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7 恋する乙女の憂鬱

 図書室でエディーの協力の下、なんとかレポートを仕上げ終えたあの日から、あたしの世界は大きく変わってしまった。


 あれほど嫌で仕方なかった学園生活が、ヘンドリック様を意識するようになってから、まるで別物になったようだった。

 授業中も無意識のうちに彼の姿を探してしまうし、目が合うたびに心臓が跳ね上がる。あたしの世界はまるで別物になったようだった。これまで色あせて見えていた景色が、突如として鮮やかな色彩を帯び始めたのだ。


 彼の「面白い」「素晴らしい」という言葉が、頭の中で何度も反芻される。

 そのたびに、胸がきゅんとして、思わず顔がにやけてしまう。

 あの時、彼の言葉はあたしを救ってくれたけれど、同時に、あたしを甘い檻の奥深くへと引きずり込んだのかもしれない。



 しかし、そんな甘い幻想も、ふと我に返った瞬間に霧散する。


 このままヘンドリック様への恋に溺れて、たとえゲームのシナリオ通りに彼と恋人になったとしても、それは結局、元の婚約者たちであるルイーズ様やミシュリーヌ様たちから、私が【ヒロインとして】「ざまぁ」される未来に直結しているのだ。


 現実のあたしは、恋する乙女の顔に似合わない隈を刻み、学園生活はこれまで以上に危機的だ。食堂の料理は味気なく、夜は彼のことで頭がいっぱいで、一睡もできないこともしばしば。


 それからのあたしは、今まで以上に学園生活に身が入らなくなった。

 もちろん、レポートも討論も真面目に取り組む姿勢だけは見せるが、集中力は著しく低下し、課題をこなす効率も明らかに落ちていた。


 心のどこかでヘンドリック様の姿を探してしまう。

 彼の声を聞けば耳が敏感に反応し、遠目でもその金色の髪を見つけると、胸が甘く締め付けられた。


 教科書を読んでも頭に入ってこないし、ペンを握っても言葉が浮かんでこない。提出期限が迫るレポートの文字が霞んで見える。

 このままでは、本当に留年してしまうかもしれない。せっかくヘンドリック様にあんな言葉をかけてもらったのに、これでは台無しだ。


 ああ、なんて情けないんだ、あたし! ため息ばかりが漏れる。



 そんなあたしの異変に、すぐに気づいたのは親友のフィオナだった。


 午前の講義が終わると、フィオナが心配そうにあたしに声をかけてきた。


「コレット、最近元気ないわね。顔色も悪いし、ちゃんと寝てる? 食事も残しがちだし、もしかして、どこか体が悪いとか?」


 彼女の優しい言葉が心に染みる。

 フィオナは、私の数少ない親しい友人だ。けれど、まさか隣国の王弟であるヘンドリック様に恋をして、破滅が近づいているなんて、言えるわけがない。


「ごめん、ちょっと考え事をしてただけ。気のせいよ、大丈夫」


 あたしは努めて笑顔を作ったけれど、フィオナの目は誤魔化せない。

 彼女は何も言わず、ただじっとあたしを見つめている。その視線に、大きな秘密を抱え込んでいることがどれほど重いか、改めて思い知らされる。

 フィオナの表情に、かすかに悲しみがよぎったように見えたのは、きっと気のせいではない。


 フィオナはそれ以上、私のプライベートに踏み込むことはしなかった。ただ、いつもより少しだけ、あたしに寄り添うように隣を歩いた。


 その日の午後も、あたしが授業で上の空なのを、彼女はじっと見守ってくれていた。あたしは何度か先生の質問に答えられず、周囲のひそひそ声が聞こえるたびに、肩をすくめたくなる衝動に駆られた。



 放課後、フィオナが気遣わしげに尋ねてきた。

「コレット、今日の課題、一緒にやらない? いつもならとっくに終わらせてる時間なのに、まだ資料を集めてるでしょう?」


 図星だった。ヘンドリック様のことで頭がいっぱいなせいで、いつもならさっさと終わらせる課題も、全く手につかない。このままでは、またレポートの提出が遅れてしまう。


「……うん。お願い、フィオナ」


 素直に頼ると、フィオナはにこっと微笑んだ。


 図書室の片隅で、二人並んで課題に取り組む。しかし、あたしの集中力はまるで続かない。

 教科書を読んでも頭に入ってこないし、ペンを握っても言葉が浮かんでこない。


 唸るあたしを咎めることなく、フィオナは黙々と自分の課題をこなしている。時折、あたしが唸っていると、そっと参考になりそうな本を差し出してくれた。その優しさが、かえって自分の情けなさを際立たせる。


 どれくらい時間が経っただろうか。ようやく課題を終え、図書室を出る頃には、空は茜色に染まっていた。窓の外では、夕焼けが学園の屋根をオレンジ色に染め上げていた。


「助かったわ、フィオナ。本当にありがとう」


 心からの感謝を伝えると、フィオナはくすっと笑った。


「いいのよ。困った時はお互い様でしょう? でも、コレット、あまり無理はしないでね。何かあったら、いつでも話して。私、コレットの力になりたいから」


 彼女の言葉が、じんわりと胸に響いた。

 あたしはまた笑顔でごまかすことしかできなかったけれど、フィオナの存在がどれほどあたしにとって大切か、改めて感じた。彼女の温かさが、張り詰めていた私の心の緊張を少しだけ緩めてくれるようだった。



 自室に戻ると、あたしはベッドに倒れ込んだ。

 フィオナの優しさに救われた一日だったが、心の奥底で高鳴るヘンドリック様への想いは、決して消えることはない。

 あたしは、どうにかしてこの恋心を鎮められないかと、無意識のうちに縋れるものを探し始めていた。


 翌日、昼休みに食堂でフィオナと食事をしていると、隣の席の女子生徒たちが楽しそうに話しているのが聞こえてきた。


「ねぇ、知ってる? 図書館の奥の古い書架に、恋のおまじないの本があるんだって!」

「えー、ほんと!? どんなおまじないなの?」

「それがね、満月の夜に、好きな人の名前を三回唱えて、赤いリボンを結ぶと、両思いになれるんだって!」


 そんな他愛もない会話が、あたしの耳には妙に引っかかった。


(おまじない?)

 前世のあたしなら、そんな非科学的なものは一笑に付していただろう。けれど、今のあたしは、藁にもすがる思いだった。

 このどうしようもない恋の熱を、少しでも冷ましてくれるものがあるなら、何でも試したい。


 ちらりとフィオナを見ると、彼女は面白そうにその会話を聞いている。


「コレット、そんなに真剣に聞かなくても。おまじないなんて、信じる人がするものでしょう?」


 フィオナはくすくす笑いながら言った。あたしは慌てて顔を逸らす。

「べ、別に真剣じゃないわよ! ただ、そういう話があるんだなって思っただけ!」


 そう言いながらも、あたしの心は図書館の古い書架へと向かっていた。満月の夜に、赤いリボン……。


 こんな馬鹿げた『お呪い』に縋ろうとしている自分が、なんだか滑稽で、少しだけ哀れだった。

 まるで、この恋を成就させようとする行動そのものが、後にあたしを『ざまぁ』する婚約者たちの逆鱗に触れる『呪い』になるとでもいうように。


 けれど、この胸の苦しみを、どうにかしたい一心だった。漠然とした不安が募っていく。この恋心をどうにかしなければ。そう強く決意するけれど、破滅を避ける具体的な方法は何も見つからなかった。


 その夜、あたしは自室の窓から、ぼんやりと空を見上げた。

 今夜は満月ではないけれど、いつか、満月の夜が来たら、あたしはどうするのだろう。ヘンドリック様の名前を唱える?

 その行為自体が、あたしをさらに深みへと引きずり込むような気がした。

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