第三話 屋台街でのトラブル
庭園での観光を終えて、昼食のために向かったのは屋台街だ。
屋台街に足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった。
先ほどまでの庭園が春ののんびりした陽気だとしたら、この屋台街は夏祭りの熱気だ。
香ばしく焼ける肉の匂いと、甘く煮詰めた果実酒の香り。煮込み料理らしき混沌とした食欲をそそる香り。広めの石畳の通りの両脇には色とりどりの布を張った屋台が連なり、客引きの声と笑い声が波のように押し寄せてくる。
ガヤガヤした熱気は旅行気分をかなり盛り立ててくれる。
ああ、縁日みたいだ。屋台街なのだからそう見えて当然なのだけど、どこか懐かしい縁日に似た熱気に、思わず胸の奥がくすぐられた。
「はぐれないように、必ず二人一組で動いてください。撮影は屋台の外観まで、中は店主さんに翻訳アプリを使って一声かけてからお願いします」
ここでの注意事項を口にしながら、私は参加者たちの表情を確認する。みんな興奮気味で、視線はすでに食べ物に釘付けだ。――大丈夫。想定内。ここまでは、いつも通り。
「ではここで各自昼食をお願いします」
という私の言葉の後に、わっと全員屋台街へと散らばっていった。
二人一組になって屋台街へ散らばっていくお客さんたちの姿を見送りながら振り返るとリウさんがいた。
私の少し後ろで、リウさんが周囲を見渡していた。庭園で見た穏やかな表情とは違い、屋台街では視線が鋭く、無意識に人の流れを読んでいるのが分かる。警備のプロとしての顔だ。
そのときだった。
私の耳に、明らかに空気の温度が変わる声が届いたのは。
怒気を含んだ声だった。
「待て。――それは、違う!」
通りの中央寄り、干し肉を吊るした屋台の前で、人だかりができている。
ツアー客の一人が、困ったように手を広げ、屋台の店主らしき獣人が低く唸るような声で何かを言っていた。
まずい。
私は反射的に足を向ける。
「失礼します。どうしましたか」
地球側の言葉で声をかけつつ、視線だけで状況を拾う。
屋台の卓上には、串刺しにされた焼き肉が二本。すでに一口かじられている。
「これ、試食だと思って……」
参加者の男性が小さく言った。
悪気はない。完全に、文化の違いだ。
この世界では――屋台の食べ物は、原則として買ってから食べる。
庭園で説明したけれど、興奮状態では抜け落ちやすい部分でもある。
私はすぐに補足しようとして、言葉に詰まった。
値段はいくらだ。
この屋台は現金のみか、それとも観光用の換金札が使えるのか。
しかも店主は、明らかに苛立っている。
一瞬の迷い。
その隙を、低い声が埋めた。
「――代金は、こちらで支払います」
いつの間にか、リウさんが店主の前に出ていた。
店主と同じ言葉で、落ち着いた調子で何かを告げる。
獣人の店主は一度リウさんを睨み、それから彼の胸元の徽章に目を落とした。
空気が、ふっと緩む。
「案内者の不手際だ。……だが、我々の説明も不足していた。申し訳ない」
「いや……管理官さんにそこまで謝られることでもないんだが……。こちらも短気だった。この国の常識とは違う場所から来た観光客だもんな」
「そういってもらえると助かる」
リウさんはそう続け、私の方を一瞬だけ見た。
責める色はない。ただ、「任せろ」と言うような視線。
私はすぐに頷いた。
「申し訳ありません。こちらで正式に購入させてください」
店主は短く鼻を鳴らし、肉の串を差し出した。
トラブルは、それで収束した。
……助かった。
騒ぎが収まると、先ほどの参加者の男性が、ばつが悪そうに私とリウさんに頭を下げた。
「……本当に、すみませんでした。ちゃんと説明、聞いてたつもりだったんですが」
「いえ、大事にならなくてよかったです。次からは、気になるものがあって分からなかったら先に声をかけてくださいね」
そう言うと、男性は何度も頷き、連れの人と一緒に別の屋台へと向かっていった。
周囲の視線も徐々に散り、屋台街は再び、賑やかな喧騒を取り戻す。
私は、ふっと息を吐いた。
「本当にありがとうございました、リウさん」
「いえ。こちらの国で起きたことですから」
そう言いながら、彼は屋台の並ぶ通りを見渡す。
さっきまでの張り詰めた空気はなく、少しだけ肩の力が抜けているように見えた。
「――ところで」
不意に、リウさんがこちらを向いた。
「あなたも、何か召し上がりませんか?」
「え?」
「着いてから、ずっと案内と対応ばかりしてますよね。さすがにそろそろ空腹でしょう」
一瞬、言葉に詰まる。
仕事中だ、という意識が先に立つ。でも――。
屋台から漂ってくる香りが、否応なく食欲を刺激してくる。
焼き立ての肉。香草の匂い。甘い果実の湯気。
「……そうですね。少しだけなら」
私がそう答えると、リウさんは小さく頷いた。
「お好きなものは?」
問いかけは穏やかで、けれど不思議と逃げ道がない。
“遠慮しなくていい”と言われている気がした。
「好き嫌いは特にないです。じゃあリウさんのおススメのものをお願いできますか?」
「じゃあ……あの、屋台のサンドイッチはどうですか?こちらの果物をメインにしたものなんですが」
「果物もサンドイッチも大好きです」
私が笑うと、彼は「分かりました」とだけ言って、屋台に向かって先に歩き出す。
その背中を見ながら、胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
ああ、この人は気配りも仕事もできる真面目な人なんだ。
「篠原さん。甘い果物と少し酸味のある果物とどっちが好きですか?」
屋台の前でリウさんに並んで、見知らぬ果物を見る。
地球の果物に似たものもあるけど、どうせならこちらでしか食べられないものを食べてみたい。
「どっちも好きなので迷いますね……」
「では、両方使ったものにしましょうか。店主、このグビダとメーロンのサンドイッチを二つ」
「はい、まいど!お、リウさんじゃないですか。今日は仕事ですか?」
どうやら顔見知りらしい。
「ああ。今回は地球の日本からの観光ツアーの管理役だ」
「ニホン!女王陛下を助けてくれた国じゃないか!じゃあ、こちらのお嬢さんが地球からの?」
「は、はじめまして。地球の日本と言う国の旅行会社で働いている篠原 紗良といいます」
「そうかい。ならこいつはおまけだ」
店主のおじさんが、真っ赤な果実を袋に入れてくれる。
「うちの女王陛下の恩人の国だからな!こいつはルビーワルツって名前の果物で、女王様が好きなんだ。ぜひ食べてみてくれ」
それを聞いていた影があったことにまだ私は気づいていなかった。
こういうのは断るほうが返って失礼に当たる。好意は素直に受け取ろう。
「ありがとうございます、頂きます」
と、私の横では、リウさんがサンドイッチのお金を払っていた。
「リウさん、私の分は自分で出します」
「いいえ、ここは私にご馳走させてください。この国の味を知っていただいて、次に来た時にも楽しんでほしいので」
「次、ですか?」
「ツアコンのお仕事をされているのなら、またいらっしゃる機会もあるでしょう?」
リウさんにそう言われて、そうだ、仕事なのだから二回目以降の可能性だって十分ある、と思い至った。
――仕事中なのに。
サンドイッチを一口かじると、果実の甘みと酸味が広がった。パンも柔らかくて甘い。
「……美味しい」
「口に合いましたか」
真面目な顔のまま、リウさんが確認するように聞いてくる。
この人はきっと観光客が安心して楽しめるかどうかを、常に考えている。
トラブルが起きれば先に立ち自国側にも頭を下げそれでも誇りは失わない。
私の理想とする現地での案内人だった。
――この人がいるなら。
この三日間は、きっと大丈夫だ。
そう思えたことが今日いちばんの収穫だった。
そしてその安心が、思ったよりも胸の奥に残っていることに、私はまだ気づかないふりをした。
この時まだ私は屋台街の影にある悪意ある視線に気づいていなかった。
袋の中のルビーワルツ、という果物が、ブドウに似た味がしてとても美味しかったことしか覚えていなかった。




