6 禁断の恋の始まり
図書室にてエディーの協力の下、無事レポートを仕上げ終えたあたしは休憩のために中庭にいた。
エディーは最近体を鍛え始めたとかで訓練場に行ってしまった。
学園付属の訓練場は、国の騎士を輩出するための、いわゆる体育会系の集会場だ。
そんなところで鍛練だなんて、エディーは一体何を目指しているんだろう。普段の物腰からは想像もつかないストイックさだ。
ぼんやりと空を見つめる。
青い空に浮かぶ白い雲は、まるで絵画のようで、いつまでも眺めていられた。
入学して以降、丸一日穏やかでいられた日はなかった。
一歩間違えれば『ざまあ』される。
分相応に生きられればそれでいいと思うのに、未来に待ち受けるかもしれない『ざまあイベント』や、誰かの悪意という起こるか起こらないか、不明瞭な可能性に怯える毎日は精神を疲弊させた。
ただぼんやりと雲を眺めることは、一時現実から逃避できて心が安らいだ。この静かな時間が、今は唯一の救いだった。
「そこから一体何が見えるんだ?」
背後からかけられた唐突の声にあたしは思わず肩を跳ねらせた。
心臓が喉まで飛び出しそうなほど脈打つ。
声がした方を振り返れば、この学園で一番とも称される美丈夫がそこに立っていた。
眩いほどの金色の髪に、吸い込まれるような碧い瞳。そして完璧なまでに整った顔立ちが、強い日差しを受けて輝いている。まさか、あの攻略対象のヘンドリック様が、あたしの目の前に……!?
ヘンドリック様。彼は今日の授業にて唯一最後にルイーズ様に容赦ない言葉をかけた高貴なるお方だ。隣国の王弟であり、近々我が国と同盟を結ぶとかで、国情視察のために留学しに来られた。
いくらイケメンと言えど、あたしは一切の油断も許されない。なにせ彼はあの、ルイーズの婚約者だからだ。もうおわかりいただけただろう。つまりは攻略対象、だ!
(アッ、ヤバい。ラスボスのテーマが頭に流れてきた!)
違うんです違うんですそんなつもりじゃなかったんです! お許しくださいルイーズ様! と、この場にいない悪役令嬢様に向けて必死に謝罪をした。
と、そんな場合ではない。
高貴なお方の前なのだ。いつまでも座っていては失礼である。
慌てて立ち上がって挨拶をしようと思えば、膝の上のレポートの存在を完璧に忘れていて、地面に白い紙が広がった。
「あっ」情けない声が漏れた。パニックになってしまって何も考えられない。
視界いっぱいに散らばるレポートの束。
エディーに手伝ってもらったレポートだ。一枚でも無くせば彼に申し訳が立たない。せっかく完璧に仕上げたのに、こんなところで台無しにしてしまうなんて……!
しかしここで腰を屈めてレポートを拾い始めればヘンドリック様に対して無礼だ。貴族としての教養が、本能的にそれを拒絶する。
どうすれば、どうするのが正解なの!?と混乱して涙がにじんできてしまった。
レポートとヘンドリック様と、視線をうろうろさせると、彼の手が地面のレポートにそっと伸ばされた。
「ヘンドリック様、な、何を!?」
「何を、と言われてもな。レポートを拾っているのだろう。折角書き上げたものだ。無くすと大変だ」
あたしなんかのために、こんな高貴なお方が腰を屈めるなんて、とんでもないことだ!
あたしも慌ててしゃがみ込み、ヘンドリック様より先に集め切ってしまおうとレポートをかき集める。
最後の一枚を拾うその一瞬、あたしの指先がヘンドリック様の手に触れてしまった。
思わずヘンドリック様の顔を覗き見ると、彼はパチリと一度瞬いた後、緩やかに微笑んだ。
そして、拾い上げたレポートをあたしに手渡した。
「午前の授業では実に面白い話を聞かせてもらった」
彼が話しているのは、まさか、あの、あたしの発言のことだろうか?
混乱と驚きで、あたしは顔を上げることもできず、ただ俯いたまま小さく答えた。
「そんな、あたしの話なんて……」
「いや、いつも本当に興味深く思っている。君の発想は、この学園の誰も思いつかない斬新なものだ。素晴らしいと思う。コレットという名だったな。明日の授業も楽しみにしている」
そう言うとヘンドリック様はくるりと身を翻し、何事もなかったかのように立ち去ってしまった。
残されたあたしの心臓は、まだ激しく鼓動を打っていた。頬が熱い。彼の姿が完全に見えなくなるまで、あたしはただ立ち尽くしていた。
たかだかレポートを拾ってもらっただけだ。たかが名前を呼ばれただけだ。
なのに、なぜこんなにも胸騒ぎが止まらないんだろう。こんな些細なことで、あたしの心は大きく揺さぶられていた。
でも、彼の口から紡がれた『興味深い』という言葉が、まるで乾ききった大地に染み込む水のように、あたしの心にじんわりと広がっていく。
これまで、誰からも評価されることのなかった、取るに足らないと思っていた自分の考えを、この、学園で最も高貴で、そして聡明なヘンドリック様が認めてくれた。その事実だけで、胸が熱くなる。
彼の言葉は、今まで誰もかけてくれなかった、あたしの未熟な発想に光を当ててくれた。自己嫌悪にまみれていた心が、ふわりと浮き上がるような感覚。
ああ、こんなにも温かい言葉をかけてくれる人がいるなんて。こんなにも私を、私自身を見てくれる人が。
きっと恋なんてそんなしょうもないことから始まる。
「どうしよう……あたし、好きになっちゃった」
よりにもよってヘンドリック様を。最も好きになってはいけない方を。