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9 心乱す囁き

 ジルベール様の占いと、アレクシス殿下の口から語られた「不吉の予兆」という言葉は、あたしの心を重く覆い尽くした。


 これまでのあたしは、ひたすらざまあ回避のために目立たぬよう、そして学業もせめてそこそこの成績をキープする程度で乗り切ろうとしてきた。

 だけど、今は違う。迫りくる課題の山を前にして、焦りが募る。



 この学園は貴族の子女が通う場所とはいえ、学業に対する要求は容赦ない。特に、貴族の義務や税制といった、あたしが最も苦手とする分野の授業が多いのが辛かった。

 このままでは、本当に留年してしまうかもしれない。せっかくヘンドリック様にあんな言葉をかけてもらったのに、これでは台無しだ。


 目の前の成績という現実的な問題に加え、あたしを縛り付けているのは、それら全てを上回る、避けようとしても避けられない不穏な『運命の気配』だった。

 なにか大きな力が、シナリオの通り進めさせようと企んでいるようだ。


 そしてその気配はまるで磁石のように、あたしをヘンドリック様、アレクシス殿下、そしてジルベール様へと引き寄せていく。


 学園で彼らに出会うたびに、あたしは心のどこかで「どうか関わらないで」と願っていた。

 なのに、まるで皮肉な巡り合わせのように、彼らとの接点は日増しに増えていく。


 中でも一番、あたしの神経を逆撫でするように距離が縮まっているのは、ヘンドリック様だ。  



 彼に対して抱き始めた恋心は、遠くからその姿を見つめるだけで十分に満たされていた。それなのに、最近はなぜか同じ授業を選ぶことが多くなった。

 偶然、隣の席になることもあれば、課題で声をかけられることもある。

 もちろん、向こうは悪意なく、ただ少し面白いクラスメイトとして、あたしの反応を楽しんでいるだけなのだろう。


 そうわかっている。わかっているけれど。そのたびに、あたしの心臓は煩いほどに脈打つ。



 先日も、古典文学の論文作成でのことだった。

 貴族学園の古典文学は、ただ作品を読むだけではない。当時の詩的な表現の裏に隠された意味、貴族社会のしきたりに合わせた比喩の解釈、そして何より、この時代の完璧な筆記作法に則った論文構成が求められる。

 前世の知識では、文学作品の内容は分かっても、貴族としての形式的な部分がまるで苦手だった。


 古典文学の論文提出を終えたものの、次に迫る試験の重圧にあたしの胃はキリキリと痛み続けている。特に苦手な貴族の義務や税制といった科目は、私にとって大きな壁だった。

 このまま赤点を重ねれば、本当に留年の危機に瀕してしまう。 それは、ヘンドリック様との約束を破ることにも繋がる。


 なんとかして成績を上げなければ。

 けれど、これ以上攻略対象たちとの接点を増やしたくはない。彼らに助けを求めることなど、ざまあ回避を目指すあたしにとっては、自ら破滅へ突き進むようなものだった。


 だからあたしは、人目を避けるように人気のない旧校舎の図書室の隅を勉強場と決め、そこで参考書を広げていた。

 埃っぽい空気と、古びた紙の匂いだけが漂う、ひっそりとした空間。ここなら誰にも邪魔されずに、勉強に集中できるはずだった。



 ペンを走らせ、眉間に皺を寄せながら数字と格闘していると、ふと、柔らかな光が差し込んだように感じた。

 顔を上げると、そこに立っていたのは、まぎれもないヘンドリック様だった。

(なんで……!? ここは、ほとんど誰も来ないはずなのに……!)


 ヘンドリック様はいつもの穏やかな微笑みを浮かべ、だけど瞳の奥に鋭さを潜ませた表情であたしを見つめていた。


「やはり、ここにいたか、コレット。古典文学の論文も、熱心に取り組んでいたようだったが、試験対策か?」


 彼の瞳を正面から直視したことで、心臓は激しく跳ね始めた。

 人目を避けていたはずなのに、なぜこの人が、ピンポイントで自分を見つけ出すのだろう。まるで、避けられない運命に追われているかのように感じた。


「最近、君の様子がおかしい。授業に集中できていないようにも見えたし、かといって友人と騒いでいるわけでもない。何かに悩んでいるようだったからな。まさか、こんな場所で独り、勉強に打ち込んでいるとはな」


 彼はあたしの向かいの椅子を静かに引いた。

  彼の視線は、確かにあたしの手元に向けられていたけれど、そのまなざしは、あたしの困惑を全て見透かしているようにも感じられた。


 そして彼は、あたしが広げていた参考書に視線を落とす。


「この計算式では、少々回りくどい。ここを、こう簡略化すれば……」

 彼はあたしが解きかけていた複雑な税制に関する問題を指し示した。



「ヘンドリック様……なぜ、ここに? あたしに、何か御用でしょうか……?」


 努めて冷静を装って尋ねるあたしに、ヘンドリック様は少しだけ目を細めた。


「いや、特段用があるわけではない。ただ……君のことが、気になっていた。最近、無理をしているように見えたからな」

(気になる……? あたしのことが?)


 その言葉に、あたしの頭の中は真っ白になった。

 憧れの存在からの、予期せぬ言葉。彼は、遠くから見つめるだけで十分だったはずの「アイドル」だった。

 それなのに、なぜこんなにも近くで、こんなにも個人的な言葉をかけてくるのか。


 意図せず、あたしの口から本音が漏れ出た。


「……なぜ、ヘンドリック様は、あたしなんかに、そうして関わろうとしてくださるのですか……?」


 彼の優しさは、いつもあたしの心を揺さぶる。

 しかし、同時にそれは、ざまあへと続く破滅への道筋のように感じられた。

 あたしは、彼との接触を避けたいと願う一方で、彼の優しさを求める自分自身との間で、激しい葛藤を抱えていた。



 ヘンドリック様は、あたしの問いに少し驚いたようだったが、すぐに彼の瞳に真剣な光が宿った。


「ヘンドリック様には、ルイーズ様という、ご婚約者様がいらっしゃいます。あたしなどと、こうして個人的に接触なさるのは、あまりにも……」


 あたしは、震える声でそう問いかけた。


 それが、あたしが抱える最大の疑問であり、恐怖だった。

 ゲームのシナリオでは、彼とルイーズは婚約者であり、その関係は『主人公』が積極的に介入しようとしない限り、揺るぎないものだったはずだ。


 ヘンドリック様はルイーズ様の名を聞くと、その表情に一瞬、明らかな嫌悪と、凍てつくような冷たさがよぎった。

 その感情はすぐに制御されたが、あたしにははっきりと見て取れた。


「……ルイーズとの婚約は、致し方なく受け入れた、外交上の理由によるものだ。私自身の意思が介在したものでは、ない」


 その言葉に、あたしの心臓は再び跳ね上がった。

 致し方なく、外交上の理由。

 その言葉の裏に、深い事情が隠されているように感じられた。


「そして……私が彼女に抱く感情は、ただの政略的な義務感に過ぎない。それ以上でも、それ以下でもない」


 ヘンドリック様は、わずかに顔を俯かせ、低い声でそう言い放った。その声には、確かに微かな苦悩が滲んでいるように聞こえた。


 そして、ゆっくりと顔を上げ、あたしの目を真っ直ぐに見つめた。

 あたしが握っていたペンを持つ手に、彼の指がそっと触れた。ひんやりとした彼の指先が、あたしの熱い指を包み込む。


 そのまま、まるで手を取って導くように、彼の指があたしのペン先を紙の上へと滑らせた。

 その瞬間、あたしの呼吸が止まり、世界から音が消え失せたかのように感じられた。耳の奥で、ただ自分自身の心臓が煩いほどに脈打つ音と、ひんやりとした彼の指先が、あたしの熱い指を包み込む感触だけが、あたしの全身を駆け巡る。


「だが、君は違う。コレット、私は、君自身の本質に惹かれている。それは、私にとって、何にも代えがたい……特別な感情だ」


 彼の言葉が、旧校舎の静寂の中に響き渡る。


 あたしは、その告白に身動き一つ取れなかった。

 ゲームの知識が、音を立てて崩れていくような感覚。


 目の前のヘンドリック様は、ゲームの攻略対象とは違う、生身の人間として、彼女に真っ直ぐな感情をぶつけてきていた。


 ヘンドリック様の言葉は、あたしにとって絶望の淵から引き上げてくれる救いであると同時に、抗えない沼へと、もっと深い場所へと引きずり込む引力のように感じられた。


「あたしは、あたしは……」


 あたしは、目の前の彼に、何も答えることができなかった。

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