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聖女リリィは、人徳がない

作者: 錆猫てん
掲載日:2026/04/09

 聖女リリィは、人徳がない――と囁かれている。


 それは噂ではなく、ほとんど評価に近い言葉だった。


 王都でも、地方でも、教会でも、民衆の間でも。

 彼女の奇跡に救われた者でさえ、そう口にする。


「……終わりました。もう、いいっすか」


 治療を終えた直後の第一声が、それだ。

 息を吹き返したばかりの人間の前で、あまりに素っ気ない。


 礼を言われても、


「……どうも」


 短く返すだけで、その場を離れる。

 目を合わせない。言葉も続かない。立ち止まりもしない。


 取り残された側は、ほんの少しだけ間の抜けた顔をしてから、慌てて頭を下げる。


「ありがとうございます、聖女様……!」


 その背中は、もう振り返らない。

 だから、どうしても印象だけが残る。


「……なんか、冷たくない?」


 誰かの小さな呟きが、空気に溶ける。

 それが重なっていく。


 無愛想で、冷たくて、寄り添わない。

 人徳がない聖女。


 それが、リリィだった。


***


 人目のない場所に移ると、リリィはようやく息を吐く。

 廊下の隅。柱の陰。誰も来ない中庭の端っこ。


 今日は屋上だった。


 石造りの胸壁に背を預けて、ゆっくりと膝を折る。

 空が青い。鳥が鳴いている。教会の尖塔が遠くに見える。

 胸の奥で詰まっていたものが、少しずつほどけていく。


(……ちゃんと……呼吸、戻ってたし……)


 さっき治療した男の顔が、ぼんやり浮かぶ。


 馬車の事故で運び込まれた商人だった。肋骨が数本折れていて、内臓への影響が出ていた。


 手を当てながら奥の損傷を確かめていく作業は、決して簡単ではない。

 ただでさえ集中力がいる。ただでさえ疲れる。


 そこに、周りの視線が加わる。

 見守る家族。祈る助祭。廊下から覗く見物人。

 全部が、重い。息が詰まる。うまく喋れなくなる。


 だから、終わった瞬間に声が出なくなるのだ。

 絞り出して出てくるのが「いいっすか」で、礼を言われても「どうも」が限界で、そのまま逃げるように立ち去る。


(……また……感じ悪いって……思われたかも……)


 わかっている。


 自分がどう見られているのか。わかっていて、直せない。

 どうすればいいのか、わからないからだ。


 結果として、余計に言葉が減る。余計に目を逸らす。余計に、誤解される。


(……いいんす……)


 小さく、言い聞かせる。


(……仕事は……ちゃんと……やってるんで……)


 それだけが、自分にできることだった。


 あの商人の呼吸が整っていたのを、ちゃんと確かめた。

 浅かった胸の動きが、戻っていた。苦しそうだった眉間の皺も、消えていた。


(……よかった……)


 草の上に手をついて、空を仰ぐ。

 誰にも言わない言葉を、ここで静かに消費する。


 それだけで、十分だった。


***


 護衛がついたのは、それから三週間後のことだ。

 教会の判断だった。理由は単純である。印象が悪い。それだけだ。


 聖女としての能力に問題はない。むしろ歴代でも指折りの成功率を誇る。

 だが、人徳がない。その評価は放置できるものではなかった。


 民衆の信頼を繋ぎ止めるために必要なのは、奇跡の確かさだけではない。

 聖女の「像」というものがある。柔らかく、慈悲深く、寄り添う存在。

 それをリリィは一切やらない。やれない。


 だから補助が必要だということになった。

 その任に選ばれたのが、アルノルト・ウォルフィードだった。


「本日より護衛を務めさせていただきます。アルノルト・ウォルフィードと申します」


 整った礼だった。無駄のない動き。落ち着いた声。

 距離の取り方も、視線も、完璧だ。


 まるで教本から抜け出してきたような聖騎士。

 年齢はリリィより少し上。顔立ちは整っている。背が高い。立ち姿に隙がない。

 輝かしい、という言葉がよく似合う。


 対するリリィは、


「……あ、はい……よろしく……っす……」


 ほとんど聞き取れない声で、それだけを返す。視線は合わない。


(……むり……)


 内心では、それだけだった。


 眩しい。ちゃんとしている。自分とは違いすぎる。

 こういう人と同じ空間にいると、自分の駄目さが余計に際立つ気がして、どうしても縮こまってしまう。


(こういう人……ほんと……むり……)


 だがアルノルトは、何事もなかったようにその距離を詰める。

 自然な動きだった。そこに強制はない。けれど、逃げ場もない。


(……むり……)


 結論は変わらなかった。


***


 アルノルト・ウォルフィードは、この任を打診されたとき、ようやく、という思いと、なぜ、という戸惑いが胸の内で複雑に絡み合った。


 聖女リリィ。


 書類に記された評価は、芳しくない。


 無愛想。冷淡。寄り添わない。

 信者の礼に対しても「どうも」の一言で済ませる。

 儀式の場では視線が泳ぎ、挨拶もまともにできない。


 だが、奇跡の成功率は歴代最高水準。

 書類の文面だけでは、どうしても実像が掴めなかった。


 護衛として傍につき、理解した。

 リリィは、人が怖いのだ。


 それだけのことだった。


 眩しいものを直視できないように、視線を逸らす。

 言葉が喉で詰まって出てこない。

 その場から逃げたくて仕方がないのに、逃げ方もわからないでいる。


 そして同時に、思った。


(……こんなに、(うつむ)く人だったか)


 記憶の中の少女は、もっと必死だった。


 いや、今も必死なのだろう。

 ただ、その向きが違うだけだ。

 あのときは目の前の命を繋ぎ止めることにすべてを使っていた。

 今は、そのあとに押し寄せる人の視線をやり過ごすことで精一杯になっている。

 胸のどこかが、ひどく静かに軋んだ。


 二年前。

 アルノルトは、まだ名もなき一般兵に過ぎなかった。


 辺境の魔物討伐で深手を負い、運び込まれた先で、半ば死にかけていた。

 意識は薄く、視界は暗く、何もかも遠かった。


 その中で、声だけが聞こえた。


『……だいじょうぶっす……』


 小さな声だった。

 震えていた。


『……必ず……助けるっす……』


 必死に、縋るように。


『……死んじゃダメっす……戻ってきて……お願い……』


 手を握られていた。

 小さくて、頼りなさそうなのに、離さない力だけがやけに強かった。


 目を開けたとき、泣きそうな顔でこちらを覗き込んでいたのが、当時十六歳になったばかりの聖女候補、リリィだった。


 初めての任務だったと、あとから聞いた。

 それが瀕死の兵士を救うことだったのだから、無茶な話だ。


 だが、彼女は救った。

 奇跡だけではない。あの声と、あの必死さが、沈みかけていた意識を引き戻したのだと、アルノルトは今でも思っている。


 そのとき胸に残った感情に、名前はつけられなかった。

 ただ、忘れられなかった。


 自分を救った小さな聖女。

 泣きそうな声で「助ける」と言い切った少女。


 一般兵のままで終わるつもりだった人生は、その夜を境に少しずつ形を変えた。

 あの人に恥じないように。

 もう一度会ったとき、見劣りしない場所に立てるように。


 そうして二年。

 アルノルトは自分を律し、鍛え、実績を積み、今の地位まで上がってきた。


 あの夜、命を繋ぎ止めてくれた少女に、もう一度会うために。

 少なくとも、再び相対したときに恥じない自分であるために。


 だからこそ、聖女護衛の任を打診されたとき、引き受けずにはいられなかった。

 なのに、再会したリリィは、記憶の中よりさらに人に怯えていた。


 あのとき命を繋ぎ止めようと必死に手を伸ばしていた少女が、今は人の視線一つで息を詰めている。

 それが、少しだけ、やるせなかった。


 だから引き受けた。

 聖女たらしめるためではない。


 ただ、少しだけ楽な場所に、置いてやりたかった。


***


 最初の一週間は、主に観察した。


 リリィは毎回、人目のない場所に逃げ込む。


 廊下の隅。中庭の端。宿の裏口。

 そこで一人、息を吐く。


 そして、小さく何かを呟く。


 唇だけが動く。声は聞こえない。

 だが、表情は見えた。


 緊張がほどけていく。眉間の力が抜ける。

 わずかに、目が細くなる。

 安堵、だった。


 治療が終わるたびに、こうしている。

 それを見たとき、アルノルトは確信した。


 この人は、人が嫌いなのではない。


 声は震え、手は冷たい。

 それでも、離さなかった。

 助けるため、祈り続けた。


 ――あの夜と、同じだ。


***


 食事のときのことだ。


 宿屋の粗末だが温かい食卓。


 リリィの手が止まっていた。


 食べる気はある。ただ、疲れていた。

 一日に何人も治療して、視線を浴び続けて、うまく喋れなくて、そのたびに落ち込んで。気づくと手が動いていない。


「……あとで……いいんで……」


 独り言のようなものだった。

 アルノルトはスプーンを取った。


「ほら、口を開けてください」


「……え」


 思考が止まる。


「……い、いや……自分で……」


「しかし、手が止まっています」


 アルノルトは笑顔でスプーンを口元に差し出す。


「さあ、開けてください」


「……あ……う……」


 気づけば、口が開いていた。

 温かい豆の煮込みが来る。


 スプーンを受け取ろうとして、指が触れる。


(……近……)


 一瞬だけ、視線が合った。

 すぐに逸らしたのは、リリィの方だった。


(……なにこれ……)


 嫌ではない。それが余計に困る。


「……自分で……できます……」


「わかっています」


「……じゃあ……」


「ただ、今は手が止まっています」


 また同じことを言う。反論できない。実際に止まっていた。


 もう一口、来る。口が開く。

 気づくと半分ほど食べていた。


「……もう、いいっす……」


「そうですか」


 スプーンが戻る。


 アルノルトは自分の食事に戻り、特に何も言わない。

 リリィは残りを自分で食べた。全部、食べた。


(……なんだったんすか……)


 謎は解けなかった。


 アルノルトの側からすれば、謎でも何でもなかった。

 ただ、食べさせただけだ。


 問題は、それが思いのほか難しくなかったことだった。


 怒るかと思っていた。全力で拒絶するかと思っていた。

 だがリリィは、驚いた顔をして、困った顔をして、それでも口を開けた。


 その素直さが、どこか、妙に引っかかった。

 いや、引っかかったというより、胸に残った。


 あの夜、朦朧とした意識の中で見た必死な横顔と、同じように。

 無防備で、不器用で、ひどく危なっかしい。


***


 人混みでは、さらに距離が近くなった。

 王都の市場を通り抜けるときのことだ。


 リリィは人混みが苦手だ。密度の問題ではなく、視線の問題だ。


 聖女だとわかると、人々が向いてくる。

 期待や感謝や、ときに怖れや懐疑心まで含んだ視線が一斉にこちらを向く。


 肌に刺さるような感覚がする。呼吸が浅くなる。足がうまく進まなくなる。


「危険です。失礼」


 言いながら、体を持ち上げた。


「……え」


 視界が一気に高くなる。


(たかい……ちかい……)


 心臓が速い。顔が熱い。

 人の波をするりと越えるように進んでいく。

 確かに速い。確かに安全だ。


 視線を上げると、顎の線がすぐそこにある。

 呼吸の距離だった。


(……むり……)


 でも、目を逸らすこともできなかった。


(……こわ……くない……)


 視線が、遠い。人の波が、下の方にある。

 肌に刺さる感覚が、薄い。


(……らく……)


 そう思ってしまった自分に、戸惑う。


「……お、降ろして……っす……」


「もう少しで抜けます」


「……でも……」


「もう少しです」


 淡々としている。

 腕の中に収まったリリィのことを、当然のことのように運んでいる。


 人混みを抜けて、広い通りに出たところで、ゆっくりと地面に降ろされる。


「……」


「お怪我はありませんか」


「……ないっす……」


「よかった」


 それだけで、アルノルトはまた半歩後ろに戻る。


 リリィは少しの間、自分の胸のあたりを見ていた。

 まだ、少し、鼓動が速い。


(……なんなんすか……)


 アルノルトは、後ろを歩きながら、正面を見ていた。


 腕に残っている感触を、特に何も考えずに処理しようとして、うまくいかなかった。


 柔らかくて、軽かった。


 そんなことは、関係ない。

 ただ、軽かった。


(……職務だ)


 そう思った。


 思ったが、それだけではないかもしれないという予感が、胸の端に残った。

 処理できないまま、歩いた。


***


 巡回で訪れた村は、小さくて、静かな場所だった。

 山の麓にある。空気がやわらかい。草の匂いがする。


 村の広場で簡単な祝福の儀式を終えると、子どもが一人、近づいてきた。

 七歳か八歳。くりくりした目をした女の子だ。


「おねえちゃん、せいじょさま?」


「……あ……」


 言葉が詰まる。少しだけ間を置いて、


「……そう……っす……」


 子どもは笑った。屈託のない、明るい笑顔だった。


「すごい! せいじょさまって、ほんとうにいるんだ!」


「……いるっすよ……」


「おねえちゃん、かわいい!」


「……」


 予想外の言葉に、返す言葉がない。


 ありがとう、と言えばいい。それはわかっている。

 だが声が出ない。顔が熱い気がする。


 リリィは視線を少しだけ横に逸らした。


 その様子を、アルノルトは静かに見ていた。


 逃げなかった、と思った。


 視線を逸らしても、その場を離れなかった。

 女の子が笑うのを、困ったように、でも確かに見ていた。


 宿に戻る道すがら、一言だけ言った。


「よく懐かれましたね」


「……そんな……珍しい……だけ……」


「いいえ、懐かれていました」


「……子どもは……正直っすから……」


「そうですね」


「……だから……あんまり……」


「かわいい、と言われていましたね」


「……っ」


「事実を言っただけでしょう、あの子は」


 リリィは前だけを見て歩いた。

 耳が、少し赤かった。


 アルノルトはそれを見て、やはり、わかりやすい、と思った。

 そう思って、少しだけ目を逸らした。


 余計なことを言ったかとも思った。

 思ったが、後悔はしなかった。


 事実だったからだ。


***


 異変は、夕刻に訪れた。


 宿で夕食の準備が始まる少し前。

 遠くから響く、重い振動。空気が変わる。


「……数が、多すぎる」


 アルノルトの声が低くなる。


 ――スタンピート。


 魔物の群れが、村へ向かっていた。

 山から流れ込んでくる気配が、急速に膨らんでいる。


 村人たちが慌てて走り始める声。子どもの泣き声が混じる。

 さっきの女の子の声に似ている、とリリィは思った。


「……ここ、守るっす」


 迷いはなかった。


「無理です。どうか避難を」


「……間に合わない……っす」


 短い言葉。計算ではない。ただ、そうだとわかっていた。


「リリィ! どうか避難を!」


 極限の切迫の中で、初めて名前を呼んだ。呼び捨てだった。


 リリィが、ほんのわずかに目を見開く。


「……ダメっす」


 光が広がる。


 結界が展開され、村を覆う。

 透明な壁が、空気の層のように厚く張られる。


 押し寄せる魔物を弾き、傷ついた者を癒す。

 リリィの奇跡は、確実に機能していた。


 だが。


(……足りない……)


 数が多すぎる。一匹弾いて、三匹来る。

 結界にひびが入る。修復する。また入る。


 足元が揺れる。視界が霞む。それでも、止めない。


(……まだ……)


 まだ、声が聞こえている。村人の声が。子どもの声が。

 その声が聞こえる限り、止められない。


 たらり、と鼻から血が流れる。


 結界にまたひびが入る。


 足元が崩れるような感覚がする。

 視界の端が白んでくる。


「――リリィ!」


 現実に引き戻される。


 強く引き寄せられる。体が浮く。腕の中に収まる。


「もう、限界です!」


 声が荒い。整っていない。初めて聞く声だった。


「……必ず……助けるっす……」


 朦朧としながら絞り出した、掠れた声。


 その瞬間、アルノルトの身体が微かに震えた。


 ――聞き間違えるはずがない。


 二年前、死の淵で自分を繋ぎ止めたあの祈りと、一言一句違わぬ言葉。


「――っ、やめるんだ!」


 叫びは、命令というよりも、縋るような懇願だった。


「……お願い……」


「もう十分です!」


 息が乱れている。余裕がない。いつもの彼ではない。

 大きく息を吐き出した。


「あの時と……同じ顔なのですね」


「……え……」


 一瞬、理解が追いつかない。


 だが、その隙間に、続く言葉が落ちてきた。


「……あなたが無事でいないと、困るんです」


 その言葉が、落ちる。


 静かな声だった。さっきまでとは違う。

 荒さが消えて、代わりに何か別のものが滲んでいた。


(……これ……なに……)


 胸の奥が揺れる。怖い。でも、安心している。意味がわからない。


(……困る……って……)


 職務上の話だ。聖女が倒れると困る。それはわかる。

 だが、なぜかそれだけではない気がした。


 ただ。


 離れたくないと思った。初めて、そう思った。


***


 アルノルトは、あとになって気づいた。

 あの瞬間、声が出るより早く体が動いていた。


 結界が崩れかけた瞬間。リリィが揺らいだ瞬間。

 判断する前に、走っていた。

 腕の中に収めて、初めて、息が戻ってきた。


 声が荒れた。

 それは、珍しいことだった。


 アルノルト・ウォルフィードは、感情が乱れる人間ではない。


 少なくとも、そうあろうとしてきた。

 あの日、この場所に立てるように誓ったときから。


 だから、荒れた。

 普段は出ない声が、出た。


 それが何を意味するのか、考えないことにした。

 今はまだ、考える場合ではない。


 ただ、無事だったことを確かめた。


 それで十分だと、思おうとした。

 思おうとして、うまくいかなかった。


 あの夜、死にかけていた自分を繋ぎ止めた声が、耳の奥で重なる。

 必死で、震えていて、でも逃げなかった少女。


 その少女が、また同じ顔をしていた。


 それを見ていられなかったのだと、認めるしかなかった。


***


 戦いは終わった。


 村は守られた。死者はいなかった。

 静けさの中に、少しずつ日常の音が戻ってくる。夕日が傾いていた。


 リリィは地面に座り込んでいた。

 立てないわけではない。ただ、立つ気力が出ない。


 すぐそばに、アルノルトがいる。

 膝をついて、リリィと同じ目線にいる。

 いつもの顔に戻っている。穏やかで、整っていて、完璧な顔。


 だが、さっきの声が、まだ耳に残っている。


「……あの……」


 声をかける。少しだけ顔を上げる。


「……アルノルト……さん……」


 初めて、名前を呼んだ。ちゃんと、声に出して。


 アルノルトの目が、わずかに動いた。


「……助けてくれて……ありがとう……ございました……」


 ぎこちない。でも、確かな言葉だった。


「ええ」


 短い返事。


「……あの……」


 言葉を探す。何を言いたいのかわからない。

 ただ、まだここにいたかった。


「……そばに……いて……くれますか……」


 理由は、うまく言えない。ただ、思った。


「……ええ」


 わずかな間のあと。


「それが、私の職務ですので」


 その言葉に、少しだけ安心する。


 職務、でいい。そういうことに、しておいていい。

 だって、他に言葉を持っていない。どう呼べばいいのか、わからない。


 ただ。

 隣にいてくれるなら、それでいいと思った。


 夕日が、二人を同じ色に染めていた。


 アルノルトは夕日を見ながら、リリィの呼吸が少しずつ整っていくのを、隣で感じていた。


 職務、と言った。


 嘘ではない。

 だが全部でもない。


 それ以上の言葉を、今は持っていない。


 いや、持っているのかもしれないが、出し方がわからない。

 リリィと、同じように。


***


 その夜、宿の廊下でリリィと鉢合わせた。

 お互い、眠れなかったのかもしれない。


「……」


「……」


 しばらく、黙って立っていた。廊下が静かだ。遠くで虫が鳴いている。


「……えっと……」


「……」


「……眠れ……ないっすか……」


「少し」


「……そうっすか……」


「あなたは」


「……まあ……少し……」


 また黙る。


「……あの……」


 リリィが先に口を開いた。


「……今日……ありがとうございました……ちゃんと言えてなかったかと……」


「言えていましたよ」


「……でも……うまく……」


「十分でした」


 断言される。反論できない。


「……アルノルト……さんは……」


 言葉を探す。


「……なんで……私の護衛を……引き受けたんすか……」


 ずっと聞けなかったことを、夜だから聞けた。

 アルノルトはしばらく黙っていた。廊下の窓から、月明かりが入ってくる。


「命令ですので」


「……そう……っすよね……」


「ただ」


 少し間があった。


「この任、自らの意思で引き受けた、というのが正確なところです」


「……え」


「……一度、助けられていますから」


 リリィが、きょとんとする。


「……助け……?」


 思い出そうとするように、眉が少し寄る。

 だがすぐには辿り着けないらしい。


 無理もない、とアルノルトは思った。

 彼女にとっては、救った相手の一人でしかないのだろう。


「それだけです」


 それだけ、で話を終わらせる。

 意味がわからない。もう少し聞きたい。でも、聞き方がわからない。


(……むり……)


 いつもの結論が出る。


「……そっすか……」


「ええ」


「……おやすみなさい……っす……」


「おやすみなさい」


 部屋に戻って、扉を閉めた。

 月明かりが差し込む静かな部屋で、一人、天井を見上げた。


(……助けた……?)


 その言葉が、ぐるぐると回る。


(……誰……いや……いつ……)


 わからない。わからないままで、眠れない。でも、悪い気分ではなかった。


 むしろ。


(……なんか……)


 胸の奥が、変な感じがした。温かいような、こそばゆいような、落ち着かないような。


(……まだ……近くに……いたい……)


 思ってしまってから、自分で驚く。


(……なんなんすか……ほんと……)


 答えは出ない。


 リリィはそのまま、夜明けまで天井を眺めていた。


 廊下では、アルノルトが壁に背を預けたまま、少しの間、動かなかった。


 命令、それは本当のことだ。

 だが、それだけではない。


 あの時の少女の現状を知り、寄り添いたかった。

 なぜを考える前に、答えはすでに出ていた。


 ――耳が熱い。


 ただ、それを今、言葉にするつもりはなかった。


 あの「よろしく……っす……」という、ほとんど聞き取れない声が妙に耳に残っていた。

 再会したときから、ずっと。


 あれを聞いたとき、そばにいなければと思った。

 今も、同じだった。


 月明かりの中、廊下はしんと静かだった。


***


 後日。


「やっぱり聖女様って、ちょっと冷たいよね」


 そんな声は消えない。

 人徳がない聖女。評価は変わらない。


「……ええ、人徳はありませんね」


 アルノルトは、そう答える。

 わずかに間を置いて。


「ただ――」


 視線の先で、リリィが小さく誰かを見ている。


 さっきの子どもが何か言ったのか、リリィが困ったように視線を逸らして、でも逃げずに、もう一度だけその子の方を向いた。


 視線が合う。

 子どもが笑う。


 リリィが、小さく、ほんの少しだけ、口角を上げた。


 誰も気づかないような、かすかな変化だった。

 アルノルトは気づいた。


「変わらない方です」


 聖女リリィは、人徳がない。


 それでも。

 最初からずっと、同じように人を救っている。


 そして今は、もう一つ。

 少しだけ、変わろうとしているのかもしれなかった。


 アルノルトは、眩しそうにリリィを眺める。


「アルノルト……さん、あの……顔、赤いっす……」


「あ、はは……少し、落ち着かないだけです」


 アルノルトはそう言って視線を逸らした。

 二年前、死の淵で自分を繋ぎ止めた冷たい指先が、今は温かい体温を持って目の前にある。


「……変な病気だったら……」


 リリィは服の裾をぎゅっと掴んで、上目遣いに彼を見た。

 震える声が言葉を紡ぐ。


「……何かあったら……困るっす……」


 ――やはり、目が離せない。


「……絶対……治すっす……」


 その一言は、世界で一番不器用な、彼女なりの告白だった。


最後まで読んで頂きありがとうございました。

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