第十一話 最後の観光と帰還ゲートへ
水中遊覧船のイメージは、北海道に行った時に乗った、支笏湖の水中遊覧船です。
フォルナ湖は、王都から馬車で一時間ほど走った場所にあった。
森を抜けた瞬間、視界が一気に開ける。
「わあ……」
思わず声が漏れた。
目の前に広がる湖の美しさに歓声が挙がる。
湖の水は信じられないほど透き通っていて、岸辺からでもかなり深いところまで見える。
青というより、どこか淡い翡翠色のような色をしていた。
「すごい……湖なのに、こんなに透明なんですね」
「フォルナ湖は、この国でも特に透明度の高い湖として有名なんです」
リウさんが静かに説明してくれる。
以前、国内旅行で、北海道のツアーへ行ったときに支笏湖を観光したことがあるけれど、支笏湖に負けないくらい透明度が高い湖だった。
そう、まるで、水の中に空があるような……。
「風のない日は、数十メートル以上先の湖底まで見えることもあります」
「そんなに……?すごいですね……」
湖面を覗き込むと、確かに水の中の岩や水草がはっきり見えている。
波がゆらりと揺れるたび、光が水の中で揺れていた。
湖畔の桟橋には、観光用の水中遊覧船が何隻か停泊していた。
「皆さま、これから水中遊覧船にご案内します。船底の窓から湖の中を見ることができますので、ぜひお楽しみください」
私がそう案内すると、ツアー客の皆さんが楽しそうに船へ向かう。
船の中に入り、狭い階段を降りると、船底の観覧席に出た。
「おお……!」
誰かが声を上げる。
船底の窓いっぱいに、水の世界が広がっていた。
地上から見るのとはまた全然違う感動だ。
透き通った水の中に、大きな岩がごろごろと転がっている。
その隙間を、小さな魚の群れがゆらゆらと泳いでいた。
まるで水族館の水槽を覗いているみたいだ。
でも、これは違う。
本物の湖の中だ。
船がゆっくりと進むと、湖底の景色が少しずつ変わっていく。
岩場の奥、湖底の崖のような場所に差しかかったときだった。
「……あれ?」
窓の向こうに、何か人工的な形が見えた。
丸く削られた石の壁。
貝殻のような形の屋根。
それがいくつも並んでいる。
「皆さま、ご覧ください。あちらが水の民の街です」
船内の放送がそう教えてくれた。
湖底の岩壁に沿うようにして、小さな家々が並んでいる。
以前行ったことのあるアマルフィの街のように、岩壁に張り付くようにして建物が並んでいる。
貝殻や白い石で作られた建物。
水草が街路樹のように揺れていて、丸い窓から淡い光が漏れていた。
そして――。
その間を、何人もの水の民が泳いでいた。
人魚ではない。
足はあるけれど、体はすらりと流線型で、水の中を滑るように進んでいく。
長い髪が水の中でふわりと広がり、まるで水そのものと一体になっているみたいだった。
「すごい……」
思わず呟く。
窓の向こうに広がる光景は、まるで別の世界だった。
異世界に来た実感が、今さらのように胸に広がる。
そのときだった。
ふと視線を感じて、窓の外を見る。
水の民の子どもらしき小さな影が、こちらをじっと見ていた。
目が合うと、くるりと体をひるがえして水の中へ消えていく。
その様子を、隣に立っていたリウさんが静かに見つめていた。
「……珍しいですね」
「え?」
「彼らは、普段あまり観光船に近づきません。……ああ、子供だから好奇心が先に立ったのか……」
そう言いながら、リウさんは私の隣で水の街を静かに見つめていた。
昨日のことでピリピリしているのだろう、ということは分かった。
でも今は、少しくらい肩の力を抜いて、この景色を一緒に楽しんでほしい。
「見て見て!あそこ光ってる!」
窓の外で、水の民の街の灯りがゆらゆらと揺れていた。
カメラをみんな構えてシャッターを押して、この旅の最後の思い出を切り取っていく。
私はリウさんにフォルナ湖のことを教えてもらいながら、お願いしようと思っていたことを口にした。
「あの、リウさん、個人的にお願いがあるんですが……」
「何ですか?」
「この綺麗な湖をバックに写真を撮ってほしいんです」
私のお願いにリウさんは一瞬だけ面食らうような表情を見せて、私のデジカメを受け取ってくれた。
カメラ越しにリウさんに見られている私はとびっきりの笑顔を浮かべるだけだった。
ほら、もう肩も痛くないです、私は大丈夫だから、と笑顔に代えて。
水中遊覧船の観光を終えて桟橋に戻ると、ツアー客の皆さんは口々に感想を言い合っていた。
「いやあ、すごかったなあ」
「湖の中に街があるなんて本当に異世界って感じ!」
「写真めちゃくちゃ撮れた!」
例の一眼レフの青年は早速カメラの画面を確認している。
「うわ……いいの撮れてる。フィルムのほうも現像するのが楽しみだな……!」
その横で木下さんが身を乗り出す。
「見せて見せて!」
みんな楽しそうだ。
私はその様子を見ながら、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
よかった。
本当に。
大聖堂の事件のあと、正直ツアーがどうなるか不安だった。
けれど今、皆さんは笑っている。
この旅を楽しんでくれている。
それだけで、ツアーコンダクターとしては十分だった。
「篠原さん」
隣から声がする。
振り向くと、リウさんが湖を見つめたまま立っていた。
「今回のツアーは、成功でしたね」
「え?」
「皆さん、とても満足している様子です」
静かな口調だった。
「それは……皆さんが楽しんでくれたからですよ」
「いいえ」
リウさんは首を振る。
「あなたがいたからです」
さらっと言われて、私は一瞬言葉に詰まった。
「えっと……それはツアコンとして普通のことなので……」
なんだか照れてしまって視線を逸らす。
その時だった。
「そろそろ帰還ゲートに向かう時間です」
案内スタッフが声をかけてくる。
私は慌てて気持ちを切り替えた。
「皆さま、お待たせしました。これから帰還ゲートへ向かいます。帰還ゲートのフロアにはお土産物を買う場所もありますので、最後の買い物時間をお楽しみください」
ツアー客の皆さんがぞろぞろと幌馬車へ戻っていく。
帰り道の車内は、行きよりずっと賑やかだった。
「帰りたくないなあ」
「もう一泊したいよね」
「次のツアーもあったら絶対来る!」
そんな会話があちこちから聞こえてくる。
私は思わず笑ってしまった。
――ああ、終わるんだ。
このツアーも。
幌馬車はゆっくりと街道を進み、やがて王都の外れにある帰還ゲートの施設が見えてきた。
白い石で作られた門のような建物。
その建物に入り、私は全員分の帰還手続きに向かう。
その間に最後の買い物時間が設けられ、ツアー客の皆さんはみゃげ売り場に散らばっていった。
「では篠原さんは帰還手続きを」
リウさんに促され、私は建物の二階へ向かった。
二階の手続きカウンターは、思ったよりも静かだった。
白い石で作られた広いホールに、いくつもの窓口が並んでいる。
ツアー客は一階の土産物売り場にいるため、この階にいるのは係員と私とリウさんくらいだった。
「帰還人数、七名ですね」
受付の女性が書類を確認しながら言う。
「はい。全員そろっています」
私は名簿を差し出した。
女性は魔導端末のような板に指を滑らせ、手続きを進めていく。
異世界と現代をつなぐゲートだけあって、管理はかなり厳しいらしい。
「帰還ゲートの起動は一時間後です。それまでに皆様を一階の待機フロアへお集めください」
「わかりました」
書類に最後の印が押される。
これで、本当に終わりだ。
ツアーコンダクターとしての仕事は、ここまで。
ほっとしたような、少し寂しいような気持ちが胸に広がった。
リウさんにもう会えない……。
そう思うと、胸の奥がぎゅうっと締め付けられるような感じがした。
「ありがとうございました」
私は軽く頭を下げ、カウンターを離れた。
二階の窓から外を見ると、夕方の光がゲート施設の広場を照らしている。
広場には、さっき乗ってきた幌馬車が停まっていた。
係員の方が馬車の荷台を見ている。
もう全部荷物は下ろしたはずだけど……。
その時だった。
「……?」
窓の外を見ていたリウさんが、わずかに眉をひそめた。
「どうしました?」
「いえ……」
リウさんは視線を馬車の方へ向けたまま、低く言う。
「少し気になることがあります」
「気になること?」
「さっき湖から戻る途中、幌馬車の揺れが少し不自然でした」
「揺れ……ですか?」
「ええ。道の状態とは違う揺れ方でした」
私は首をかしげた。
「何もないならいいのですが……」
リウさんの声は、どこか硬い。
視線はまだ広場の馬車に向けられていた。
「念のため、皆さんがお帰りになった後、馬車を確認します」
「……何もないといいですね」
「そうですね」
そう言いながらも、リウさんの表情は警戒を解いていなかった。
私はその様子を見て、昨日のことを思い出す。
大聖堂での襲撃。
あれ以来、リウさんはずっと周囲に気を配っている。
「……大丈夫ですよ」
思わず口にしていた。
「え?」
「もうすぐ帰れますし。ほら、皆さんも楽しそうにお土産選んでますし」
私は一階を指さした。
吹き抜けの下では、ツアー客の皆さんが土産物売り場で買い物をしている。
笑い声も聞こえてきた。
「もう何も起きませんよ、きっと」
そう言って笑ってみせる。
その時だった。
――ピッ。
小さな音がした。
「……!」
リウさんの目が鋭く細くなる。
「今の音……」
「え?」
次の瞬間だった。
窓の外、広場の幌馬車の下で――青白い光が、かすかに瞬いた。
リウさんの顔色が変わる。
「篠原さん!」
「はい?」
「すぐに皆さんを集めてください!」
「え、どうしたんですか?」
「馬車に――」
リウさんが言いかけた、その瞬間。
広場から、爆発音が響いた。
もうそこに幌馬車はなく、ボロボロに壊れた状態になっていた。
幌馬車があった場所から少し離れたところに鳥居のようなゲートがある。
地球へ帰るためのゲートだ。
爆発音は何度も響き、その音は帰還ゲートへ向かっていく。
――ぞくり。
背中に冷たいものが走る。
同時に。
「篠原さん!」
リウさんの鋭い声が響いた。
次の瞬間。
空気を切り裂くような音がした。
私は何が起きたのか理解する前に、誰かに強く引き寄せられる。
ぐいっと腕を掴まれ、体が引き寄せられた。
「――っ!」
目の前で、紫色の光が弾ける。
リウさんの肩口から、赤い血が飛び散った。
カラン、と音がして床を見ると、リウさんのメガネが床に転がっていた。
「リウさんっ!」
「……っ!私は、大丈夫、です。篠原さんは……」
「大丈夫です……。リウさんが守ってくれたから……」
「あなたをこれ以上傷つけさせないのが私の仕事です。良かった、あなたが無事で……」
彼の撃ち抜かれた肩は奇しくも私の撃ち抜かれた場所と同じだった。




