クラリスという女の子
クラリスは、よく「物静かなお子さまですね」と言われた。
でも実際のところ、自分では「静かにしている」というより、ただ観察しているだけだった。
正直なところ、この世界の“ノリ”に、まだ慣れていなかったから。
ある朝目を覚ましたときから、前世の記憶が鮮明にあった。
事故で命を落とし、転生してしまったこと。
岸田梨沙という名前で、東京のデザイン事務所で働いていたこと。
そして、元カノがプレイしていた乙女ゲーム『Lumière d’amour〜愛の光〜』の中に来てしまったという事実。
冗談じゃないよ…なんでよりによって、“クラリス”なの…?
クラリス・ヴァルトリエ。
主人公が攻略する王子の婚約者候補。
立場とプライドと嫉妬心をこじらせて、ヒロインをいびり倒す“悪役令嬢”。
ーーうん、たしかに、容姿はそれっぽい。
金髪に薄紫の瞳。透き通るような肌と、完璧に整った顔立ち。
鏡の前に立つたび、思った。
…こんな見た目で人をいじめるとか…逆に説得力あるじゃない…悔しいんだけど!
使用人ににこやかにお礼を言っても、「まあ、クラリス様が微笑まれた!」と驚かれ、
刺繍が苦手で「ちょっと飽きた」と言えば、「まあ、お気に召しませんのね……」と悲壮な顔をされる。
悪役令嬢になる前とはいえ“前のクラリス”が、どれだけ手がかかる子だったのか、想像に難くなかった。
ーー私は、別に怒ってないし、イライラもしない。
ーーというか、嫉妬もヤキモチも湧かない。
だって、王子が誰を好きでも、私は微塵も興味がない。
それよりも。
書庫で見つけた、古い薬草の図鑑や、魔術理論の本を読んでいるときの方が、よほど心がときめいた。
「クラリス様、お外でお人形遊びをなさっては?」
「いいの。今日は“ダグラスの魔導式”の続きを読むから」
そんな調子だったから、乳母は頭を抱えていたし、母親は「おかしいわね…この子、昔はもっとやんちゃだったはずなんだけれど」と不安げだった。
ーーそう。
クラリスは変わってしまった。
前のクラリスではない。
けれど、だからこそ希望も持てた。
嫉妬しない私が…怒鳴らない私が…誰かを踏みにじらない私が、ようやくクラリスという名前を、静かに受け入れられた気がした。
(この名前、嫌いじゃないかも)