8 恋の病と不穏な影
あれから数日が経ったが、私の「恋の病」は悪化する一方だった。
昼間はヘンドリック様のことばかり考えてしまい、授業どころではない。夜は寝ても覚めても彼の面影がちらつき、鏡に映る自分の顔は日に日にやつれていくようだった。レポートの締め切りも迫るし、学業がおろそかになっている。
この恋が、本当にあたしを「ざまぁ」される未来に引きずり込むのではないか。
漠然とした不安が、日増しに募っていく。
あたしは、この状況をどうにか打破しなければと、焦燥感に駆られていた。誰かに相談したい、何かヒントが欲しい。でも、この秘密を打ち明けられる相手などどこにもいない。
そんなことをぼんやり考えながら、学園内のテラスを歩いていると、突然後ろから元気な声が聞こえた。
「おい、ジルベール! 次はどんな面白い結果が出るんだ!?」
振り返ると、そこにいたのは、避けて通りたい攻略対象の一人――第二王子アレクシス様と、その隣に座る銀髪の美青年ジルベール様だった。
アレクシス様はいかにも王子様然とした眩しい笑顔を向けていたが、その表情はどこか周りの空気を読んでいないような、独特の奔放さに満ちていた。
ジルベール様はいつも通り、感情の読めない顔で、静かにアレクシス様を見守っている。
彼らがこの王立学園に通っていることは知っていた。特にジルベール様は、生徒たちの間でひそかに、ミステリアスな美青年として知られていた。しかし、ジルベール様が授業に出ている姿を見ることは滅多になく、謎多き存在として知られていた。
まさか、こんな場所で鉢合わせるとは。
あたしは、ヘンドリック様はもちろん、他の攻略対象とも深く関わるのは避けていた。だって、うっかり彼らに近づいて、ゲームのシナリオ通りに恋が始まってしまったら、元の婚約者たちに「ざまぁ」されてしまうのだから。
しかし、恋の悩みで頭がいっぱいだったあたしは、彼らに気づくのが遅すぎた。
まともに回避する間もなく、アレクシス様が私を見つけ、大声で話しかけてきたのだ。
「おや、コレット嬢ではないか! 先日は我が妹とよい議論を交わしたと聞いたぞ。一度話してみたかった。さあ、ぜひここにかけてくれたまえ!」
アレクシス様は、テラスのテーブルを指差す。そこには、何か複雑な模様が描かれた上質な布が広げられ、中央には水晶玉が置かれていた。
どうやら、彼らはここで占いをしていたらしい。アレクシス様は、何の気兼ねもなく、私をその輪に誘おうとしている。
あたしは咄嗟に「い、いえ、あたしは……」と言い淀んだが、アレクシス様は全く意に介さない。
「そろそろ占いの結果が出るんだ。魔導師が占いをするところを見るのは初めてだろう? 一緒に結果を聞き届けてくれたまえよ」
屈託のない笑顔は、本心から語っていることを物語っていた。あたしの頬がひくついた。
一方で、ジルベール様は水晶玉を深く覗き込んでいる。その白い指先が微かに震え、端正な顔には、一瞬、深い憂いのようなものが浮かんだ。
彼はゆっくりと顔を上げると、アレクシス様に向かって、僅かに眉をひそめた。
「……あまり、良い兆しではない」
ジルベール様の静かな言葉に、アレクシス様は腕を組み、水晶玉を覗き込むように身を乗り出した。表情はみるみる真剣なものになり、すぐに口元で「むむむ……」と唸った。
「不吉の予兆か何かか?これはまた、興味深い状況になったな。しかしジルベール、心配することはない! どんな波乱だろうと、この私がきっと乗り越えてみせるさ! ははは!」
豪快な笑い声がテラスに響く。ジルベール様は、そんなアレクシス様の楽観的な反応に、ほんのわずかに呆れたような、しかし諦めたような視線を投げかけていた。
アレクシス様は、私の方に視線を移すと、屈託のない笑顔で言った。
「そうだ、コレット嬢。君も、自分の未来を占ってもらうといい!ジルベールの占いはよく当たるんだ」
ジルベール様がふと、ゆっくりとこちらに視線を向けた。
その瞳は、吸い込まれるような深い青色で、私の全身を、心の奥底まで見透かすかのように揺らめく。口元は固く引き結ばれているが、その視線は雄弁だった。心臓がドクリと跳ねた。
ジルベール様の言葉を待つ間もなく、アレクシス様が勢いよく腕を組み、ジルベール様の背中を叩いた。
「ほらジルベール、もう一度だ。いい結果を頼むぞ。っと、魔導師は未来を読むもので、操作なんざできないか! ははは!」
魔導師は、通常政の補助をするために占いを行うものだ。それを個人的な理由でジルベール様に占いを命じるとは。
アレクシス様の無茶振りに、ジルベール様は一瞬だけ目を閉じた。その表情には、僅かな困惑と、やはり諦めが混じっているように見えた。
しかし、すぐに彼は水晶玉に手をかざす。その指先が、微かに光を帯びたように見えた。
「見えたぞ……君の未来が。影に潜む、確かな光。それは、新たな影を呼ぶ。惹かれれば、本質が見えるだろう」
ジルベールは水晶玉から顔を上げず、静かに、しかしはっきりとそう告げた。
その言葉は、まるで呪文のように私の心に直接響き渡った。
影に潜む確かな光……それって、まさかヘンドリック様のこと?
隣国の王弟として、後継者争いから逃れるように留学している彼の境遇は、まさに『影』に潜んでいると言える。
けれど、あの優しさや、困っている人を放っておけない正義感は、まごうことなき『光』だった……。
そして、それが新たな影を呼ぶって、やっぱり彼を好きになったら、悪いことが起こるってことなの?
「ははは! 顔色が悪いぞ、コレット嬢。もしや、何か心当たりでもあるのか? まあ、深刻に考えすぎる必要はない! ジルベールはいつも少しばかり大げさだからな!」
アレクシス殿下は、あたしの焦燥などまるで気にする様子もなく、豪快に笑った。その無邪気すぎる言葉に、あたしは余計に混乱した。
「しかし、そうだな……この占いの結果を聞くと、妹のことを思い出してしまうな……」
アレクシス殿下が不意に口にした名前に、あたしの心臓は嫌な音を立てて跳ね上がった。
ルイーズ様。
この物語の『ラスボス』であり、あたしを『ざまあ』に導く悪役令嬢。
「妹は、少し前まで何事にも興味がなさそうだったんだがな。最近は何か興味が惹かれるものがあるのか、機嫌がいいんだ。いつも仮面のような表情のあの妹が楽しそうにしていると、何か不吉な予感がすると思わないか?」
殿下の笑えない冗談に、あたしは背筋が凍った。
まさか、ルイーズ様が機嫌がいいのは、あたしがヘンドリック様を意識し始めたことと関係が……? そして、それが『新たな影』を呼ぶの?
「まあ、兄である私にはいつもそういった話は何もしてくれないから、いつも想像するばかりだけどな! ははは!」
アレクシス殿下は、あっけらかんと笑い飛ばした。その能天気な様子は、ルイーズとの間の距離と、彼自身の無頓着さを浮き彫りにする。
思考の波に呑まれそうになるあたしの前で、ジルベール様は再び水晶玉に触れていた。
彼の視線は、静かに、そして意味深長に、アレクシス殿下の背中、そして、その先の遠い空に向けられていた。