43 魂の執着と、真紅の涙
学園の敷地は、数日前までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
学内パーティーの仕切り直しと、それに続く長期休暇のため、ほとんどの生徒はそれぞれのタウンハウスや実家へと一時帰宅している。
遠方に実家を持つあたしは、そのまま学園に残ることを選んだ。
あの夜の出来事が、あたしの心の中でゆっくりと、しかし確実に形を変えていた。
ルイーズ様が語った真実、ヘンドリック様へのあたしの想い。
激しい感情の波は少しずつ凪ぎ、あたしはそれらを一つ一つ、丁寧に心の中に収めていった。
王族の妾の子として生まれ、前世で光の届かない場所で育った女王の過去。その絶望から生まれた『呪い』が、この世界の歪んだ構造を破壊しようとしているのだとすれば、これ以上、誰かの絶望から『呪い』が生まれるような悲劇を起こしてはいけない。
そのためにも、あたしは、この世界で自分の足で立ち、生きていかなければならない。
午後の柔らかな日差しが降り注ぐ中、あたしは気分転換にと、学園の奥深くにある庭園を散策していた。
人気のない小道をゆっくりと歩きながら、あたしはヘンドリック様のことを考えていた。
婚約者であるルイーズ様の前で、あたしは彼を「心よりお慕い申し上げます」と伝えた。あの時のルイーズ様の穏やかな笑みと、ヘンドリック様への関心のなさそうな態度を思い返す。
ルイーズ様にとって、この婚約とは一体何なのだろうか。かつては『ゲーム』として捉えていたこの世界が、今ではあたしにとって、紛れもない現実として、その重みを増していく。
思考に沈み込んでいると、ふと、木々の葉擦れの音に混じって、穏やかな話し声が聞こえてきた。
こんな場所に誰かいるのだろうか。
好奇心に導かれるまま、あたしは音のする方へと足を進めた。
視線の先に現れたのは、蔦に覆われた古い東屋だった。
そしてその中に、見慣れた二つの影を見つける。ルイーズ様と、その傍らに控えるエディーだ。
二人は人目を忍ぶように、しかし穏やかな雰囲気で言葉を交わしているようだった。
あたしは思わず、近くの茂みに身を隠した。
なぜだろう、二人の会話を盗み聞きするのは良くないと思いつつも、彼らが何を話しているのか無性に気になったのだ。
エディーが東屋の小さなテーブルに丁寧に湯気の立つカップを置いた。ルイーズ様がそれを手に取り、ゆっくりと口に含み、ほっと息をつく。
「以前より、このお茶がお好きでらっしゃいましたよね、女王様」
エディーがつい口癖のようにそう言った瞬間、ルイーズ様はぴくりと反応した。
エディー自身も、しまった、というように小さく肩をすくめる。
ルイーズ様は静かにエディーを見つめた。その瞳に非難の色はなく、ただ、諭すような光が宿っている。
「……申し訳ございません。もう、女王様とお呼びするなと、おっしゃいましたよね……」
エディーは悲しげに目を伏せた。
「そうね。もう、そう呼ばない方がよいでしょう」
「では、なんとお呼びすれば……」
「ルイーズとでも呼びなさい。もう、あなたは私の臣下ではないのだから」
エディーは息を呑んだ。彼の頬が微かに赤らむのが見えた気がする。
「はい。それでは、ルイーズ様、と」
エディーは宝物を扱うように、大事に名前を呼んだ。
その言葉が、東屋の中にじんわりと溶けていく。
ルイーズ様の瞳は、エディーに向けられたまま、微かに揺れていた。
長い間凍りついていた感情の氷が、彼の熱い想いに触れて、ゆっくりと溶け始めているかのように見えた。
二人の間には、あたしには立ち入ることのできない、深く、そしてあまりにも切ない時間が流れていた。
その時、ふと、エディーがこちらに視線を向けた。
彼の視線とあたしの視線が、一瞬、確かに交錯する。
しまった、見つかった――そう思った瞬間、エディーは小さく微笑み、ルイーズ様の耳元に何かを囁いた。
ルイーズ様はゆっくりと振り返り、あたしが隠れている茂みへと、その深紅の瞳を向けた。
「そこにいるのでしょう、コレット嬢。隠れていないで、こちらにいらっしゃい」
その声は、一切の感情を読み取れないほど静かだった。
あたしは観念して茂みから姿を現した。
東屋へと足を踏み入れると、ルイーズ様はあたしが来ることを予期していたかのように、静かに微笑んだ。エディーもまた、穏やかな眼差しであたしを迎える。
「ごきげんよう、コレット嬢。ここ数日は、ゆっくり休めたかしら?」
ルイーズ様が柔らかな声で尋ねる。
「はい、ルイーズ様のおかげで。ただ、数日前のあの夜のお話が、まだ頭の片隅に引っかかっているような状態で……」
あたしが率直にそう告げると、ルイーズ様は深紅の瞳を細めた。
「そう。きっと、あなたにとっては、受け止めきれないことも多かったでしょう。それでも、あなたの顔は、随分とすっきりしたように見えるわ。――まるで、あなたが知っていた『物語』の結末が、思いがけず都合の良い形に収まったとでも、安堵しているかのようにね」
ルイーズ様がフフッと小さく笑った。
薄っすら考えていたことだけれど、ルイーズ様はあたしが『転生者』であることに気付いているんだ。そして、わざとあたしの知る『乙女ゲーム』を『物語』と指して、動揺を誘ってきている。
あたしの口元はひくついた。
彼女は、意地悪であたしのことをからかっている。楽しげな様子からそれがわかる。以前よりルイーズ様がわかりやすくなったと思う。
「とりあえず掛けなさいな。エディー、コレット嬢にもお茶を。それができたらお前も座るといいわ」
「かしこまりました」
エディーはにっこり微笑んだ。
あたしは促されるままに、ルイーズ様の向かい側の椅子に腰を下ろした。
エディーがすっとあたしの前に湯気の立つカップを置き、ルイーズ様から視線で示された、その隣の椅子へと気遣わしげに座った。
あたしは、これまでエディーのことを気安く、気の置けない友人だと思っていたので、ルイーズ様の一言でここまで動く彼の様子に、改めて彼の一面を垣間見た気がして少し意外に思った。
あたしは差し出されたお茶を一口飲むと、思わず「おいしい」と口からこぼれた。
「ハーブティーだよ。ルイーズ様のお気に入りなんだ」
エディーが優しい声で教えてくれる。
「同じ草なのに、あれはどうして飲めたものではないのかしら」
ルイーズ様がぼやくように言った。あたしは首を傾げる。
あたしはこそっとエディーに「あれって何のこと?」と尋ねた。エディーは苦笑いを浮かべて答える。
「森の魔女が出す薬草茶のことだと思うよ。僕もあれは、ね……」
あたしは魔女にお茶を出されていないので、そんなに嫌がるってどんな味なんだろう、と好奇心が顔を出した。
その時、ふと、あの魔女の言葉を思い出す。
「先日ルイーズ様がおっしゃったように、あたしは魔女様に会いました。魔女様は呪いの主を知っているようでしたが、あたしには明かさないと言われました。でも、今ならわかります。魔女様が言っていた方は、ルイーズ様のことだったのですね」
「そう。あの魔女がそんなことを言ったの」
ルイーズ様ははっきり『そう』と答えなかったけれど、あたしの問いは正しいと返した。
「魔女様は続けて、『呪いは薄くなっている』とも言ったんです。だけど、ジルベール様はその反対で、『濃くなってきている』と言っていたんです。これは……」
あたしは紅茶の波打つ表面を見つめた。
「その答えは、エディーが持っているわよ」
「え……?」
思いもよらない名前に、あたしはパっと顔を上げた。エディーは何も言わない。
ルイーズ様はそんなエディーの頬に、そっと手を添えた。
その仕草は、あたしの目には甘やかな情景に見えた。
しかし、ルイーズ様の瞳の奥には、どこか遠くを見つめるような、そして深く決意したかのような光が宿り始めた。その手が、まるで導かれるようにエディーの頬をなぞる。
「――お前、呪ったわね」
ルイーズ様の白い指先が、エディーの頬に食い込んだ。その爪は、肌に痛々しく食い込んでいる。
エディーは苦痛に顔を歪めることなく、ただ困ったように微笑んだ。
それは、ルイーズ様の問い、というよりは確認を、無言で肯定しているかのようだった。
「お怒りになられましたか?」
「呆れたのよ。なにもかも忘れて、やり直せばよかったではないの」
「……耐えられませんでした。ルイーズ様がいらっしゃらない世界など、何の価値も見出せませんでした。あなた様を忘れられた日など、ただの一日もありませんでした。気づいた時には、僕は世界を呪っていて、『ここ』にいました」
エディーの言葉は、熱を帯びていた。
その激情に、あたしはただ立ち尽くすことしかできなかった。
ルイーズ様は静かにエディーを見つめていたが、その瞳の奥には、複雑な感情が揺らめいていた。
あたしは、今、目の前で繰り広げられている真実に、息をすることも忘れそうだった。
彼らの間に流れる空気は、あたしが想像しうるどんな物語よりも、はるかに濃密で、そして残酷な過去を秘めているように感じられた。
あたしは、かつて魔女の小屋で聞いた言葉を鮮明に思い出した。
呪いの原料は、怒りと憎しみと、そして何よりも強い執着心――。
エディーの瞳に宿る、ルイーズ様への途方もない熱と、失うことへの絶望。そしてこの世界で再び彼女と共にいられることへの狂おしいほどの想いを見て、あたしは全てを腑に落ちた。
エディーは、本当に、心からルイーズ様を愛しているんだ。
その愛ゆえに、彼女を喪った悲しみと、もう一度彼女を取り戻したいという、抑えきれないほどの執着が、『呪い』を生み出したのだ。
その呪いによって、ルイーズ様とエディーは、前の世界での記憶と共にこの世界に生まれ戻ってきた。
そして、前の世界とは異なる未来、あるいは悲劇を回避するために、あたしはここに、この世界へと召喚されたのだ。
その時、庭園の奥から、ゆったりとした足音が近づいてくるのが聞こえた。
次の瞬間、東屋の入り口に人影が差し、澄んだ午後の空気に聞き慣れた穏やかな声が響いた。
「コレット、こんなところにいたのか」
その声の主は、ヘンドリック様だった。
彼はあたしたちを見つけると、穏やかな笑みを浮かべ、ちらりとルイーズ様へと視線を送った。以前のように一方的にルイーズ様を責めるような気配は微塵もなく、ただ気遣うような、しかし温かな眼差しを向けている。
ルイーズ様も何事もなかったかのように、その存在を受け入れた。
彼はあたしの隣に自然と腰を下ろすと、少しばかり頬を緩めた。
「学内パーティーだが、仕切り直しの日取りが来週に決まった」
「そうですか! みんな楽しみにしていましたから、よかったですね」
あたしは純粋に嬉しかった。皆の笑顔が目に浮かぶようだ。
そして思い出したかのようにルイーズ様が口を開いた。
「コレット嬢。あの日も言った通り、あのペンダントは趣味が悪いからよしなさい」
ヘンドリック様の眉がぎゅっと寄った。パーティーでの一幕を思い起こしたようだ。
あたしはこれ以上の争いを生みたくなくて、眉を下げながらルイーズ様に問うた。
「ルイーズ様の趣味には合いませんか?」
「そうではないわ。せっかくパートナーの髪に合わせたドレスを用意したのでしょう。それに合うように瞳の色、エメラルドを身に着けるべきと言っているのよ」
それは、あたしたちの仲を肯定する言葉だった。
あたしとヘンドリック様は、目を丸くしたまま顔を見合わせた。
ルイーズ様がこんな風に気を遣うような言葉を口にするなんて、想像もしていなかったからだ。
返事をしないあたしに疑問を抱いたのか、ルイーズ様は小首をかしげた。
「用意は難しいの? それならば私が用意してあげましょうか?」
「いや……結構だ。パートナーの用意一つ、できない男と思われたくはない。自国でない分、間に合うか不安要素はあるが」
「それであれば、僕の後見の家に事情を通しておきましょう。オーダーは間に合わないでしょうが、店の物を手直しすれば間に合うかと」
「ありがたい提案だ。この後店に寄っても?」
「他ならぬ友人のためですから、ぜひ」
ルイーズ様は静かに頷き、視線をゆっくりと巡らせた。まるで何かを確かめるかのように、あるいは次の言葉を探すかのように。
そして、彼女は再びあたしへと向き直り、深く、問いかけるような眼差しを向けた。
「あなたは、この男の優しさを信じると言ったけれど、どうしてそうまで信じられるの? いつか己に裏切られるかもしれない」
ルイーズ様のその問いかけは、あたしにというより、己の魂の深淵を覗き込むかのように、どこまでも重く、そして孤独な響きを帯びていた。
深紅の瞳の奥には、長年押し殺してきたであろう拭い去れぬ傷と、痛ましいほどの諦めが揺らめいている。それは、凍てついた氷の下に隠された、熱い溶岩のようだった。
決して触れてはならないと、彼女自身が固く封じ込めてきた、心の叫び。
ルイーズ様の、こんなにも気弱そうなところは初めて見た。
「ルイーズ様は、何を恐れていらっしゃるのですか?」
「……」
ルイーズ様はしばらく沈黙した。
庭園の木々が風に揺れる音が、その静寂を際立たせる。まるで、世界の息遣いが、彼女の重い告白を、そしてその魂の解放を静かに見守っているかのようだった。
やがて、彼女の深紅の瞳が、遠い過去の情景を映すかのように僅かに揺れた。
「私には怒りと、憎しみしかなかったと言ったわね。それでも、そんな私でも、死の間際、母を見た。あんなにも憎んでいた母を」
ルイーズ様はぽつりぽつりと語り始めた。その声は、まるで深く沈んだ水の底から響くかのように重々しかった。
しかし、その言葉にはすでに遠い過去の出来事として受け入れているかのような、不思議な諦念が混じっていた。
「愛されたかったと、そう思ってしまったのよ。愚かだった母のように、醜く、情けないほどに。所詮私もその程度なのだと、自分自身に失望したわ。同時に、心の底から何かを求めることの恐ろしさを知った。それは、まるで父のように、全てを貪り尽くす醜悪な獣に成り果てると確信していた。愚かな王にはなれても、醜悪な獣には、決して、なりたくなかった」
ルイーズ様は自身に重い鎖を着けているように見えた。その言葉の一つ一つが、彼女の心がどれほど深く囚われていたかを物語っていた。
彼女が語る「愛」と「恐怖」は、まるで相反する二つの感情が、彼女の魂を長年引き裂いてきたかのようだった。彼女は、愛を求めれば父のような破滅を招くと信じ込み、自らの心に蓋をしてきたのだ。
エディーが、そんなルイーズ様の言葉を、一言も聞き漏らすまいと真剣な眼差しで見つめていた。
彼の表情は深い理解と、ルイーズ様の痛みを分かち合うかのような、静かな悲しみで満ちている。
「ルイーズ様」
名前を呼ぶエディーの声は、本当に優しかった。
その声には、彼女の過去の全て、そして今この瞬間の苦悩をも包み込むような、限りない慈愛が込められている。
そして、エディーはそっとルイーズ様の手を包み込んだ。彼の指先が、彼女の冷え切った手の甲を優しく温める。
その温かさは、長年凍てついていたルイーズ様の心を溶かすように、ゆっくりと、しかし確実に、その魂の奥底へと染み渡っていく。
「あなた様の前に二度と現れるなと、その最後の命令を、破ってしまったことをお許しください。しかし決して、それが間違いであったとは思いませんし、ルイーズ様もそう思ってくださっていると感じています」
エディーは、ルイーズ様の瞳をまっすぐに見つめた。その眼差しは一点の曇りもなく、ただひたすらに、彼女の存在を肯定していた。彼はルイーズ様の手を包む両手に、さらにそっと力を込める。
「ルイーズ様は、決して、あなた様の父君や母君のようにはなりません。お二人がどのような道を選ばれたとしても、あなた様は、あなた様です。僕にとって、あなたは、真の王だった。掃き溜めの中で、未来を諦めたくない僕を、掬い上げてくれた。その行いが僕を救ってくれたことに間違いはないのです。そして、どうか、ご自身の心に背を向けないでください。求めることは、決して罪ではありません。それは、あなた様が人間である証なのですから」
ルイーズ様がゆっくりと、震える唇でエディーの顔を見上げた。
その深紅の瞳には迷いと、そしてこれまでになかった、微かな、しかし揺るぎない希望の光が宿っていた。その希望は暗い水底から差し込む、絶望を打ち砕く一筋の光のようだった。
「私も、お前のことを……求めてよいのかしら」
その言葉は、声になるかならないかの微かな囁きだった。
しかし、その問いかけには彼女の魂の全てが、長年の苦痛の全てが、込められているかのようだった。
そしてその問いと共に、長年凍てついていた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
深紅の瞳から透明な雫が、一筋、はらりと落ちる。
それは、単なる涙ではなかった。怒りや憎しみ、絶望、孤独、そして自己嫌悪……彼女が抱えてきた全ての苦痛が、その一滴一滴に凝縮されているかのようだった。
エディーはその涙を拭うこともせず、ただひたすらにルイーズ様のことを抱きしめた。彼女の全てを、丸ごと受け止めるかのように。
彼らの間に言葉はなかった。ただ、互いの体温と、鼓動だけが、静かに響き合っていた。
それは長きにわたる魂の彷徨が、ようやく安息を見つけた瞬間だった。そして、真の「愛」が、二人の間に確固として芽生えた、永遠の誓いのようだった。