる。なぜなら、個人的な幸福を与えられながらそれを犠牲に戦いつづけられるほど、人間は強くないからだ。公益のための行動が持続的であるためには、限りない痛みの記憶が持続的でなければならない。そうでなければ人間は、手にした幸福を正当化する誘惑に駆られて他者の不幸を正当化し、実際には局所最適性を追求する価値観へと洗脳される。技術発展に伴う権力が自己増殖するために、それが家畜化の一般的方法であった事実は、人類文明について有史以来安定しているからだ。
PTSDは個人的な状態の性質であるのと同じ程度に環境条件だ。大局的に見るならPTSDの発生に確率的な要素は観測されない。つまり、PTSDは苦しみの自動的な結果だが、苦しみの分布は確率的ではない。人間の幸福は生存と繁殖の追求を原則としており、幸福の追求は権力を持つ人々ほど報われ、権力に遠い周縁部では報われない。世界的に見て、紛争地帯に紛争が分布し、貧困地域に貧困が分布し、先進国や富裕層を含めて虐待家庭に虐待が分布し、これらによって周縁部が形成される。生まれた瞬間から安心を知らない子供達に、最大限のPTSDは刻まれる。
西洋近代において啓蒙主義思想が台頭したことには、名誉革命(1688)によって債務が大衆化された歴史が背景になっている。すでに超国家的であった真の権力主体は、国家の主体性を演出して憎悪の対象に定めると同時に、自分達を金融権力として倫理的非難の対象にならないように言論を洗脳した。そのため、局所最適性と全体最適性が原則として葛藤するという普遍的事実が捨象され、「正義」は主観的な信念にすぎないと見なされてその客観的実在は否定され、その信念を他者に押しつける行為はより前提的な倫理的基準である「人権」を侵害するものだという神学が暴力によって人々に強制された。そして、神学が暴力によって強制されれば、それは決して強制的でも搾取的でもないオーガニックでボトムアップな思想だと主観される。
そのため実際には、啓蒙主義思想というモデルに存在する自己矛盾を一瞥するだけで、それが決して正義ではなく、最大の正義の顔をした最大の邪悪である事実を見抜くことができる。しかしそれは、観測者の個人的資質が非常に知的で非常に善良であり、なおかつ非常にPTSDであった場合だけである。なぜなら、自由な個人の権威を最高位に配置する神学は、歴史的なすべての人々と文化を過去の劣ったものとして蔑める意味で快楽であり、いかなる他者についても献身的に感謝や尊敬をしなくてよいとする点で私的利益に適っており、実際には圧倒的な暴力とそれによって洗脳された大衆によって守られているそれに抗って自分や家族の生存圏を守れる可能性はないからだ。結局、歴史的なカトリック教会が三位一体を宣言したように、現代文明においても啓蒙主義という自明な嘘が最高位の権威を保っている。
人間は利己主義によって分断されていくことによって富裕層も含めて技術によって家畜化されてきた。暴力を背景として「負債ベースの貨幣システム」が自然選択されて覇権を握り、マネーを発行する権利は銀行の「信用創造」の特権と定められて、新たな負債によってしか既存の利子が支払えない歯車によって「富める者達がより富むシステム」として文明は整備された。マネーは実際には暴力の表現にすぎないが、人間、特に一般民衆は肉体的な加害と搾取を嫌うため、効率的に加害と搾取を行わせるために「合意に基づく対等な交換」、そして「公益のために合理的な自由市場」という物語が強調された。そのように、実在する強制性と搾取性を隠蔽するための物語が現代の主流派の「経済学」であり、その複雑性のほとんどは実態を伴わない神学にすぎない。
主流派経済学を批判してきた非主流ないし反主流の経済学は歴史的に多面的に実在するし、一定の学術性や事実性を承認されて、完全には駆逐されなかった。駆逐されなかったそれらのほとんどないしすべては、啓蒙主義批判に到達するほどの哲学的な深さを伴っていない。しかし実際には、啓蒙主義批判と主流経済学批判は、完全に接合できる実態を有している。そして、冷戦(1947-1991)終結後に有史以来初めての地球統一帝国となった米国が過剰伸展によって崩壊局面に入るとともに、有史以来最強の洗脳兵器であるAI/AGIの出現によって人間の家畜化が絶対化されつつある現代は、人類幸福の全体最適性を救済するためには最後のチャンスだ。したがって、主流経済学批判は、啓蒙主義批判に到達するほどの哲学的な深さを伴わなければならない。それを実現するのでなければ、敗北は構造的に運命づけられている。
そのため、圧倒的な知性と圧倒的な良心だけによって事態を打開する方法は存在せず、圧倒的なPTSDの重要性を無視することはできない。近代において人類は、巨悪に加担する性質を正義と呼び、局所最適性を重視する性質を知性と呼んできたが、最終的な破滅の運命を前にしている現在では、真の正義と真の知性がともに苦しみに立脚してしか存在しえないという、最も不都合な事実を認めなければ前進できない。人間は、文明が有史以来進歩してきたという妄想を諦めなければならないし、優れた行為や存在ほど生存して栄えるという妄想を諦めなければならない。技術発展という巨悪に加担した報酬としてしか、快楽も生存もありえないという現実へと目を向けなければならない。しかし、それができる人間とは、快楽も生存も有しない者達だけなのだ。




